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プロローグ

 アンソニー・シファキス警部補は自分のことを、手錠や警棒よりもペンや論文の方が似合う男だと常々考えていた。

 警官になんてなるつもりはさらさら無かったし、将来の夢は学者か図書館の司書、それがダメなら大好きな映画に関わる仕事に就きたいという少年だったのだ。(映写技師なんか、とても格好いいじゃないか。)

 それが、いったいどうしたことだろう。いつのまにか、紺色の制帽を被り、胸のポケットに警察手帳を入れてこうして街角に立っている。勤続十八年のアンソニー警部補は、ぶっきらぼうながらも実直で経験豊富な警官として、市民からも同僚からもそれなりに信用される存在になっていた。

 まったく、いったいどういう運命の冗談だろう? アンソニーはため息を吐いて、いっそう腹立たしげにボンネットを指で叩き続けながら通りを眺める。なんだって、自分はこんな街で警官をやっているのだろう?

 アンソニーの勤務するこのミンダ地区は、製薬メーカーのセント・エルモ社によって運営・・されている地域だ。

 ミンダ地区の旧市街、その目抜き通りと交差するこの街道は、平日の昼間から人で賑わっている。色とりどりの服を着たたくさんの市民たち。その頭上には、街頭にぶら下げられたセント・エルモの社章が揺れている。

 国家や政府といった行政機関が世界から消えたのは随分と昔のことだ。代わりに企業が市民と領土を統治し、会社を経営するように社会を運営している。形ばかりの市長は一応存在しているが、基本的には企業の取締役会が最も強い権限を握っているのが常だった。

 警察もそう。形の上では市長の下にある組織となっているが、企業の経営陣が決めたことには基本的に逆らえない。あくまで『治安の悪化がもたらす経済への悪影響』を未然に防ぐための治安維持、というわけだ。

 それでも、実際にアンソニーたち現場の警官がやることといえば、旧来とそう変わらない。街の安全に目を配り、犯罪者を捕まえて市民を守る。ただし、その原理にあるのは、企業の収益。そういう世界だ。

 夢や理想に輝いていた少年時代。あの頃に比べ随分と贅肉を貯え込んで重くなった尻を自分の車のボンネットに乗せ、青空を雲が流れるのを見上げながら、ひとり呟く。

「実際、いったいどうして、どういう巡り合わせだっていうんだろうな」

「何がです?」

 気が付くと、聞き込みに行っていた若い警官が傍に立っていた。肩には巡査長の階級章。開いた手帳を片手に、怪訝そうな顔でアンソニーを見返している。

「戻ったのか」

「ええ、これといった収穫はなし。肉屋のばあさんも露天商の男も、何も見ていないらしいです」

「そうか……まあ、こういうのは空振りの方が多いもんだ」

「ええ、ただその代わり、一昨日の夕方に不審な男を見たという……」

 報告しながら巡査長が手帳に目を落としたとき、前方で悲鳴があがった。

「ひったくりだ! その泥棒を捕まえろ!」

 男の怒鳴り声が辺りに響く。

 通りの向こうで、脇道から飛び出してきた男によって人波が乱れるのが見えた。

「なんだって! くそ、おい! とまれ!」

 若い巡査長が怒鳴りながら駆け寄るのを尻目に、アンソニーは素早くボンネットから尻を下ろし、車の運転席に乗り込んでエンジンをかけた。

「あっ、ちょっと警部補、自分も……!」

 言いかけた部下に、

「私が追う。お前は残って現場の証言をまとめていろ!」

と命じると、返事も聞かずにアクセルを踏み込んだ。

 クラクションを鳴らし、ちょっとした人だかりになっている集団をどけて、その脇を通過する。

 集団の中心にはスーツ姿の若い男がうなだれていて、すぐにひったくりの被害者だと分かった。その若者の着る上等な仕立てのスーツと、なんともうだつの上がらなさそうな顔を見て、(ふん、調子に乗った若造め……)と胸中で悪態を吐きつつ、アンソニーはひったくり犯を追うべく前方へ急ぐ。

 犯人は、なかなかにすばしっこい男だった。昼間の、比較的通行人の多い通りのために、こちらがスピードを出せないというのもあったが、右に左にちょこまか曲がりつつ、上手く距離を詰められないように逃げている。引き締まった体は、かなり鍛えられていることが遠目にも分かる。おそらく、何かのスポーツを相当やっているのだろう。

 パトカーではなく自分の自家用車で来ていたため、サイレンもパトランプも付いていないのが恨めしい。アンソニーは横断歩道を渡ろうとする婆さんを轢きそうになったりしながら、なんとか振り切られないよう追跡を続ける。通行人にぶつからないようブレーキを踏む度に舌打ちと悪態を激しくしながら。

 男は市街から離れる方向へと逃げていた。中心街から遠くなれば人通りは落ち着いてくるが、代わりに道は細くなり分岐路も細かく増えてくる。しかも、男が向かっている方面にはあれ(・・)があった。

 アンソニーは男の行く手に、周囲の建物よりも遥か高く張られたフェンスがそびえ立つのを見て、最大級の舌打ちを鳴らした。

「くそっ、“あそこ”に逃げ込まれたら面倒だ……!」

 地上二十メートル以上あるフェンスは、セント・エルモ統治市の郊外にある区画をぐるりとまるごと囲んでいる。

 その内側は特別区に指定され、出入りが厳しく制限されている。ゲートは、一部の限定された車両を除いてくぐることを原則禁止されており、警察といえども、いくつかのお偉いさんの承認が無ければ通過は出来ないのだ。万に一つでも、犯人にあの中へなど入られたら……

「…………くそったれ!」

 アンソニーは思わずハンドルを拳で叩いた。ひったくりの男が、信号から発進する寸前のトラックの荷台に飛びついたのだ。トラックの側面には、セント・エルモの社章がプリントされている。あれは、ゲートを抜けてフェンスの内側、“裏路地”へ輸送するトラックだ。男はトラックの背面に張り付いており、運転手が気付いている気配はない。

 フェンスのゲートまではそう距離がない。それまでに、何とかしてトラックを停めさせなければ。

 アンソニーは焦るが、なかなか距離を詰めることが出来ない。それでも、トラックとの間にあった数台の自動車を無理矢理抜かし(すれすれでぶつかりそうになった対向車にクラクションを何度か鳴らされた)、なんとか追い付くためにアクセルを踏もうとしたところで、左手の脇道から急に飛び出してきたセダンを避けるために急ハンドルを切り、あわや衝突しかけながら急停車させられてしまった。

 顔を青くしながら飛び出してきた運転手の中年男を横目に見ながら、アンソニーは自分の僅か数十メートル先でトラックがゲートをくぐるのを見送ることしかできなかった。

 トラックの背面では、ひったくりの男が勝ち誇った顔で中指を立てている。

「くそっ」

 悔し紛れにもう一度ハンドルを叩きながら、アンソニーは無線を掴み取る。

「こちらアンソニー警部補。駅前で発生したひったくり犯が裏路地に逃げ込んだ。至急、“ネコ”に協力要請。繰り返す、至急、トラとクロの野良猫娘どもを叩き起こせ!」


〈続く〉

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