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裏路地のジェーン・キャット  作者: スギモトトオル
第一部 ネコと街
2/10

第1話

「おーおー、やってんねえ」

 狭い路地を逃走する男を、トラはサングラス越しに屋根上から見物していた。

 逃走といっても、追う者の姿は無い。昼前の裏路地には人通りは無く、男の足音の外に目立つ音も無い。それでも先を急ぐのは、フェンスの出口で待ち伏せされるのが怖いからか。

 それとも、ここ(・・)がどういう場所なのかを知っているということか。

 サングラスを持ち上げ、細い道を行く男達を見下ろして笑う。

「そもそも出口なんか無いのになー」

 曲がり角に男が消えるのを見届けて、別の屋根に移ろうと立ち上がる。

 そのとき、ふわっと風が薫った。

 かと思うと、気付いた時には背後からぴったりと密着した影に、体をしっかり抱きすくめられていた。

「うわっ」

「トラ、みーっけた」

 声の主はクロだった。

 耳たぶにとろりと垂れるような、特徴的な甘いハスキーボイス。そして、首筋をくすぐる長い黒髪と、背中に押し付けられた豊満な感触(ボリューム)がおなじみの相棒・・だ。

「ちょっと、クロ。離れろって」

「だって、やーっと見つけたんだもん。探したよぉ、トラ。すーぅ、くんくん……」

「わかった、わーかったから。つむじの匂いを嗅ぐなって」

 トラよりもひと回り身長の高いクロは、丁度髪の中に顔をうずめる恰好になる。トラはその腕を振りほどいて体を離した。

 まったく、音もなく近づいてくるんだから油断も隙も無い。

「で? 何か用事があるんだろ」

「つれないなぁ。ミンダ地区警察署経由で、アンソニー警部補どのから緊急連絡。至急の協力要請よぉ」

「どうせ、アレのことっしょ」

 トラは親指で、男が逃げ込んだ曲がり角を指す。クロはそっちを見もしないで、

「ま、そういうこと。ひったくり犯だってぇ」

と腰に手を当てて微笑む。

 トラは空を仰いだ。

 本日、晴天なれど雲多し。風の流れからして、夕方までにひと雨来るかもしれない。

「じゃ、パパッとやっちゃいますか」

「終わったらお昼にしよっか」

 伸びをしながら、クロと共にトラは屋根の上を歩き出す。

「ピロシキはやだよ、今日は」

「え~、なんで分かったのぉ」

「どんだけ一緒にいると思ってんの。分かるよ、それくらい」

「じゃあさぁ」

 クロがすっとトラを抜かし、屋根の縁に進み出たかと思うと、そのまま大きく軽やかな弧を描くジャンプをし、通りを挟んだ向こうの屋根に音もなく両足で着地した。

 くるっと振り返ると、

「ひと仕事終わりにするまでに、何食べるか考えといてねぇ」

と言って駆け出した。

 トラは肩をすくめて吐息を漏らす。

「はいはい」

と呟いて、クロの後を追う様に軽快な跳躍で屋根を渡った。


* * * *


 ボギー・バレンタインはどこまでも続く路地にうんざりしながらも、奪ったカバンを脇にしっかりと抱え、先を急いでいた。

「くそっ、この道どこまで続いてやがる」

 悪態を吐きながら路地から路地へ駆け抜けていく。しかし、行けども行けども開けることはなく、道は細く、曲がりくねり、いくつもの分岐で複雑につながっていた。

(とにかく、反対側まで出ればこっちのもんだ。あんなフェンスなんぞ、どうにでもなる)

 男は背中のリュックの中にあるワイヤーカッターを思い浮かべ、自然に笑みを浮かべた。

 フェンスに囲まれた”裏路地”を抜け、旧市街の西の果て、今は使われていない港までたどり着けば、そこにボートが隠してある。川に出てしまえば、追っ手を撒くことが出来る。警察がボートを手配するまでの間で、十分逃げ切ることは可能だ。

 そこまで計画を確認したあと、ボギーの意識は未来へと夢想した。

 腕の中に抱えた、このカバン。持っていたのは若造だったが、かなりの高級ブランドものだ。中身が何かは知らないが、あの若造も身なりは相当な高給取りらしいから、すべてまるっと売ってしまえば相当な額になるはずだ。

 これでしばらくは危ない橋を渡らずに過ごせる。

 内心でほっとしながらも、安堵とともに、同時に情けない気分も心の奥底で首をもたげているのもボギーは感じていた。

 ボギーはプロのボクサーだった。つい数か月前までは。

 小さな故障に端を発した不調が長引き、ボギーは一時ほど勝てなくなっていた。それでも暮らしていけるぐらいの稼ぎはあったが、不調に対してアスリートの神経が受けるストレスは尋常じゃない。毎日のように、もう勝てなくなる不安がつきまとう。酒量が増え、嵩んでいく酒代とは反対に稼ぎは徐々に減っていく。焦ったボギーが八百長に手を出すまで大した時間は要らなかった。

(それからのことは、思い出したくもねえな……。ズブズブになり抜け出せなくなった矢先に賭けボクシングが摘発を受け、俺も逃れることは出来なかった。ライセンス剥奪、業界からの追放、アルコールは抜けられねえし、どん底だ……)

 気が付けば、ボギーの足は止まっていた。目の前には、道をふさぐ建物の壁。いつの間にか袋小路に入っていたのだ。

「くそっ、行き止まりかよ……」

 何となしに立ち尽くすボギー。見上げれば、建物に囲まれた細い空を、さらにフェンスが迫って狭くしている。抜け出せない悪循環の中に絡めとられた自分の立場を暗示したようなその光景に、しばし立ち尽くした。

 聞こえるのは、乱れた自分の呼吸のみ。金網越しに流れる雲。太陽が顔を出し、ボギーの目を焼いた。

「……くそっ」

 このままここにいても、何処へも抜け出すことは出来ない。何か這い上がりたいのなら、今はとにかく前進あるのみだった。

 振り向いて、再び走り出そうとしたその時、ふいに頭上を何かの影が横切った。

(……鳥か? いや、それにしては……)

 ボギーが振り向き、太陽のまぶしさに目を細めたとき、その視界の中に黒い人影が飛び込んできた。

「なっ!?」

 逆光で黒くなった影が、まっすぐに自分めがけて落ちてくる。まぶしさに目が眩みながらも、ボギーは身を躱し、その影を避けた。

 どざぁああああっ

 路地の上から飛び込んできた影は、ボギーの立っていた場所を超えて路地に突っ込み、大きく砂煙を起こしながら着地した。

「くーっ、おしい! トラ特性隕石落としキックは失敗かあ」

 狭い路地裏の影の中、やけに明るい声とともにゆらりとトラが立ち上がった。ゴーグルのように大きなサングラスを着けている。立ち上がったトラはパンパンと手を払いながら、呆然と立ち尽くすままのボギーを振り返った。

「やるねぇ、さすがは元ライト級」

「……知ってるのか」

 軽い驚きを顔に浮かべながらも、ボギーは両手を体の前にあげて構えを作った。どこの何者だか分からないが、目の前に立ちはだかる妨害者なら、倒して進まなくてはならない。

「ほほーぅ、モノホンの構えだ。かっくいい♪」

 ニヤニヤ笑いながら、ボギーを真似て構えをとるトラ。「しゅっしゅっ」と煽るように素振りをして、ボギーを挑発する。

 ボギーは無言で前進した。トラはその場から動かない。薄笑いを口元に浮かべたまま、ボギーが間合いを詰めるのを待っている。

「シュッ!」

 ボギーが一気に踏み込み、右手のパンチを繰り出す。

 鋭いストレート。

 しかし、手ごたえは無かった。トラが紙一重で体を反らせて避けた。

 一発では終わらない。詰めた間合いから逃さぬよう、右から、左からと次々に繰り出されるパンチ。それを、トラはどれも紙一重で避けていく。

 トラ柄の髪を揺らして風を切る拳。

「ひゅーっ! 凄いねえ。プロのパンチをここまで間近で見る経験なんて、この裏路地に住んでりゃ無いからさぁ! あ、元プロだったか」

 ボギーの攻撃を避け続ける合間に、口笛を吹いて歓声を上げるトラ。その言葉の一角に、ボギーが反応する。

「”裏路地”に住んでる、だと? ここの住人か……?」

「そ、知らない? ここらじゃそれなりに知れた名前なんだけど」

 元プロボクサーの打撃を軽々と避けながら問いかけるトラ。余裕の顔で体を左右に逸らせて回避を続けるトラを前に、しかしボギーは内心でほくそ笑んでいた。

 トラの背中には建物の壁が迫っていた。路地の袋小路の隅に追い詰められるように、上手く誘導しながら攻撃していたのだ。素人離れした反応には驚いたが、どれだけ俊敏な相手だとしても、自由に動く場所を奪ってしまえばどうということはない。逃げ場をなくし、歯向かってくるしかなくなったところを叩けばいいのだ。

 若い娘を殴るのは少し気が引けたが、先に手を出したのは向こうなのだ。まあ、顔は避けてやるとして、ボディに数発食らわせてやれば静かになるに違いない。所詮、一対一の素手同士ならば自分が敗ける道理はない。悪いが、とっとと終わらせて、ここを去らなければならない。

「おっと?」

 トラの背中が背後の壁に当たった。目の前にはボギーの図体が立ちはだかっている。逃げ場を失ったトラに向けて、ボギーの拳が引き絞られた。

(悪いな、嬢ちゃん。だけど、これも生活のためだ)

 心中にそう呟いて、決勝の一撃を繰り出す。

 目の前のトラに向けたボディへの深い一撃だった。骨は折らずとも、内臓にダメージを与え、しばらくは立ち上がることができないほどの重いボディブローをお見舞いした、はずだった。

「あれっ?」

 空振り。おかしい、外すことのない距離に相手はいたはずなのに、手ごたえが無い……

「いよっと」

 代わりに、空を切った右腕の上に軽く弾むような感触。ボギーのパンチを見切っていたトラが、その腕を足場にジャンプしたのだ。顔の間近を影と風が通り過ぎて、はるか後方に着地する音。

「……なっ!?」

 振り向くと、躍りかかって来たトラが回転蹴りを繰り出すところだった。

「むん……っ!」

 咄嗟にガードする。トラの小柄な見た目からは想像つかない重さの衝撃が腕に響く。

 鍛え抜かれた体幹によってよろめくことはなく、即座に反撃のパンチも放ったものの、意表を突く展開にボギーは動揺していた。

「ありゃ、さすが元プロボクサー。ノーマルの人間にしちゃあやるね」

 飛び退ってボギーのストレートを避けつつ、トラが舌を出す。

「やっぱり本気じゃなきゃダメか」

「思い出したぞ……お前、”裏路地のネコ”だな」

 再びファイティングポーズをとりながら、ボギーは今度は全く油断のない表情でトラを睨んだ・

「噂で聞いた程度だが……企業による人体実験によって生み出された強化人間が棲み付く地域があるという……」

「おっ、知ってる?」

「あのフェンスもそのせいだろう。お前らを檻の中で放し飼いにしてるということか」

 真剣に構えたボギーを前に、相変わらず笑みを浮かべてリラックスした姿勢を崩さないトラ。

「くひひひっ、ま、そんなところ。噂好きのクソゴシップ野郎だったご褒美に、いいもん見せてやるよ」

 そう言うと、トラは足を止め、サングラスを外した。

 ゆっくりと息を吸い……

 ギン、と目を見開く。

「フーーーーッ、フーーーーッ!」

 瞳孔が縦に開かれる。それに伴って頭の上に耳が立ち、腰の後ろに長いしっぽがするりと流れ出てきた。

 ぞっと、ボギーの肌を舐めるような悪寒が走った。野生の獣を前にしたような、直感にビンビンに響く何かを感じる。知らずの間に拳に力が入り、額の横を汗が流れる。

 ネコの目、耳、尻尾を見せたトラは、大きく息を吸い込むと、

「ニャァァアアアア~~~~オオゥ!!」

 と高らかにひと鳴きし、それを合図にボギーも身構える。

(……来る!)

 予感は感じていた。ただ、相手のスピードが今まで経験してきたどの敵よりもはるかに速かった。

「うをっ!」

 サイドから飛んできた蹴りを、かろうじて腕で受ける。その重さ。とてもじゃないが、目の前の少女から繰り出されたとは思えない。思わず一歩、二歩、とたたらを踏む。

 すかさずそこに連撃が来る。

「ホラホラ、どしたどした! 飲んだくれボクサーさんよぉ!」

「……ちっ!」

 舌打ちまじりにパンチを切り返すボギー。しかし、トラは難なく見切ってそれらを軽々と避ける。

 黄金色の瞳が俊敏にボギーの足の動き、肩の動き、呼吸や瞬きをとらえて、その拳が繰り出されるよりも早く体をずらす。

 超人的な動体視力と反射能力のなせる技だった。ボギーの拳は何度もただ空を切る。

(チッ、なんて反応だ……!)

 渾身のストレートを放つ。しかし、目の前にいたトラが視界から消える。ちがう、足元にしゃがんだだけだ。

 しゃがんだ勢いを利用して体を反転させたトラから蹴りが放たれる。

「ぐおっ!?」

 防御も回避も反応が間に合わず、もろに食らったボギーが背後に飛ばされた。

 先ほどトラを追い詰めていた壁に自ら背中をしたたかに打ち、よろめいてしゃがんでしまう。

「あらら~、こんなもんかよ拍子抜けだなぁ」

 立ち上がったトラがニヤニヤ笑いながら、ゆっくり近づいてくる。

「野郎……」

 低く唸ると、腰のポケットからナイフを取り出すボギー。ゆらりと立上り、銀に光る刃をトラに向ける。下から見上げるような眼差しに暗い光が宿る。一切の容赦を捨てた目だった。

「オイオイ、ボクサーがそんな無粋な得物を使うのかよ」

 トラが立ち止まって、オーバーに首を振る。

「うるせぇ。こんなところで捕まるわけにいかねえんだよ」

「それ、カッコ悪いよ? ちょっとでも応援してた身としてはヒジョーに残念なんだけど」

「言ってろよ」

 さっきまでのステップとは違う、滑るような摺り足で素早く間合いを詰め、ボギーがナイフを繰り出す。

「シッ!」

 突き、薙いで、鞭のように振るう。プロボクサーになる前は軍にいたことのあるボギーは、ナイフの技術では隊の中で右に出る者がいない実力さhだった。

「シュッ、シュシュッ!」

 蛇の様に息を吐き襲い掛かる。

 相手が避けるのに合わせて足を捌き、ぴったりとついていく。距離を離さずにしつこく連撃を続ける。

「もう、しつっこい、なあ……ああっ!?」

 執拗な切っ先を避けながら間合いを取ろうと下がっていたトラが、路面の凹凸に足を取られて体勢を崩した。

「なっ、やばっ!?」

「貰った――!!」

 その隙を逃さないよう、渾身の突きを繰り出そうとしたボギーの手から、握っていたはずのナイフが消えた。

 いつの間にかボギーのすぐ横に現れたクロが、奪ったナイフを手の中でくるくると回していた。

「なっ……? おあっ!」

 何が起こったのか把握するよりも前に、ボギーの顎に掌底が入る。

 よろめく足を払い、更に相手の姿勢を崩す。

 ナイフを失って空を掴む右手の手首を取って、関節を外さない限度まで背後に捻り上げながら抑え込んで、相手をその場に跪かせる。

「動かないこと。勝手に動いたら切るし関節外すからぁ~」

 間延びした声でそう告げ、ボギーの首筋にナイフを静かに沿わせる。

「ぐっ……!」

 関節を極められている痛みに脂汗を垂らしながら、ボギーは身動きを取ることが出来なかった。悔し気に項垂れて、背後で制圧するクロに従うしかない。

「いやあ、ナイスタイミングぅ。ちょっとだけヒヤッとしたぜー」

 パンパンと尻を払いながら、トラがクロの隣に並ぶ。

 その横顔を、クロがジロッと睨む。

「余裕ぶって遊んでるからでしょぉ~? さっさと片づけるって言ってたのはどこの誰ですかぁ~?」

「だってさあ、久しぶりに骨のある相手だったから、つい楽しんじゃって。それに、あの程度のスピードだったら、クロが止めに入らなくても、なんとかなったって、さすがに」

「それはそうだけどぉ~……」

とクロが眉を顰めて小言を垂れようとした時、「グゥ~~」とトラの腹が盛大に鳴った。

「ホラ、丁度いい腹ごしらえになったしさ」

「んもぅ、しょうがないなぁ……」

 呆れたように、笑ってしまうクロ。その手元では、トラと会話しながらもボギーの両腕ををナイロンベルトで縛り上げ、首に腕を回して締め上げ、気絶させていた。

「さあ、てぇ」

 手を払いながら、クロが立ち上がる。

「それで、お昼は何食べるか決めたぁ?」

「う~~ん」

 顎に指を立てて、難しそうな顔をするトラ。

 しばらく考えたのち、何かを思いついたようにその指を足元で気絶するボギーに向けて、

「とりあえず、アンソニー警部補どのにおごらせることに決定ってことで」

とにんまり笑って白い歯を見せた。


〈続く〉

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