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桔梗の狂歌  作者: そる
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足利義輝 ~剣と権を握った悲劇の将軍~


永禄八年、ついに二条城が襲われたとの報が一乗谷に届いた。


「ふ、弥平次。いよいよ来たようだ。我も用意が必要になろうな」


光秀は永禄の変の報を聞きながらそう言うと、立ち上がって弥平次を手招きした。



明智光秀は一乗谷の中でも、足軽やそれらを扱う組頭の集まる場所に住居を構えている。この時代、足軽と言ってもそれは半農である。刈入れ時には戦に来ない。もっと言えば、足軽という出稼ぎに来るのは農家の三男坊など、部屋済みと言われる者達である。


「ゆくぞ、弥平次。とりあえず近江に出る。情報を集めつつ、出来れば将軍御一行にお会いできれば……儲けものだ。さて、どうでるか……」

「北近江っすね。浅井は朝倉と同盟結んでるから光秀様の持ってる書簡が役に立つ、と」

「ああ、山崎吉家様から頂いた領内通行お許しの符と、北近江浅井家重臣、雨森清貞殿への書状だ。大した要件ではないだろうが、北近江はこの書状を届けるとの名目で自由に動ける」


明智光秀、弥平次を拾って一族衆に加えて以来、ある程度積極的に戦に出ていた。

戦と言っても、隣の加賀一向一揆が頻繁に国境を越えて侵入してくる。その撃退のための戦である。

ちなみにこの加賀の一向一揆、本願寺とは関係ない。元々加賀の国人であった富樫氏から独立した勢力が、お題目として一向宗の看板を掲げているだけで、本願寺顕如などとは系統が違う。むしろ、平成の世では「加賀の奴ら、一向宗とか言っておきながら全然言う事聞かない……」と愚痴のような書状が顕如から出されているのが見つかったりしている。

どうも、一向一揆と言っても色々あったようだ。本願寺が最大勢力を持っているのは間違いないが、それ以外で起こる一揆は一向一揆と名乗っているだけで一向宗はそこまで関係なかったり、一向宗は一向宗でも本願寺とは関係なかったりする。


そんな加賀の一向一揆という名の何かからずっと侵略されているのが越前である。故朝倉宗滴が居た頃は余裕で押し返していたが、宗滴亡き後は結構苦労している。これは現当主である朝倉義景がどうこうではなく、一向宗が知恵をつけ始めたからである。越前に居る門徒、つまり一向宗を信仰している者達を焚き付けて一揆を起こさせるようになってきたのだ。おかげで越前朝倉氏は年から年中、一向一揆に悩まされる事になった。ちなみにたびたび登場する名前である朝倉宗滴であるが、朝倉氏である事は間違いないのだが当主ではない。朝倉氏九代当主朝倉貞景の頃から頭角を現して、現在の当主である朝倉義景の若かりし頃まで、側近かつ最強の武将として君臨していた。つまり、朝倉義景から見れば家臣である。遠い未来では朝倉義景の名なんてほとんど知られていないが、朝倉宗滴は結構知られている。まあ、史実の朝倉の扱いなんて酷いものになると、浅井家を織田が滅ぼす戦、小谷城攻めの前に「朝倉家を滅ぼした織田家は~」と軽く語られて終わる扱いである。ほんと酷い。

朝倉義景の評価は一旦置くとして、今の明智光秀は山﨑吉家の下で働いている。と、言っても山﨑吉家の直臣などではまったくない。吉家に捨て扶持で雇われている身分である。当然、光秀の捨て扶持から弥平次やその他明智家臣の給料も出ている。このため、生活は困窮していたが、それでも破綻せずになんとか生活して行けているのは、一向一揆との戦いで光秀が活躍しているため、感状の他に一時金を取れているからでもある。さすがに明智光秀、軍事のぐの字も知らない一向一揆程度に遅れは取らない。弥平次に実地教育しつつ、山崎吉家が武勇を誇れるように手柄を譲りながら実利を取っていた。


今ではそれなりに信用されるようになっており、北近江への使者役を買って出たところ、快く受け入れて貰えた。光秀は北近江へと赴くついでに出来れば京の情勢を探ろうとしている。同時に、美濃の情勢も。


「さて、色々と調べねばならん。弥平次、お主にも期待しておるぞ」


「へーい」


軽く請け負っているが、実際に弥平次がやる事は道往く人々からの情報収集である。京から逃げ出した人々、近畿圏で商いをしている商人などから話を聞きだすのが弥平次の役目である。こういうのは光秀より俗な弥平次のほうが得意とする分野である。


(数少ない、光秀さんに勝ってる部分だよな。それ以外は何やっても負けるけど)


まあ、明智光秀と言えば文武両道の上に鉄砲の腕も当代最高峰の一人である。正しくチートな人と比べても劣る部分が多いのは当然であろう。

さらに内政も出来る。後の事になるが彼は領地経営も上手くこなしている。


北近江までやってきた二人であるが、浅井家重臣である雨森には逢っていない。書状を取り次ぎの士に渡して仕事は終了である。返答を持ちかえれとは言われていない。新参の光秀に任せる程度の書状である。大したものではないのだろうと弥平次も思っていた。


「北近江では、それほど目新しい情報はありませんね」

「将軍が殺された事は確実、という情報しか集まらぬな。ふむ、さすがに後の将軍様御一行には逢えぬか……」


実際覚慶、つまり後の足利義昭はこの頃、ようやく大和の興福寺から脱出した頃である。この後、義昭は近江の和田惟政を頼って落ち延び、将軍になるための最初の活動を始めるのだが、この時点ではまだ大和である。


「京から逃げてきた民に話を聞いても、二条が攻められた程度くらいの話しか聞けませんね……三好が攻めてきた、と言ってた奴は居たんですが、松永の動向がさっぱりわかりませんね」


光秀も弥平次も三好三人衆よりも松永家の動向を掴んでおきたかった。松永久秀がこの件に関わっていないとなれば、朝倉家を頼って来る義昭が松永一党と和解し、将軍配下に組み入れて使えるかも知れない。足利幕府が使える兵力は多い方が良いと幕臣達は考えるであろうから、動向を知っておけば後の戦略に組み込める、そう光秀は弥平次に語った。


「どう組み込む気っすか。後世じゃ、裏切りが人生っつーくらい裏切ってますよ、あの男。しかも最後は平蜘蛛抱いて爆死とか色々やばい人らしいですけど」


「平蜘蛛ね……名物と共に爆死か、中々に壮烈だがそれほど単純なお方でも無さそうだがな。まあ、一度は織田に降るのであろう?」

「それは間違いないですけど」


「なら、裏切れないような状況を作る事だな。松永久秀、傑物であれば良いがそうでなければ使い潰す」


(う~ん、偉そうに上から物言っているけど、今のこっちは朝倉家の重臣の契約社員程度、相手は大和一国を持つ大名様なんだが……自信あるんだろうなぁ、明智光秀だし)


実際、光秀が今大和に言って松永久秀に会おうとしても当たり前だが会えない。伝手もない。使い潰すも何も今の時点では向こうは明智光秀の存在すら知らないのだが、明智光秀のほうは「後々足利義昭を奉じて織田信長が上洛、松永久秀は臣従を余儀なくされる事を知っている」のである。ひどいチートだ。

ちなみに弥平次が光秀に出会っておよそ二年、弥平次は光秀から武芸や軍学を仕込まれる傍ら、史実の出来事を洗いざらい吐かされていた。その全てが口頭であり、一切光秀は記録していないし、弥平次にも紙などに記録する事を禁じている。


「独占すべき知識と広く開示すべき知識は明確に線引きする必要があるのだよ」


こういう事をさらっと言える辺り、やっぱり光秀はチートなんだなと思う弥平次であった。


ちなみに弥平次が珍しく光秀に提案した事がある。今はまだ無名だが後に歴史的な名将として名を残す者達を織田家に士官した時点くらいで家臣として引き抜いてはどうか? と言う事である。

それに対して光秀は、おもしろい発想ではあるがと前置きした上でこう言った。


「後世にまで名が伝わる戦上手ともなれば、確かに正しく名将であろうが、それは環境や培った経験に寄るものであろう。無位無官の者を登用しても、その者が経験するはずだった戦を経験していなければその才が正しく開花するかどうかは疑問である。そう、お主から聞いた秀吉という男もそうだ。確か越前に侵攻した際、浅井の裏切りにあって信長が退却するために殿として残ったと言っていたな? その経験たるや、さぞ凄惨なものであったろう。その戦を経験せぬまま秀吉なるものが天下人になれるとは思えぬな。別の何かでその経験を埋め合わせる必要があろう。そもそも、無名の者を登用して重用すればいらぬ軋轢を生む。中々に人とは度し難い。上がこいつは優秀だからお前たちより上位の重臣とすると言われて、その他の者が納得するわけがあるまい? しかし、逆に考えればそういった者達を覚えておく事は重要になる。敵としても味方としても、有能かどうかを測る一因にはなる。この物差しは我らにしか持ち得ぬもの。これは大きい。弥平次、重ねて言うが決してお主の知っている事を紙などに残すなよ」


生まれながらに才能を持っている者でも、経験や教育によってその才を十全に発揮できるかどうかは変わってくる。光秀はそう言っていた。


(確かに、平成の世にまで名が届いている奴らって優秀だったのは間違いないはずだけど、この戦国時代、史実ではさらっと潰れていなくなった大名の家臣とかにも名将がいる可能性はあるか……同数の兵力で戦ってないからあっさり潰されてしまった家とかたくさんあるだろうしなぁ。そもそも、光秀さんからして、今はただの朝倉家の家臣のそのまた家臣の雇われ武士でしかないし……人物に関しての先入観は持たないほうが良いんだろうなぁ)


弥平次は今は遠くなってしまった生まれ育った平成の世で見聞きし、読み漁った歴史小説や歴史漫画を思い出した。


(信長一人とっても、解釈が違うんだよな。俺程度が考えても無駄か)


弥平次は歴史オタクであって、歴史研究家ではない。一次資料から考察される人物像を複合的に見て判断するという事は今までやっていなかった。


(それが出来るようにならないと、光秀さんの役には立たんのだろうなぁ。まあ、史実を伝えたらどうなるかと思ったけど、何やら考えが纏まってきたとか言っていたから、どうにかするんだろうけど。頼むから本能寺の変に俺を巻き込むのはやめてくれよ……)


弥平次の切実な願いはただ一つ。本能寺の変に巻き込まれて死ぬのは御免という事だけであった。

ちなみに次の願いが「殿が紹介してくれる嫁さんが可愛かったらいいな」である。中々に安い男である。



「まあ、大体の話は集まったかな? 後は京にでも潜入しないとこれ以上の事は分からないか……三好三人衆が幅利かせている京に登るのはきついなぁ。北近江ならそれなりに安全だし……三好の勢力がいくら強くても、浅井・朝倉連合と戦ってまで足利義昭の首を取りに来るのは現実的じゃないし。というか、そこまで踏み込んで来たらそこら中の大名が国を閉ざすぞ、たぶん……。しかし、光秀のおっさんはこんな時に南近江にまで出向くとか……まあ六角氏は浅井と地続きだし、観音寺騒動の後だから動きやすいとか言ってたけど……」


この頃の浅井長政の妻は、まだ織田のお市様でない。六角氏の重臣の娘が最初の妻だがこの時期にはとっくに離縁している。そもそも浅井長政は最初、六角氏の臣従関係を内外に表明するために六角義賢の一字をとって元服名が「賢政」となるところであった。こういうところが浅井家中の反発を呼び、反六角の空気が形成されていき結局「長政」という名前になるのだが、正直元服の名前でこうも揉めるかね? と思うかも知れないが、この時代、結構あった事である。かつての主君から頂いた名前を、その主君から離反してどっか別の家に鞍替えした場合、改名を行うという事はざらにあった。


浅井長政の事は置く。具体的に言うと彼を話の主に持ってくるのはまた後の話で。


弥平次は北近江に借家を持っている。借家といっても普段誰も使っていない半分物置のような小屋を金払って借り上げているのである。旅籠でも良かったのだが、それよりは周囲に話を聞かれない環境を光秀が求めたためである。


(足利義輝……剣豪将軍、か)


足利義輝の幼少期、つまり元服前は朽木谷に潜伏していたらしい。理由は義輝の父、義晴が管領細川晴元が対立しており、細川の勢力が大きくなると逃げるしかなかったのである。

といっても、細川晴元も足利義晴を殺そうとしていたわけではない。朽木谷に引き籠ってくれれば、その間は幕府の権限は管領である自分に集中する。悪く言えば好き放題出来る。実際、結構好き放題やっていた形跡がある。

そんな中、義輝は十一歳で元服する。烏帽子親は六角定頼。かなり早い元服である。父である義晴から見れば幼い将軍の後見人としての地位を保持しつつ、若き将軍を抱く事によって幕府に力をつけさせる土台を造ろうと思ったのであろう。細川晴元に対しても、息子に将軍職を譲った隠居の身として、追求を躱す狙いもあっただろう。事実、このすぐ後に晴元と義晴は和睦。義輝は京に戻っている。管領である晴元は将軍を隠居させたという実績を持って地位は盤石、新将軍である義輝は隠居の身である父の後見を受けながらその若さ、つまり寿命の長さを武器に細川晴元と対峙していく……はずであった。


この時期、細川晴元の有力な配下に居たのが三好長慶である。彼は細川晴元をさっくりと裏切って細川氏綱に鞍替えしてしまう。この細川氏綱、父を政争で細川晴元に殺されていたらしい。以来ずっと、管領細川晴元を倒すために動いてきた。一時は山陰の有力者である尼子氏まで巻き込んでの戦を起こしている。

しかし細川晴元のほうが勢力として大きく、細川氏綱は不利であった。しかし晴元側の有力大名、三好長慶が鞍替えしてくれたので、一気に攻勢に転じた。ついには晴元を近江に追放する事に成功。その後、正式に幕府の管領の座に登り、三好長慶という巨星が側に居たので目立たなかったのだが、きちんと管領としての仕事をしていたようである。ちなみに永禄六年に病没している。


三好長慶が鞍替えした事により、情勢は晴元に不利になった。ついでに義晴・義輝の親子にも不利となった。元は対立していたとはいえ、細川晴元と足利義輝は和睦しており、義輝が将軍として座る足利幕府の管領は細川晴元である。結局、三好長慶に攻められて近江坂本まで追われた。そこで父の義晴は死去してしまう。それでも義輝は三好の軍勢と対峙し続けていたが戦局が思わしくなく、結局は幼少時代に追われていた朽木に戻っている。屈辱であっただろう。

その後、細川氏綱を管領にするとの条件で京に戻るが、管領という幕府内で最高職に等しいものに望まぬ人物を押し付けられた上、三好長慶・細川氏綱の両者の持つ力は絶大で、完全な傀儡状態であったようだ。

まあそんな傀儡状態でおとなしくしているようなら彼は後の世で剣豪将軍などと呼ばれたりはしない。追い落とされた細川晴元と連絡を取って、一戦ぶちかましている。この辺り、やはりそう簡単な人ではないようだ。ちなみに当然の如く三好長慶には勝てずに敗れました。また朽木に逆戻りです。なんというか、朽木谷には将軍を匿うためのバリアかなんかあったんだろうか?

今回の朽木での逗留は五年にも及んだ。途中で年号が天文から永禄に変わるくらい時間がたっている。この時に塚原卜伝から教えを受けたのだろうか? だとすると追放された将軍に剣を教え、そこに天分を見出した塚原卜伝はやがて彼に奥義「一ノ太刀」を伝授する事を決意する――とかいう小説になりそうな話である。まあ、たぶんこの辺りで塚原卜伝から習ったんだろう。


結局、朽木でひたすらおとなしくしているはずもなく、今度は六角氏の援助を受けて近江坂本に進出。一時は押し込んでいたのだが、三好長慶の弟、三好実休らの反撃で戦線が停滞。さらに六角氏が援助を打ち切るに至ってこれ以上の抗戦が不可能となる。結局、六角氏の仲介で三好長慶と和睦。ようやく将軍として京に君臨する時が来た。それにしても六角氏、将軍側を援助して挙兵させておきながら途中で支援を打ち切ってはしごを外し、自らが調停役として和睦させるとは、なかなかの男である。そんな事やってるから余り信頼されないんだと思うぞ、六角義賢。


ようやく幕府に戻って政治が出来るようになった義輝だが、三好長慶は幕府の御相伴衆に加わっている。御相伴衆とは管領に次ぐ身分とされる。さらに三好長慶を従四位下修理大夫に推挙させられている。これだけ見ると長慶にやられっぱなしに見えるが、御相伴衆も修理大夫も責任の伴う地位である。特に御相伴衆は幕府内で官僚に次ぐ地位、つまりは将軍の家臣としてしっかりと席を与える事によって「幕府の一員」として取り込んでしまうつもりであったとも言える。


長い長い逃亡生活が終わり、ようやく将軍親政となった足利幕府。義輝は幕府の権威回復と権力の再構築に乗り出す。具体的には大名同士の抗争の調停である。

里見と北条、武田と長尾、毛利と大友など戦国屈指の大大名同士の戦の調停を頻繁に行っている。将軍にはそれだけの威信と権威がまだ残っているという事を知らしめようとしていたのであろう。同時に有力な大名には懐柔策も取っている。官位を与えたり、自らの名の偏諱を与えたりと、各大名に幕府の権威を認めさせようと努力している。実際、この努力は実っていた。織田信長、上杉謙信などは上洛して将軍拝謁を果たしている。彼らは足利幕府の権威を認めたという事である。大友宗麟も献上品を届けたりしているので、やはり幕府の権威を認めていたのだろう。


さらに彼は幕府の財政と領地に関する訴状を取り扱う役職であった政所を自分の手に取り戻している。財政と領地に関する訴状の取り扱いともなれば幕府内で絶大な影響力を持つ事になる事は想像するに容易い。事実、伊勢氏が世襲しておりその地位を手放す気はなかった。

が、この時の政所であった伊勢貞孝は三好長慶と反目していた。実際に強大な武力というバックボーンを持つ長慶、財務と領地という幕府の急所を握る伊勢貞孝。反目するのは当然の成り行きであっただろう。この時、足利義輝は三好長慶を支持。伊勢貞孝から政所という職を取り上げる。激怒した伊勢貞孝を三好長慶に討たせ、財務と領地に関する権限を将軍の手に取り戻した。この件からもかなりのやり手であった事は分かる。


さらに様々な大名同士の争いの調停や任官などを行い、着実に幕府の権威を取り戻して行っている最中、政敵でもあった三好長慶が死去する。永禄七年の事であった。

長年の政敵が消えた。いよいよ彼の治世が始まる……はずであった。


この足利義輝による将軍親政に危機感を抱いたのが、三好長慶亡き後の三好家である。

三好長慶が存命の頃はまだ良かった。政敵でありながら、妥協できるところは妥協しつつ、政治を行っていた。歪ながら協力体制が作られていたとも言える。それが三好長慶の死で瓦解した。


「将軍は三好の排除に動くのではないか」


そう三好側が思ったのは間違いないだろう。事実、足利家は三好家が援助して初めて成り立っている幕府であるにも関わらず、何度となく三好家の影響力を排除しようとしてきた。政所という役職を義輝が自らの手に取り戻した際は三好長慶と共同で当たったが、これも伊勢貞孝が長慶から見て目障りな存在であったからである。こういった利が一致する部分では協力してきたが、当然ながら利が一致しない部分のほうが多い。義輝は自身に権力を集中させたい、長慶はそうさせまいと動いていた事は当然であろう。

が、長慶が死んだ。将軍から見て三好家は弱体化したと見えたであろうし、排除に動こうとしていた形跡はある。しかし、排除といってもどの程度だったのか。三好家を幕府の要職から遠ざけるだけだったのか、三好家自体を潰そうと思っていたのか。

将軍がどう思っていたかは分からないが、三好側から見れば三好家存続の危機に映ったであろう。座していればどうなるか分からない。三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好政康・岩成友通らは義輝を将軍の座から引きずりおろし、義輝の従兄妹である義栄を将軍にしようと擁立する。この時、足利将軍家は権威は回復していたがその実力はまだ回復していない。具体的に言うと兵力や金子などの実戦に仕える力が不足していたのだ。

頼りは六角氏なのだが、この時の六角氏は若き浅井家の当主、浅井長政に敗れたり、その後六角義賢の後を継いだ六角義治が重臣を暗殺するなど騒動を起こして家臣からの信頼を失い、一部の家臣が浅井家に流れたりしている。とても京の将軍を守りに行けるような状況ではない。


かくして、状況は三好に味方した。


三好三人衆は松永久秀の息子、松永久通と謀って二条城を包囲。当初は義栄を将軍にという直訴(但し武力で脅しての)であったというが、結局は戦端は開かれた。

事、ここに至っては最早やむなしと、将軍足利義輝、足利家に伝わる数多くの名刀を畳みに刺し、近寄る敵を次々と斬り捨て、刀を取り換えさらに斬り、三好方の兵を大いに恐怖させたという。


しかしさすがに多勢に無勢、結局は抗しえずついには三好兵の手に掛かって討ち取られてしまう。


彼は敵が御所へと殺到する前に、自らの近臣達と一人一人と杯を交わし、辞世の句をしたためてから討って出ている。



五月雨(さみだれ)


 露か涙か 

 

 不如帰(ほととぎす) 

 

  我が名をあげよ 

  

   雲の上まで


義輝公 御時世の句である。




「ふ、辞世の句から高き誇りと世に未練ありとの感が伝わってくるようではないか。足利義輝公、まごう事なき武家の棟梁であられたようだな」


南近江から戻ってきて弥平次から永禄の変のいきさつを聞いた光秀はそう言って薄く笑った。亡き将軍に思いを馳せているようであった。


「さて、弟君の足利義昭殿、と、今は覚慶殿か。今はどのあたりにおられるやら……どちらにせよ朝倉を頼りに越前に来るのは間違いない。ゆるりと待つとしようか。まだ美濃の斉藤も健在だ。織田が美濃を取るまではどうせ動けぬ。弥平次、良く情報を集めてくれた」

「まあ、集めた情報と伝わっている事を整理したのがさっき話した内容ですけど。あってるかどうかは、何分噂が多く。特に最後の将軍無双のくだりは実際に見た人間はこんなとこにいないですからね」


「辞世の句は伝わっておるのだろう? それを読めば分かるさ。将軍としてはこの上ない力量を持っていたであろうこともな。その義輝公ですら、幕府の権威を取り戻し将軍親政を行うに至らなかった、か……もはや将軍家というもの自体が……いや、まだ……」


(まーた考え込んでしまったよ、光秀のおっさん)


「とりあえず、戻りましょうよ。仕事も終わったし、それなりに京の情勢も掴めました。これからしばらくは覚慶殿と義栄殿の猟官活動での争いになるでしょうから、しばらく出番はありませんって」


「ふむ、まあ良い。戻るとしよう。ところで弥平次」


「なんでしょう?」


「覚慶殿の御一行の中で、後の世に名を残すのは誰だ?」


「そりゃ、細川藤孝でしょ。和田惟政もまあ、名は残ってるかな? ああ、でも明智家と繋がりが深いのは細川藤孝ですね。何せ……」


「何だ?」


「いや、細川藤孝の長男と光秀さんの三女が夫婦になりますから」


「ほう! それは重畳。細川藤孝か。戻る道すがら、詳しく話せ」


次回、「細川藤孝 ~古今伝授の担い手、足利最後の、そして最強の将~」

に続きます。

たぶん。



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