03:恋人ごっこが終わった日(3)
(泣いては駄目、冷静に、冷静に――)
爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り、湧き上がりそうになった感情を抑え込む。
ルーシェが激しい感情を抱けば《《大変なことになる》》。
(平民であるわたしを引き取り、育ててくださったお父さまとお母さまの顔に泥を塗ってはいけない。どんな時でも淑女としての振る舞いを忘れず、優雅に、上品に。これが最後だというなら、なおさらきちんとご挨拶をしなければ)
ルーシェは立ち上がって微笑み、制服のスカートを摘まんで頭を下げた。
「婚約破棄と《国守りの魔女》の解任、承りました、デルニス様。五年もの間、幸せな夢を見せていただき、ありがとうございました」
「私にとっては悪夢だった。卑しい平民風情が。貴様の顔を見ていると気分が悪くなる」
「……デルニス様。仮にも王子が平民を侮辱してはいけません。平民は国を支える基盤、蔑ろにするなどあってはならないことです。それに、いまのわたしはクライン公爵家の養女で――」
さすがに黙っていられず、嗜めようとしたが。
「ああそうだ、言い忘れていたがクライン公爵から言付けを預かっている。『婚約破棄されたお前に価値はない。養子縁組は解消した。二度と家に近づくな』とのことだ」
もっともルーシェを傷つけるタイミングを狙っていたのだろう、デルニスは衝撃的な事実を口にした。
「――――」
あまりのショックで視界が暗くなった。
クライン公爵は王家と繋がりを持つために《国守りの魔女》となった平民を養女に迎え、政治の道具として利用しただけ。
愛されてなどいないのはわかっていたつもりだったが、やはり現実を突きつけられるのは辛かった。
「ふん、いい気味だ。悪女の末路には相応しい」
「デルニス様、そんなに笑っては可哀想ですわ」
被虐に満ちた笑みを浮かべたデルニスの袖をパトリシアが引っ張った。
「パトリシアは優しいな。やはり君こそ私の運命の人だ」
「まあ、そんな」
頬に口づけされたパトリシアははにかみながらこちらを見て――デルニスには気づかれぬよう、はっきりと嘲笑した。勝ち誇ったような笑み。
堪らずルーシェは顔を背け、逃げ出すように踊り場を後にした。
(これからどうしよう――)
生徒たちの声や拍手の音をどこか遠い世界の出来事のように感じながら、途方に暮れる。
養女としても婚約者としても《国守りの魔女》としても不要だと断じられてしまった。
ルーシェが学校を卒業するまであと一年。クライン公爵は最後まで面倒を見てくれるだろうか。
(……そんなわけないわね。家に帰るどころか近づくなとまで言われたのだもの。既に退学届は出されていると考えるべきよ)
打たれた頬が痛む。
長い銀髪を揺らし、幽鬼のように、ルーシェはふらふらと階段を下りて行った。
(《国守りの魔女》には国から多額の報奨金が支払われているけれど……全額お父さまたちの懐に入っているのでしょうね。わたしがいま持っているお金はお小遣い程度の額しかないわ。何をするにもお金が必要なのに、この先どうやって生きていけばいいのかしら――)
ふと、頭に浮かんだのは懐かしい孤児院。
五年前、クライン公爵に手を引かれて孤児院を出てから、ルーシェは一度も帰っていない。
クライン公爵に「お前はこれから公爵家の養女として生きていくのだから、過去のことは全て忘れろ」と命じられ、過去との繋がりは全て絶たれてしまった。
(……ジオは元気にしているかしら?)
何故だろう、ルーシェは彼に会いたくて仕方なかった。