epilogue.1 -Awakening-
思うに一般的な人間は日常的にタイムトラベルしている。というのは少し突飛すぎる表現で、もう少し陳腐な言い方に直すと、夜寝て朝起きたらその人の意識は寝ていた時間の分だけ飛んでいるのだから、つまり考えようによっては睡眠という単なる生理現象もタイムトラベルの一種と言えるはずだ。竜宮城から故郷に帰ったら何十年も時間が経っていたという浦島太郎の物語は、楽しい時間は一瞬に感じられるという人の意識の錯覚が実質的なタイムトラベルを引き起こせることを示唆しているのかもしれない。そう考えていくと、どうにかこの状況も特別不思議なものではないと結論付けられるのではないか。
――そんなわけあるか!
「どうした!? どこか痛むのか!?」
「あ、いや……そういうのではなくて」
「何もなければ突然ベッドに拳を叩きつけたりしないだろう。隠すな。君の体はまだ万全かどうかわからない。不調があるなら正直に」
「だからそうではなくて……これはつまり自分のアホな現実逃避に対する無意識的な制裁といいますか」
「……ならいいんだが。本当に何かあったら言ってくれ。大事なことだ」
「……はい。……えっと、すみません」
「謝る必要はない」
そう言って青年が席を立ち背を向けると緊張がほぐれて、少女はほっと息を吐いた。
どうしてこんなことになっているのだろう。
思わず心のなかでそう呟くが、意味のないことだ。何故ならこの状況に対する説明は既に懇切丁寧に行われたあとで、少女はそれをよくわからないなりに一応理解できたようなつもりになっているからだ。「どうして」という問いの答えを少女はもう知っている。
どうやら自分は長い間コールドスリープ下にあったらしい。
といってもコールドスリープというのはわかりやすい表現を青年が選んでくれただけの例えであって、実際にそんな近未来サイエンスフィクション的技術が単なる田舎娘の少女に使用されたわけではない。しかし実際に行われたのが魔術だというのだから、説得力としてはまだ空想科学の方が上な気もする。それはともかく事実として少女が寝ている間に時は流れ、具体的に言うと随分前に二十世紀は終わってしまっていて、それなのに少女の肉体は前世紀から一切歳を取っていない。魔術によってそんな奇妙な状況が作られた。
「君を目覚めさせるために色々な方法を試した。本来の解除法を知っていた魔術師はもうこの世にいない。それはつまり、君が目覚めたのは不正な方法によるものということだ。体に不調があっても不思議じゃない。少しでも異常があれば必ず報告してほしい」
しつこくそう言い聞かせてくる青年に少女は辟易する。心配してくれるのは嬉しいが、度が過ぎるのは鬱陶しくもある。しかし青年は本気で少女を心配して言っているのだからやめてくれとも言うのも良心が痛んで、もうどうしようもない。
ただ、少女が現状を一応受け入れられているのはこの過度な心配のおかげでもある。魔術によるコールドスリープなんてファンタジーを最初から信じたわけはないのだ。今でも完全に信じられたとは言い難いのだが、それでも「本当かもしれない」と思える程度に受け入れられているのは、彼の声音や表情から伝わってくる感情のせいで、なんとなく信じなければいけないような気持ちにさせられてしまった部分が大きい。
で、自分を納得させようと頭を悩ませいつの間にか現実逃避に変わって今に至る。
(……駄目じゃん!)
一旦思考をリセットしよう。
少女は顔を上げ、部屋の様子を改めて観察した。大きな窓から差す陽光が木目の床を照らす広い部屋だ。ただしその広さに対して物は少なく、さっぱりした印象を受ける。少女がいるベッドのほかには棚がいくつかあるだけで、テーブルの一つも置かれていない。
青年は棚に置かれていた長方形の板みたいな端末で何かを見ている。指で画面に触れて操作するその端末はまさに未来という感じで、それも少女が青年の言葉を信じていいかもしれないと思えた一因だ。
……未だ「かもしれない」止まりなのは少女の常識が直面した現実をどうしても否定しようとするからで、裏を返せば固定観念さえ除外すれば青年の言葉は信ずるに足るということでもある。
気になるのは少女自身にコールドスリープされた記憶も魔術師と会った記憶もないという点だ。青年によれば強引なコールドスリープの解除によって記憶が混乱した可能性が高いというのだが、そんなことを言い出したらなんでもありではないだろうか。
やっぱり怪しい?
一旦、青年が少女を騙そうとしている可能性を考えてみる。つまり誘拐だ。動機だけなら身代金に人身売買、あるいは肉欲に負けただけというのも思いつくが、そのいずれもわざわざあんな馬鹿げた嘘をつく必要がない。縄で縛るなりして物理的に逃げられなくしてしまえばいいだけだ。縄が擦れて体に傷がつくのを避けたという線は考えられるが、それは少女に逃げられるリスクと釣り合うものとは思えないし、そもそも本気で騙すつもりならもっと別の嘘をついていると思う。そう考えると、やはりこの青年が悪意を持って少女に接しているとは考えづらい。
……犯罪者がまともな思考をしていると考えること自体、間違っているのかもしれないが。
「あの、黒宮さん」
呼ぶと、青年――黒宮悠也がワンテンポ遅れて少女の方を向く。歳の頃は十代後半。線は細い。目に掛かりそうなくらい伸びた前髪のせいか、少し暗い印象を受けなくもない。
「どうした。やっぱり体の調子が」
「そうではなくて。その、まだ色々よくわかっていないので」
「……だよな。誰だって混乱する」
悠也は棚に腰を預けるようにして少女に向き直った。
「聞きたいことがあったらなんでも聞いてくれていい。さっき話したことの繰り返しでも構わない。納得がいくまで、俺に答えられることならなんでも答えよう」
やはりその声音から悪意は感じられない。――が、そこでふと思いつく。
確かに悪意は感じない。だが妙に優し過ぎはしないだろうか。
例えば少女が目覚めてすぐのこと。見知らぬ青年の存在に少女は怯えて逃げようとしたし失礼な言葉も放ったが、悠也は少し切なげな顔をしただけで何も言い返してこなかった。本当に善意で少女をコールドスリープから救ったというなら、助けた少女に怯えられるという理不尽な仕打ちに腹を立てたっていいはずだ。それなのにまるで苛立つ様子を見せないのは、その態度のすべてが作り物だからではないだろうか。あの切なげな表情だって、それを見た少女に罪悪感を抱かせるのが目的だったのかもしれない。だとしたら少女はとうに悠也の術中だ。
「まだ信じられないか?」
思わず驚きが表情に出る。それを見ていた悠也が笑う。
「それで当然だ。俺だって逆の立場なら信じない」
これも少女を騙すための台詞だろうか。それとも本心からの言葉だろうか。
少女は少し考えてから口を開く。
「……質問、いいですか」
「ああ」
「黒宮さんは、どうしてそんなに優しく接してくれるんですか」
一瞬、悠也は虚を突かれたように固まった。
「……優しくしないほうが良かったか」
「いえそんなことは……、そうじゃなくて、その……」
「理由がないから怖いのか」
「……そんな感じです」
「なら、理由を話せば信じられるか」
「それは……」
信じられるとは言えない。結局その理由に間違いないと信じられる根拠がなければ、疑うべき要素が一つ増えるだけだ。意味がない。
少女がそれに思い至ったところで悠也が言う。
「少し席を外すよ。ずっと俺といるのも気が休まらないだろう」
「えっ、でも」
「一人でゆっくり落ち着いて考えてみればいい。部屋にあるものは自由に使ってくれて構わない。俺は隣の部屋にいるから何かあったら呼んでくれ」
悠也は少女の言葉を待つこともなく部屋を出ていってしまった。ドアがぱたんと静かな音を立てて閉められ、少女はぽつんと一人で部屋に残される。
気を遣わせてしまっただろうか。傷つけてしまっただろうか。でも彼が悪い人ならそれで良かったとも思うし、しかしそんな根拠はどこにもないのでやっぱり失礼だったかもしれないと思う。思考は同じところをぐるぐると回り続ける。さっきから一歩も前に進んじゃいない。
少女はどっと息を吐いた。
落ち着こう。悠也もそう言っていたではないか。
一度別のことを考えてリフレッシュしようと、少女はベッドを出て文庫本が敷き詰められた棚の前に立った。その中にひときわ安っぽいタイトルの本があって思わず手に取る。たぶんベタな恋愛小説だろう。これを悠也が読んでいたらちょっと面白いなと思いながらページを捲ろうとして、ふと思いついて先に奥付に目をやる。そこには発行年月日が載っている。二〇〇八年六月十三日。少女の記憶にあるより未来で、悠也の説明した今よりも過去の日付だ。別の本も次々手にとってみると同じだった。この二十年ほどの間に出版された本が何冊もある。少女を騙すためだけにこれだけの量の本を一冊一冊用意するとは、とても考えづらかった。
やはり悠也の語ったことに嘘はないのだ。少なくとも少女が自身の記憶にあるより未来に目覚めたという点については疑いようがない。
それを踏まえた上で、黒宮悠也という個人は信用に足るか否か。
あるいはそれも考える必要のないことかもしれない。彼がもし悪人なら、見張りもつけず手足も縛らず少女を一人にはしないだろう。そう思わせて実は逃げられないようしっかり対策しているのかもしれないが、それなら逃げようとすること自体が無意味だ。
つまり、どうあれ少女には彼を信じて行動する以外に選択肢がないのだ。
覚悟を決め、文庫本を本棚に戻し部屋を出る。するとどうやらこの建物がかなり広いらしいことがわかる。少女がいたのが一番端の部屋だったのもあって長い廊下が一望できて、体感では小学校の校舎くらいの広さだ。ただし少女の住んでいた田舎の小さな学校の話だが。
隣の部屋の木目のドアをノックをして「黒宮さん、開けますよ」と声をかける。中から「あ、ああ」と少し慌てたような声が帰ってきて不審に思うが、了承には違いないので開けると、悠也はソファに腰掛け俯いていた。
「早かったな。もういいのか」
「はい。とりあえず、一人で考えていても仕方がないのがわかりました」
「そうか」
声は少し震えて聞こえた。
「すぐ戻るから、元の部屋で待っていてくれるか」
「……はい」
少女はそれだけ返して言われた通り部屋に戻った。
他に何も言えなかった。そうなってしまった理由があった。
――今の震えた声は、まるで泣いているみたいではなかったか。
ソファに腰掛けた悠也の姿が頭を離れない。本当に泣いていたかどうかはわからないし、仮に泣いていたとしてもその理由はまったくの不明だが、何故だか感傷的な気持ちになってしまう。
さっきまでの穏やかな表情を思い出す。
妙に優しすぎる言動を思い出す。
今思えば、あれはその裏の感情を隠すためのもののようではなかったか。
もしかしたら何か辛いことがあったのかもしれない。それを隠して、コールドスリープから目覚めたばかりの少女を不安にしないよう振る舞っていたのかもしれない。でもそれにも限界がきて、だから一人になりたかったのかもしれない。
根拠はない。根拠はないが、どうしてだかそう思えてならない。
そうして考えている内に悠也が少女の部屋に戻ってきた。その表情に影はない。泣いていたかどうかも、もうわからない。
「一応信じてもらえるってことでいいのか」
「まあ、そうです。というかそれ以外ないなって」
落ち着いた声音で聞いてきたので、少女もさっきの件は蒸し返さず返した。そもそも少女に他人の心配をしている余裕などない。今は何より自分のことだ。
「確かにな」
言いながら悠也は木の椅子に座った。少女はベッドに腰掛けている。
「質問いいですか」
「もちろん」
「私はこれからどうなるんですか」
悠也の表情が緊張に引き締まるのがわかった。
「なんとなく、元の生活には戻れないんだろうなって気はしてるんです。すごい時間が経ってるわけだし、学校だってとっくに退学になってますよね。でも私はこうして目覚めたわけで、どうにかして生きていかなきゃいけない。それでその……まず何をしたらいいかとか、そういうのからして何もわからないので、色々とご教授いただきたいという感じです」
「……なるほど」
悠也は少し考えるようにしてから口を開く。
「今の君を取り巻く状況は複雑だ。まず元の戸籍で生きていくのは魔術師社会の秩序を維持しようとする機関が許さないだろう。君がその姿でこの世界に生きていることはそれ自体がこの世界に魔術が存在すると仄めかしてしまう。だから元の生活に戻れないという君の想像は正しい」
古くから魔術師たちがその存在を隠し続けてきたことは既に説明を受けていた。魔術師なんているはずがないと主張した少女に悠也がした説明の一環だ。確かにずっと失踪していた少女が当時の姿のままで帰ってきたなんてことになったらちょっとした騒ぎになるのは想像に難くないし、それを防ごうとするのはその存在を隠す魔術師にとって当然のことだろう。
「その上で、君には選択肢が二つある。一つはまったくの別人として元いた社会に復帰すること。多少背景事情を捏造する必要はあるがやってやれないことはない。君が君として社会に復帰するのでなければ、機関に目をつけられることもないだろう」
「もう一つは?」
「魔術を知る者の一人として、魔術師の社会に身を置くことだ。立ち回り方を間違えなければそれなりに稼いでそこそこの暮らしはできる。……が、あまり勧めたくはない」
「どうしてですか?」
「命の危険を伴う場合があるからだ」
さらりと言われた内容がなかなかにショッキングで、少女は戸惑う。
「君は魔術師ではないし、機関の下働きとして特別秀でた能力があるわけでもない。だから主に事務方の仕事……例えば魔術師同士の連絡を中継する役回りなんかが多くなると思う」
「中継と言うと、郵便屋さんみたいな?」
「兼ねそんな感じだ。もしくは配達業者。いずれにせよ、そういうサービスが存在するにも拘らずそれを使えないものを運ばされるわけだ。それなりにやばいのはわかるだろ」
「……なるほど」
「魔術師が魔術を使って何をしていようが、機関は魔術が明るみにならない限り黙認する。だから魔術師にはとんでもないことを企んでるやつがそれなりにいるし、そういう輩が君を利用することになる」
「黒宮さんもそういうことをしてるんですか?」
「まあそれなりには。俺は曲がりなりにも魔術師だから君とは少し違う立場だが」
と、それを聞いて少女は思いつく。
「私も魔術師になるって選択肢はないんですか?」
「……なりたいのか?」
「なりたいってほどでもないですけど、興味はちょっとあります」
魔法使いになりたいなんて思ったことは人生で一度たりともない。ただ、魔術が実在するなら使ってみたいという程度の興味はきっと誰にでもあるわけで。
「やめておけ」
悠也はその興味をあっさりへし折ろうとする。
「……どうして」
「危険だからだ。魔術師になるには魔族と契約する必要があるが、まずそれが命がけだ。どんな魔術が使えるようになるかもわからない。勝ち目の薄い博打だ」
「でも、選択肢としてはあるんですよね」
「それはそうだが……やめておくべきだ。興味本位で人生を不意にすることはない」
その言葉は言い知れぬ重みを感じさせた。
思わず喉を鳴らす。
「……黒宮さんは、魔術師になって後悔してるんですか」
「後悔はしてない。だがそれは人生を不意にしたことに対してだ。他人には勧められない」
また言葉の一つひとつが重い。そのせいで少女は何も言えなくなる。
それに気付いたのか、悠也は緊張を解くように息を吐いた。
「すぐに決めろとは言わないさ。ここにいれば魔術師の社会に触れる機会もあるだろうし、俺も頑張って説明はしてみる。強制はしない。ちゃんと考えて、自分で納得できるのを選べばいい」
と、そこでドアをノックする音がした。「どうぞ」と悠也が言うとドアが開き、現れたのは髪を似合わない金色に染めた男だった。服装も髑髏やらチェーンやらでセンスがいいとは言えず、それが比較的整った顔立ちを台無しにしている気がした。
「悠也、今いいか」
「どうしたんですか倉沼さん」
「おつかいを頼みたい。少し遠くなるんだが、俺は別件も抱えててな。報酬はちゃんと払う」
「わかりました」
そう答えて悠也は席を立ち、入り口で男――倉沼と少し話した後戻ってくる。
「悪い、少しここを離れないといけなくなった。今日中に返ってくるがたぶん夜になる。一人でも大丈夫か。駄目そうなら誰か代わりを呼ぶが……」
「魔術師のお仕事ですか?」
「ああ」
「私もついていっちゃ駄目ですか?」
「は?」
悠也の目が点になった。よほど意外だったらしい。
「言いましたよね、ここにいれば魔術師の社会に触れる機会もあるって。それが今じゃないですか」
悠也は顎に手を当てて考え込み「……まあ、一理はあるか」と呟く。
「なら条件がある。俺の指示に従うことと、万が一危険だと思ったらすぐに逃げることだ。危険な目に合わせるつもりはないが、何が起きるかはわからない。わかったか」
頷く。
そうして少女は悠也のおつかいに同行する運びとなった。
◇
少女たちがいたのは人里離れた山奥の洋館だった。悠也が世話になっている魔術師が有する拠点の内の一つなのだという。要するに別荘と認識して構わないだろう。
車庫に入れてあった高級そうなスポーツカーには初心者マークがついていて、それがどこからどう見てもアンバランスなものだから少女は少し面白くなってしまう。悠也も自覚はあるようで「本来俺の趣味じゃないんだ」などと言い訳じみたことを言っていたが、そのちぐはぐさが少女にとっては悠也をより親しみやすくする一因になった。
そして少女は今そのスポーツカーの助手席に座り窓の外を眺めている。
観光地から少し外れた田舎の海辺から道を曲がると長閑な田園風景が目に入り、点々と位置する背の低い建物が少女の胸の内に安堵をもたらす。二十一世紀になってもこういう風景は残っているものらしい。世の中は意外と変わっていないのかもしれない。
「私の地元、ものっすごい田舎なんですよ。山奥で、何もないなんて言葉じゃ足りないくらい本当に何もない場所で、人も少ないから住んでる人なんてみんな知り合いで」
少女にとってはつい昨日の記憶。でもそれはもう遠い昔の光景だ。
「帰りたいか」
何の感情も感じさせない声で悠也が言った。
「帰れるんですか」
「……」
意地悪な返しだったかもしれない。少女は自戒しつつ口を開く。
「黒宮さんを責めたいわけじゃないんです。さっきの話を聞く限り私が元の暮らしに戻ることはできないのはわかってますし。だから、そういう気は遣わなくていいです」
元の暮らしをそこまで気に入っていたわけでもない。むしろ少女は毎日を退屈に思い、刺激を求めながら生きていた。そういう見方ならこれは少女自身が望んだ状況でもあるのだ。
そんなことを考えていたら急に何かこみ上げるものがあって、気づくと頬を涙が伝っていた。
困惑する。これは望んだ状況のはずだ。それなのにどうしてそう思った途端に涙が流れるのだろう。元の暮らしに未練があったのだろうか。戻りたいと思っているのだろうか。でもそれならどうしてさっきまでは流れなかったのだろうか。自分なりにどうにか納得したのに、何故それを台無しにするみたいに泣いてしまっているのだろうか。さっきまでは涙なんて流れる素振りもなかったのに。
涙が落ち着くまでしばらくかかった。
その間悠也は無言のまま運転を続けていたから、口を開いたのは少女だった。
「仕事って何をするんですか」
「文書の回収だ」
「誰かに会いに行くってことですか?」
「いや、直接顔は合わせずコインロッカーを使う。先方の指定だ」
「どうしてそんな方法を……」
「迂闊に顔を晒したくないんだろう。わざわざ俺が出向くのだってさっきの隠れ家を知られたくないのが理由だ。魔術師相手に素性を隠す魔術師は少なくない」
「……なんか映画みたいですね」
「同感だ」
真顔のままそう返した悠也に対し、ふと疑問が浮かぶ。
「黒宮さんはどうして魔術師になったんですか」
答えるまでに少し間があった。
「そうだな……ひとことで言うなら、そうしないと納得できなかったからだ」
「納得……ですか」
「ああ。散々考えた上で、結局それ以外考えられなくて魔術師になった。だから俺はなるべくして魔術師になったし、ならなければ絶対に後悔した。それが理由だ」
「……なんだか難しいですね」
「結構シンプルに答えたつもりだが」
「いえ内容の話ではなくて。……そこまで強い感情を、私は持てる気がしないので」
「それが普通だ。だから君は魔術師になるべきじゃない」
「……それ慰めてます?」
「さあ。どうだか」
悠也はそんなふうにはぐらかすと、いかにも運転に集中してますというムッツリ顔で口を閉ざしてしまった。その態度があまりにもわざとらしくて、少女の口元が緩む。
「黒宮さん、結構不器用だったりしますか?」
「知らん」
淡白な声音がまたおかしくて、少女――観鳥彩夜は口元の笑みを深くした。




