epilogue.1 -Confession-
どっかの駅で車から電車に乗り換えてなんやかんやで渋谷に来た。
彩夜の感覚は前世紀から止まっているので、当時密かに憧れだった渋谷がすっかり変わり果てていてもおかしくないなんて心配もしたが、結論から言えばそれは杞憂に終わった。
人々がごった返すスクランブル交差点。そこから見える景色も喧騒も、少女の脳内イメージとそれほど違わなかった。そしてなんといっても忠犬ハチ公像。見たかったものがちゃんとそこにあった。
変わらないものもあるのだ、きっと。
彩夜がそんな感慨に浸っていると、隣の悠也が「再開発で移動するって話もあるらしい」なんてことをさらりと言って台無しにしてきた。悠也にそのつもりはなかっただろうけれど、なんとなく示唆的なものを感じずにはいられなくて、彩夜はハチ公像をじっと見つめた。
「ちょうどいい、ここを待ち合わせ場所にしよう」
「……?」
「ロッカーが監視されている可能性がある。君が魔術師の関係者なのは隠したい」
「えっと……つまり私はここで待機ということですか」
悠也は「ああ」と応じながら財布を出し、紙幣数枚を彩夜に渡してくる。
「なるべくすぐに戻るが、監視を巻くことを考えると一時間程度はかかる。あまり遠くへ行かない範囲で楽しんで来い」
「……こんなにもらってしまっていいんですか?」
「気が咎めるなら残った分を返してくれればいい。いらないけどな」
それじゃ、と言い残して人混みの中に消えていく悠也。
一人残された彩夜は既視感を覚える。なんだろうと思って記憶を遡ると、それはさっき悠也が部屋を立ち去ったときに感じた孤独感で、そのすぐ後に泣いているみたいに見えた悠也の姿も芋づる式に思い出される。あれは結局なんだったのだろう。
考えていると、ふいに白い少女が目に留まった。さらさらの長髪も艷のある肌も真っ白で、明らかに日本人とは思えない。だから目立つといえば目立つ容姿をしてはいるのだが、彩夜がその少女に注目した理由はそれだけではなかった。信号が変わる度そこにいる人がガラッと入れ替わるこの交差点をその目立つ容姿で何度も行ったり来たりしているから、嫌でも目に留まるのだ。
いったい何をしているのだろう。
考えていると少女はこちらに近づいてきた。といっても彩夜にではなくハチ公像の方にだ。すぐ傍まで近づいてくると、像を食い入るように眺め始める。
チラッ。
あ、目があった。
と思ったら少女はすぐにハチ公像に視線を戻し、そしてまたすぐ目だけをこちらに向ける。チラッ。チラチラ。チラッ。ここまでされればいくら鈍い人間でもわかるだろう。これでもかと伝わってくる「私困ってます話しかけてください」感。彩夜は逡巡したが、暇を持て余しているのも事実なので声をかけてみることにした。
「あの、どうかされたんですか」
話しかけてから日本語では伝わらないかもしれないとハッとするが、それは杞憂だった。
「ええ、どうかしたわ。探しているものがあるの」
キリッとした目とはっきりした口調で言われた。発音は日本人と遜色なく流暢だ。
じー。翡翠の瞳が見つめてくる。圧がすごい。思わず萎縮してしまう。
「えっと、お手伝いしましょうか?」
「お願いするわ。あなた親切なのね」
「……あはは」
明らかに誘導されている気がするが愛想笑いで流す。
「で、何を探しているんですか」
「パンダのマスよ」
「パンダのマス?」
「待ち合わせをしているのだけれど、どこのことだかわからないの。心当たりない?」
「いえまったく」
ある人なんているのだろうか。
「そうよね。困ったわ……ちなみにこの子はパンダではないのかしら」
「犬ですね」
ついでにマスでもない。
というかマスとはなんだろうか。まさか魚ではあるまい。原稿用紙なんかのマス……つまり升目も違うだろう。原稿用紙が待ち合わせ場所なはずがないし、パンダ要素も皆無だ。
と、そこまで考えて次に思い浮かんだのは人生ゲーム。あるいはすごろく。あの手のボードゲームの升目なら種類は千差万別だ。中にはパンダの枡もあるかもしれない。
……いやいや。すごろくの升目が待ち合わせなんてあるわけがない。
最初から考え直そう。待ち合わせに場所ではなくモノを指定してくるならそれはわかりやすいオブジェクトであるはずだ。忠犬ハチ公のような。であればまさかどこかに魚のマスの石像があったりするのだろうか。そんな馬鹿な話があるだろうか。しかしコールドスリープ中に起きた出来事をほとんど知らない彩夜にはそれを否定できない。
「あの、マスってなんのことですか?」
「それが私にもわからないのよ」
そう言って少女はバッグから一枚の紙を取り出す。そこには「一六時。渋谷・パンダのマスの中心」の文字が印刷されている。ほかには何も書かれていない。
中心?
またわけのわからない要素が増えた。とりあえず魚説は却下だ。
「暗号……ですよね、これ」
「ええおそらく。面倒な知恵をつけたものだわ」
「あはは……」
彩夜は苦笑するしかない。
「時間がないの。というかもう一六時は過ぎてしまったわ。急がないと」
「友人さんに連絡はつかないんですか?」
「わざわざ作った暗号だから解いてほしいそうよ」
そうなると友人の方から声をかけてくれる展開もなさそうだ。なんとかしてパンダのマスの中心を見つけるしかない。
「とりあえず色々歩き回ってみましょうか。運が良ければ何か見つかるかもしれませんし」
彩夜が言うと、少女は意外そうに瞬きした。
「いいの? 暗号が解けるならともかく、そんなの無謀に付き合うようなものよ」
「まあ、私もすることなくて暇だったので」
「……そう。ではお願いするわ」
かくしてパンダのマスの中心捜索が開始されたが当然そう簡単には見つからない。していることは行きあたりばったり百パーセントで下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言っても的の形すらわからないのではどうしようもない。
「それにしても、変わった人ですよね」
「私が?」
「それは否定しませんけど、そうではなく友人さんが。せっかく約束してるのに、このままじゃいつまでも会えないじゃないですか。それで本当にいいんでしょうか」
「世の中にはいろいろな人がいるものよ」
往来の中で首を左右に振りながら少女は涼し気な声音を崩さずに言った。
なるほど、確かにそれはその通りだ。何せ魔術師なんかが実在してしまう世の中である。変わり者の一人や二人いて然るべきだし、いない方が気味が悪い。ただそれはそれとして彩夜には共感しづらい考え方だというだけの話。
彩夜のそんな気持ちが表情に出ていたのか、少女はクスリと笑った。
「まだまだ若いのね」
少女とて彩夜とそう変わらない歳だろうに、続く声は奇妙な達観を感じさせる。
「世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな関係があるのよ。困らせたり困らされたりするのが……それが許される関係が、ときには何より愛おしく思えたりもする。結局は当人同士がどう想い合っているかであって、各々がどんな人物かなんてどうでもいいの。それに対して外野が抱く感情なんて、塵芥ほどの意味も持たないわ」
「じゃあ今こうしている時間にも不満はないと?」
「まさか。不満だらけよ。不満しかないわ」
「……?」
「そういうものよ」
少女はそう言って、それ以上は語らなかった。
そして結局、いくら探してもパンダのマスは見つからなかった。
「そろそろ諦めるべきかしら」
「……いいんですか?」
「見つからないのなら仕方ないでしょう。それに、あなたも待ち合わせをしていたのではなくて?」
「あっ」
ハッとする彩夜を見て少女は微笑を浮かべる。
「元々見つかるなんて思ってなかったもの。だからいいの。付き合わせてしまってごめんなさい」
「……あの、私の知り合いにも頼んでみるっていうのは」
「遠慮しておくわ。あんまり駄目なら向こうから声をかけてくれるかもしれないし。そのとき大勢で連れ立って歩いていたら声をかけづらく感じてしまうかもしれないでしょう?」
「それは……そうかもしれませんけど」
なんとも言えない後味の悪さを感じていると、少女はまたクスリと笑った。
「あなたの待ち人は優しいのね」
「……?」
「頼めば見ず知らずの相手にも力を貸してくれそうな人なのでしょう? ああそれとも、あなたの頼みなら断れない素敵なボーイフレンドだったりするのかしら」
「そ、そういうわけではないです。全然……!」
彩夜は慌ててそう返してから、ふと思う。
「……でも、優しいのはそうかもしれません。私もあの人にとっては見ず知らずの他人なんですけど、すごく親切にしてくれて。事情とかよくわかんないんですけど、たぶんいい人なんだと思います」
「そう。ならそんないい人を待たせるわけにはいかないわね」
「……はい。あの、ほんと、力になれなくてすみません」
「気にすることじゃないわ。元々こっちが強引に頼んでしまったのだし。いいから早く戻りなさい」
彩夜は軽くお辞儀をしてから少女と別れ、早足でハチ公前に戻った。
既に悠也は戻ってきていてA4サイズの茶封筒を抱えている。
「お待たせしました」
「気にするな。戻るぞ」
悠也が淡白に言って歩き出すので彩夜は「はい」とだけ言って続く。
歩きながら、電車に揺られながら考える。
すっかり考えるのを後回しにしていたが、そういえば悠也があんなに親身に接してくれる理由をまだ聞けていなかった。彩夜がそれを尋ねたとき悠也は逆に質問を返してはぐらかしたのだ。「優しくしないほうが良かったか」「理由がないと信じられないか」と。結局、その理由を悠也は今に至るまで語らずにいる。
気にならないといえば嘘になる。そして気になるといえば、悠也が泣いているように見えたのも真偽不明のままだったりする。
「考え事か?」
「え、どうして」
「行きに比べて口数が少ないような気がした。俺の勘違いなら別にいい」
涼しい顔でスポーツカーを運転しながら悠也は言った。
彩夜は逡巡してから答える。
「黒宮さんが優しくしてくれる理由、結局聞けていなかったので」
「ああ、それか」
悠也は特に驚いた風でもなく落ち着いたまま続ける。
「もうしばらく待ってくれ。いつかは話すつもりだから」
◇
――例えば。
私が忘れてるだけで、本当は知り合いだったというのはどうだろうか。
「……阿呆らし」
いや、だがありえないと言い切るのもどうだろう。少なくともコールドスリープによる擬似タイムトラベルよりは現実的のような気もする。
彩夜がそんな思考を巡らせていたのは二十四時過ぎのベッドの中だが、実のところ帰ってきてからずっと同じようなことを考えている。それもこれも悠也が何やら意味ありげに「いつかは話す」なんて言葉を返してきたからで、もう頭の中はそのことでいっぱいで自分が置かれた状況だとか慣れない場所で眠ることへの緊張だとかそういう類のものはどこかにいってしまっている。
いつかは話すということは、話すべき何かしらの事情があるということだ。
それが彩夜に対するものなのかそれとも彩夜とは関係ない悠也個人の境遇に関するものなのか定かではないが、しかし間違いなく理由はあるのだ。それなら昼間悠也が泣いていた理由もそこにあるのかもしれない。あのときの悠也が本当に泣いていたと決まったわけではないが、彩夜の中でそれはもうそうに違いないと結論付けられつつあった。
問題はその事情が何かだ。
そこがわからないのでは意味がない。そしてたぶん考えてわかるようなものでもない。それなのに無能な頭は根拠のない妄想を忙しなく繰り返し続ける。
「……駄目だ。寝れない」
思い切ってベッドを出て廊下に出た。気晴らしに館の中を散策してみることにした。
洋風の広い館の廊下は夜の静寂も相まってどこか不気味で、改めて感じる非日常に不思議と気分が高揚していく。ちょっとした探検気分。童心に返っているみたい。
だが夢心地の終わりは一瞬だった。
一階のロビーに続く階段を降りる途中で、入り口の扉が開く音が聞こえたのだ。
誰かが館に入ってきた。影になって見えなかったその人影は、しかし次の瞬間明かりが点いたことで顕になる。綺麗な女の人だ。黒髪を無造作に束ね、右手にトランクケースを持ったパンツスーツ姿。
と、さらにそこへまったく予想外の声がする。
「おかえりなさい、霧崎さん」
悠也の声だった。霧崎と呼ばれた女性の視線は照明のスイッチの方を向いていて、そちらから悠也が歩いてくる。
「悪いな黒宮、こんな時間まで待たせてしまって。もう少し早く片付けるつもりだったんだが」
「気にしないでください。もう慣れました」
ふっ、と霧崎が笑みを漏らす。
「言うようになったじゃないか」
「冗談ですよ、霧崎さんが忙しいのはわかってます。荷物持ちましょうか」
「そういうのはいい。本題に入ろう」
霧崎がロビーのソファに腰掛けると悠也も続いてその傍らのソファに腰を下ろす。彩夜は階段の中途半端なところでじっと身を潜めているが、二人共それには気付いていないようだ。
(……ていうか隠れる必要あったのかな)
たぶんない。だがしかし隠れてしまったものは仕方がない。今更出ていくのも変だ。
「『嘆きの騎士団』が接触してきたというのは本当か?」
「嘘をついても仕方ないでしょう。回収した構成員リストに該当する記載もありました」
悠也が茶封筒を霧崎に手渡し、霧崎が開けて中を見る。
「一番上に重ねてあります。顔もそうですが、使ってきた魔術からしてもそいつで間違いありません。狙いもそのリストの奪取にあったようですし」
「待ち伏せられたということか? だとすると少し面倒だぞ」
「面倒?」
「これは『嘆きの騎士団』に紛れ込んだ情報屋から買い取った構成員リストだ。それを奪いに来たのが『嘆きの騎士団』の一員ということは、やつらは情報屋の動きに気付いていたことになる。なら、どうしてお前に渡る前に奪取しなかったんだ?」
「あ……」
悠也が納得の声を漏らす。
「確かに、それがわかっているなら情報屋を襲えばいいだけだ。それなのに俺を待った……自分たちを探ろうとする相手の素性を探っていた……つまり、情報屋は泳がされた」
「お前のことだから襲撃者は殺さなかったんだろう。だとすると、既にお前がやつらの情報を探っていた事実は知られてしまっている。最悪、この場所が突き止められるかもしれないな」
「……っ!」
悠也が息を呑むのが気配でわかった。
しかし霧崎はあくまで悠然とした態度で続けた。
「まあまだ可能性の話だ。ここを突き止められるようなぽかをやらかさなければ問題はない。それよりお前、戦闘になったということはまた魔術を使ったな?」
「……ええ、まあ」
「責めているわけじゃない。向こうが襲ってきたのなら応戦するのは当然だ。ただお前はすぐに無茶をするから心配でな……右腕はまだまともに動くのか?」
「日常生活に不自由のない程度には」
「つまり戦闘には支障をきたす可能性があると」
「……どうにかしますよ。今日くらいの相手なら」
「それは頼もしいが、自分の体は大切にしろよ。今回大丈夫だったからといって次も大丈夫だとは限らない。魔術を使えば使うほどお前の崩壊は進行するんだ。今は一体化で相殺できていても、いずれは崩壊の速度が上回る」
「無茶はしませんよ。今俺が消えるわけにはいきませんから」
「わかっているならいいんだがな。今のお前は遺書でも書いていそうで心配だ」
「……」
「……まさか書いてるのか?」
「いや、遺書というか、手紙を。心が残っている間じゃないと書けないでしょう」
「使い尽くす気満々じゃないか」
「念のためです。伝えられなくて後悔するのは、もう嫌ですから」
「……それならまあ、仕方ないか」
霧崎は沈鬱そうに呟き、「ところで」と露骨に話題を変えた。
「観鳥彩夜の容態はどうだ。目が覚めたんだろう?」
自分の名前が聞こえてドキリとする彩夜だが、今のは悠也に向けた言葉だ。息を潜めたまま二人の会話に耳を澄ます。
「今のところ異常はありません。外にも連れていきましたが、容態は安定している様子でした」
「そうか。まずは一安心だな」
「……重要なのはこれからです。彼女たちには帰るべき場所がない」
たち?
自分以外にも誰かいるのだろうか。彩夜がそんな風に考える間にも二人の会話は進んでいく。
「ここを養護施設代わりにしてしまうというあの案じゃ駄目なのか。実は結構気に入っているんだが」
「そこまで迷惑かけられませんよ。ただでさえお世話になっているのに」
「迷惑なんて思うものか。大半が十代だろう。首も座っていない赤ん坊を世話するわけじゃないんだ、そう大きな負担じゃない。それに倉沼はあれで案外子供好きだしな。流石に全員を一度にとはいかないが、数人ずつにわけて順番に目覚めさせていくのは現実的の範疇だ」
「何年かかると思ってるんですか。大雑把に二十人を三年ずつ面倒見ると計算しても、二十年以上。実際にはもっと歳の低い子もいます。俺の問題でそんなに長い時間霧崎さんたちを拘束するわけには……」
「だから気にするなって。お前のおかげで生きる目的がなくなった今、そういうセカンドライフも悪くないと私は本気で思っているんだ。倉沼もな。金の工面だけは問題だが、お前が稼いでくれるならそれで丸く収まる。私の貯蓄だけでも数年は持つだろうし、そう心配することじゃない」
「ですが……」
「なあ黒宮、これは完全な邪推なんだが」
霧崎はそう前置きしてから言う。
「お前が反対する本当の理由は、あの子達を魔術の世界から開放したいからなんじゃないのか?」
「……」
「ここをあの子達の家にして私たちの手で育てるとなると、必然的に魔術師と関わって生きることになる。お前はそれを恐れている。違うか?」
「……かもしれません」
「ならそれは過保護だ。そもそもが既に破荒と接触していた子どもたちだぞ。お前の介入の有無に関わらず魔術の世界には足を踏み入れていた。そこにお前の責任はない。お前が今こうしてここにいるように、あの子たちもきっとなんとかやっていける」
「魔術の世界でですか?」
「ああ」
「でも、彩夜は死にました」
――え?
ふいに聞こえた自分の名前に彩夜は困惑する。彩夜は死にました。死んだ。死んだとはどういうことか。観鳥彩夜は今ここにいる。だとすれば悠也が今口にしたのは、彩夜と同じ名前を持つ別の誰かのことだろうか。
「潤も死にました。心童葵も。……両方俺が殺しました。魔術師の世界はそういう世界でしょう。そこに選択の余地なく引きずり込まれるのは、理不尽な感じがしませんか」
彩夜はますます困惑する。今、殺したと言わなかったか。いや確かに言った。両方俺が殺しましたと間違いなく言った。魔術師の界隈がそういうアングラな領域にあるのはもうなんとなく察していたが、悠也が人殺しだなんて思ってもみなかった。
困惑する彩夜を待たずに二人は会話を続ける。
「お前さ、なんで観鳥彩夜を一人目にしたんだ?」
「……どういう意味ですか」
「いいか黒宮、あの子は紅野彩夜じゃないんだ。あの子はお前のことなんて知らないし、お前もあの子のことは知らない。それなのにお前はあの子を選んだ。強引な凍結の解除で何か致命的な異常が起こり得た一人目にだ。それには理由があったはずだろう。あの子なら死んでもいい……いや違うな、死ぬならあの子であるべきという理由が」
「……何を根拠に」
「それがお前にとって一番辛いから。お前はそういう自罰的な動機で動く人間だ」
「……」
「だが、観鳥彩夜にとってはそんなの身に覚えのないことなんだ。その点で言えばお前が選ぶべきは織原幸姫だった。彼女は正真正銘お前の知っている織原幸姫であり、お前を思って自分の身を危険に晒すことも厭わなかった人間だ。この状況でもお前の考えに納得し賛同してくれたかもしれない。一方、観鳥彩夜にとってお前は何の縁もない他人だ。見ず知らずの他人の代わりにリスクを背負わされ、お前のエゴで殺されるかもしれなかった。それは理不尽とは言わないのか?」
「……一つ理不尽を許容したからって、ほかも許さなきゃいけないわけじゃないでしょう」
「だがその一つに選ばれたやつは堪らない。――だろう、観鳥彩夜?」
「え?」
戸惑いの声を漏らしたのは悠也だが、気持ちは彩夜も同じだった。
目が合う。霧崎の視線は階段の手すりの影に隠れた彩夜に向けられている。
気付いていたのだ。彩夜がここで二人の会話を聞いていると。
「あはは……その、盗み聞きなんてするつもりじゃなかったんですけど」
「その割に最初からずっと隠れていたじゃないか。で、どうなんだ?」
「……私は、別に」
どう反応すればいいかわからないというのが正直なところだ。
何しろ情報が多すぎる。悠也が彩夜を魔術師の世界にいさせたくないと思っているのは元からわかっていたが、その魔術師の世界で悠也が少なくとも二人の人を殺していることだとか、彩夜の知らない紅野彩夜という何者かがいて既にこの世を去っていることだとか、その紅野彩夜と悠也の関係が今回彩夜が目覚めるに至った理由の一つであるらしいことだとか、そういうのは全部初耳だ。だからそれが観鳥彩夜にとってどの程度理不尽なことなのかも実感のしようがない。わからない、という以上のことは言えない。
そんな彩夜の内心を表情から読み取ったのか、霧崎が言う。
「まずは話し合うところからか。ちょうどシャワーも浴びたかったところだ、私は席を外そう」
そうして立ち去る寸前で霧崎はふいに立ち止まり、
「黒宮、人生なんて大半は徒労と失敗の積み重ねだ。努力が水泡に帰すのも珍しい話じゃない。それが普通なんだ。この世界に因果応報はない。私も偉そうなことを言える立場じゃないが、過去によって今を決める必要はないんだよ。誰であってもな」
そう言い残してロビーを去っていった。
悠也と彩夜の二人が残されなんともいえない気まずい空気が流れる。このまま立ち去りたいくらいの域だが、しかし聞きたいことがあるのも事実。ここで話さなければ明日はもっと気まずくなっている気もする。
意を決して霧崎が座っていたソファに腰掛ける。
こほん、とわざとらしく咳払いしてからあえて明後日の方を見つつ口を開いた。
「過去に囚われないで生きるって、難易度高すぎると思いません?」
悠也が視線だけを彩夜に向ける。途端に動揺して何を言えばいいかわからなくなる。
「えっと、ほら、今日黒宮さんの車で私が泣いちゃったの覚えてます? あのとき、私昔のことを思い出してたんです。昔といっても、つい昨日というか、私にとってはほんとに当たり前にあるはずだった日常で、なんでもないことだったはずで、大切とも愛おしいとも思ってなくて……そのはずだったのに、それなのに、涙が出たんです。だからたぶん、人が過去に囚われないなんて無理なんです。過去の積み重ねが今を作っているんだから当たり前で……えと、要するに、つまりそういうことなんです」
いまいちうまくまとまらず言葉尻が弱くなり、急に体が熱くなる。
だがそのおかげか悠也は小さく吹き出した。
「露骨に気を遣ってくれてありがとう。なんか……新鮮だ」
「……すみません。こういうのうまくなくて」
「いいよ。うまい必要ないだろ、こういうの」
悠也は視線を天井に向けて、
「過去が今を作る……そうだ。その通りだよな」
何やら得心がいったという顔で言い、それを不審そうに見ている彩夜に気づく。
「悪い、ひとり言だ。……実際のところさ、霧崎さんの言葉は身に染みてるんだ。俺の行動は矛盾している。二重規範もいいところで、自分でも何がしたいんだかわからなくなるときがある。そのときそのとき正しいと思ったはずのことが、改めて考えたら食い違っていたりするんだ。君のことだってそうだ。それなのに俺はその矛盾に気づかなかった」
悠也が頭を下げる。
「ごめん。俺は、俺の一存で君に危険な役目を担わせた。極めて理不尽な形で」
「……一人目ってやつのことですか?」
悠也は短く「そうだ」とだけ答えて顔を上げる。
実のところ、彩夜はそれが何の一人目なのかもよく知らない。だがさっきの会話から察するに、彩夜と同じようにコールドスリープされていた人がほかにもいたのだろうと思う。その中から誰を最初に目覚めさせるか――まだ成功するともわからない一人目を誰にするか。その難題に対し悠也が選んだのが彩夜だった。たぶんそういうことなのだと思う。
「……うまく行かなかったらそれが黒宮さんにとって一番辛いから。さっきの人は、確かそう言ってましたよね」
「ああ。言ってたな」
「……紅野彩夜さんって人と、関係あるんですか?」
唐突過ぎるかなと思いつつも勢いで尋ねてしまった。知らなくては気が済まない。そんな思いだった。
悠也は大きく息を吐き出した。様々な感情が入り混じった長い長い溜息だった。
「……そのうち話そうとは思ってたんだ。さっきもそう言っただろう?」
「あ……」
彩夜に優しくしてくれる理由を尋ねた彩夜に、悠也はそう返した。
「気持ちの整理がつかなくてさ。君の立場から考えても、目覚めて混乱しているときに話すようなことじゃないと思った。だから言わなかった。言い訳かもしれないけど」
そう前置きして悠也は言う。
「これはもう想像がついてるかも知れないが、君以外にもいるんだ。大勢の人が時間を止められて、まだそのまま放置されている。俺にはその全員を無事に目覚めさせる責任がある。でも全員一度は無理だ。うまくいくかもわからないのにそんな博打はできない。だから、誰か一人、最初に目覚めさせる人を選ばなければならなかった」
「それで私を選んだ。その理由が、紅野彩夜という人だったと」
「ああ。……なんてことはない。君はあいつとよく似ている。それだけのことなんだ」
悠也の瞳は目の前の彩夜を向いていない。どこか遠い過去に向けられている。
「だから一人目に選んだ。ほかの人がどうでもいいってわけじゃなかったけど、ほかの誰よりも絶対に助けたいと思えたから。誰かを犠牲にするとかじゃなくて、全員を助ける前提での一人目として、誰よりも失敗したくなかったから君を選んだ。……ただ、今思えば霧崎さんの指摘も正しかった。絶対に失敗できない状況を作りたかったのは、失敗したとき自分が傷つくようにしたかったってのと同じだ」
そう語る悠也の表情は穏やかで、それは目覚めたばかりの彩夜に向けていたのと同じ顔だった。
「大切だったんですね。その人のこと」
悠也は切なげな微笑を浮かべた。
「……そうだな。そうだったと思う」
「思う……ですか?」
「そういう気持ちを確かめるより前に、あいつはいなくなってた。ずっと傍にいてほしいと思ったし、笑っていてほしいと思ったし、あいつがいなきゃ生きられないと思ったけど、結果として俺はあいつのいない世界で今もこうして生きている。生きてこれてしまっているんだ」
酷い話だろう、と悠也は自嘲した。彩夜は笑えなかった。
「……すみません。嫌な話をさせてしまって」
「別に。きっと俺やあいつが幸せになんかなっちゃいけないって世界が決めたんだ。世の中はそうあるべきだし、実際にそうだったからこうなった。俺たちは二人とも善人ではなかったから、これでいいんだ」
因果応報。霧崎が否定したその言葉が脳裏に浮かぶ。
「さっきの話は聞いていただろう。俺は人を殺したんだ。あいつも人を殺した。そんなやつらが幸せになるなんて誰も納得しない。ハッピーエンドの物語なんだ、これは」
「……理由があったんじゃないんですか?」
彩夜が尋ねると、悠也は鼻で笑った。
「理由があれば人を殺しても許されるのか?」
「それは……」
「いいはずはない。この世の中が因果応報じゃないなんて誰でも知ってる。だけど、人殺しが『過去なんて全部忘れた』って顔で笑っていていいはずがないんだ。でも俺たちはそうしようとした。どんな状況でも二人ならきっと平気だ。あいつがいれば俺は生きていける。本気でそう思った。明日に希望を抱いてしまったんだ。だからこうなった」
「でも」
「……そういうことになってるんだ、俺の中では」
その言葉は悠也自身そうでないと悟っていることの証明だった。
因果応報だから仕方がない。それが悠也にとって自分を慰める唯一の言葉になっていて、悠也自身それを自覚しているのだ。
そんな悠也の姿は触れれば壊れてしまいそうな脆さを感じさせて、彩夜はなんとも言えない気持ちになる。
「紅野彩夜さんと私って、どのくらい似てるんですか」
「顔。あと声。あとは……いや、それくらいだな」
「えぇ……表面的なとこだけなんですか……」
「俺も少し驚いてるんだ。眠っている間は君の人柄なんて知りようがなかったから仕方ないが、やっぱり想像とのギャップが凄くて」
「結構失礼なこと言ってません?」
「あ……すまん。別に君が何か悪いわけではなくてだな」
「いえ別に気にしないのでいいんですけど」
と言ってみたものの若干胸の内がもやもやしているようなしていないような。
「ちなみにどうすれば似てきますかね」
「似る必要ないだろ」
「それはそうなんですけど、例えばの話で」
「……あと十年もすれば少しは似てくるんじゃないか」
「……彩夜さんって結構年上だったんですか?」
何かおかしかったのか、悠也が笑う。
「想像にお任せするよ。本当の歳は俺だって知らない。調べることもできたけど、しなかったんだ。勝手に調べたら怒られそうでさ」
そういえば、と悠也が言う。
「流れで有耶無耶になってたが、君のこれからについての話も少しはしたほうがいいのか。元々はそういう話だっただろう」
「あー……それはいいです。黒宮さんは最初から私に判断を任せるって言ってくれてましたし。自分のことなので、ちゃんと考えて決めます」
「そうか。ならいい」
悠也は立ち上がる。
「いい加減時間も遅い。今日はこのくらいにしておこう」
「ですね。……もう少し話したい気もしますけど」
「君の体はまだ万全かどうかわからないんだ。本当はこの時間まで起きているのだって望ましくはない」
「……やっぱり過保護ですね、黒宮さん」
「自覚はあるよ。そのくらいがちょうどいい」




