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小説を書く上での架空世界の言語設定について 2

作者: 中原恵一

 前回のが好評だったので、続きを書こうと思う。

 対話形式にしてみようかと思ったが寒いのでやめる。


 先日、小説家になろうでたまたま見つけた行さんという方の『黄金の帝国』では、全編にわたりヘブライ語ないし古代エジプト語をもとにしたと思われる架空の言語が登場する。ライトノベルではあるが文化・時代背景がきちんと設定されている点を高く評価する。ヌビア、ケムトといった現実の言語の単語をうまく使って人名や地名を決めていて、世界観構築に大きく貢献しているだろう。


 私は文化背景がしっかり設定されたファンタジー小説、端的に言うなら世界観に奥行きがある話が好きである。

 当然言語の設定も必要になる。


 しかし問題もある。

 これは特に非欧米の言語を使った小説の場合なのだが、日本人の書いた小説というのは結局日本人が読むわけで、あまりオリジナル言語を使いすぎると日本人にとって読みづらくなる。たとえばジョンとかマイケル、エリザベスのような英語の名前はよく聞くので覚えやすい。エリザベスと聞けばすぐ女性の名前だとわかるだろう。だがアラビア語の名前でサイードとかウマル、ファティーマ、ハディージャがよくある名前だと言われても、サイードが男でファティーマが女の名前なんて普通の日本人では見当もつかないだろう。アラビア語は西洋語と同じで男性・女性名詞があり、女性の名前は-aで終わる傾向があるのでまだ分かりがいいのだが。

 私はかなり語学が好きなので、言語設定がしっかりしている小説も大好きだ。だからカタカナの名前を大量に列挙されても普通に暗記できてしまうのだが、苦手な方も多いのではないだろうか。

 同じような発音の名前がたくさんありすぎるとやはり混乱するだろう。


 日本語で物の名前を決めるときもそうだが、奇を衒いすぎて、あるいは今風に言うなら中二病的ネーミングセンスでいちいち一つ一つに長ったらしい名前付けると覚えにくいという問題がある。

 解決方法としては、以下のようなものがあげられる。


①日本語であだ名をつける。あるいは訳す。

 日本語、それもできるだけわかりやすい単語で登場キャラにあだ名をつけてしまえばいい。

 実は指輪物語でも同じ方法がつかわれている。ピピンだのフロド・バギンズだのは英語に訳された名前で、本当は彼らの世界の言語で名前がついているものを英語で呼びなおしている。この方が英語母語話者にとっては読みやすい。

 名前自体を短く、地の文に登場する固有名詞をできるだけ減らすの効果的だろう。日本語は音節数が少ないので、音が長くなりがちである。アレクサンドラをアレックス、ヴァレンタインをヴァルにしてしまうとか英名の略称を使うのもいい。

 あとカタカナの名前の意味をきちんと説明するのもいいだろう。さきの『黄金の帝国』では『ネゲヴ』が『南』の意味であるとか、ある種の忘れにくくする工夫もされていた。

 また、役職や階級などで呼ぶの手だ。『大佐』と呼ばれる人物を一人しか登場させなければ、『○○大佐』の○○の部分を省いても大丈夫なので、覚えやすくなる。


②固有名詞を何の脈絡もなしに登場させない。説明する。

『ケイスは皮膚電極(ダーマトロード)を額につけたまま、ロフトで腰かけていた。頭上の格子(グリッド)を抜けて弱まった陽光の中、埃が舞っているのを見つめる。モニタ・スクリーンの片隅では、秒読み(カウントダウン)が進行中だ。

 カウボーイが擬験(シムステイム)をやらないのは、しょせん肉用の玩具とみなしているからだ。ケイスが使っている電極(トロード)も、擬験(シムステイム)デッキから垂れ下がるプラスティックの小(ティアラ)も、基本的には同じだとは知っているし、電脳空間(サイバースペース)マトリックスだって、少なくとも表象の点では、人間の感覚の大幅な単純化だともわかっている。……』

ウィリアム・ギブスン「ニューロマンサー」より


『獲物を服の下のベルトに挟み、マサルは落ち着いた足取りで福原万造翁杖つき疾走記念公園の長い中央路を歩いた。中央路を歩くとそれだけ人に見られる、という危険はあったが、しかし汚染度六十七%未満のB級生態破壊地区を歩く時は最低レベルの防禦装置とし舗装された道路を歩くこと、という「被災時の身の守り方その⑬」というのをマサルは冷静に守っていた。……』

椎名誠「アド・バード」より


 以上、実際のSF小説からの引用だが、どうだろう?

 ちなみに福原ナントカ記念公園とか生態破壊地区、被災時の身の守り方とかの下りは、この文でしか登場しないし物語に関係しない。全編こういう文章をやられると読みにくいことこの上ない。

 こうした、何の説明もなしにメチャクチャに固有名詞を大量に登場させる手法は、SFなどでよく見られる。

 私は好きである。個人の好き嫌いもあるので、やってもいいとは思う。

 だがこの手の固有名詞だらけの小説というのはそういう文体を楽しむようために読むようなところがあり、一般の読者はあまり受け付けないだろう。実際、私はニューロマンサーに関しては途中で読むのを挫折してしまった。


 固有名詞が一つでも出てきたらちゃんと説明しよう。

 あまりやりすぎるとウザくなってしまうが、設定が複雑な話なら(物語の流れを損なわないように細心の注意を払いつつも、だが)原則的に逐一解説をするべきだ。


③日本語で書いたときに似たような発音になるものは避ける。

 日本語にはLとRの区別がない、いわゆる『ラ行問題(新城カズマ提唱)』がある。つまりLloydとかRoyとかは英語としては発音が全然違うけれど、カタカナに起こすとロイドとロイと似たような発音になってしまうわけだ。

 似たような発音の名前がある場合、たとえば使うにしても片方を主要キャラ、もう片方をあまり登場しないサブキャラに使うとか、そういう配慮が必要だと思う。


④呼称を統一する。

 設定厨(私もそうですが……)の皆さんにありがちなことだが、キャラにいくつもいくつも二つ名や肩書をつけすぎて、誰が誰を呼んでいるのか分からなくなりがちである。普段の呼び名は一つにしぼろう。


 まあそもそも設定は小説のためにあるのであって、設定のために小説を書くのは話の面白さという観点からはあまりおすすめしない。自戒。


***


 私が思いつくのはこの程度だ。

 言語の設定に凝りすぎると読みにくいので、色々な方法を使って回避していただきたい。



 ところで、この間例にあげたエルフ語(シンダール語など)ナヴィ語やクリンゴン語はconlang、日本語では人工言語と呼ばれ、発音や文法、語彙、慣用句や故事までもきっちりと設定されている。

 本来、物語を彩る飾りの部分でしかない言語設定だが、ここまでくるともはや言語を作りたいがために物語を作っている感がいなめない。

 ここで、本格的な人工言語とただの設定だけの架空言語の違いを書き出してみよう。


①単語数

 こうした本格的な人工言語の場合、単語が1000個以上あって普通になる。

 ゲーム・オブ・スローンズという海外のドラマではドスラク語という架空の言語が登場したが、これにはおよそ3000以上の単語があるそうだ。実際長い時間をかけて作れば、人工言語でも単語はかなりの数になる。

 小説用の言語ではないが、エスペラントやロジバンは人工言語でも何十万という単語数を誇る。


②文法

 語順がどうだとか、膠着語・孤立語・屈折語なのかとかは基本の基で、具体的にその言語に存在するすべての文法を作る。微妙なニュアンスの違いを定義したりとか、何が言い表せて何が言い表せないのか、ということについて考える必要も出てくる。

 統語的にきちんとしている言語であれば、単純なセンテンスだけではなく詩や文学を書くことさえも可能になる。

 スタートレックのファンはシェークスピアの『ハムレット』をクリンゴン語に全訳するとかいう、酔狂なことしてたっけ。 


③慣用句、および文化的背景

 言語だけを作るのではなく、○○という言い回しが存在する背景を考える。

 アバターのナヴィ語を例にとろう。

 『さようなら』はEywa ngahu あなたはエイワとともにある、という言い方をする。

 エイワというのは衛星パンドラに存在するニューロ・ネットワークで、ナヴィたちはエイワを信仰対象にしている。だからこそ、『エイワとともにある』というのが『お元気で』とか『お達者で』とかそういう意味になりうるのだろう。

 ナヴィたちはHometreeという、例のEywaとつながっている巨大な木を信仰しており、Hometreeへの祈りをささげる歌もある。Eywaへの信仰は日常と結びついている。

 そしてナヴィ語には『三数形』というのが存在する。

 日本語含めアジアの言語では少ないが、世界のさまざまな言語では名詞に単数形・複数形が存在するものが多くみられる。アラビア語には『双数形』というのが存在し、名詞が一つ、二つ、それ以上の数でどれにあたるのかが文法的に重要になる。

 そしてナヴィの住む衛星パンドラでは、生き物のほとんどが手足を六個(片側三本)もっていることが多いので、名詞が三個の時を特別扱いして『三数形』という形にする。たとえばサナター(豹のような肉食獣)とかダイアホース(馬)、バンシーなど、みんな手足が六本で、ナヴィだけが例外的に手足合わせて四本しかない。


 ……という具合に決めなくてはならないことは非常にたくさんある。

 環境や文化、歴史、宗教などなど、やりだせばきりがない。

 トールキンなんて家系図を何代にもわたって書いたりとか、年表を何千年分も書いたりとか、とにかく苦労がハンパない。(結局死ぬまでやり続けたけど終わらなかったそうだ)


***


 いろいろ並べてみたが、あまりにも作りこまれてこうした様々な部門をクリアしている人工言語は、実際に日常会話できたり、本を書いたりもできる。もはや自然言語と変わらないレベルになってきてしまう。


 では、自然言語と人工言語の違いはなんだろう?

 まず私は『それが架空の世界の設定かどうか』ということだと思う。

 「××という国がある。○○という宗教を信仰している」という設定は、創ろうと思えば誰にでも簡単にできてしまう。しかし実際に××という国を存在させたり、○○という宗教を信仰する人間を作り出したりすることができない以上、○○という宗教における儀式や取り決め、教義に関していくら語彙を作ったところで、それは完全に作者の頭の中にしか存在しない事象である。

 突然だが、ちょっとタイの話をしよう。

 たとえばタイ語では『水牛』という言葉が『馬鹿』の意味になるが、これはタイでは水牛がよくいる生き物だから成立する。タイ人のあだ名には『蚊』や『豚』などヒドイものも多いが、『水牛』はない。

 そしてタイ人は基本的に仏教を信仰しているので、『ブン』という言葉をよく使う。ブンさんという名前の人もいる。生涯を通じて徳を積むことが、人生のあり方とされる。この辺日本と似ている。

 で、内容はどうでもいいが、こういうのは現実にタイで見られる現象である。

 しかし人工言語であれば、いくら精密に作りこんでも架空の設定であることに変わりはない。架空の設定である以上、作者のふとした思い付きで文法や発音を変えてしまうこともできる。そもそも魔法や架空の技術に基づく設定を登場させているのだから、自分の作っているものが架空のものだということは本人が一番わかっているはずである。

 ドスラク語の作者デイビット・J・ピーターソン曰く、架空の言語というのは張りぼてのようなもので、近づいてみればどんなに精巧に作っても張りぼてだとわかるし、どの程度まで作るかは完全にその人個人の自由だといえる。

 たとえば小学校の学芸会で縄文人の劇をやるのと、『ゲームオブスローンズ』のドスラク族たちがドスラク語で歌いながら踊っている様子の映像を比べた時、架空であるという点において本質的な違いはない。

 質的な違いはある。『ゲームオブスローンズ』では衣装やセット、喋る言語など様々なものが完璧に近いほどに作りこまれている。簡単に言うと『ゲームオブスローンズ』の方がどう考えてもカッコいい。

 しかし架空の言語はどこまでいっても架空であるし、現実で役に立つことはないし現実に『存在(文化や歴史など全てを含めて)』することはない。

 そして、あともう一つの違いはその言語に『方向性』があるかどうかである。

 ここで言う『方向性』とは、言語創作における『こういう言語が作りたい』という『方向性』である。芸術言語は大体こういう目的とか目標みたいなものを持って作られる。

 だから、ある特定の発音や嫌ったりとか、作者が思う望ましくない文法を作らなかったりとか、いわば作者の『好き嫌い』が如実に出る。

 たとえばエスペラントを作ったザメンホフは自然言語の動詞の不規則な活用を嫌って、非常に簡潔な文法の言語を作った。不規則動詞はなく、形容詞には性による屈折もない。そもそも名詞に性がない。

 しかし現実の言語はどうだろう。現実の言語は誰かの好き嫌いをもとに創られたわけではないので、とても不規則でとっちらかったものが多い。言語計画によってそういう『自然言語らしさ』ともいえる曖昧性や冗長性を廃したインドネシア語のような言語もあるが、結局インドネシア語も方言は未だたくさん生きているし、日々新しい言葉が生み出されては消えている。

 すべては『使用者』がいるせいである。『使用者』は別に言語学の知識があって話しているわけではないから、文法の間違いも何十人もの人が言えば正しくなってしまう。というか、文法上の間違いや発音の間違いというのは『標準語』という人工的に作られたものが存在するから発生するのであって、アフリカの口承で伝えられる言語にそんなものはない。今、話されているものが『相対的』に正しい。

 指輪物語の作者トールキンはこうした自然言語の変化をなぞろうとして、いくつもの人工言語を作り出した。

 しかしトールキンのように一生を人工言語についやして過ごせる人はかなり稀だし、言語創作に手をつけるのであれば多少頭を使う遊び、ぐらいに考えていた方が気が楽だと思う。


 余談だが、日本のファンタジー・SF小説で言語をかなり作りこんだもの、といえば森岡浩之の星界シリーズか、あとは狗狼伝承の新城カズマぐらいしか私は知らない。

 この二つは商業に乗ったおかげでまだ知名度があるが、それでも知っている人は少ない。

 世界的に有名なファンタジー小説をいくつか出してみよう。

 ダレン・シャン、エラゴン、ハリー・ポッター、果てしない物語……

 言語の設定があるものってハリー・ポッターとエラゴンぐらいじゃん、しかもラテン語っぽいし。

 つまり、言語の設定を作りこむかどうかは売れるかどうか、人気になるかどうかとは関係ない。


 もし言語の設定を徹底的に作ろうとすると底なし沼で、どんなに作っても終わらないだろう。

 まとめると、やるなら自己満足で、といった感じだ。


 今ちゃんと調べてみたらエラゴンの古代語は(単語レベルではあるけれどけど)設定はきちんとしていたでござる……。ごめん。

 ブリジンガー(炎)とかスクルブラカ(龍)とかって、元になったのは何語なんだろう。

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