第5話 過去との再会
2週間が経った。
朧月支部は、もはや「底辺ギルド」ではなかった。
私は午後の帳簿を整理しながら、最近の数字を眺めていた。
「他支部からの移籍希望者、今月だけで8名……」
思わず呟く。
理由は「公平な評価制度」「迅速な事務処理」。
嬉しい反面、責任も重い。
「セシリアさん、すごいですね」
リゼットさんが覗き込んだ。
「私たちのギルドが、こんなに人気になるなんて」
「皆さんの協力のおかげです」
私は微笑んだ。
ルークも先ほど、Bランクからの昇格審査書類を提出していった。
ポイント制のおかげで、ようやく彼の実力が正当評価される。
平和な午後。
この日常が、私は好きだった。
その時。
カラン、と扉の鈴が鳴った。
フードを深く被った男性が二人。
一人は明らかに護衛風。
もう一人は細身で、背筋がピンと伸びている。
歩き方が違う。
足音が静かすぎる。
洗練されすぎている。
私は違和感を覚えた。
「いらっしゃいませ」
リゼットさんが声をかける。
男性がフードを少し上げた。
プラチナブロンドの髪がちらりと見えた。
心臓が止まるかと思った。
まさか。
でも、あの髪の色。
あの立ち姿。
私は慌てて顔を伏せた。
認識阻害の眼鏡をしている。
髪型も変えている。
バレるはずがない。
「視察をさせてもらいたい」
その声で、確信した。
アレクシス殿下だ。
なぜ、ここに。
「視察ですか?」
リゼットさんが困惑している。
「ああ。このギルドの運営が素晴らしいと聞いてな」
殿下はギルド内を見渡した。
その視線が、私の方に向く。
私は必死に書類に目を落とした。
手が震える。
バレてはいけない。
この平和な日常を守るために。
「こちらが、噂の受付嬢ですか?」
殿下が近づいてきた。
逃げられない。
私は覚悟を決めて顔を上げた。
「いらっしゃいませ。セシリアと申します」
極力、事務的な声で。
貴族言葉を使わないように。
殿下は私をじっと見つめた。
数秒の沈黙。
「……失礼ですが、どちらかでお会いしたことは?」
やはり、怪しまれている。
3年間、毎日顔を合わせていたのだ。
眼鏡一つで誤魔化せる相手ではない。
「人違いかと存じます」
私はシラを切った。
ここで認めるわけにはいかない。
殿下は少し悲しげな顔をした。
でも、追及はしなかった。
「そうですか。失礼しました」
彼はカウンターに手を置いた。
その指に、王家の紋章入りの指輪。
変装するなら外してきてください、殿下。
相変わらず詰めが甘い。
「このギルドの改革について、詳しく聞かせていただけますか」
「承知いたします」
私は資料を取り出した。
「現在の登録冒険者数は87名。先月比8名増です」
「依頼処理率95%。緊急依頼は100%対応しております」
淡々と説明する。
感情を抑えて。
殿下は資料を見つめた。
「素晴らしい数字ですね」
その声に、複雑な響きがあった。
「これらの改革は、あなたが?」
「ギルドマスターと職員全員の協力です」
「謙虚ですね」
殿下は苦笑した。
「実は、私も似たような改革を必要としているのです」
「王宮の……いえ、私の職場でも」
王宮。
やはり、執務が回っていないのだろう。
私が作ったマニュアルはない。
全て私の頭の中にあったから。
「少し、お話しできませんか」
殿下が静かに言った。
「プライベートな場所で」
私は一瞬迷った。
でも、断れない。
「承知いたします」
私はリゼットさんに目配せして、殿下を応接室に案内した。
護衛は扉の外で待機。
二人きりになった。
重い沈黙。
「……やはり、君だったんだな」
殿下が口を開いた。
「セシリア・ローゼンハイム」
観念した。
「お久しぶりです、殿下」
私は静かに一礼した。
「元気そうで、安心した」
「ありがとうございます」
「ここでの生活は、どうだ?」
「充実しております」
短い答え。
でも、嘘ではない。
殿下は窓の外を見た。
「実は、困っているんだ」
「と言いますと?」
「君がいなくなってから、執務が回らない」
彼の声が小さくなった。
「予算管理も、政策立案も、全て滞っている」
「地方領主からの陳情にも、まともに答えられない」
私は黙って聞いた。
「君が作っていたマニュアルを探したが、見つからなかった」
当然だ。
そんなものは存在しない。
「側近たちに聞いても、誰も君がやっていた仕事を把握していない」
「初めて分かったんだ」
殿下は私を見た。
「君がどれほど支えてくれていたか」
「私がどれほど君に依存していたか」
その瞳に、深い後悔の色があった。
「本当に、申し訳なかった」
謝罪。
予想していなかった。
でも、私の心は静かだった。
「もう過去のことです」
「セシリア……」
「殿下は、国のために最善を尽くしてください」
私は微笑んだ。
「私は、ここで自分の道を歩みます」
殿下は長い間、私を見つめていた。
「君に、戻ってきてほしい」
やはり、そう来たか。
「事務官として、だ。婚約者としてではなく」
「お断りします」
即答だった。
「なぜだ?」
「ここでの仕事が好きだからです」
私ははっきり言った。
「冒険者の皆さんの努力を正当に評価できる」
「依頼主の方々の不安を少しでも減らせる」
「そして何より」
私は殿下を真っ直ぐ見た。
「自分で選んだ場所で働いています」
殿下の表情が揺れた。
「王太子妃候補の仕事は、私が望んだものではありませんでした」
「責任は果たしたつもりです」
「でも、あれは『私の人生』ではなかった」
前世の記憶が重なる。
終わらない残業。
理不尽な要求。
「今は違います」
「自分で決めて、ここに来ました」
「自分で決めて、この仕事をしています」
「だから、私はここにいたいのです」
殿下は目を閉じた。
深く息を吸って、吐いた。
「一つだけ、聞かせてくれ」
「はい」
「君は、ここで幸せなのか?」
その問いに、私は迷わなかった。
「はい。とても」
即答。
心の底からの本音。
ここでは、私は道具ではない。
一人の人間として必要とされている。
仲間がいる。
やりがいがある。
殿下の顔が、痛ましいほど歪んだ。
「そうか……」
彼は立ち上がった。
「分かった」
「殿下?」
「君の選択を、尊重しよう」
その言葉に、少し驚いた。
昔の彼なら、もっと強引だったかもしれない。
「ありがとうございます」
「最後に一つだけ」
殿下は扉に手をかけて振り返った。
「もし君が困ったことがあれば」
「王宮を頼ってほしい」
「……考えておきます」
それが精一杯だった。
殿下は小さく頷いた。
「幸せに、セシリア」
「殿下も」
扉が閉まった。
私は椅子に座り込んだ。
足が震えている。
怖かった。
連れ戻されるかと思った。
でも、殿下は私の意志を尊重してくれた。
人は、変わるものなのだろうか。
カウンターに戻ると、ルークが立っていた。
険しい表情。
「お疲れ様」
「……あいつ、何者だ」
ルークの声は低かった。
「昔の、上司です」
嘘ではない。
王太子妃候補にとって、アレクシスは上司でもあった。
「ふうん」
ルークは私を見つめた。
鋭い琥珀色の瞳。
「お前、本当は貴族だろ」
心臓が跳ねた。
「なぜそう思うんですか?」
「立ち居振る舞いが違う」
「特に、あいつと話してる時」
やはり、バレていたか。
ルークの観察力は鋭い。
「……昔は、そうでした」
私は正直に答えた。
「でも、今は違います」
「そうか」
ルークは短く言った。
「なら、いい」
彼は私の肩に手を置いた。
「お前がここにいたいなら、それでいい」
「俺たちが守るから」
その言葉に、胸が熱くなった。
殿下は「国のために必要」と言った。
ルークは「お前がいたいなら守る」と言った。
この違い。
「ありがとうございます」
私は涙が出そうになった。
「仕事に戻りますね」
「おう」
ルークは自分の席に戻った。
私は深呼吸をした。
過去との再会は、決別でもあった。
私はもう、王宮には戻らない。
ここで、自分の人生を生きていく。
窓の外を見る。
夕日が美しい。
オレンジ色に染まった空。
朧月支部の看板が、光を浴びて輝いている。
ここが、私の居場所。
私は小さく呟いた。
「私は、ここで幸せです」
風が、優しく髪を撫でた。




