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桔梗の狂歌  作者: そる
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織田の美濃取り話

織田信長。恐らく、日本史上最も有名な男であろう。天下統一にあと一歩まで迫りながら、明智光秀の裏切りによりその生涯を終えた悲劇の将でもある。彼の築き上げた統治システムをそのまま乗っ取った秀吉が後の天下人となった事から見ても、彼の有能さは誰の目にも明らかであろう。


信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、自らの運を開いたのが永禄三年。

以来、織田信長は美濃を取る事に注力してきた。彼の正妻は斉藤道三の娘である濃姫である。道三が生きていた頃は、織田と斉藤は同盟国だった。が、道三が息子の斉藤義龍に討たれて以来、織田と斉藤は敵同士となり、信長は幾度か美濃へと侵攻している。その義龍が永禄四年に死ぬと、後を継いだ龍興が若輩である事から織田家は攻勢を強め、美濃侵攻を本格化。永禄七年に北近江の浅井氏と同盟を結んでさらに圧力を加え、斉藤家はより追い込まれていく。桶狭間の後、今川から独立して三河を支配するようになった松平元康(後の徳川家康)と同盟し、東の守りを松平家に任せて美濃へ兵を多く向けられるようになった事も大きい。今川義元亡き後の今川家は、桶狭間の戦いの傷跡からの回復に忙しく、とても三河を力で従属させられるような状態ではなかった。隙を見せると三国同盟を結んでいる北条、武田の両家から攻められかねない。義元の子、氏真は叛乱した国人を討伐したり、謀反人を謀殺したり、楽市を開いたり、足利幕府に仲介を依頼したりと国内を纏める努力を続けるが、結局三河一国を松平氏に完全に掌握され、後に三国同盟を維持する必要がなくなった武田氏の攻撃を受け、同時に本格的に遠江に進軍してきた徳川家康(この頃には改名している)に居城を包囲され、多くの家臣が離反。氏真の正室の父である北条氏康が援軍を送って援護したが、結局家康に降っている。この時、武田信玄は遠江を徳川家と分割する約束で同時に侵攻していたのだが、家康の軍勢が掛川城を包囲し、この戦いが長引いていると見るや、約定を破って遠江を切取にかかる。これに焦った家康が氏真と和睦。家臣達は助命され、氏真は北条家へと亡命している。最も、これは永禄十二年の事なので少し後の事になるが。


ちなみにこの今川氏真、武芸百般に通じ、教養深く茶道や礼節に精通していたという。ただ、大名としては致命的なまでに運が無かった。まさかあれだけの勢力を築き上げ、東海道の覇者と言われた父、今川義元が尾張侵攻戦で討ち取られるとは思わなかったであろう。敗北するのはまだ良いとして、義元を含めて重臣の由比、一宮、松井、久野などが討ち取られ、有力国人衆も数多く犠牲となった。今川家の屋台骨に大きな亀裂が入った状態で、駿河、遠江、三河を維持するのは不可能であっただろう。

結局、今川家は滅んだが、今川氏真はこの後戦国時代を生き残り、天下人となった秀吉から近江に五百石を貰ったり、氏真の次男が後の二代将軍である徳川秀忠に出仕したりと結構うまく渡り歩いて、最終的には家康からかつての旧主の家系であるとして品川に領地を貰ってそれなりに裕福な生活を送っていたようである。


大名としては不運かつ、能力も足りなかったと思われる男だが、和歌に置いては武家歌人を多く集めた集外三十六歌仙に名を連ねており、剣術は塚原卜伝から直々に新当流を学んでおり、蹴鞠に関して言うと飛鳥井雅綱(蹴鞠を専門として教える公家、現在は飛鳥井邸宅後に神社が建てられており、サッカーの神様として後利益があるそうな)からその才を絶賛されており、現代に生まれていたら東海道のファンタジスタの称号を持つ男であっただろう。欧州移籍からW杯での活躍から世界でIMAGAWAの名が鳴り響いていた可能性も……ある、と思う。実際、蹴鞠に関しては彼にしか出来ない技が存在したという話まであるのだから。


インテリジェンスがあり(和歌の部分)、フィジカルとハートが強く(剣術部分)、ファンタジスタ(蹴鞠の天才)。トップ下待ったなし、戦術・今川とかいう代表チームだった可能性も……どうでもいいか。


まあ、氏真の今後は趣味の世界でのご活躍をお祈りするに止めるが、三河を掌握した松平……面倒なので以後は徳川とするが、徳川家は今川家の領土を削りながら、三河の掌握に努めている。織田から見ればまだある程度余力のある今川を徳川が抑える、徳川から見れば今川家を殴るのに背後を気にしないで良いという同盟である。正しいWin―Winの同盟であった。


東の脅威を排除した織田家は美濃へと攻勢をさらに強める。この攻勢に斉藤龍興はよく耐えた。そもそも美濃は実り豊かな地で、過去に斉藤道三の下で発展した国家である。地力は斉藤家のほうが上であった。ただ、当主である斉藤龍興はまだ十代。先代の斉藤義龍が健在なら、この後の信長の飛躍は無かったかも知れない。義龍の基盤は盤石であり、反義龍派は道三との戦で美濃から追放している。その中の一人に明智光秀が居たのだから、世の中何があるか分からない。


ともかく、斉藤龍興は若輩ながら尾張の織田家と北近江の浅井家の圧力をなんとか跳ね返していた。一つには道三がかつて築いた稲葉山城が堅城であり、難攻不落と謳われただけの城であった事もあるだろう。しかし龍興を当主として仰ぐ事に不安を感じる家臣は多かった。未だ十代の若者に全てを背負わせるのは酷というものだが、世は戦国乱世である。弱き主君を見限って強き主君を抱くのは当然の事であった。東海道の覇者と言われた今川家を打ち破った織田家に鞍替えを考える者が出て来るのは自然の成り行きと言える。ちなみに斉藤龍興は別に無能ではなかったようである。比較対象が信長なのでどうしても無能に見えるが、当時の戦国大名としては水準以上の能力はあった。ただ、隣に織田信長という稀代の傑物が現れた事が彼の不幸である。


それでも永禄四年に斉藤義龍から家督を継いで以来、長きに渡って織田の侵攻を食い止めてきた龍興だが、永禄七年に家臣の竹中半兵衛が舅の安藤守就と共に稲葉山城を乗っ取るという大事件が起こる。この時、竹中半兵衛は僅か十七人の手勢で稲葉山城を乗っ取っている。城に出仕させた弟に仮病を使わせ、その見舞いに薬師を連れてきたと偽って城内に入るや主君の斉藤龍興を捕縛、城を乗っ取ったという。この話を聞いた信長は城を明け渡せば高禄で召し抱えるとの条件で開城を迫るも拒絶、主君の放蕩を戒めるために起こした行動であり、心を入れ替えると誓った龍興に城を返還し美濃を去った、と言う美談である。

だが心を入れ替えると誓ったはずの龍興はまったくそんなそぶりもなく、酒色にふけり政務を省みなかったと言う。そんな主君に多くの家臣が見切りをつけていき、結局は斉藤家は滅んでしまう。

斉藤家が滅んでいく過程で、織田家では新たな人材が台頭してくる。木下藤吉郎、後の豊臣秀吉である。

この男、永禄九年に墨俣に一夜城を築き美濃攻略の橋頭保を築いたという。柴田勝家、佐久間信盛らが失敗した墨俣を拠点化する事に成功したとして、木下藤吉郎は飛躍の切欠を掴む事に成功したのだ。彼は川並衆を口説き落とし、蜂須賀正勝、前野長康らを配下に組み入れると、川の上流で木材を切り出しそれを筏にして下流に運び、一晩で簡易の砦を作り上げ慌てて迎撃に来た斉藤勢を撃退し、以後美濃攻略の重要拠点として機能した。


「と、この木下藤吉郎ってのが後の羽柴秀吉、豊臣秀吉なんだけど墨俣に砦作った後、調略で西美濃三人衆を織田方に寝返らせて稲葉山城を落とす切欠を作ったという話なんだけど。まあ、墨俣一夜城は伝説で実際は元々廃墟同然になっていた古い砦を修復しただけとか、そもそも墨俣に城なんて無かったとか、秀吉が作ったけど一夜じゃなくてもっとかかったとか色々説はあるらしいっす」


美濃への移動途中、光秀が弥平次に織田が美濃を取った経緯を詳しく聞いてきた。そこで弥平次は知っている限りの知識を話したのだが、説明を聞いて光秀は少し考えこんだ。そして、弥平次にこう聞いた。

「竹中半兵衛、奴が稲葉山城を乗っ取った事は確かだ。事実、美濃方面に網を張っている者なら誰でも知っている。で、その竹中半兵衛だが、美濃から退去し近江に退いたと聞いたがその後どうなった? 弥平次、お主知っておるか?」


暗に未来に竹中半兵衛という名が伝わっているのか? と聞いている。伝わっているなら話せと。


「織田家が美濃を制圧して、支配下に治めてからしばらくして秀吉の配下に加わったらしいけど。説によってマチマチだけど、信長が稲葉山城を攻める時には秀吉の配下に居たという説もあったかな」


「信長の直臣にはなっていないのか」


「ああ、信長に危うさを感じて直接仕えるのではなく、調略に来た秀吉の軍師となったって話が有名かな。三顧の礼で迎え入れたとか」


「ふむ」


それを聞いてまた考え込む光秀。何かが引っかかっている。木下藤吉郎と竹中半兵衛、奇跡的な活躍を見せた二人の男。片や墨俣に橋頭保を築きあげ、西美濃の豪族を調略したという。片やたった十七人で稲葉山城を乗っ取り、その理由が主君の放蕩を戒めるためという。


(竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りに協力したのは、舅である安藤守就……木下藤吉郎に調略された西美濃三人衆の一人でもある。そして墨俣……ふむ、そういう事か?)


「弥平次、逆だ」


「は?」


「前後関係が逆と言った。まず木下藤吉郎が竹中半兵衛を調略したのだ。稲葉山城乗っ取りの前に、な」


「はあ?」


「そもそも斉藤龍興に放蕩の噂など聞いた事がない。家督を継いだ時ですら、元服直後だ。その後、織田家の攻勢に対して国内の取りまとめや撃退に力を注がねばならぬ時期に、放蕩などしておる暇があるか? 美濃の国主が酒色に溺れておったらもっと早くその噂は近隣諸国に知れ渡る。が、越前に居た頃もあの将軍殺しが起きた時も、そのような噂は耳に入ってこなかった。近江にまで出張って情勢を聞き込んだ我らも聞いたことがない、足利幕府の要人であった細川殿も三淵殿からもそのような話は出なかった。ではなぜそのような話が出た? 我が思うに、斉藤龍興の放蕩の噂を流したのは竹中半兵衛、それも稲葉山城を乗っ取った後であろう」


「え、すいません、意味が分からないのですが」


「安藤守就は竹中半兵衛の舅だ。稲葉山城を乗っ取った後、手勢を率いて周辺を掌握している。恐らく、この時点で美濃の中枢を抑えた安藤と竹中はそのまま美濃を掌握、織田に美濃を明け渡すつもりだったのだ。だが、安藤や竹中が思っているほど周辺を掌握出来なかったのだろうな。国人や豪族達は彼らに従う理由がない。無血で城を乗っ取って国を一夜にして取るつもりだったのだろうが、うまく行かなかった。そこで竹中半兵衛は戦略を変更したのだ。あくまでこれは義によって行った事、主君である龍興に反旗を翻したのではなく諫言なのだと一芝居打った。城を返却し、自分が美濃から退去する事によって収めたわけだ。城を返す代わりに安藤守就にはおとがめなしという密約を結んだのだろう。龍興にしてみても織田に介入されるよりさっさと事を収めたほうが良い。が、竹中半兵衛はさらに後の布石を打っていたという事だろう。それが龍興の放蕩の噂よ」


薄笑いを浮かべたまま、光秀は続ける。


「あの一件で斉藤龍興という名は地に落ちた。竹中半兵衛の名声より斉藤龍興の名が落ちた事のほうが重要なのだ。斉藤家の家臣にしてみれば、織田家に降る理由が出来た。竹中半兵衛は美濃から退去したが、舅の安藤守就はそのまま残っている。西美濃三人衆と言われるほどに繋がりの強い稲葉良通、氏家直元も居る。竹中半兵衛と安藤守就の繋がりを使えば織田家の者が調略に動き回るに容易。そう、信長の直臣であり名の知られた者なら難しいが、木下藤吉郎ならどうだ? 安藤守就の書状を持っていれば大抵の者に会えるぞ。さぞ調略がはかどったであろうな。そして、墨俣だ」


「墨俣一夜城の事?」


「そう、一夜にして城が出来た。まあ、城というより拠点だな、この場合。柵と堀、壁さえあれば後は良い。川の上流から木材を筏にして流した? それで砦が一晩で出来るものか。恐らく、川並衆を調略した後でゆっくりと資材を集めて作っただけだ。墨俣に砦が出来て斉藤勢が兵を出したが撃退されたと言ったな? 川並衆とその木下藤吉郎の手勢しかおらぬのであれば、斉藤は信長が本隊を率いてやってくる前に多少の損害を覚悟してでも墨俣から追い出すはずだ。が、撃退されている。たぶん、斉藤が兵を出した事、それ事態が茶番だ」


「茶番?」


「兵を出したのは安藤を含めた三人衆だろうよ。そして、墨俣周辺の豪族達も調略されていた後だ。全ては斉藤龍興を混乱させるためのな。そうやって墨俣に砦を築かせて、兵を撃退させる芝居を打った。いよいよ斉藤も終わりだと思わせるために、な。その上で竹中半兵衛は信長の直臣にはならず木下藤吉郎の下に付く。直臣にならなければ自らに疑いが向く事もない。織田家内部での妬みを受ける事もない。斉藤龍興以外、全てが得をしている。なるほど、竹中半兵衛という男、軍師としては抜けて優秀よな」


そして織田の美濃支配は盤石だ、と光秀は付け加えた。総仕上げとして斉藤龍興を追放したのであって、その前から織田家に美濃は浸食されていたのだと。


(どういう頭してんだ、この人……)


弥平次は光秀の思考に付いて行けそうもないと思った。


(竹中半兵衛も木下藤吉郎も明智光秀も化物だ)


心底、そう思った。


全然違う事に話を割いたために信長の人物像を書けなくなったのでそれは次回!



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