水面下(イルスデン ノルデンハーツ メイユ)
「ヒルデガルドは現地に到着しましたか?」
帝都イルスデン。皇帝の執務室で物腰柔らかな青年が尋ねる。新皇帝ジークムントだ。彼の前には妹であり大きな権力を持つ帝国第二宰相でもあるユリアンネが立っていた。
「はい。しかしエスカライザの軍勢が想定よりも多いようです」
ユリアンネは眉をひそめつつ報告する。
「不思議ですね。王弟派は落ち目です。こちら側につく貴族も増えていたというのに」
ジークムントは思案顔になる。
「我が軍がラーベル教との結びつきを深めたことに不満な兵が一部いたようです。またラーゲンハルトに続き、アーロフまでもが敵に寝返ったことで、王弟派の正統さを重視する者もいたのでしょう。そういった兵たちが個々にノルデンハーツに集まっていたのではないでしょうか」
「困りますね。個人の感情で国や神のために使えることを拒むなど……」
ジークムントはため息をつく。しかしその表情はあまり深刻そうには見えなかった。
「仕方ありません。ヒルデガルドの奮闘に期待しましょう」
「追加の援軍はお出しにならないのですか?」
ジークムントの言葉にユリアンネが意外そうな表情になる。
「必要ないでしょう。我が軍には神のご加護がありますから」
ジークムントが微笑みながら言った。
「承知しました。確かにもしヒルデガルドが破れようとも、王弟派に国を揺るがすような力は残っていません。それよりもダルフェニア軍との戦いに注力するべきでしょう」
「そうですね……」
「ダルフェニア軍」という言葉を聞き、露骨にジークムントの顔が歪む。
「そういえば、そろそろダルフェニアでは珍妙なイベントが開催されるのでしたね」
「イベント?」
ユリアンネの呟きをジークムントが聞き返す。
「はい。竜戯王というゲームの腕を競う大会です。優秀な者は軍で召し抱えるとか」
「余程人材に困っているのでしょうか」
ジークムントが首をひねる。
カザラス帝国でも武勇に優れた平民を召し抱えることはあるが、知略に優れた平民を召し抱えることはない。軍を統率する立場に就くのは貴族だけであり、平民がその地位につく事などありえないからだ。ダルフェニア軍から寝返ったリオが唯一の例外であった。
「国境を閉鎖して我が国から向かう者を規制しますか?」
「いえ、かまいません。それよりもいつダルフェニア軍との戦いを再開しても良いように、できるだけ工作部隊を送り込んでおいてください」
「承知しました」
ユリアンネは頭を下げると執務室を後にした。
北都ノルデンハーツ。カザラス帝国領の北部の大都市である。すでに季節は春と呼べるものになっているが、ノルデンハーツ城の屋根にはところどころ残雪が居座っていた。
「口惜しいが……妾の力では勝てぬ」
”姫将軍”エスカライザ・ローゼンシュティールは城のバルコニーから、周囲に布陣した第二征伐軍を眺めていた。
「簒奪者の子供たちめ……この妾を玩びおって……」
エスカライザが怒りに顔を歪める。
「やれやれ。せっかく今の地位までの上り詰めたと言うのに……まさか反逆者の一員にされてしまうとは。見通しが甘かったのですかね」
その背後で黒髪の端正な顔立ちの青年がため息をついた。エスカライザの副官を務めるライナードだ。
「我らが存亡をかけた一戦ぞ。おぬしも気合を入れい」
「まあ引き受けた以上は最後までやり通しますよ。不利になったら逃げるなんてダサい真似をしたくないですからね」
睨みつけるエスカライザを気にする様子もなく、ライナードは飄々と話す。
「このまま睨み合うだけでいいなら楽なんですが……そういう訳にもいきませんか」
ライナードもエスカライザの横に並び、第二征伐軍の布陣を眺めた。
第二征伐軍はノルデンハーツの東西南北に四隊に分かれて布陣している。南側はリオの率いる「復国兵団」三千、東側には途中の町で補充した三千名の兵を率いたエマが配置されている。ヒルデガルドの付き人にすぎないエマが将となることに難色を示す声もあったが、自身との意思疎通を重視しヒルデガルドが強く推し進めた。西側にはカイが率いる第二征伐軍三千、北側はヒルデガルド自身が残りの兵と私兵からなる四千の部隊が配置されていた。
ノルデンハーツの周囲は針葉樹の林が点在する程度で、ほぼ見通しの良い平原となっている。伏兵などが隠れている可能性は低かった。
「我々を逃がさない、といったところですか」
「どのみち逃れる場所などない。少しでも長く戦いを引き延ばすのだ。事態が好転するまでな」
ライナードの呟きにエスカライザが忌々し気に反応する。
「随分と他力本願なことですね」
「仕方なかろう! 簒奪者どもがここまで卑劣な者どもとは思わなかった」
エスカライザは悔しそうに語気を荒げた。
「兵量は問題ないのですよね?」
「ああ、充分に蓄えてある。現状で数か月……犠牲者が出ればもっと持つだろうな」
ライナードの問いかけにエスカライザが頷く。
「わかりました。まだまだ女性と戯れたいので命までかけるつもりはありませんが……せいぜい私の有能さをアピールさせていただきましょう」
「なんならおぬしがヒルデガルドを捕らえて手籠めにしたらどうだ?」
「それは考え付かなかった」
ライナードは苦笑を浮かべた。
「ですが……口説き落とす工程も楽しみの一つなのでね。まあ捕らえる機会があれば、たっぷりと時間をかけて口説かせていただきましょう」
「ふっ、好きにしろ。おぬしの手綱を引くことなど、とうに諦めておるわ」
出陣の準備に向かうライナードの背中に、エスカライザが呆れた様子で声をかけた。
「止まれ!」
カザラス兵のドスの聞いた声が響く。カザラス帝国と神竜王国ダルフェニアの国境の村メイユには検問が敷かれていた。神竜王国ダルフェニア側からカザラス帝国へと入る旅人には厳しい取り調べが行われる。
「はい、ご苦労様です」
一人の旅人がカザラス兵の指示に従い足を止める。すでに中年を過ぎた年のころだが、背筋は伸びしゃべり口調もはきはきしている。
「ダルフェニアに何の用だ」
カザラス兵がその旅人に尋ねる。旅人はカザラス帝国側から神竜王国ダルフェニアへと向かっていた。
「竜戯王の大会に出場するために参りました」
「あれか。何人かそういう奴が来たが……敵国の祭りに参加するなど怪しいな」
カザラス兵がギロリと旅人を睨む。本来であれば出国する旅人は厳しく取り調べる必要はないのだが、出国税のほかに小遣いを稼ぐために必要以上に圧をかけるのが国境警備にあたる兵たちの常識だった。
「いけませんか? 禁止されてなどいないはずですが」
「なんだその態度は。間諜として捕らえてもいいんだぞ」
カザラス兵が旅人に顔を近づけ、睨みを利かせる。しかし旅人は全く怯んだ様子はなかった。
「あなたこそその態度は何ですか。所属と名前を聞かせてください」
「あぁ? 何を言って……」
「私はこういうものです」
旅人はカザラス兵に身分証明を見せる。
「なっ……!?」
それを見たカザラス兵の顔が一気に青ざめた。
「一般人に対するあなたの威圧的な態度は度が過ぎています。上官に注意させていただきましょう」
「ど、どうかお許しください!」
先ほどまでとは態度を急変させ、カザラス兵が地面にひれ伏す。
「……まあいいでしょう。私も旅の途中です。ではあなたも私のことは上官に伏せておいてください。お互いに余計な手間とならぬようにね。それと、帰りの際はこんなトラブルに巻き込まれぬよう配慮をお願いします」
「しょ、承知しました!」
頭を下げるカザラス兵を残し、その旅人はガルツ峡谷へと歩を進めていくのだった。
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