細川藤孝 ~古今伝授の担い手、足利最後の、そして最強の将~
「なるほど、光秀殿は明智源氏の血を引いておられる一族であられるか」
「ええ、美濃の片田舎から出てきた芋侍ですよ。道三公がああなってしまわれた折、どうせなら京にでも登って何かしらを見てみようと思いましてな。以来、あちこちをふらふらとしていたのですが、縁あって越前に身を寄せる事になりました」
穏やかに話す細川藤孝と明智光秀。身の上話から入るのは古今東西変わりない会話術である。
「ほう、ではあの美濃の長良川の戦い以後は諸国を回られていたのですか」
「京に堺から始まり大和に近江、ここ越前に腰を落ち着けるまで色々と旅をしてまいりました。家族には苦労を掛けました」
細川藤孝、細川幽斎という名のほうが知られているかも知れない。と言うか、たぶん「ガラシャの夫のお父さん」と言ったほうが「ああ!」となる人が多いと思う。それくらい細川ガラシャってメジャーである。ちなみにガラシャさん、つまり玉さんは明智光秀の娘である。この細川藤孝と明智光秀の子供同士が後に結婚して夫婦になるのだから、歴史は不思議で満ちている。
そもそも細川藤孝、歴とした管領細川家に連なる者である。傍流だけど。それでも本家細川家が断絶に近い今、細川の名を名乗っても誰も文句言わないどころか、幕臣の中ではかなり家格が高い。これ以上となると途中若狭で加入した武田信景くらいのものだろうか。この時点でも彼は官位も持っている。従五位下兵部大輔である。足利義輝の頃からの幕臣であるから、官位は持っていて当然だがそれなりに高位の官位を持っているところから、やはり義輝からの信頼も厚かったのだろう。それもそのはず、この男、まごうことなく文武両道、とんでもない実力者である。
まず剣術は塚原卜伝に学び認可状を授かっている。弓は日置流の認可を持っているし、若い頃は牛と格闘して投げ飛ばしたという逸話を持つくらいには強かったようである。
学問はそれに輪をかけて凄い。和歌、茶道などの教養に加え蹴鞠も連歌も出来る。囲碁、料理にまで造詣が深い。武家としては当代一の教養人であろう。これを超えるのはそれぞれの家が特殊技能に特化してる公家くらいにしかいなかったはずである。さらに三条西実枝に古今伝授を授かり、長い時期彼一人が古今伝授の唯一の伝承者であった。ちなみに古今伝授とは古今和歌集の解釈を秘伝として師から弟子へと伝えていったものである。なお、正確な内容は現在に伝わっていない。塚原卜伝が使用したという奥義「一ノ太刀」が伝わっていないのと同じくどこかで失伝したようだ。まあ失伝した技術なんてそれこそ腐るほどあるから気にしてはいけない。
ちなみに生まれに関しては、12代将軍足利義晴の側室が身籠ったまま藤孝の父に下されたという話もある。そうなると主君である義昭の庶兄となるのだが、さすがにそれはないと思う。事実だとしたら複雑すぎる。というか殺された足利義輝も弟になってしまう。まあ、穿って見ると「弟を殺した三好には絶対に付かない。最後に残った三男を必ず将軍にしてやる!」と気炎を挙げて義昭をなんとか大きい勢力に合流させようと頑張ったと見れない事もない……か?
深き歴史の闇は置いておいて、細川藤孝。明智光秀と兄の三淵藤英との話で中々に酒が進んできた。
「ほう、明智殿は土岐源氏ともなれば一角の将でありましょうな」
「そうありたい、とは思っておりますが、越前に来て以来、一向一揆との戦いに明け暮れております」
「ああ、加賀の……富樫を追い出したという……」
ここで上座から杯を持って山崎吉家が降りてきた。
「おう、それよ、三淵殿、細川殿。何せ奴らやたらと越前に侵入しては民の糧食を奪っていきおる。毎回儂が出て行って追い散らしておったのじゃが、光秀殿が手伝って下さるようになってからは、大分相手も殴られる痛みがわかってきたようでな。しかし、我が当主義景様もこの一向一揆には手を焼いておる……どうしたものかなぁ。あと五年ほど宗滴様がおれば、とは思うがなぁ」
山﨑吉家、結構酔っぱらっている。自分が主催した宴なのでそれなりにくつろいでいるようだ。
「戦乱、世は末法極まったという所ですか……坊主共に扇動された民が越前守に戦を仕掛けて来ているとは……」
(朝倉家は動ける状況にないか……頻繁に一揆が起きている地を空にして上洛は無理があるな。それに朝倉宗滴亡き後では、一向宗との延々と続く戦いは厳しいか)
「まったく、困っておるのは加賀からの一向一揆だけではなくてな、どうにもあの坊主ども、我が国の民にまで教えを広げて扇動しておるようでな……こればかりはどうにかせねばならん。無頼の輩を斬るに躊躇いはないが、我が殿の民に弓を向けてはな。一揆を制圧した後、領民がいなくなっておるという事になりかねぬ」
そう言って山崎吉家はさらに酒を呷った。そのままさらに続ける。
「明智殿の策でな、とりあえず加賀の国境の村々に兵を忍ばせておる。辻説法を行うエセ坊主どもを見つけ次第、捕まえて叩き返すようにとな」
「斬ってしまったほうがよろしいのでは、と申し上げたのですが、山崎様がたかだか坊主にそこまでは、と仰られまして」
光秀は苦笑して山崎吉家の話を聞いているが、細川藤孝は光秀が本心から言っている事を見抜いた。
(捕まえて帰すだけではまた来るだけだ。一向一揆、あれは魔物じゃ。心の中に住む魔物を坊主共が現世に引きずり出して使うておる。確かに、斬って首だけを送り返せば少しは変わるやも知れぬ。加賀の一向宗とやら、上のほうの奴らは命まで賭けて越前に手を出すほどの胆力はないだろうからな)
静かに杯を口に運びながらそう思う藤孝。そういう意味では光秀が正しい、と藤孝は思っている。
藤孝としては、どうにかして朝倉家を動かして上洛を果たしたい。越前という豊かな国を有する大名である朝倉家が義昭の後見につけば三好と対抗できる。朝倉家だけではなく、同盟相手である北近江の浅井の助力も得られる事まで考えれば、現状においてこれ以上の相手はいない。若狭武田が頼りにならない今、朝倉家が義昭の身柄を寄せる事を拒否していたら、それこそ越後の上杉か遠く離れた毛利辺りまで命掛けの長旅をする羽目になっていただろう。無論、毛利領まで行ってしまえばその間に義栄は将軍に任官し、誰の掣肘を受ける事もなく三好の独裁体制が足利幕府で始まっていただろう。藤孝としても、兄の藤英としても越前の朝倉家は京からの距離的に考えてもぎりぎりの線であった。
美濃の斉藤家という案もあったが、南近江の六角氏の心変わりの件があり、急ぎ野洲から離れる必要があり、さすがに美濃へと逃れるのを見逃すほど六角も甘くはない。結果として北方面へと移動せざるを得ず、若狭から越前へ降ったのである。
また美濃の斉藤家は永禄四年に斉藤義龍が死去しており、後を継いだ斉藤龍興は当時十四歳。前将軍足利義輝が殺された永禄七年ですらまだ十七歳である。若年の当主のもとでどれほど国が安定しているか測り兼ねた面もあった。なお、この時期の斉藤龍興は織田信長に絶賛攻められている最中である。永禄八年には東美濃はほぼ完全に信長の領地となっており、そろそろ中美濃も危ないくらいの時期である。義昭が行ったところでそれどころじゃないと言われかねない。ちなみに有名な竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りはこの前年、永禄七年の事である。十代の若き君主、斉藤龍興の試練はまだまだこれからなのだがそれは置いておく。
そういう事情もあり、細川藤孝としては朝倉家に起って貰わなければ困る。こうしている間にも将軍の座を狙う義栄は三好の力を背景に猟官活動を京で行っているに違いなく、有力な公家が義栄からの献金や荘園の寄贈に転べば厄介な事になる。
「山崎殿は越前の民を慰撫する事を第一に考えておられますな。坊主を斬っても新たな坊主がやってくるか、それとも一揆衆が打ち寄せて来るか、どちらかでありましょうや」
三淵藤英がそう言って山崎吉家を褒めた。宗滴亡き後の朝倉家最強の将は山﨑吉家である。心証を悪くしないようにと、少し持ち上げたのだ。
「まったく、面倒な奴らでのぅ。弓を射かけようが、槍で突こうが念仏を唱えながら走って来る……ここにおる明智殿がの、一揆と言っても国を越えて来ている者ども。武家ほどには統率は取れておりませぬが、指揮を取る者はおりましょう、それを討てば良いだけですと献策してくださってな。儂の部隊が引き付けておる間に、明智殿の部隊を回り込ませて敵の指揮官であった坊主の首を取るようにしたのよ。以来、こちらの被害は大分減った。感謝しておりますぞ、明智殿」
「山崎様配下の兵達の精強さによるものですよ。私の指示によく従ってくれました」
とりあえず光秀も山﨑吉家をヨイショしておく。実際、遊撃のための兵を貸してくれたのは山﨑吉家である。なので、これは本音なのだが光秀はしっかりと言葉にする事によって感謝の気持ちを伝えた。
光秀は今後の歴史の流れを知っている。
朝倉が織田に滅ぼされる事も。
将軍となった足利義昭が京から追放される事も。
自らが織田信長にトドメを刺す事も。
(そのままではおもしろくあるまい……弥平次が我が前に落ちてきた事、それこそが天啓でなくてなんだと言うのか。史上最も有名な裏切り者……その名は魅力的だが、それよりも我の力をもっと大きく振るってみたい。そう、この日本全てを、天下を、夢見て悪いか、あれほどの者が我の下に落ちてきた、まさに天からの啓示、使いこなしてみよ、そういう事であろう。この明智光秀、天下を思い描いてみるか……)
なおその弥平次は宴の間、外でぼーっと突っ立っているわけである。明智一族という事になっているが、この時の明智光秀は山﨑吉家に雇われている客将(という名の契約社員くらいのもの)である。しかたないね。
「え、今回の出番これだけ?」
しかたないね。
ちなみに各所で無能の代名詞扱いされている朝倉義景も一揆を放っておいて遊び惚けていたわけではない。永禄七年には加賀に侵攻してかなりの痛手を与えている。さらに足利義昭が越前に来た事により、足利家の仲裁という形を取って加賀の一向一揆に和睦を申し入れ、これを纏めている。越後の上杉謙信に対しても加賀が約定を破った場合、その背後を突いてくれと足利義昭の名で要望を送り、これが了承されている。
こうやって打って行った手は道理にかなっており、周辺の敵対勢力を封じ込め、上洛に向けて動き出したと思われても不思議はない。むしろ、義昭は期待したであろう。加賀の件も越後の件も自らを将軍として扱ってくれた上での事である。義昭が大いに希望を抱いたとして無理もなかろう。朝倉の全軍を京へと向ければ二万五千にはなる。これに同盟を結んでいる浅井の軍勢が加われば、京周辺から三好の勢力を叩きだすのも難しくはない……そう判断するに十分な手の打ち方である。これだけを見ても、朝倉義景、十分な戦国大名としての器量を持っていたとは思われる。実際に天下人になろうとしたのか、将軍家を復興し、その中で管領の座を得て大きな権力を握る事が目的であったのか、それはわからないが。
ただ内政向きというか、力による拡張を望んで行うような男ではなかったようである。後年、若狭守護の武田氏内紛に介入し、当主である武田元明を一乗谷に軟禁し、若狭を間接支配しようとしている。この企みは半分成功し、半分失敗であった。武田家臣の一部は朝倉義景を主君とは認めず、頑強に抵抗。結局、若狭の半分ほどしか支配できていない。武田元明は朝倉義景とは親族であるから、介入の名分はあった。だが、後見に留まらず当主を自領に軟禁してしまったために、結果として武田家臣団は割れてしまい、朝倉家に対して抵抗を続ける事になった。ちなみに、本来ならこの時に朝倉の支配に抵抗した栗屋勝久などが信長の越前攻めに合流。信長が滅ぼした朝倉家から武田元明を助け出している。権勢大きく勢いのある朝倉家にいる当主は取り戻せなかったが、それ以上に大きな織田信長という巨獣が朝倉家を滅ぼさんと襲い掛かった時、若狭で抵抗を続けていた忠臣は織田軍に合流。見事に当主を助け出したのだ。まあ、栗屋などにしてみれば一乗谷が織田軍に焼かれる事は明白だったので、自ら兵を率いて参戦し、自力で助けに行かねばならない状況であったのだが。たぶん、栗屋とか旧武田家臣が来なかったら武田元明、死んでいたのではないだろうか? 割とマジで。
以上のように軍を向けて他家を追い落とし、版図を広げていく意図は朝倉義景にはなかったのだろう。そもそも、朝倉宗滴が健在の頃ですら、朝倉家は越前守護として動いていた。加賀という、隣の国が一向宗に支配された狂信者の国でなければ、さほど戦争を経験せずにいられたかも知れない。そう考えると朝倉家も被害者である。お隣が過激な宗教勢力が権力握ってる国とか、泣いていいレベルである。ついでに加賀の一向宗も実りが良い越前に狙いを定めているのでより性質が悪い。まあ、上杉謙信率いる越後なんて殴ったら加賀を焦土にされかねない。この時期の越後はそれほど肥沃な土地ではないのでリターンも少ない。
結局、朝倉家は足利義昭の要請には答えられなかった。永禄十一年に朝倉義景の嫡男が早逝してしまったのも一因ではあろうが、それ以上に朝倉家が置かれている状況的に考えて、大軍を動かして上洛する環境に無かったと言える。朝倉義景としては、越前に腰を落ち着けて足利義栄に対抗し、もっと時間を掛けて味方を増やし、義栄を追い落とす方が現実的であった。が、情勢がそれを許さなかった。
永禄十一年初頭、足利義栄は三好三人衆からの推挙により朝廷より征夷大将軍を宣下される。
(最早一刻の猶予もない)
そう思ったのは細川藤孝である。対抗馬である義栄がついに足利十四代将軍になってしまった。が、まだ希望はある。この時期に至っても、三好三人衆と松永久秀は争いを続けており、義栄は入京出来ていない。
(京に入れぬ将軍など将軍とは呼べぬ。天下に号令する事など出来うるはずもなし)
そう思った細川藤孝、兄である三淵藤英と共に主君を説得。この頃にはすっかり仲が深まっていた明智光秀、自らの生まれ故郷である美濃を併合した織田家を頼る事を細川藤孝に提案。ほぼ史実通り、足利義昭は織田家を頼って美濃へと移る事を決意。ついに越前からの移動を決めた。
「いよいよだ」
美濃へと移動する馬上、光秀が不敵に笑った。
次回、「織田信長 ~日本史に刻まれる第六天魔王、天下の意味を造った男~」に続きます。たぶん。