睨み合い(マチルダ海峡)
曇り気味の空の下には寒風が吹きすさんでいる。その寒風は一面に広がる海原を波立たせ、冷たい波しぶきが戦場にいるアーロフの頬にも飛んできた。
年が明けてから半月ほどが経ち、アーロフは船団を率いてマチルダ海峡を航行していた。ラングール共和国本土で孤立状態となっている前線基地バーデンへと物資を届けるためだ。
「左舷に敵影!」
見張り台にいた兵士が叫ぶ。その言葉通り、遠くからラングール共和国の船が接近してきていた。
「来たか……輸送船は退避! 全船は作戦通りの陣形を組め!」
旗艦からアーロフが指示を飛ばす。それに従ってカザラス軍の船団が大きく動き始めた。
カザラス海軍の誇る大型戦艦、クローゼ級は縦一列に並ぶ。いわゆる「長蛇」と呼ばれる陣形だ。そして輸送船たちはそのクローゼ級を盾にするように敵船の反対側へと移動した。
「敵船確認! ジラークが四隻です!」
見張り台にいた兵士が視認出来た情報を報告する。その目には海原を割るように進む巨大な白い生き物が見えていた。
ラングール海軍の主力となっているジラーク級戦艦。その正体はジラークという巨大な白いクジラに曳かれる軍船だ。その機動力は帆船やガレー船を凌駕する。そのうえ相手に接近してしまえばジラーク自身の戦闘力によって簡単に相手の船を破壊することが出来た。
このジラークの存在がこれまでラングール共和国をカザラス帝国の脅威から守ってきた。しかしこれまでのカザラス海軍との戦いでその数は減少し、今では戦闘に耐えうるジラークは数匹となってしまっている。
「リムベットを出せ!」
アーロフの命令に応じ、クローゼ級から小型のボートが降ろされた。そのボートには20人ほどの漕ぎ手が乗っている。ボートの先端には鋭い衝角が設置されていた。
リムベットと名づけられたこの小型ボートは勢いをつけてジラークに突進させるだけの目的でアーロフが用意したものだった。
ジラークに接近するのは大型船であろうとも自殺行為だ。なおかつ戦闘中ともなれば多数の大型弩弓が飛び交い、流れ弾が当たれば小型ボートではただでは済まない。そのうえジラークは分厚い皮で覆われており、リムベットが勢いよく、しかも直角に突っ込まなければその皮を貫くことは難しいだろう。
ただでさえ荒れた海に小型ボートで漕ぎだすのは危険を伴う。真横から高波を受ければ簡単に転覆してしまうだろう。一応リムベットに乗る兵士たちにはジラークを見事仕留めれば多額の褒賞を出すことを約束しているが、兵士の命を非情に扱える指揮官でなければ採れぬ作戦だ。
「さて……どうでる? ラングール海軍?」
アーロフは近付きつつあるラングール共和国の船を睨み、そう呟いた。
「敵は愚かにもこちらに無防備なわき腹を晒しています! 全艦突撃です!」
船の上でポニーテールの少女がピョコピョコと飛び跳ねながら叫ぶ。ラングール海軍を率いるエニーデ・シャーリンゲル公爵だ。
「お待ちください。むやみに攻撃を仕掛けるのは危険です」
その横に立つ精悍な顔つきの青年が困り顔で言う。エニーデの副官となっているラングール海軍所属のヤースティンだった。ヤースティンは過去の戦いでカザラス海軍相手に痛い目に遭い、当時の上官であったエニーデの祖父を失っている。エニーデの父もカザラス海軍との戦いで亡くなっており、ヤースティンは慎重になっていた。
「ヤースティン殿のおっしゃる通りです、エニーデ様」
そこにゆっくりときらびやかな美女が近付いてくる。ラングール共和国公爵家の一人で交易を担当しているイルヴァだ。その背後には副官のエラニアが付いてきている。
「この船は軍船ではなく交易船です。まともに戦えば勝ち目はありません」
イルヴァがエニーデを諭すように言った。
エニーデたちが乗っているのはイルヴァが所有する交易船であった。ジラーク級戦艦をベースとしているものの、装甲や武装は簡素化されている。
カザラス海軍との戦いで大敗したラングール海軍にはジラークはもちろん、軍艦そのものも残されていなかった。軍用の造船所があったバーデンはカザラス軍に占領され、交易船用の造船所で代用し建造中ではあるもののまだまだ時間がかかる。短期間で何隻もの軍船を建造するカザラス帝国との国力差は歴然としていた。
「ですが相手は新任の指揮官なのでしょう? あの間抜けな陣形を見れば明らかです!」
エニーデが納得の行かない様子で指さす。そこには側面をエニーデたちに向けて一列に並んだカザラス軍艦が見えた。
軍艦の側面は一番被弾面が大きい。特にジラークを操るラングール海軍にとって、衝角がない側面は一番の狙いどころだった。
「敵の狙いは火力の集中でしょう。突進するジラークが近付く前に、全ての艦からバリスタを放って倒すつもりです。一番多くのバリスタを放てる側面を向けているのはそのためでしょう」
イルヴァが険しい顔でカザラス軍の船団を見つめる。
「アデル様によれば敵指揮官アーロフは前任のフォルゼナッハに劣らぬ能力を持っているそうです。用心なさるべきでしょう」
イルヴァの後ろからエラニアが発言する。イルヴァらは冒険者ギルドを通じて神竜王国ダルフェニアとも情報を交換していた。
「では何もせずに引き返すとおっしゃるのですか……?」
エニーデが悔し気に唇を嚙む。
「敵との戦力差は明らかです。ここはイルヴァ殿のおっしゃる通り、退くべきかと……」
ヤースティンも悔しそうにエニーデに声をかけた。
「それに何の成果もなかったわけではありません。我々が姿を見せることが重要なのです」
イルヴァが微笑みながらエニーデたちに言う。
「姿を見せるだけ……?」
エニーデは訳がわからず首を傾げた。
「敵船、引き返していきます!」
「怖気づいたか! ざまみろ!」
見張り台の兵士からの報告に、興奮した兵士から叫び声が上がった。
「……リムベットを回収しろ。海の魔物が寄ってくる前に離れるぞ」
ひとつため息をつきながらアーロフが指示を出す。
「恐れをなしたのですかね」
副官のトビアスがアーロフの横に来て呟いた。
「どうかな。いずれにせよ、安易に突っ込んでこないのは厄介だ。こちらに被害が出てもすぐに補充できるが、敵のジラークはそうはいかんからな」
海を眺めながらアーロフは首を振る。
「ああやって見張られている以上、今後も輸送船を送るときにはこうやって大船団を組まねばならない。いったい何回往復させられることやら……」
アーロフは深いため息をついた。
ラングール海軍とカザラス海軍。ともに新たな体制となった両軍の初体面は静かなものとなったのだった。
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