epilogue.2
黒宮悠香が夏休みのバイト先のゲームセンターで凛堂月乃と再会したのはまったく予期せぬ出来事だった。
「もしかして悠香ですか?」
「えっ……あ、月乃先輩」
突然話しかけられて驚く悠香だったが、高校時代と変わらぬ見かけだけは生真面目そうな風貌ですぐに月乃とわかる。
「……良かった、人違いだったらどうしようかと」
胸を撫で下ろす月乃。
「お久しぶりです。そういえばここ先輩の行きつけでしたね」
「もう随分前の話ですけどね。帰省ついでに寄ってみて良かったです。私が高校を卒業して以来ですから……会うのは四年ぶりでしょうか」
「正確にはまだ三年と少しですけど、まあ大体それくらいです」
「早いですねえ。私も歳を取るわけです。最近肩凝りと腰痛が酷くて」
「運動不足じゃないですかね」
「それがちゃんと運動もしてるんですよ。ダンスゲームとか」
「あー、はい。そうですね」
そういえばこの人はその手のゲームも好きだったなと悠香は懐かしい気持ちになりながらおざなりに返した。昔よくしたやり取りの焼き増しだった。
悠香が月乃と出会ったのは高校に入学してすぐの部活見学だ。月乃は実質帰宅部と言って相違ない程度に何も活動していなかったパソコン部の部長で、ほかの部員が当然のように欠席する中ただ一人部長だからという理由で部活見学の期間のみパソコンの置いてある情報室にいて、訪れた悠香に困惑した様子で第一声を放った。
『場所間違えてませんか。パソコン部ですよここ』
『どういうリアクションですか』
それが最初のやり取りだった。
当時の悠香は明るく振る舞うのが苦手で、だからあからさまに活力のないパソコン部の空気には心が安らいだ。正確に言えばそれは活動もなく部員全員が幽霊部員という有様のパソコン部ではなく月乃個人に対しての印象なのだが、とにかく悠香がパソコン部への入部を決めるのに時間はかからなかった。月乃に「やめた方がいい」と心配されながらその場で入部届を書いて、帰りは月乃の誘いでゲームセンターに寄った。
それが現在大学生の悠香が夏季休暇中のバイト先に選んだこのゲームセンターだった。
特にそれが理由でここをバイト先に選んだわけではないが、思えばゲームの効果音がうるさく響くこの空間を気に入ったのは月乃と来たあのときがきっかけだったかもしれない。
この喧騒が心地良かった。
声をかき消すほどの大音量が、自分を世界から隔離してくれるような気がしたから。
誰に気を遣うでもなく悲しみに浸っていられたから。
あるいはそれは月乃と一緒だったからこそかもしれない。
『悠香、もしかしてお兄さんがいたりはしませんか』
道中で月乃はそんなことを聞いてきた。月乃は悠也の知り合いだった。それだけでなく、悠也と親しかった織原幸姫とも親友と呼べるほどの間柄だった。幸姫のしたことは知っていたから、月乃の複雑な心境はなんとなくだが推察できた。だから好感を持った。
きっと、互いに慰め合う相手を探していたのだ。
自分を偽らずに悲しみを吐き出せる誰かを欲していたのだ。
「良ければこのあと一緒に遊びませんか。今日のシフトはもう終わりなので」
当時のことを思い出していた悠香の口から、その言葉は自然と発せられた。
月乃は不敵に笑って答えた。
「いいですね、乗りました。私が運動不足でないことをゲームで証明して見せましょう」
「あ、はい。そうですね」
◇
「先輩相変わらずめちゃめちゃ強いですね……」
「時間とお金の許す限り通ってますから。まあそれでも趣味のレベルですけど」
「趣味じゃないレベルってなんですか?」
あれからゲーセンで散々遊び倒し、二人が外に出たのは日が傾き始めた頃だった。
都会に比べれば随分人の少ない商店街を歩きながら月乃が言う。
「でも、やっぱり目の前に対戦相手がいるっていいですね。オンラインで強い相手とやるのとは違った魅力があります」
「どうせ私は弱いですよー」
「あ……いえ、そういうわけでは……」
「冗談ですって」
そう言って笑いながら、悠香はなんとなく思う。幸姫や悠也がいた頃は、月乃も二人と一緒にゲームセンターに行ったことがあると聞いている。月乃が口にした「やっぱり」にはそういう感情も含まれていたのかもしれない。それだけ幸姫の存在が――あるいは悠也の存在も、月乃には大切だったのかもしれない。
思えば五年前からそうだった。月乃は悠也や幸姫との思い出を大切にしていた。
忘れてしまいたいと思っていた悠香とは対極的なほどに。
「良ければこの後行きたい場所があるんですけど、時間ありますか?」
「ありますけど、どこに行くんですか」
考え事をしていたのもあって悠香は特に考えずにそう返した。
そして月乃は言った。
「カフェ・Vivreに。昔誘ったときには断られてしまいましたから」
その名を悠香は悠也から聞いたことがあった。
直接行ったことはない。だがそこの店長が作るチョコレートケーキは絶品で、よく悠也がお土産に買ってきてくれたのを覚えている。
悠也が最後に悠香の前に現れたときもそうだった。
『あれお兄ちゃん、また来たの?』
『時間あったからさ。ご所望のケーキとシュークリームを買ってきた。あとポテチな』
そう言って見舞いに来てくれたのが悠也の姿を見た最後だった。
以来、悠香はケーキとシュークリームとポテチが苦手になった。カフェ・Vivreのケーキなんてもう見たくもないと思っていた。
「まだ思い出すのは辛いですか」
「……別に。五年も経てば執着も無くなります」
「そうですか。では問題ありませんね」
そうして次の行き先が決まったが、正直なところ悠香は不安でいっぱいだった。
たったの五年で執着が無くなるだなんて、そんなことがあるだろうか。
今でも忘れたい忘れたいと思い続けているのが、執着が残っている証ではないのか。
別に家族以上の存在だったとか異性として愛していたとかそういうことは一切ないが、それでも悠香にとって悠也はかけがえのない存在だった。仕事でほとんど家にいなかった両親の代わりに悠香の傍にいてくれたのは悠也だった。いて当たり前の存在だった。いうなれば兄として心の底から慕っていたのだ。
その悠也がある日突然いなくなった。
最初は心配した。心配して心配して気が気じゃなかった。でもしばらくしたら手紙が届いて、それでどうでもよくなった。
だって悠也は不慮の事故に巻き込まれたのでもなんでもなく、自分の意思で悠香の元を去ったと知ったから。悠香に何の相談をすることもなく勝手に決めて、心配するなとか一方的な都合ばかり手紙に書いて、悠香がどれだけ悠也のことを慕っていたかなんて考えもしないで、悠也がいないのに笑って両親を悲しませないようにするのがどれだけ苦しかったかなんて知りもしないで、ただただ一方的に姿を消したのだと知ってしまったから。
自分が悠也に依存していただけだということはなんとなく気づいていた。だけどなんだか捨てられたみたいで、惨めで、悲しくて、そんな自分を認めるのも嫌で。
でも月乃は違った。
「帰省したときには必ず寄っているんです。安心して二人のことを話せるのはあそこくらいですから。強面の店長がいるんです。あとすごく可愛いメイドさん。幸姫たちと行ったときにはいなかった人なんですけど、歳は私と同じくらいで……」
楽しそうに語る月乃の声が遠いのは、それだけ不安が大きいからだ。
カフェ・Vivre。悠也を知っている人がいる場所。
胸が詰まる。息苦しくて、気を抜けば倒れてしまいそうな錯覚すら覚える。
だけど、同時にこうも思った。
あれからもう五年が経つ。そろそろ真正面から向き合ってもいい頃合いなのではないか。
「そろそろですよ」
月乃が言った。それで悠香が道の先の方に意識を向けると、ちょうどフリフリのメイド服姿の若い女がこちらに振り向いた。そして月乃の顔を見るなり笑顔を作り、
「月乃さん!」
と、声を上げて近づいてきた。月乃が言っていたメイドとは彼女のことなのだろう。
「いらっしゃいませ! そろそろ来る頃だと思ってました」
「お久しぶりです、希凛。調子はどうですか」
「まあまあって感じですかね。月乃さんは?」
「それなりという感じでしょうか」
世間話を始める二人に混ざらず、悠香はさっき希凛がいたところの店に目を向ける。
木目の落ち着いたデザインの看板にはカフェの名を示すVivreの文字。
とうとう到着してしまったというわけだ。
「そちらの方は?」
悠香に視線を向ける希凛に、月乃が答える。
「後輩の黒宮悠香。黒宮くんの妹さんですよ」
「黒宮さんの……」
何気ないそのやり取りに、悠香はごくりと喉を鳴らした。
「兄を知ってるんですか……?」
「はい。とっても優しい人でした」
希凛はにこやかに笑った。
「私、白石希凛といいます。はじめまして、悠香さん」
「……はじめまして」
悠香が萎縮気味に会釈を返すと、月乃が言う。
「立ち話もなんですし、とりあえず店に入りましょうか」
「あ、そうですよね。是非ゆっくりしていってください。店長もきっと喜びます」
◇
「とりあえずお飲み物をお持ちします。何がいいですか?」
「ではコーヒーを」
「えっと、じゃあ、ココアで」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
希凛が笑顔でそう言って店の奥に戻っていってから、悠香は改めて店の中を見回してみる。落ち着いた雰囲気の良い店だと素直に感じた。アンティーク調の内装に忍び込ませた木彫りの動物たちが空気を柔らかくしてくれているのも非常に良い。
「悠香は何が食べたいですか」
月乃がメニューを開きながら聞いてきた。
「結構いろいろあるんですね。先輩、おすすめとかありますか」
「そうですねぇ……うーん。難しい質問です。結論から言えばどれも美味しいんですよ。ここの店長、顔が怖いくせして腕は確かなので。だからもう直感に従って食べたいものを選べば間違いないといいますか」
「なるほどー……あ」
メニューの中に一つ、気になるものがあった。
チョコレートケーキ。
高校生の頃の悠也が何度か買ってきてくれたのがこの店のチョコレートケーキだった。姿を消す直前、最後に買ってきてくれたのもこれだった。
「何か気になるのがありましたか?」
「……いえ、別に」
「そうですか。まあゆっくり選べばいいと思います。急ぐ用もありませんし」
変に緊張してしまっているせいか、普段なら飛びつくであろう甘美な字面の数々を前に食欲が湧かない。
どうしようかと思いながら迷っていると、不意にカウンター席に座った男と店長と思しき強面の男の話し声が耳に入る。
「だからな、俺は娘に手を出したら許さないというのを念押ししたくてだな」
「それ何年言うつもりだっつの。出さねえって言ってんだろうが」
「本当だろうな。あんな美人に育った娘がお前に惚れるはずがないんだぞ。わかってるか」
「わかってるわかってる。なんであんたは飲んでもいねえのにこう面倒なんだ」
別に特別声が大きいわけでもないのだが、ほかに客がいないせいで妙に気になる。
と、そこへ注文した飲み物を持って希凛が戻ってきた。
「すみません、父がみっともなくて」
例の客の方をチラリと見ながら恥ずかしそうに希凛は言った。
「お父さんなんですか」
「はい。本当は尊敬できるいい父親なんですよ。ほんとのほんとに。あの、たぶん。……おそらく、きっと」
「だんだん自信なくなってませんか」
「そ、そんなことないです。あ、注文お決まりでしたらお伺いします」
露骨に話を逸らす希凛だった。
「私はいちごのパンケーキを。悠香は?」
「……フレンチトーストをお願いします」
「いちごのパンケーキとフレンチトーストですね。少々お待ちください」
希凛が店長に注文を伝えにいく。その際父親に「恥ずかしいからやめて。今お客さん来てるんだから」と小言も言う。父親がそれに口答えして、希凛がさらにぴしゃりと言い返すと少し反省した様子で肩を落とす。
「仲の良い親子ですよね。羨ましくなるくらい」
月乃が言った。
「……そういえば先輩の家のお話って聞いたことないです」
「別に普通ですよ。あんな風にくだけた会話ができる関係でなかっただけで、仲は良い方だったと思います。悠香はどうですか」
「私は……どちらかというと、希凛さんとお父さんの関係に近かったです」
少なくとも昔はそうだった。
悠也がいなくなって、その悲しみを悟らせまいと仮面を被るようになるまでは。
その微妙なニュアンスを感じ取ったのか、月乃は言葉を選びながらといった調子で言う。
「難しいですよね。人間関係って、一度固定されてしまうとなかなか変えるタイミングがないといいますか。何かの拍子で変わってそれが普通になってしまうと、元に戻そうと思ってもどうしたらいいかわからなくて。親子くらい距離が近いと、余計に」
「……ですね。何かきっかけがないと」
逆に言えば、きっかけがあれば変わるのだ。
黒宮家には悠也の失踪というきっかけがあった。悠香は表面上だけでも変わらないようにと笑顔を取り繕うようになった。両親は両親で悠香が高校生の間は多少無理をしてでも仕事から早く帰ってくるようになっていた。悠香を心配してのことだ。皆が皆、変わってしまわないようにと必死だった。
こうなった原因は悠也の失踪に対する両親と悠香の反応の違いにある。
悠香と違い、両親は悠也の失踪をそこまで悲しまなかった。勿論失踪直後は心配していたが、その一方で手紙が来て無事が確かめられると悠也がそう決めたなら仕方がないと割り切るような反応を見せた。事故や事件に巻き込まれたわけでないならそれでいいと。その反応は悠也がそう決めたからこそ受け入れられなかった悠香とは正反対で、だから本音を悟られるのが嫌だった。
「ちなみに、幸姫と黒宮くんがまさにそんな感じでした」
「へ?」
「お互いのことが大切なくせに、そのせいで気を遣ったり悩んで抱え込んだり。それで相手を心配させたり。私、それで幸姫から相談を受けたこともあるんですよ」
あまりに唐突な兄の話に悠香は困惑する。しかも何やら恋愛っぽい内容。時折悠也から聞いた高校での話から悠也が幸姫に寄せていた想いはなんとなく察していたが、お互いにとなると話が違う。絶対片思いだと思っていた。ちょっとどうリアクションしていいかわからない。
「で、その経験から言わせてもらうと、取り繕うのも悪いことではないなぁと」
「……?」
案外真面目なところに着地しそうな話の展開に、悠香はまた困惑する。
月乃は続けた。
「高校の頃の私たちって、お互い素の自分を出せることに安心してたじゃないですか。すごく気が楽で、それって素敵なことだとは思うんです。でも、誰かといるってそれだけじゃなくて……あの二人のことから思うに、強がりも隠し事もその人が大切だからするんですよ。どうでもいい人が相手ならその関係を維持しようだなんて考えないわけで。そうやって大切な誰かを想ってしていることが、間違っているはずはないんです」
「でも、それって苦しいですよね。大事だからこそ」
「そうですね。本当はそんなにややこしくなる必要ないですし」
ふと思う。
本当は悠香だけでなく、両親も悠也の失踪を悲しんでいたのではないか。それでも悠香の前だからと、家族の雰囲気が悪くならないようにと、あんな態度を取っていたのではないだろうか。悠香が笑顔を取り繕っていたのと同じように。
だとすれば。
悠香は再度、メニューに視線を落として言う。
「あの……先輩。私、注文追加してもいいですか」
「構いませんけど、どうしたんですか突然」
「ちょっと気合を入れようと思いまして。いつまでも逃げていられませんから」
と、そのとき入り口のドアが開いて誰かが店に入ってきた。
何気なく振り向くと、そこにはクセのついたブラウンの長髪が印象的な少女の姿。




