第9話 それぞれの決断
午後2時。
ギルドは穏やかだった。
グレゴール失脚から3日。
もう王宮からの圧力はない。
冒険者たちも安心して依頼をこなしている。
私はカウンターで依頼票を整理していた。
いつもの日常。
この平和が、私は好きだった。
カラン。
扉の鈴が鳴る。
フードを被った男性が入ってきた。
でも、歩き方で分かる。
アレクシス殿下だ。
今度は一人で来ている。
護衛の姿は見えない。
「いらっしゃいませ」
私は平静を装って挨拶した。
殿下はフードを下ろした。
王太子の正装ではなく、簡素な外出着。
でも隠しきれない気品がある。
「セシリア」
「何かご用でしょうか」
「少し、話をしたい」
私はバルドに目配せした。
彼が頷く。
「応接室へどうぞ」
応接室。
二人きりになった。
窓から差し込む午後の光。
静かな空間。
「君に、正式に頼みたいことがある」
殿下が口を開いた。
声は穏やかだが、真剣だった。
「王宮の事務改革を手伝ってほしい」
やはり、そうだった。
「事務官として、正式に迎えたい」
「待遇は保証する。君にふさわしい地位と報酬を用意する」
殿下は私を見つめた。
「婚約者としてではない。一人の優秀な事務官として」
条件は悪くない。
名誉も回復できるだろう。
でも。
「お断りします」
私は迷わず答えた。
殿下は驚かなかった。
予想していたのだろう。
「理由を聞いてもいいか」
「ここでの仕事が好きだからです」
私は素直に言った。
「冒険者の皆さんと一緒に働くことが、楽しいからです」
「楽しい、か」
殿下が小さく笑った。
「王宮の仕事は、楽しくなかったのか」
「やりがいはありました」
私は正直に答えた。
「でも、それは私が望んだ仕事ではありませんでした」
「与えられた役割を果たしていただけです」
「今は違います」
私は窓の外を見た。
ギルドの看板が見える。
「自分で選んで、ここに来ました」
「自分で決めて、この仕事をしています」
「だから、私はここにいたいのです」
殿下は長い間、私を見つめていた。
「君は、本当に変わったな」
「変わったでしょうか」
「以前の君なら、『お役に立てなくて申し訳ありません』と謝っていただろう」
「今の君は、自分の意志をはっきり言う」
確かに、そうかもしれない。
前世でも、今世でも。
いつも謝ってばかりいた。
でも、ここでは違う。
「君の決意は固いようだな」
殿下が立ち上がった。
「分かった。無理強いはしない」
「ありがとうございます」
「最後に一つだけ」
殿下は扉に手をかけて振り返った。
「君は、ここで幸せか?」
「はい」
即答だった。
「とても幸せです」
殿下は優しく微笑んだ。
「そうか。なら、良かった」
「君の幸せを、心から願っている」
扉が静かに閉まった。
私は椅子に座り込んだ。
これで、本当に終わった。
過去との決別。
もう振り返らない。
カウンターに戻ると、ルークが待っていた。
いつもより険しい顔をしている。
「お疲れ」
「ありがとうございます」
「あいつ、また何か言いに来たのか」
「王宮に戻ってほしいと」
ルークの表情が曇った。
「で、どうしたんだ」
「断りました」
「……本当にいいのか?」
彼の声が少し震えている。
「王宮の方が、待遇もいいだろ」
「名誉だって回復できる」
「こんな底辺ギルドより、ずっと——」
「ルークさん」
私は彼の言葉を遮った。
「私にいなくなってほしいんですか?」
「違う!」
ルークが慌てて否定した。
「俺は……」
彼は言葉に詰まった。
視線を逸らす。
「……飯、食いに行くぞ」
「え?」
「話したいことがある」
夜。
いつもの屋台。
肉串とエール。
でも、今日のルークは静かだった。
黙々と食べている。
何か言いたそうなのに、口を開かない。
「どうかしましたか?」
「……なあ」
ルークがようやく口を開いた。
「俺の話、聞いてくれるか」
「もちろんです」
ルークは空を見上げた。
星がきれいに見える。
「俺、実は貴族の出なんだ」
私は驚いた。
でも、どこか納得もしていた。
立ち振る舞いや、時折見せる教養。
「アッシュフォード男爵家の三男」
「家は貧乏でな。俺は『予備』扱いだった」
彼の声が低くなる。
「長兄は冷酷で、次兄は優しかったが最後は俺を裏切った」
「居場所がなくて、15で家を出た」
ルークは肉串を置いた。
「昔、婚約者がいたんだ」
「え……」
「親が決めた相手。貴族の令嬢だった」
「俺が冒険者になった時、あいつは言った」
「『そんな野蛮な仕事、恥ずかしい』ってな」
彼の拳が震えた。
「そして、もっと金持ちの伯爵家に嫁いでいった」
「それ以来、貴族の女は信用してなかった」
「表面だけ綺麗で、中身は計算高いって」
ルークは私を見た。
琥珀色の瞳が、星明かりを映している。
「でも、お前は違った」
「俺たちを見下さなかった」
「泥だらけの俺たちと、同じ目線で話してくれた」
「自分の手で、居場所を作ろうとした」
私は胸が熱くなった。
彼の過去の痛み。
それでも、私を受け入れてくれた気持ち。
「だから」
ルークは少し照れくさそうに笑った。
「俺は、お前がここにいてくれて嬉しい」
「王宮に戻らないでくれて、ホッとしてる」
「でも、もしお前が戻りたいなら」
「止める権利はねえ」
不器用な優しさ。
彼なりの気遣い。
私は彼の手を握った。
大きくて、硬い手。
戦いで傷ついた手。
「ルークさん」
「私は、どこにも行きません」
「ここが、私の選んだ場所です」
「あなたたちがいる場所が、私の居場所です」
ルークは目を見開いた。
そして、強く握り返してくれた。
「……そうか」
彼の声が震えている。
「そうか」
何度も頷いている。
安堵したような、嬉しそうな顔。
「ありがとう、セシリア」
「こちらこそ」
私たちはしばらく、手を繋いだまま星空を見上げていた。
この距離が心地いい。
この温かさが嬉しい。
「なあ」
「はい」
「俺、もっと強くなる」
「お前を守れるように」
「Aランク、目指すわ」
私は笑った。
「書類仕事も頑張ってくださいね」
「うっ……それは、手伝ってくれ」
「もちろんです」
二人の笑い声が、夜の街に響いた。
宿への帰り道。
ルークが送ってくれた。
「じゃあな」
「はい。おやすみなさい」
彼が背を向けて歩き出す。
「ルークさん」
私は呼び止めた。
彼が振り返る。
「私、ルークさんと出会えてよかったです」
思わず口に出していた。
顔が熱くなる。
ルークは一瞬驚いた顔をした。
そして、ニカッと笑った。
「俺もだ」
彼は手を振って、夜の闇に消えていった。
私は胸を押さえた。
心臓がうるさい。
この気持ちは何だろう。
温かくて、切なくて。
前世では感じたことのない感情。
王太子妃時代にもなかった感情。
対等で、安心できて。
私は空を見上げた。
星がきれいだった。
「私は、ここで生きていく」
心に誓った。
誰のためでもなく、自分のために。
そして、大切な人のために。
明日も、ここで働こう。
ルークと一緒に。
みんなと一緒に。
それが、私の選んだ人生。
宿の扉を開けながら、私は小さく笑った。
幸せだった。
心の底から。




