第5話
風が吹いている。裏路地で一番の高さを誇る、旧テレビ塔の天辺にある展望台の外側にトラは腰かけていた。
背中を預けたガラス、その向こうは暗い。ここが観光名所として賑わっていたのは四半世紀近く前のことで、今はもう営業しなくなって久しい。
街を一望できるこの場所に登って、この時間帯の静かな風を感じるのが、トラは好きだった。
髪を揺らし、鼻をくすぐる風は川向こうの新市街から吹く陸風だ。街で汚され、人々の生活や娯楽の匂いの染みついた空気が、フェンスの網をすり抜けてここまで運ばれてくる。
トラたちが決して嗅ぐことのない空気。都会の風。トラはときどき、訳もなくこの風を浴びたくなってここに登って来るのだ。
「トラ、みーっけた」
「ああ、クロ」
上から声がしたと思えば、展望台の屋根上からクロが顔を出していた。夕焼けに照らされたクロの微笑みが、濃紺に染められていく空の中に浮かび上がる。
「ここだと思ったぁ。マニエルの店にいなかったからねぇ」
「まあね」
クロはひょいと立ちあがるとそのままトラの隣まで軽々降りて来た。同じようにガラス面に背中を置いて、膝を揃えて外に足をぶら下げる。
風がクロの長い黒髪をなびかせ、それが時折トラから景色を隠した。そのたびに香ってくる石鹸の匂いに、トラは心がほぐれるのを感じる。
クロは、トラが何か喋るまで黙って隣に座っている。
「この裏路地に来て、もうどれくらいになるんだろうな」
トラがぼそりと言った。クロは片手で髪を押さえながら、ビルからの反射光に眩しそうに眼を細めるトラの横顔をちら、と見やった。
「さぁ。ここにはカレンダーなんか無いからねぇ。季節は一年で巡るから、その回数で分かるけどぉ」
「ハハッ、真面目にそんなの数えてるネコがいると思うか?」
「そうよねぇ」
「私たち、もうこれからずっとあのフェンスの中なんだよな、きっとさ」
トラの視線が示す先には、このテレビ塔の突端よりもなお高く建てられたフェンス。内と外とを隔てる壁。カレーパンを買ってこさせることは出来るけど、自分で買いに行くことは決してできない。
「出たいの? フェンスの外に」
クロが優しく訊ねる。覗き込むように顔を傾けると、ピアスがチリン、と音を立てた。
「うーん、どうなんだろう。分からないや」
自信なさげに苦笑いするトラ。
「ただ時々、フェンスの内側にいることが無性に不安になることがあるんだ」
「不安?」
「うん」
トラは視線を下げ、夜の闇の中に落ちていく裏路地と旧市街の街並みを眺めながら呟くように言う。
「いつか、このフェンスに押しつぶされて動けなくなる様な気がして、でもこのままじゃそこから逃れられないんだ」
「え~っとぉ、どういうことぉ?」
たどたどしいトラの説明に、クロは困ったように優しく笑う。
「ううん、よく分かんないや、私にも。ごめん、上手く言えない」
首を横に振るトラ。クロは少し思案顔だったが、ずい、と座り位置をずらしてトラと体をくっつける。
「私も、ゴメンねぇ。分かってあげられなくて」
腕を伸ばして、トラの肩を引き寄せる。
「ただ、私もここで暮らしていて、最近不安を感じてるの」
「そうなのか?」
「うん、何か大きなことが起きようとしてる気がする。この街を揺るがすような何かが」
「何かって……どんな?」
聞き返すトラ。クロはしばらくその顔を見返して、
「分かんなぁい」
とサクッと笑った。トラの表情もつられて崩れる。
「なんだよそれ」
「フフッ、ゴメンねぇ。でも、今はとにかく、トラと一緒にいられて私は幸せよぉ」
「はぁ……ま、そうだな」
引き寄せる力に体を預け、ことん、とクロの肩に頭を乗せるトラ。二人はしばらくそうして街が闇に暮れていくのを黙って眺めていた。
太陽は川の向こうの都市のビル群の陰に沈み、新市街の上には星がちらちらと見え始めてきた。
「そろそろ、帰ろっかぁ」
「うん、ご飯食べて寝よう」
クロに手を引かれてトラが立ち上がる。獣じみたすばしこさで鉄塔の壁面を降りて行く二人の影が裏路地の低い建物の群れに紛れていく。
街には夜が訪れ、風はすっかり凪いでいた。
〈続き〉