レモンの妖精
レモンの妖精が現れた。
先にいっておくけれど、私はその、まあなんというか熱心な宗教信仰家ではないし、この国ではまだ違法とされているあれこれを体に取り入れている訳でもない。レモンの妖精というのは我が家でのみ使われている隠語のようなもので、ある物体を指すのに使われていた。あれは確か、大学受験に失敗し二度目の冬だったか。夕飯も終わり片付けをする母以外の家族が各々だらりと過ごすリビングの天井近くに、そいつは突如出現したのである。第一発見者はその頃既に無職だった父の兄で、正体不明の異形のものを見て取り乱し何かゴニョゴニョ口にし忙しなく歩きまわる彼をもちろんその場にいた誰もが一暼したわけだが、彼のその一連の行動が何を表すものなのか皆わからず、というより既に引きこもりの兆候が見え始めていた彼に声をかけられる猛者はおらず、数分後、やっと異常に気がついた(対応する気になったともいう)父によって正しく意図が解釈され、認知されるに至ったわけである。年末とまではいかないものの、年の暮れもそう遠くない時期に現れた得体のしれない物体のせいで、家族はそれなりに動揺した。普段は押し入れにしまってある掃除器具まで持ち出し振り回す母とそれを携帯のカメラに収めつつ半笑いで見つめる妹、一連のやり取りに疲れたのかソファに身を委ねる父。私はというと、その場から少し離れた場所で、檻に入れられた熊のように定期的に円を描きながら歩き回る伯父を見ていた。彼の視線は床に向けられたまま、両手を揉みしだきながら小声で何かを呟いていて、その様態は父の兄とはいえ少なからず恐怖を感じさせるものだった。と同時に湧き上がる好奇心のようなものは彼の少しズレた行動から伺える非日常性に比例して膨らみ大きくなっていたことも事実で、背中越しに聞こえてきた父の
「放っておけ」
という言葉がなければ、おそらくそのまま彼に近づいて行っただろうと思う。今思い返すとあれはもしかして私ではなく母や妹に対して発せられたのではなかったか。ではなぜ私自身が咎められたような気がしたのか、それは多分当時の自分の置かれている立場の悪さ、一家の金食い虫も同然の浪人生として父に認識されているのだと思い込むある種の被害妄想じみた己の思考のせいだと思う。
あの日を境に、あれは私たちの記憶が薄れるタイミングを測ったかのように現れるようになった。週に数回のみパートに出ていた母が最も目撃回数の多い人となったわけであるが、昼間とはいえ薄気味悪い現象に彼女なりに対処したつもりなのだろう、物体のフォルムと色合いがレモンのようだから、という理由で「レモンの妖精」と勝手に名づけて呼ぶようになった。私はレモンでもミカンでもリンゴでもなんでもいい、特に気にもとめないようなことだったが父は違っていたようだ。変わり者の伯父の存在が近所に知られている上に、さらに母までもが、となると流石に世間体というものを気にしたのだろう。あなたの家族に一人でもこういう、「変人」じみた者がいる場合は話が早いのだが、たとえばひょんなことから噂は周囲に流れ、尾がつきひれが生え、最終的にはとんでもないことになっていることがある。伯父は精神病でうまく話せない、知能は三歳児並みで一人で自立した生活は無理。そこら辺まではまあ、わかるところもあるのだが近所に住む幼稚園児を襲ったとか悪戯しただとか、深夜に徘徊して汚物を垂れ流すとかいう噂話まで聞かされた時は怒りを超えて呆れた。そもそも彼はそこまで活動的というか積極的に外に出るタイプではない。彼が外出するのは運動不足を解消するためにヘルパーさんに連れられて行く散歩の時だけだった。それでもやはり、行動の予測がつかない徘徊はたまにあって、それに伴う問題行動が結構な騒ぎに発展したことは私を含めみんなを疲弊させた。もし彼がいなければどんなに楽に日々を生きていけたか。幾度となくそう思ったが、時間とは恐ろしいもので、ある期間を経た時点で彼の存在に対する認識は「空気」とまではいかずとも曖昧にさせて「ぼかす」くらいまで可能になっていた。私がそうなのだから、妹や母、父においてもきっとそうなのだと思いたい。何が言いたのかというと、私たちはできるだけのことをしてきたということ、これ以上の面倒ごとはごめんだということだ。したがって家の中にレモンの妖精がいるなどという危ない話題は当たり前に、暗黙の了解でもって口外せずにいた。
桜の花びらが舞う四月のはじめ。またもや良い結果を出せず仕舞いだった私をよそに、妹は地元で有名な資産家の持つ化学工場のナントカ部門に就職し家をでた。そこからが早かった。職場恋愛を経てあっさりと結婚を決め、あっという間に完全にこの家を出ていってしまった。あんなにもトントン拍子で上手く人生を渡っていく人が身近にいると精神的にきついものだ。おおかた予想してはいたけれど、私と父との関係はこれまで以上に悪くなり、私も早々にここから出ていく方が賢明なのだろうなと思わずにはいられなかった。浪人生活が長くなるにつれ緩みが、自暴自棄とまでは行かずとも緊張感のだいぶ薄れた生活を送り始めていた私はその日も昼近くまで寝てしまい、フラフラと自室を出て静まり返ったリビングへと続く階段を降りていった。階段の途中で顔をあげ天井に目をやる。こうやって、レモンの妖精がいるかどうかを確認することが私の日課になってしまっていた。
「あーーー」
何が起きたのか、一瞬状況が掴めなかった。どこかから低い声、侵入者か。一瞬小さく身震いした私は声の主を探した。…伯父だった。「なんだよ、オメーかよ」
悪態がサラリと口から飛び出す。彼のしっかりした声を聞くのは久しぶり過ぎた。もうだいぶ昔の、私が幼い頃は伯父は健常者だった。一緒に遊んだことや、おもちゃを買ってもらった記憶もある。何より、普通に話せてた。会話が成立していた。記憶の中の伯父の姿が映像のように流れ出す。笑う伯父が私と妹に向かってくる、口元が動いている。冷えた草の上に寝転がって空を見ていた私は起き上がり、何と言ったのか尋ねる。…もう少し近くに行かないとだめだ、聞き取れそうにない。そう思っているうちに映像は薄くぐにゃりと崩れ、代わりに最近の伯父の顔が浮かぶ。あの頃と比べてだいぶ落ち窪んだ目と、青白い顔。いつも通り小刻みに揺れる体。自分の部屋から出ることができるくらい今日は体調が良かったのだろうか。そういえば母はどこだ?ヘルパーは?疑問を抱きつつ彼の剥き出しの白い腕に目をやった。そしてそのまま彼の下半身まで私の視線は釘付けになった。おびただしい数のレモンの妖精が、隙間なくびっしりとこびりつき蠢いていた。
おそらく私は私の前に立ちはだかっていた彼を思い切り突き飛ばしたと思うのだが記憶が曖昧でなんともいえない。走りながら奇声を発していたかもしれないがそれもよく思い出せない。あの時は完全にパニックで仕方がなかった。逃げることしか考えられなかった。家の鍵?そんなの知ったことか。裸足のままで走って、開業医の父のクリニックに行く以外に選択肢はなかった。途中何度も何か硬いものを踏んで足裏に激痛が走ったが足は止まらず、わかってはいたけれど父が最も嫌がることをしてしまった。
「先生、息子さんいらしたんですねえ」
看護師の女性はそう言ってカーテンを開け、処置室から出て行った。返事は聞こえなかった。本来なら人目を避けて裏口から院内に入るべきだったが仕方がない。包帯の巻かれた両足をぶらぶら動かしたり見つめたりしていると、先ほどとは違う看護師がやってきて、タクシー乗り場まで付き添ってくれた。カラーリングを繰り返したのだろう、痛んだ茶髪に浅黒い肌、片言の日本語。フィリピンかインドネシア出身の介護実習生を数人受け入れ始めたとは聞いていたけれど、実際に手を貸してもらう状況となると何か恥ずかしいというか照れるというか、嫌というか何か変な気分になった。よく考えたらそりゃそうだ。ボサボサの頭に汗で湿った寝巻き、クリニックの名前が記されたスリッパ。この格好で、ここから目と鼻の先くらいの場所にある自宅までタクシーに乗るのだ。恥ずかしい。何より、自分が健常者として他人の目に映っていないような気がして嫌だった。これじゃあまるであいつと同類だ。落ち着きを取り戻した私の脳は次から次へと羞恥心を煽り暗い思考の根を張り巡らせていく。項を垂れたまま小さくなって座る私を乗せた鉄の塊は、私の希望とは裏腹にあっという間にアスファルトの上を滑っていき、静かにドアが開いた。
家に入る前に、私は一度深呼吸をした。もし伯父が目の前に現れても決して動じない。彼の腕や下半身がどうなっていようとも、どう見えようとも私は動じない。そう念じてドアに手をかける。想像していた通り鍵はかかっていなかった。そのままするりと中に入ると、母がよく履く靴が目に留まった。よかった。母は帰宅している。すぐにでも母に話を聞いてもらいたかった。しかし、それを許さない冷静な自分もいた。「まずはその格好をなんとかしろよ」と。包帯の巻かれた両足を見て、まずは自室へ戻った方がいいと思った私はこっそりスリッパを回収し、二階へ上がっていった。
「〇〇?」
自室まであと少しのところで私の名前が呼ばれ、母がリビングから出てきた。不思議そうに私を見上げた母の目が包帯に向かないことを願いながら適当に返事をし、力任せに自室の引き戸を開ける。そこには参考書や脱ぎっぱなしの服、飲み掛けのジュースや空になった弁当ごみなんかが散乱したいつも通りの光景が広がっっているはずだった。が、その日は違った。目に入ったのは大きなフィギュアだった。私にはフィギュアを集める趣味があるのだけれど、こんなの買ったっけ?こんな部屋いっぱいになるようなやつ。というかこのキャラクターは何だ?薄暗い部屋の中でまじまじと見つめたそれが首を吊って絶命している半裸の伯父だと気がつくのに時間は掛からなかった。
「何があっても動じない」
視線を外したいのに、私はなぜか食い入るように伯父の顔を見てしまっていた。薄暗さに慣れた私の目は不機嫌そうにへの字にまげた口と苦痛の表情を浮かべる彼の顔を捉え続け、心臓は早鐘のように鳴り響く。
「何があっても動じない」
伯父の体のあちこちを膨張させ変形させている妖精のうちの一つが離れて飛んでいき、続けて二つ、三つと叔父の体から離れては消えていった。緩んだ両手はくしゃくしゃになった紙のようなものを落とし床に転がり、乾いた音が響く。一瞬、伯父の体が動いたような気がしたが彼は先ほどと同じように苦悶の表情を浮かべていた。
「何があっても動じない」
足裏の痛みなどとっくに忘れ去った私はゆっくりしゃがみ込み、それを拾って広げた。年少から年長くらいの子どもたちが映るカラー写真だった。一番手前の女の子二人が笑顔でこちらにピースサインをしていて、左上には無表情でこちらを見つめる男の子。伯父の子どもたちだろう。会ったことはないが話は聞いたことがある。…いや、いや違う。この子たちを私はよく知ってる。よく知ってるというより、これは私たちだと思う。妹だと思う。彼女たちの最後の日。天気が良すぎて暑いくらいの初夏の日。黄色のスカートが赤く染まっているのが、私のいる場所からもよく見えた。すぐ近くに走って行きたいと思った。でも無駄だった。まるで夢の中にいるみたいにいくら動いても前に進まない。感覚はないけれど足が重い。たくさんの人が私の体にぶら下がっているんじゃ動けるはずもない。透明な大人たちに無理矢理ひっくり返されて、返中にひんやりと地面の、心地のいい草の冷たさを感じていると、どこかから声が聞こえた。
「やっぱり、お前も一緒に死のう」
「彼」は、確かに私にそう言った。