バーデンの怪異 2(バーデン)
バーデンの軍港は巨大な赤い魔物に襲われていた。
必死に応戦するカザラス兵たちであったが、魔物がダメージを受けている様子は見られなかった。魔物は次々と軍艦を襲う。巨大な太い脚で船を半分に割ると、持ち上げたそれを口に向けて傾ける。中に乗っていたカザラス兵が悲鳴を上げながら魔物の口の中へと滑り落ちて行った。もはや港に停泊していた船のほとんどは破壊されていた。
まだ接舷していなかった輸送船が海のほうへと逃げていく。しかししばらくするとその船足が止まり、海の中へと引きずり込まれていった。別の海の魔物に襲われたのだろう。
赤い魔物はまだ満足していないのか、バーデンの町に向かって動き出す。巨大な太い脚が陸上に現れ、ようやく魔物が全貌を現した。
その姿は簡略化されたタコのようなものであった。体の下部には太い四本の足が生えており、それをうねうねと動かして移動している。足を延ばした全長は50メートルを優に超えるだろう。ただし吸盤のようなものは無く、体と同様にほとんど凹凸もない。
魔物は移動するついでとばかりに防御塔を足の一振りで粉砕する。そして防御塔から落ちるカザラス兵を足で掴むと、口へと放り込んだ。
「こ、こんなの勝てるわけねぇ!」
「逃げろ!」
それを見たカザラス兵たちの心がついに折れた。勇敢に戦っていたカザラス兵たちが持ち場を投げ出し、城のほうへと逃げ出す。
魔物もそれを追った。民家を破壊しながら進み、逃げ遅れた兵や住人を掴んで口に放り込む。魔物の体は傾いた陽に照らされ、一層赤みを増したようにも見えた。
「くそっ、あんなものどうすれば……!」
バーデン城に到着したアーロフは屋上からその様子を見ていた。
「あの凄まじい力……まさかあれも魔竜……」
「違う! あんな気色の悪い物は神竜様ではない!」
トビアスの言葉を遮り、アーロフが声を荒げる。ワルターは途中で教会へ行くと言い残し別行動をとっていた。
「承知しました。しかしあの様子ではすぐここにやってくるでしょう。この城でも耐えられるかどうかわかりません。ここは脱出のご準備を」
「脱出だと? どこへ逃げるというのだ!」
アーロフは魔物を睨みつける。
「こんな時、神竜様がいてくれれば……」
町を破壊する魔物に為す術のない自分に苛立ち、アーロフは唇を噛んだ。
「デスドラゴン様、レイコ様、どうかお力をお貸しください……!」
アーロフは胸に手を当てて呟く。服の下には神竜が描かれたTシャツを着ていたのだ。
その時、バーデンの町が眩い光に包まれた。
「……は?」
アーロフは目を細めながら空を見上げる。
赤く色付き始めた空に光り輝く球体が浮かんでいた。位置からして沈みつつある太陽であるはずがない。その光が収まっていくとともに、その中に巨大な物体が浮かび上がっていく。
金色の鱗に覆われた細長い体、煌めくガラスのような大きな翼……アーロフの目の前に現れたのは金竜王の姿であった。
「ダ、ダルフェニアの魔竜だ!」
「もうだめだ……」
それを見たカザラス兵たちから悲鳴と諦めの声が上がる。しかしアーロフだけは目を輝かせていた。
「み、見ろ! レイコ様が助けに来てくださった! これが神竜教のご加護だ!」
レイコを指さし、子供のようにはしゃぎながらアーロフがトビアスや私兵たちに叫ぶ。だが彼らはまだ茫然とレイコを見上げていた。
『光輝綱!』
レイコが咆哮を上げながら大きく息を吸い込むような仕草を見せる。次の瞬間、眩い光の筋がその口から放たれた。光は赤い魔物に命中すると、体を包む粘液を蒸発させ表皮を黒く焦がす。
しかし……それは巨大な魔物のごく一部分だけだった。
「ヴァァァ~~~ッ!」
赤い魔物は怒りに身をよじる。レイコの攻撃でもさほどダメージは負っていない様だ。
赤い魔物は足で地面を思いっきり叩く。その体が空中に跳ね上がり、レイコの目の前へと移動した。魔物の太い脚が伸び、レイコの尻尾に絡みつく。そして魔物はレイコの体を思いっきり町を囲む防壁へと投げ飛ばした。
『きゃぁっ!』
レイコの体が石造りの防壁に衝突する。防壁はあっさりと破壊され、その大きな破片とともにレイコは地面に転がった。
「な、なんだ? 魔竜と魔物が戦ってるぞ!」
「いったいどういうことだ?」
その様子を見ていたカザラス兵たちから戸惑いの声が上がる。
「とにかく今のうちに逃げるぞ!」
「お、おう!」
魔物に追いつかれそうになっていたカザラス兵たちはその戦いの間に走り出した。
一方、レイコを投げ飛ばした魔物は地面へと落下する。見るからに軟体の魔物はその巨体にもかかわらず、ブニョンと柔らかく地面に着地した。もはやカザラス兵たちを気にする様子はない。突如現れた強敵に意識が向いているようだった。
「あいつ……傷が……っ!?」
屋上から身を乗り出しながら魔物を凝視していたアーロフが驚きの声を漏らす。さきほどレイコに攻撃されて焦げていた部分がすでに修復され、どこを攻撃されたのかわからない状態に戻っていた。どうやらかなりの再生能力を持っているようだ。
その時、魔物の背後に巨大な影が現れる。眩しく派手なレイコの登場とは違い、黒い影はいつの間にかそこに存在していたかのように錯覚させた。
「ヴァッ?」
気配を感じ取ったのか、魔物が方向を変える。
『ちょっと、マジメにやってよレイコ。マジだるいんデスけど』
その影の中から黒い巨体がぬっと現れる。東洋の龍に近い姿のレイコと違い、いかにもドラゴンといった感じのたくましいフォルム。黒い鱗に覆われた巨体。背中にはコウモリのような羽が生えており、凶悪な顔に付いた赤い目が魔物を睨んでいた。
「デ、デスドラゴン様! 見ろ、あれがデスドラゴン様だ!」
アーロフがはしゃぎながらデスドラゴンを指さした。だがトビアスや私兵たちは先ほどからずっと口を開けたまま茫然と事態を眺めている。巨大な魔物だけでも常人の理解を超えるのに、そこにさらに巨大な神竜が二体も加わったのだ。近くにいるカザラス兵たちは必死に逃げているが、距離が離れている場所にいる兵士たちは攻撃の手を止め、同じように口を開けて茫然としていた。
『武飛尾!』
デスドラゴンが身をよじる。するとその太い尾が民家を破壊しながら魔物へと迫った。家の破片とともにデスドラゴンの尾が魔物の側面に叩き込まれる。その衝撃で魔物の体が波打った。
だが……
「ヴァァァ~~~ッ!」
魔物が雄たけびを上げる。よろめきはしたものの、デスドラゴンの打撃は柔らかい魔物の体に吸収され、大きなダメージとはなっていなかった。
『やば……っ!』
デスドラゴンは慌てて魔物と正対するが、その体勢が整う前に魔物はデスドラゴンとの間合いを詰めていた。
「ヴァァァ~イッ!」
魔物の太い脚がアッパーのようにデスドラゴンの顎を捉える。デスドラゴンの巨体が吹っ飛び、海の中へと落下した。大きな水しぶきが上がり、周囲に海水がまき散らされる。
『サイアクなんデスけど! 激おこプンプンティヌス三世!』
頭を振りながらデスドラゴンが立ち上がった。頭を振ったのは海水を振り飛ばすためで、ダメージ自体は大したものではない。
「レイコ様とデスドラゴン様が苦戦しているだと!? あの化け物はいったい何なのだ!」
アーロフは怒りの形相で手すりを叩く。その後ろではトビアスがまだ衝撃から立ち直れないでいた。
(ドラゴンと聞いても我が軍なら倒せると思っていた……だがこれはなんだ? こんなものの前では人間はあまりにも無力ではないか……!)
トビアスは茫然としつつも、目の前の戦いが自分たちの力でどうにかできるものではないことだけは理解したのだった。
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