蛍雪 Booby
とあるひなびた個人経営予備校『伊加佐間ゼミナール』の塾長は、どす黒い野望を胸に秘めて大学受験シーズンの冬を迎えていた。
試験日の前日、塾長はゼミナールの教室の教卓につくと、十名足らずの受講生を前に訓を垂れた。
「いよいよ実戦の季節が到来した。決して些細なミスも許されない。諸君のこれまでの血の滲むような努力は、すべてこの試験日の為にあった。当ゼミナールの目標は合格率100パーセントである!」
皆、目の下に隈つくり、鬱蒼とした陰気な顔の受講生達は、ウォー!と病的な風貌には似合わない鬨の声を上げた。
事実、この一年間におよぶ彼等受講生達の努力は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
最初はモールス信号の暗記と解読からはじまり、伝書鳩に託されたメッセージの授受、遠方とのシグナルミラーによる正確な情報交換……
それらの技術を全て、試験監督官の監視の目をかい潜って隠密裏に行う為に、彼らは一年間みっちりと訓練を行ってきたのだ。
全ては、受験生である潜入工作員が会場にて試験問題を把握し、それを外部のブレーンへ伝達。そしてブレーンが導き出した正しい解答の情報を再度工作員へ届け、試験という任務を達成させる事だけを目指していた。この行為は、世間一般では「カンニング」と呼称される特殊作戦行動だ。
塾長は雇っているアルバイト講師達に命じて、受講生全員に同じデザインの眼鏡を配らせた。それは黒縁で、フレームの分厚い、やや時代遅れの野暮ったいデザインの眼鏡だった。
元々眼鏡をかけていた受講生は急いで自分の眼鏡を外し、コンタクトレンズを装着したうえで配られた黒縁の伊達眼鏡をかけた。
「知ってのとおり、この眼鏡のフレームの眉間のブリッジには極小のCCDビデオカメラが内蔵されている。諸君の見るものは、そのままカメラに撮影される」
次に講師達はベルトクリップの付いた手の平サイズのスマートフォンを受講生へ配った。
「このスマートフォンから伸びた細いのAVケーブルを眼鏡のフレームに差込め。いいか、大学の構内に入る前に、各自決められた塾の固定電話の番号へテレビ電話モードで電話をかけて通話状態にしておくこと。答案が配られたらじっくりと視線と頭を安定させてCCDカメラに問題文を撮影させるように」
「イエッサー!」
受講生たちは威勢良く応答する。実際に試験時間中にテレビ電話をずっと通話状態にしておけば、通話料はバカにならないが、こればかりは情報の伝達上避けられないコストだった。
「諸君から送信された問題文は我々講師陣が迅速に正解を求めた後、電話にて答えを読み上げる。眼鏡の右のつるを見てみろ」
この黒縁眼鏡の右耳にかかる、つるの部分はなぜか不自然に太く膨らんで作られていた。
「そこには骨伝導イヤホンが内蔵されている。電話越しに我々が解答をゆっくりと読み上げるので、諸君達はそのとおり答案を書けばよろしい」
骨伝動イヤホンとは、空気振動による内耳からの信号ではなく、骨への振動によって聴覚神経へ音声を認識させるイヤホンで、イヤホンを装着している者以外にはほとんど音が漏れることが無いシステムである。
これらの機材はどれも、塾長が秋葉原を駆けずり回って買ってきたものだ。眼鏡内臓のCCDカメラや骨伝導マイク・イヤホンは、数十年前までは一国の軍や情報機関が使っていたレベルの情報技術機器だったが、今日では市民が簡単に入手でき、比較的廉価で市販されているものばかりだった。かつては映画の007やスパイ大作戦のようにフィクションの世界やプロの最先端軍用機器として使われていたものが、現在では簡単に民生品として形を変えて市民が手に入れられるようになっている。
「我々の辞書に難関校の文字は存在しない!」
塾長の叫びに、受講生一同は納得してうなずいた。
そして、試験日の朝。ゼミナールに所属するする受験生達は、一同おそろいの眼鏡をかけ、髪の後ろから襟を通してシャツの下に這わせたAVケーブルに接続されたスマートフォンをゼミナールと通話状態にし、それぞれの志望校の門をくぐった。
塾長は最難関校の門の前で教え子達を見送り一息ついた。自分の教え子達の全員合格は間違いない。驚異の合格率の噂は瞬く間に広がり、ゼミナールには山ほど新規受講生が押しかけるに違いない。そうなったら更に完成度の高い作戦行動を立案して、合格率の維持に努めるつもりだった。
塾長は今年度に巨額の設備投資を行って準備を進めてきたので、来年に入ってくる受講生の月謝で、投資分を回収しなければならない。だが今や、来年のそんな心配をするのは取り越し苦労というものだった。
塾長は一人そうやって、ほくそ笑みながら門の前を見回すと、その場になんとも不似合いな、迷彩服を着た体格のいい外国人の集団が、緑色に塗られた大きな櫓のようなアンテナを載せたトラックを伴って大学構内へと入っていくのが見えた。
「ありゃ、何だ?」
物騒なその集団を目にした塾長は怪訝に思ったが、そのとき試験開始を告げる大学のチャイムが鳴ったので、塾長は急いでゼミナールの教室へと戻ってきた。
「塾長大変です!」
帰るやいなや、受験生達のブレーンとして電話越しに解答を告げるアルバイト講師の一人が、悲鳴を上げて塾長のもとへと駆けてきた。
「テ、テレビ電話が繋がりません!」
「な、なんだって」
塾長は急いで何台ものパソコンと電話機が並んだ教室へと駆け込んだ。
モニターは七色の原色の砂嵐状態で、音声はザーザーと音を立てて全く通話不能になっていた。
「塾長、これを見てください」
アルバイト講師の一人がテレビで放送されているニュース番組を指さした。
『この度、文部科学省は年々高度化する大学入試のカンニング防止の為、防衛庁と在日米軍に異例の協力要請を行いました。これを受けて在日米軍は、イラク戦争で実戦を経験した部隊を召集し全国の大学試験会場へ派遣しました。これらの部隊は、イラクでの武装勢力との戦闘で、アメリカ軍を狙う、携帯電話を利用した即席爆弾による攻撃を無力化する技術と経験をもち、試験会場となっている大学構内一帯に電波を撹乱する電磁波を発生させて、携帯電話や無線機による外からのカンニング支援を防止する作戦を開始しました』
塾長は呆然とテレビを見つめた。
即席爆弾。通称IEDと呼ばれるトラップは、イラク戦争後のアメリカ軍との戦いにおいて、イラクの武装勢力が用いもので、爆薬の信管に直結した遠隔操作起爆スイッチとして携帯電話が多く使用されてきた。
度重なるIEDの爆破攻撃により多くの損害を出したアメリカ軍は、各装甲車に、周囲の電波通信を阻害する妨害電波発生装置を搭載させ、自分の周りの電波を撹乱することで起爆信号を遮蔽することに成功した。
予想外の米軍の介入により、電子戦に完全に敗北した塾長は、慌てて教室の屋上にある伝書鳩の鳩舎へと走り、全ての鳩を大空へと放った。もしもの為に、二次手段、三次手段も考慮していたのだ。そしてこの一年、ゼミナールの受講生達は、試験官の目を盗みながら、会場へ飛び込んだ伝書鳩へメモを渡して通信する技能を何度も訓練していたのだった。
だが、ゼミナールの屋上で何分待っても、試験問題を携えた伝書鳩は一匹も戻って来なかった……
「塾長…… これを見てください……」
アルバイト講師は呆然なってまたもテレビのニュース番組を指さした。
『また、各大学は生き物を使った情報伝達を防ぐため、地元の猟友会と協力してキャンパス内を行き来するあらゆる生き物の侵入を防ぐ対策をとっています』
アナウンサーの声と共に、ブラウン管にはキャンパス内で散弾銃を空へ乱射するマタギみたいなオッサンの一団が映っている。空からはカラスやスズメなどが次々に落ちてくる。伝書鳩達は、気の毒なことに全羽撃墜されてしまったのだ……
「もうこうなったら、シグナルミラーで問題の情報を得るしかない。会場近くまで行くぞ。運よく窓際に座った受講生くらいは救えるかも知れない!」
シグナルミラーとは、戦闘機のパイロットなどが身に付けるサバイバルグッズには必ず入っている非常用連絡用具の一つで、覗き穴の空いた手鏡のような物である。のぞき穴で目標を狙い、太陽光をミラーで目標に反射させてモールス信号を送るのである。
モールス信号を送る事ができれば、数百メートルから数キロ遠方からでも最低限の意思疎通は可能だ。
「塾長、残念ながら今日は曇りです」
もはや投げやりになったアルバイト講師達の言葉に塾長は真っ白になって燃え尽きた……
その頃、受験生達も会場で完全に行き詰っていた。骨伝導フォンからは雑音ばかりで頼みの解答は一向に届かず、窓際には緊急用の伝書鳩すらやってこない。おまけに曇り空で、試験会場の窓には、なぜかカーテンとブラインドが下ろされ、外部との連絡は完全に絶たれてしまったのだ。
しかたなく、彼らは自力で問題を解く事を余儀なくされたが、これまでの一年間、情報戦のお勉強しかしてこなかった彼らに、まともな試験問題が解けるはずもなかった。
そもそも、見張りの視線誘導、書類の瞬間盗み読み、音を立てずに廊下を歩く技術などには習熟していても、本来勉強するべき、鎌倉幕府の成立した年や、因数分解の解き方すら受講生達は知らないのだ。これでは、いくら自力で問題を解こうにも無理というものである。
かくして今年度『伊加佐間ゼミナール』は不合格率100パーセントの快挙を成し遂げることとなった。
果たしてその春、今年度の所属受講生全員が進学に失敗したという評判のため、『伊加佐間ゼミナール』は破産手続きを開始した。塾長は、その後しばらくは新宿中央公園や上野公園をさまよう姿が目撃されていたが、その後の消息は絶えてしまったという。
一方、晴れて浪人生となった哀れな受講生達はその後、CIAとかMI6とかいう胡散臭い会社にヘッドハントされ闇の世界へと巣立っていったのだが、それはまた別の話である。
〈了〉
このお粗末な短編をお読み頂き、ありがとうございました。
構想五分、執筆一時間、校正三十分の極めて安易な作品です。
現実世界の京大でのカンニング事件はさて真相はいかに?
そう言えばもう何年も前にニュースで、台湾の大学受験時には電波通信によるカンニングを防ぐ為に軍だか警察だかの電子戦部隊が監視任務に就くとかいう話を聞いた事があります。とうとう日本にも受験電子戦時代が訪れたのでしょうか?(笑)
自分で書いていて思ったんですが、塾長は受験予備校じゃなくて、もっと別種の人間を育てる学校を作った方が商売に成功したのではないでしょうか?と自分で突っ込んでみたりする。