クラゲの鈴
三題噺
テーマ:「音」「クジラ」「水筒」
解散前の注意事項を聞き流しながら、僕は目の端にとらえたジンベエザメの壁画を眺めていた。頭上の透明な屋根に落ちる雨の音が僕をより一層憂鬱な気分にしていた。
楽しみにしていた遠足は、空気を読まない大雨によってとてもつまらないものになっていた。もともと予定していた海水浴は中止され、僕らは急遽、水族館へと来ていた。周りの皆も最初は海に行けなくて落ち込んでいたが、今は水族館への期待からか、楽し気にはしゃいでいる。そんな中僕は、目の前の少しさびれた水族館には家族で何度か来たことがあり、機嫌を取り戻すほどのワクワクは、これっぽっちも持てなかった。
「集合時間が近くなったら、各自で出口まで来ること。くれぐれも遅刻はしないように。それじゃあ、解散!」
学年主任の信田先生がそう言った途端、周りのみんなが水族館へと入っていく。僕は水族館に入ると、深海魚コーナーへ行くという友達と別れて、一人で館内を歩き始めた。何度も来ているからどこにどんな生き物がいるかわかっているためか、特にどこかで立ち止まることはなかった。そのまま展示を横目にゆったりと進んでいると、不意に周りが明るくなった。僕はイルカショーを行う水槽までたどり着いてしまっていた。展示スペースの薄明りとは違い、天井に取り付けられた照明が水槽を照らしていたものの、出口の近くにあり、イルカショーもまだ行われていないその場には、誰もいなかった。特に何もやりたいことがなかった僕は、照明が当たっていない、薄暗い場所にあった長椅子に寝転がると、揺れ一つ起きない水面をぼうっと眺め始めた。
しばらくそうしていると、誰かがこちらへと歩いてくる靴音がコツコツと響いてきた。僕と同じように展示に興味がない誰かが来たのかと思い、音のなる方へと視線を向けた。
蛍光灯の薄明りが照らす通路から歩み出てきた人物を見て合点がいった。いつも履いている薄茶色のスニーカーを鳴らして歩いてきていたのは、僕の隣の席の箱崎海月であった。
箱崎海月はいつも制服の上に黒いカーディガンを着ており、前髪は目を覆うほど長く、不気味な雰囲気を持つ少女だった。学校では誰とも話そうとしない変人として有名で、実際僕も話したことは一度もなかった。そんな彼女だから、水族館を一緒に回る友達などおらず、歩き続けた結果ここまで来てしまったのだろうと僕は思った。彼女は一瞬あたりを見回したが、照明の影の中で寝転がる僕に気づかなかったのか、僕の方は一瞥もせずにイルカの水槽へと近づいていった。イルカも何もいない水槽を見て何が楽しいのだろうと不思議に思った矢先、彼女はカバンを床に置くと、何かを取り出した。
それは水筒と小さな鈴だった。彼女は水筒の蓋を開けると、グイっとその中身を飲み干した。そして、どこにでも売っていそうなその鈴を、彼女は静かに鳴らし始めた。リンリン、一拍おいてまたリンリン。そうやって彼女はある一定のリズムで鈴を鳴らし始めたのだった。僕が、やはり彼女はどこかおかしいのだろうかと思い、彼女に気づかれないように退散しようとしたとき、水槽の方から水音がした。びっくりして音の方を見ると、イルカが水面から飛び出していた。
思考が一瞬停止した。さっきまでいなかったはずのイルカが水槽を泳ぎ、水面からまた跳ねるのが見えた。リンリンという鈴の音に視線を少しずらすと、黄色い熱帯魚の群れが、ぼやっとした塊を形成しながら泳いでいる。水槽の中心ではペンギンが縦横無尽に水の中を飛び回り、イワシがそれを避けるように分裂し、また巨大な丸を形作っていた。飼育員の大人たちがいつも立っているステージを見れば、カワウソとアシカが呑気に日向ぼっこをしている。
彼女が鈴を鳴らせば鳴らすほど生き物たちは増え、元気を増していくのが分かった。彼女が鈴を鳴らすと、イルカは水面から飛び上がり、アシカたちは拍手のまねごとをし、色とりどりの魚たちは隊列を組んでぐるぐると水槽の外側を回る。まるで彼女を中心としたオーケストラを作り出しているかのように、彼女と動物たちは動いていた。僕はその光景に圧倒され、言葉も発せずにただ立ち尽くしていた。
彼女は鈴を振る腕を段々と高くしていき、それに合わせて彼女の奏でる鈴の音が段々と大きくなっていった。音が大きくなるほど、魚たちは激しく動き回り、イルカたちは高く飛び上がりはじめた。彼女は腕をどんどん高く振り上げていく。そして、頂点まで達した瞬間、腕を思い切り振り下ろした。
ひときわ大きな鈴の音が鳴った瞬間、水槽の水面が大きく盛り上がり、大きな鯨が空中へと飛び上がった。大きな水しぶきとともに打ち上げられた動物たちは、キラキラと水に溶けていくように消えていった。
その一瞬の光景を、僕は生涯忘れることはないだろう。
キラキラとした光をまとい、大きな水しぶきを起こしながら、天高く飛び上がる鯨。天井はいつの間にか消えていて、薄暗いはずの空は青く、とても幻想的な光景がそこにはあった。何よりも、腕を売り下ろした反動で髪が跳ねた彼女の、キラキラとした瞳と、満面の笑みが、僕の心をグッと捉えたのだった。
ざばん、という音とともに僕はハッと意識を取り戻した。気が付くと動物たちは消え、箱崎海月が鈴を懐にしまうところであった。さっきまで目の前にあった光景の余韻に浸っていた僕は、ため息とともに口を開いた。
「……綺麗だった」
その声は僕たち二人だけしかいない空間に思いのほか大きな音で響いた。カバンに目を落としていた彼女はぱっとこちらへ顔を上げると、体を硬直させた。しばしの間見つめあった後、あたふたと荷物をまとめ始めた。僕は客席を降りていき、カバンを急いで持ち上げようとする彼女の前に立った。
「……どこまで見た?」
逃げることをあきらめ、どこか観念したように彼女はそう言った。
「最初から最後まで」
「そう」
「うん」
気まずい沈黙が訪れた。彼女は見られていたことに動揺していたし、僕は何から話すべきか全く整理がついていなかった。それでも、さっきの光景が忘れられない僕は、彼女に問いかけた。
「すごかったね。すごい綺麗だった」
彼女は少しはにかむように口元を動かすと、少しうつむいた。
「あれってどうやったの?」
「……ごめん、教えられないの」
次の問いに彼女はぼそりと答えると、僕の顔を見上げた。
「本当は誰にも知られたらダメなの。もしこのことがバレたら私…」
そう言う彼女の前髪に覆われた目が、不安そうに動いたように感じた。視界の端っこで、カバンに入れ損ねた水筒を持つ手をぎゅっと握るのが見えた。
「誰にも言わないよ。約束する」
気づけば僕は、そう言っていた。
「本当?」
「もちろんさ。誰かに言ったところで信じてもらえないだろうし」
そう僕が言うと、彼女の肩が安堵からか少しだけ沈み込んだ。彼女の力について聞こうと僕が口を開いた矢先、展示スペースの方から話し声が近づいてくるのが聞こえた。彼女はハッとすると、水筒をカバンに入れ、僕の顔を髪に隠れたその目で真正面から見直した。
「また今度ね」
そういうと、彼女は僕の返事も待たず、声がするのとは反対方向へと駆けて行った。僕はまだ話したいと彼女を引き留めようとしたものの、なんと声をかけていいか迷っている間に、彼女は出口の方へと姿を消してしまっていた。
「また、今度」
彼女の言い残した言葉を繰り返す。水槽に反射した僕の目は、彼女と同じきらめきを放っていた。僕の名前を呼ぶ声に振り向くと、友人たちの元へとゆっくりと歩き始めた。何かが動き出した、そんな予感とともに。
ファンタジー物の第1話を想像しながら書いた作品です。




