思い出の少女
黒き森。広大に広がる豊かな森は、残念ながらその豊かさを人間には分け与えてくれない。多くの凶暴な魔物たちが弱き人間の侵入を拒んでいた。
ただ何事にも例外はつきもので、森の外れの小さな小屋に人間の親子が一組だけ住んでいた。父親は木こり、子供は猟師として細々と生活していた。
「これは売れないなぁ……」
十才のアデルは仕留めた一角蛙をぶら下げて唸っていた。
一角蛙は猫ほどの大きさもある蛙で、その名の通り大きな角が生えている。ジャンプ力を生かした角での突撃は皮の鎧程度なら貫いてしまう威力だ。ただ大きさの割に足くらいしか食べられる部分がなく、猟師の獲物としてはいまいちだった。
「お菓子は無理かなぁ」
高く売れる獲物をしとめると、父親が街でお菓子を買ってきてくれるのだ。まったく娯楽のない森の生活では数少ない楽しみなのである。
(もう少し奥まで行ってみるか……)
森の奥へ行くことは父親に禁じられている。危険な魔物や恐ろしいダークエルフがいるからと。しかしお菓子が食べたい。あのバターの風味と蜂蜜の甘さが口に広がるクッキーが食べたい。そうアデルが悩んでいた時……
「キャーッ!」
(悲鳴……なわけないよな、森の奥の方だし。動物の鳴き声か?)
アデルは弓を握りしめ、聞こえた方向へは走り出す。
すぐに嫌な羽音が耳に入った。
(キラービーか……ハズレだな)
森の木を縫って、赤と黄色の派手な彩色のハチが数匹飛んでいた。その大きさは拳ほどもある。大きく、せわしなく動く羽が辺りに耳障りな音をまき散らしていた。
(凶暴で数も多い……しかも毒があって売れない……関わらないのが一番……ん?)
キラービーの中にきらきらと輝く何かが見えた。突如、強風が吹いた。キラービーが2匹ほど樹に叩きつけられて地面に落ちる。
(人……女の子?)
キラービーの群れの中にいたのは銀髪の少女だった。その肌は褐色……ダークエルフだ。年のころはアデルと同じくらいだろうか。襲い来るキラービーを必死にかわしていた。だが相手は数が多く、しかも素早いキラービー。なおかつ足元は茂みや木の根で思ったように動きにくい。このままではすぐにキラービーの餌になってしまうだろう。キラービーは仕留めた獲物を強靭なあごで分解し、運びやすいように肉団子にして巣に持ち帰る。
あの子がそんな目に遭うのは見ていられなかった。アデルは背負った矢筒から矢を抜き、キラービーに矢を射かけた、さらにもう一射。手前にいた2匹のキラービーが数瞬のうちにバラバラになった。
「こっちだ!」
アデルが呼びかけると、女の子は驚いた表情を浮かべたが、すぐに走り寄ってきた。後ろをキラービーが追いかけてくる。
(しめた……)
少女を追いかけ直線状に並んだキラービーにアデルはさらに矢を放つ。一本の矢が2匹のキラービーを同時に貫いた。
後続のキラービーとの間に少し余裕ができたのを確認し、アデルは少女の手を取って走り出した。
(もう大丈夫かな)
少女としばらく走ったところでアデルは後ろを確認する。もうキラービーは追ってこないようだ。彼らには縄張りがあり、あまりその外まで出てくることはない。どうやら安全なようだ。
少女も安全を確認したのか隣でへたり込んだ。
「大丈夫? 怪我は……」
心配し、少女の様子をうかがおうとしゃがみ込むと目が合った。潤んだ美しい瞳が上目遣いにアデルを見つめていた。その瞬間、ガツンという衝撃がアデルを襲った。追ってきたキラービーが背後から心臓を刺して毒でも流し込んだのかと思ったほどだ。だが痛くない……いや、痛い。心臓が痛い。体が熱い。その時はわからなかったが、アデルが人生で初めて一目惚れした瞬間であった。
「あ、あの、あの……」
森で父と二人暮らし。その上、めったに街に連れて行ってもらえないアデルはそもそも女性に対して免疫がない。そのうえダークエルフで美少女で潤んだ目で見つめら、どうしていいかわからず困惑した。次の瞬間、少女の目の潤みが増し、涙が溢れ出た。
「え……」
「うぇ~~ん、怖かったよぉ~~っ!」
少女はそう泣き叫びながらアデルの胸にしがみついた。
「あっ、えっ、えっ、えっ、あっ……!」
アデルの口から嗚咽とも喘ぎ声ともつかない謎の音が絞り出された。味わったこともない困惑と興奮がアデルを襲う。炎が吹き出そうなくらい顔が熱い。そしてその状態はしばらく続くのであった。
(ん……?)
一時間後、アデルは目を覚ました。
(あれ? 女の子は!?)
体を起こし、辺りを見回す。少女の姿はどこにもなかった。
(夢……?)
ふと、起こしたからだから何かが落ちた。百合のようなきれいな花だ。体の上に置かれていたらしい。
森の外れではまったく見かけたことがない花だった。
(もしかしてあの子が……?)
矢筒を確認したが、間違いなく矢が減っている。先ほどまでの出来事は夢ではなかった。
(もしかして……興奮しすぎて気絶してしまったとか……?)
だとするとものすごく恥ずかしい。アデルはこの出来事を父親にも秘密にすることを心に決め、そそくさと帰路についた。
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