閑話 弟!!
ルクトベルク公爵家の嫡男、ルイナスは物心ついた頃から部屋に引きこもっていた。生まれ持った『病気』のためだ。
同じ部屋にいるだけで、他の人間に倦怠感を覚えさせてしまう。
直接触れると、貧血に似た症状にさせてしまう。
原因は分からない。
公爵家の後継ぎという立場なので、祖父であるガーランドも父であるガルナも多くの手段を講じてくれた。国に数名しかいないランクA鑑定眼持ちに鑑定させたり、高名な医者に診断させたり、もしや呪いではないかと神官を派遣してもらったり……。
その結果として、ルイナスの病気は『原因不明』という結論になってしまった。
ランクA鑑定士すら鑑定することができず。医者も過去に類例はないと言い。神官も呪いの類いではないと断言し、もしかしたら前世の因縁が――という妄言を口にして、ガーランドにつまみ出されていた。
どれが事実かは分からない。
ルイナスに分かるのは、自分が危険だということ。……そして、誰も抱きしめてはくれないということだ。
手のひらで触れただけで貧血になるのだ。抱きしめたらどんな症状が起こるか分からない。もしかしたらそれだけで相手が死んでしまうかもしれない。
これからも。これからも。ルイナスは誰にも触れず、誰からも抱きしめられずに生きていかなければならない。
それは悲しいとルイナスは思った。
だが、寂しいとは思わなかった。父も、祖父も、祖母も、ルイナスによく声を掛けてくれて、時には部屋に入ってのやり取りをしてくれたからだ。しかもちゃんと家庭教師を呼び、必要な教育を施してくれて……。
公爵家の跡取りだから、という理由だけではないことはルイナスにも分かっていた。だって相手に触れることのできないルイナスでは結婚できないし、子供を作ることもできないのだから。
貴族の使命とは家を残し、血を後世に繋いでいくこと。だとするならば、ルイナスは公爵家の当主としては明らかな不適合者だ。
しかしそんなルイナスを見捨てることなく接してくれて、家庭教師まで付けてくれていることに……彼は嬉しさを覚えていたし、確かな愛情を感じ取っていた。
だからこそ、寂しくはない。
そもそも物心ついた頃からこうだったのだから。これ以上のことを知らないのだから。寂しいと思うはずがないのだ。むしろ『悲しい』という感情すらも、周りの人間の反応から『そう感じるべき』と判断しているだけで……。
……それに。
ルイナスは一人ではなかった。
部屋の中に、いつでも『その人』がいてくれたからだ。
茶色の髪を後ろで編み上げた美しい女性。
喋ったことはない。
そもそも、喋れるのかどうかすらも分からない。
でも、彼女は常にルイナスの側にいてくれたし、優しい眼差しを向けてきてくれていた。
ルイナスは母親の肖像画を見たことはないが、きっとこの人が母なのだろうと確信を抱いていた。
父を初めとした家族から確かに愛されていて。
物心つく前に亡くなった母親も見守ってくれている。
だから、ルイナスは幸せだったのだ。
幸せだと、思っていたのだ。
◇
その日。
なにやら屋敷が騒がしかった。
とはいえさほど違和感を抱くことのなかったルイナス。客人が来ればこのくらい騒がしいのも普通だったからだ。
そんな『普通』の中、少し違ったのは屋敷の中が少し明るくなったような気がしたことだ。活気がある、とでも言おうか? もちろん部屋に引きこもっているルイナスが感じたことでしかないので、実際にどうなのかは分からないが。
そんな活気が、庭に移動した。ような気がした。
「…………」
普段ならどれだけ騒がしくとも外の様子を確認することなどないルイナスだが……今日はどうしてか気になってしまい、窓に近づいた。
――綺麗だった。
まず目に付いたのは太陽の光を反射してキラキラと輝く銀髪。そして宝石のように美しい赤色の瞳。肌の色は寒い日の朝に降り積もった雪のように白くて、コロコロと変わる表情は不思議と目を離すことができなかった。
綺麗だ。
可愛い。
そんな、陳腐な感想しか抱けない自分が恥ずかしくなるルイナス。貴族の男であれば大げさすぎるほどの美辞麗句を並び立てて女性を褒め称えるべきだというのに。女性との関わりがほとんどないルイナスにはそのあたりの知識が皆無だったのだ。
(いや、恥ずかしがってもしょうがないか……)
小さく首を横に振るルイナス。たとえどれだけ語彙を増やそうが。どれだけ女性を褒める練習をしようが。実践する機会など訪れないのだから。
そんなことを考えていると、銀髪の少女は庭から姿を消していた。
(あぁ……)
なぜだか残念に思ってしまうルイナス。
客人の娘だろうか?
あるいは使用人の子供?
いや服装は立派なものだったから貴族令嬢だろう。
ならば自分とも今後関わりがあるかもしれない――
「――なにを、バカな」
相手が貴族でも。使用人の子供でも。ルイナスには関係ない。どうせこの『病気』を知られれば不気味がられて近づくことすらできないし、触れることもできないのだから仲良くなりようがない。
でも。
それでも……。
瞳を閉じる。
瞼の裏には鮮やかな銀糸の髪が焼き付いていた。あの朗らかな笑顔を容易に思い出すことができた。胸の鼓動が早まり、頬が熱くなった気がする。
これでは、まるで――
――ドアベルが鳴った。
シーツや着替えを回収しに来たメイドか、あるいは家族の誰かか。
ルイナスが扉に近づくと、聞こえてくれたのは父の声だった
「ルイナス。キミに新しい家族ができた。一応紹介しておくね? 私の姉の子供であるリーナと、リーナの妹であるアリスちゃんだ。ルイナスの『いとこ』になるね」
家族。
いとこ。
先ほど庭にいた少女だろうか?
ドキドキと。ドキドキと。破裂しそうなほどに胸が高まるルイナス。
「リーナは実の父親から虐げられていてね。緊急措置としてうちで引き取ることになったんだ。急に『姉』ができて戸惑うかもしれないけど、ゆっくりと納得してくれると嬉しい」
虐げられていたとは、どういうことだろうか?
あんなにも可愛らしい存在を、虐める人間がいたのだろうか?
なんという愚者。
なんという愚か者。
あんなにも可愛く、可憐で。愛くるしい存在を虐げるだなんて……。
――ボクが、守らなければならない。
ルイナスは、そう思った。
どうせ触れることも叶わないのに。抱きしめることもできないのに。見返りなど求めずに。下心もないままに。ルイナスは、決意したのだ。
姉。
姉だという。
つまりは、家族。
家族であれば、守るのも当然だ。
そんな自己弁護を脳内に展開しながらドアの鍵に手を伸ばすルイナス。今、廊下にはあの少女がいるのだ。このまま扉越しのやり取りで済ませるという選択肢など存在しない。
ガチャン、という音がした。
鍵が外れ、扉が開いていく。
廊下にいたのは、やはりあの少女であった。
世界中の銀細工を集めたところで打ち勝つことの叶わない美麗なる銀髪。
王城にあるという世界最大の紅玉よりなお価値がある珠玉の赤目。
その肌の白さを何と喩えたらよいのだろう? 寒き日の初雪。東洋よりもたらされる絹布。月下に咲く一輪花……。
いいや、いいや、どんな美辞麗句を並べ立てようと。どれだけ言葉を尽くそうと。目の前の『姉』の美しさを表現しきれるものか。表現できるのだと驕ってなるものか。――美しい。ただ、ただ、美しい。今このとき、美しいという表現は彼女のための言葉となったのだ。
そんな彼女が、自分の姉となるのだ。
それは、なんという幸せだろうか。
「おねぇ、さま?」
恥ずかしい。
こんな自分が『弟』を名乗ることが。ずっと部屋に引きこもっていて、公爵家の跡取りに相応しくない自分なんかが、この美しき少女の弟を名乗ることが……ルイナスには、恥ずかしくて仕方なかった。
――だが、誰にも譲らない。
ルイナスは、この少女の、家族なのだ。弟なのだ。たとえ国王が否定しても。たとえ運命が引き裂こうとしても。誰にも譲ってなるものか。
――彼女は、ボクの姉なのだ。
そんな、幼き決意をしたルイナスを。
まるで天使のような彼女は。
まるで天使のような微笑みを浮かべながら。
思い切り、抱きしめた。
頬ずりしていた。
「――お姉ちゃんですよーーーーーっっっっ!!」
一瞬、何が起こったのか理解できなかったルイナスだ。
全身に感じる柔らかさ。
鼻腔を突き抜ける甘い香り。
そして何より、身体を包み込むような温かさ。
ぜんぶ、ぜんぶ、今までのルイナスが感じ取ったことのない感覚だ。まずは視覚で衝撃を与えてからの、触覚、嗅覚、温覚……。
6歳児の脳を焼くには、十分すぎる出来事であった。
◇
衝撃に脳を焼かれたルイナスだが、弁明をする姉・リーナを見ていると遅まきながら怖気に襲われた。
リーナは自分を抱きしめていた。
頬ずりしていた。
触れただけで人を貧血にさせてしまうルイナスと。あれだけ強く、あれだけ長時間接触していたのだ。――死んでしまってもおかしくない。
自分のせいで、美しい人が死んでしまう。
自分のせいで、姉が死んでしまう。
自分のせいで――
足元が崩れるような不安に襲われたルイナス。そんな彼にも聞こえるように父がリーナを診断し、その結果を伝えてくれた。
「……脈の乱れはなし。発熱も、貧血の症状もなし。健康そのものだね」
健康?
なぜ?
どうして?
他の人はみんなダメだったのに。どうして彼女だけが?
「――ルイナス」
リーナに視線を向けられ、ルイナスはビクッと身を縮めてしまう。
怒られるかもしれない。
気分が悪いと言われるかもしれない。
もう近づくなと言われるかもしれない。
だって、今までがそうだったから。
人と接触してはいけないと注意されたし、近づいただけで体調を悪化させてしまったし、近づかないでくださいと叫ばれたこともある。
そんな、彼に。
そんな、ルイナスに。
「――私は、大丈夫だよ」
リーナは、微笑みながら、告げた。
「――――」
どうしてリーナが無事なのかは分からない。
どうして彼女だけ平気なのか分からない。
分からない。
ルイナスには何も分からない。
ただ一つ、分かることがあるとすれば。
――ボクには、彼女しかいない。
ただ、それだけだった。




