epilogue.3
「織原先輩」
そう声をかけられた幸姫が顔を上げると、黒髪の綺麗な女性が立っていた。
幸姫はベンチに座ったまま呆れ混じりの息を吐く。
「先輩はやめてって言ってるでしょう。もうあなたの方が歳上なんだから」
「いえいえ、先輩は先輩ですから」
「じゃあせめて口調だけでも直して。どうしてこっちには敬語使うなって要求するくせに自分は丁寧語なのよ」
「普通に考えて先輩にタメ口は難易度高いです」
「歳上にタメ口も難易度高いわよ。ていうかあなた私と初めて会ったときは先輩相手とは思えないくらい全力でブチ切れてたと思うんだけど」
「そんな昔のことは忘れました。十年前ですよ?」
「……都合のいい頭だわ」
幸姫はそう言ってまた小さく嘆息した。
女の名は水無月いのり。十年前に幸姫が通っていた高校の後輩なので今現在の年齢は当然二十代半ば。当時一度だけ顔を合わせたあの少女と同一人物とは思えない美人な大人になっているわけだが、ここで状況をややこしくしているのが幸姫の置かれた境遇だ。
この十年間、織原幸姫の時間は止まっていた。
魔術師破荒墨影による時間凍結の魔術のせいだ。それが解除されたのがつい先日で、だから幸姫にとって現実の十年前はつい先日の出来事。当然肉体も歳を重ねていないので十年前のまま高校の制服を着ていても違和感のない容姿から変化していない。
おかげで当時一つ下だったいのりが今では九つも歳上。十年前すらほとんど話したことのない彼女を高校の後輩と思って接しろというのはなかなかに難しい話だった。
「まあそんなことより先輩、これ、頼まれていたブツです」
「ありがと」
いのりが差し出した小さな紙の包みを受け取り開けると、中にはシンプルなデザインのネックレスが入っている。ただし見かけ通りの普通のネックレスではない。
「本当にこんなので正体を隠せるの?」
「私と希凛が頑張って手に入れた希少品ですよ。信じてください。……ただ効果時間は二時間程度が限度なので、そこだけご注意を。万が一にもバレるようなことがあれば……」
「わかってる。私だって犯罪者を見る目で見られたくはないもの。気をつけるわ」
織原幸姫という名は世間では十年前に大量殺人を行った通り魔の名として認知されている。ネットを通じて広く情報が拡散された一方で犯人が行方不明となり逮捕もされなかった謎のある事件ということで知名度も高い。正確に言えばその織原幸姫はこの織原幸姫ではないのだが、容姿まで瓜二つとなっては疑惑が生じる可能性は十分だ。
もっとも十年前ならいざ知らず、織原幸姫が今も当時と同じ姿でいると考える人はまずいない。いくらそっくりでも他人の空似で終わるだろう。幸姫の時間凍結の解除が十年の時を経て為されたのはそういう事情もあってのことだと聞いている。だから普通なら魔術道具なんかに頼ってまで正体を隠す必要はない。
しかし今回ばかりは事情が違った。
万が一にも正体がバレないという保証がなければ、幸姫の望みは果たせない。
「じゃ、行きましょうか」
いのりが言った。
「付いてくるつもり?」
「ここまで来て置いていくのは無しだと思います」
単なる野次馬根性なのか、それとも幸姫に気を遣っているのか。
正直なところありがたかった。自分で決めたことだというのに気を抜けば怖気づいてしまいそうな自分がいる。だが付いて来られてはそう言ってもいられない。
「……言っとくけど、会うのは私一人だから」
「それは勿論。近くまで送り届けたら私は久しぶりの故郷を散策しながら待ってます」
「ああそう。了解」
そうして幸姫は立ち上がる。呼吸を整える。心を落ち着ける。
大丈夫。正体がバレることはない。
決意を胸に幸姫は歩き始める。
ずっと避けていた両親と、一度だけ話をするために。
◇
自分が破荒墨影に連れ去られてからの十年間について知らされた幸姫が特に知りたいと感じたのが両親の今だった。人殺しの親という汚名を着せられた二人がどんな暮らしを送っているか。それが気になって仕方なかった。
心配したのとは少し違う。
申し訳なくて仕方がなかったのだ。
自分のせいで両親が嫌な思いをしているのを知っていた。二人の喧嘩する声を毎日のように聞いて、それほどまでに嫌い合う両親が別れられないのは幸姫がいるからだと知った。自分さえいなければきっと二人には別の人生があったはずだと思っていた。
そんな二人が今度は人殺しの親になった。幸姫を魔術で複製することで生まれたもう一人の幸姫が何人もの人を殺したせいで。あれは本物の幸姫ではなかったが、しかし幸姫とまったく同じ経験と感情を備えた複製で、ならそれはやはり幸姫だったのだ。
こんなにも親不孝な娘がいるだろうか。
いるのだここに。ならせめて二人が今どうしているかくらい知るべきではないか。
幸姫の行動の理由はそれだ。合理的に考えればわざわざ会う必要なんてないのかもしれない。知らなくていいことなのかもしれない。だが会わなければ、知らなければ後ろめたい気持ちをずっと引きずるような気がした。
だから来たのだ。
当時とさほど姿の変わらない一軒家。織原と書かれた表札をじっと見つめる。
問題はどう会話に持ち込むかの一点に尽きる。
織原幸姫ではない誰かとして訪ねる以上、この幸姫は織原家とはまったく無関係の他人だ。そして事前にいのりや霧崎から聞いた情報によれば、十年前の事件直後の幸姫の両親は幸姫のことを聞き出そうとする大勢の人々の訪問に心を病んでいたらしい。十年が経過しその手の訪問もほとんどなくなっているようだが、それでも見知らぬ他人として訪ねた幸姫が取り合ってもらえない可能性は低くないだろう。
……もしかしたら、その方が楽かもしれない。
いやいやと首を振り、後ろ向きな気持ちを目の前の家に向ける。ここで怖気づいて引き返すようではいのりに笑われる。わざわざ家の前まで送ってくれたというのに、いなくなった途端これだなんて情けない。
そう自分に言い聞かせ、恐る恐るインターホンを押そうとした、そのとき。
「そこで何をしている」
低い声に驚き振り返ると、そこには酷くやつれた顔をした男が立っていた。その顔は知っている。この十年で幸姫の想像以上に老け込んでいたが、それでも見間違えるはずはない。
織原嶺二。幸姫の父親。
「どこかの雑誌の記者か。にしては随分と若いようだが……」
「いえ、私はその……」
用意していた言葉が出てこなかったのは、突然声をかけられたことに驚いたからだけではなかった。目に見えて増えた白髪と覇気の失せた瞳が幸姫の罪深さを象徴しているように思えて、責められているみたいで、だから気持ちが竦んでしまった。
人殺しの親。
この人はそういうレッテルを貼られてこの十年を生きてきたのだ。殺したのは自分ではない織原幸姫だが、それでもそれもまた織原幸姫だったのだ。そしてそもそもの原因は破荒墨影の甘言に惑わされたここにいる幸姫にあるのだ。
だからこそ自分には責任があると幸姫は思う。
自分のせいで酷く辛い目に遭ったであろうこの人たちの今を知る責任が。
自己満足かもしれない。余計に悲しい思いをさせるだけかもしれない。
だがそれでも見て見ぬ振りはできない。それでは前に進めない。
「少しだけ、お時間頂けませんか」
「娘の話を聞きたいのか」
「違います。私は……あなたの話を聞きたいです」
不審そうに眉間の皺を深くする嶺二に、幸姫は用意していた台詞を続ける。
「……私の友達が人を殺したんです。それで、えっと」
と、そこで言葉は止まった。そのまま続けていいかわからなくなったからだった。
自分も近い境遇の人間だと言って共感を誘うつもりだった。嘘ではないし、それに頭を悩ませたのも本当だけれど、なんとなく後ろめたさがあった。
「君はその友達のことが好きだったんだな」
「え……?」
「じゃなきゃ悩まないだろ。こんなところに来ることもなかった」
嶺二はそう言って玄関の扉を開ける。
「あがっていきなさい。役に立てるかはわからないけど、話くらいはしてもいい」
胸が痛む。自分はこの人を騙している。嘘は言っていないが、幸姫の目的はそこにはない。もうそのことで悩んではいない。それなのに……
「お邪魔します」
その言葉は声にしてみると思っていたより切なかった。
かくして幸姫は自分の家に足を踏み入れた。
嶺二は「妻に話を通してくる」と言って幸姫を玄関に残したままリビングに入っていった。幸姫は一人で待っている。玄関から見える廊下の景色は十年前とさほど変わっていなくて、でも少しは変わっていたから十年の月日を体験していない幸姫は奇妙な感覚に陥る。
十年という年月は確かに知らない間に過ぎ去ったのだという虚無感と。
時を経ても残されていた過去の面影が与えてくれるささやかな安堵と。
二つの相反する感情を抱いた事実が、幸姫の思考に混乱をもたらす。
「……なんだろう。この感じ」
幸姫にとってこの家は決して安らぎの象徴ではなかった。だってこの家に居場所などなかった。少しでも長く外にいたかったし、事実そうしていて、そのことを両親に咎められることもほとんどなかった。ここはそういう場所のはずだ。
でも今幸姫は安堵している。これはいったいどういうことだろう。
矛盾した心の仕組みを理解するには時間が足りなかった。
「悪いね待たせて。……妻は会いたくないそうだ」
玄関に戻ってきた嶺二は申し訳無さそうに言った。
それならそれで構わないと幸姫は思う。娘の殺人を想起させる来客を好ましく思わないのは当然だし、そうして拒絶を示したことそれ自体が幸姫の罪深さを示しているようにも思えたから。
「すみません、やっぱりご迷惑でしたよね」
「いや、俺にとってはそうでもないよ」
意外な返事に幸姫は困惑する。
「……そうなんですか?」
「ああ。話だが、二階の書斎に来てもらってもいいかな。狭い部屋だけど、話をするくらいのスペースはあるはずだから」
「そちらがよろしいのでしたら」
「じゃあ案内しよう」
「……お邪魔します」
案内された嶺二の書斎の様子は仕事部屋というより物置に近かった。両脇に角を揃えず積まれたダンボールの谷を抜けると、奥のデスク周辺の空間だけが少し開けている。
「ああそうか座るのに座布団がいるか。ちょっと待ってて。取ってくるから」
「そんな、お構いなく」
「客を立たせたままじゃ俺の気が休まんないよ。確か隣の部屋にあったはずだ」
そう言って書斎を出ていく嶺二。
することもないので幸姫は部屋の中を見回してみる。この部屋に入るのは記憶にある限り初めてのことだ。入りたいと思ったこともなかった。だから感慨深いのとは違うけれど、なんとなく不思議な感じがした。
少しして嶺二が戻ってくる。
「ごめん、これ取ってくれるかな」
嶺二は左手に座布団を持ち右手にはコップの置かれたお盆を持っていた。幸姫は慌てて座布団を受け取り、それから嶺二がお盆を幸姫の傍の床においてからコップの片方を持ってデスクの傍の椅子に腰掛けた。
「俺だけ椅子で申し訳ないが、遠慮せずに座ってくれ」
「あ、はい」
「それとこれはお願いなんだけど、今日のことを本に書いてもいいかな?」
「本?」
「最近書き始めたんだ。編集者さんに持ちかけられて気持ちの整理をするにはいい機会だと思ったんだが、何をどう書いたらいいかわからず行き詰まってしまってね。もちろん君の素性は伏せるから」
「構いませんよ。私は何のお礼もできませんし」
「助かるよ。……さて、俺の話か。そう言われても困るが、要するに娘が人を殺したあとの俺が何を考えてたかってことでいいのかな」
「はい。それで大丈夫です」
「そうだな……やっぱり、大変だったなぁ。すごく。大変だった。うん」
しみじみと。当時を克明に思い浮かべているかのような口調だった。
「当時の俺はいっぱいいっぱいで、娘のしたことをどう受け止めればいいかわからなかった。恥ずかしながら関係も良好とはとても言えなくてね。だから素行不良だなんて言われたらそうかもしれないと思ったし、それを放っておいた自分に非があると批判されればその通りとしか言えなくて……世間で言われていた非難の言葉の全部が正当なものにしか聞こえなかった。……いや、これは良くない言い方か。被害者は殺された方で、こっちは殺した方の親なんだから。怒りは正当だったんだ。それでとにかく申し訳ない気持ちでいっぱいで、どう謝罪すればいいかもわからなくて、もうどうしようもなく大変だった。大変だったって表現も抽象的な気はするけどな」
「……正当、なんでしょうか」
「ん?」
「怒りは正当だったって、仰ったじゃないですか。それで……」
「……まあ、そうだな。実際のところ全然関係ないことの憂さ晴らしみたいな暴言も多かったよ。どうしてそこまで言われなきゃいけないんだって思ったりもした。うん。あの全部が正当だったというのは、少し違うかもしれない」
嶺二は言葉を選ぶような間を置いて続ける。
「俺はね、いい親ではなかったんだ」
「……」
「娘とはほとんど会話したことがない。同じ家で暮らしていたのに、何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か、そういうことすら何も知らないままだった。向き合うことから逃げ続けていた。臆病だったんだ」
だからこそ、と嶺二は続ける。
「世間の怒りを受け止めることが、俺にとっては初めての父親らしい役割だった。正当かどうかとか、そういうのはどうでも良かった。父親ぶっても遅いってわかってたけど、それでもね」
幸姫はどう反応すればいいかわからなかった。
喜ぶべきなのか、それとも今更遅いとこの男の自己満足を責めるべきなのか。
そもそもこの男は、幸姫のことをどう思っているのだろう。
邪魔者だったはずだ。禍の元だったはずだ。
でも……
「恨んだりはしなかったんですか」
その問いは自然と口を出ていた。
「誰を」
「……」
返す言葉を声にできなかった幸姫に、嶺二は言う。
「どうして、とは思ったかもな。でもそれは俺が言っちゃいけない台詞だから。ほんとはそれをわかってなきゃならなかった。親として」
「……親子だって、結局は他人でしょう」
幸姫は俯いてそう言った。嶺二の顔は見れなかった。
「……そうだな。うちの場合は特にそうだったかもしれない。だけど、それでも恨んだり憎んだりはできなかったよ。恨みたくなかった」
「親だから、ですか」
「立場の問題じゃないさ。好きだったから恨めなかった。それだけなんだ」
「……」
「君は友達を恨んでるのかな。いや、別にそれも間違いじゃないと思うよ。好きだから許せないのも、好きだから許してしまうのも、どっちも正しい。そこに優劣はない」
嶺二の的外れな気遣いの言葉は幸姫の思考をすり抜けていった。
好きだったから恨めなかった。
その一言があまりに衝撃的で、ほかのことは考えられなかった。
「……好きだったんですか、娘さんのこと」
そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
自分に言い聞かせる心の声は、嶺二にあっさりと否定される。
「好きだったよ。今でも好きだ」
「……嘘」
「まあ、疑われるのも無理はないな。散々報道された通り冷え切った家庭環境だったのは事実だ。俺が娘と接することがほとんどなかったのも。好きという気持ちを、言葉や態度で表せたことは一度たりともなかった」
あくまでも落ち着いた声音のまま、それでもと嶺二は続ける。
「好きだったんだ。そうでなければとっくにこの家を出ていっていた。娘がいたからこの家を離れられなかった」
それで、自分はすっかり誤解していたのだと幸姫は気づいた。
幸姫がいるから二人は別れられない。だから自分は邪魔者なのだとずっと思っていた。
逆だったのだ。
幸姫の存在だけが、家族の形をかろうじて保つための楔だった。
なんて馬鹿だ。勝手な思い込みで塞ぎ込んで、逃げて、遠ざけて。自分を悲劇のヒロインみたいに勘違いして、その果てがこんな結末だなんて。
「……今は、出ていこうとは思わないんですか」
尋ねずにはいられなかった。幸姫の存在でかろうじてつながっていた家族が、今どうなっているのか。そもそも最初から幸姫はそれを知るためにここへ来たのだ。
「良くも悪くも、あの一件で変わったな。娘はいなくなってしまったけど、皮肉なことに夫婦仲は随分と改善した。たぶんお互いわかってるんだ。同じ後悔を分かち合える人とは、もう出会えないって」
それを聞いて少しだけ安心する幸姫に対し、嶺二が唐突に言う。
「参考になってるかな、こんな話で」
「えっ……あ、もちろん。とても参考になります」
「だといいんだけどさ」
すっかり口実を忘れかけていた自分に気づいて幸姫は焦る。そういえば自分は友達が人を殺したという設定で話を聞きに来たのだった。
「話してるうちに俺の方が色々考えてしまって、君の聞きたい話ができてるか不安になっちゃって。おかげで原稿は進みそうで助かるけども」
「その本、出版されたら是非読んでみたいです」
「そうかい。まあ嬉しいが、だいたいは今話したようなことを原稿にするつもりだよ。それで、今もどこかで生きてるかもしれない娘へのメッセージにできたらいいと思ってる」
現在、織原幸姫は行方不明だ。逮捕されてはいないし、死亡も確認されていない。あれが既にこの世界から姿を消した複製体だということも、本体が今こうして生きていることも、人々は知らない。当然、嶺二も。
「メッセージって、どんな……?」
尋ねずにはいられなかった。聞きたい気持ちを抑えきれなかった。
嶺二は答えた。
「たとえ世界中の人に批判されようと、俺は娘がいてくれたことに感謝してると。生まれてきてくれてよかったと。当時伝えられなかったそういう気持ちを、今度こそ伝えられたらと思ってる。自己満足かもしれないけどな」
照れたように笑う嶺二の顔を幸姫はまともに見られない。
泣きそうだったから俯いて顔を隠すしかなかった。織原幸姫ではない自分が今泣くのは不自然だ。
「……なんかいい感じにまとまっちゃったけど、ほかに聞きたいこととかあるかな」
幸姫は無言のまま首を横に振った。声を出せば泣いているのがバレてしまいそうだった。
去り際、玄関で靴を履いていると嶺二が言う。
「良ければまた来なよ。話を聞くくらいしかできないが、俺は君の味方のつもりだ」
「……はい。それじゃあ、また」
その言葉を最後に織原家を後にした。
駅の方に向けて少し歩くといのりの姿が目に入る。
「おかえりなさい先輩。目的は果たせましたか」
「……果たせたというか、思ってたのと違うというか」
「なんですかそれ」
「いいの。こっちの話」
わざわざ話すのは少し恥ずかしい。泣きそうになったこととか、この女には絶対知られたくない。
「これ、手に入れるの大変だったわよね。今度何かお礼するから。希凛さんにも……」
幸姫は言いながらネックレスを首から外し、ハッとする。
すぐさまスマホの画面で時間を確認。
「どうして私ってわかったの?」
「え?」
「だって、まだこのネックレスの効果時間は残ってるのに」
そう。正体を隠す効力を備えた魔術道具であるこのネックレスをつけていた幸姫は、誰からも織原幸姫として認識されないはずだった。だからこそ幸姫は自分の家を他人として訪ねることができたのだ。
ネックレスの効果時間は二時間程度。まだ結構な時間が残っている。
それなのにいのりは、すぐ幸姫に気づいて声をかけてきた。
「あ……」
言われて気づいたらしく、いのりが声を漏らした。
「これ、ちゃんと効果あるのよね……?」
「……そういう触れ込みだったはずなんですけど」
「試してみたりした?」
「それはその、使い切りの道具なので、試したりはできなかったというか」
露骨に狼狽えるいのり。
要するに不良品だったのだ。正体を隠す効果なんてこのネックレスにはなかった。
「まあいいわ。別になんとも言われなかったし。特に問題なし」
「だったらいいんですけど……ほんとにバレてませんよね?」
「ええ。いくら親でも私が十年前と同じ容姿なんて思わなかったんでしょう。似ているくらいには思ったかもしれないけど」
と、そこで不意の声が脳裏を横切る。
良ければまた来なよ。話を聞くくらいしかできないが、俺は君の味方のつもりだ。
それは特に深い意味があるものではなかったはずだ。友達が殺人を犯したという幸姫の口実を間に受けて社交辞令的に発しただけの言葉のはずだ。
だけど。
「……先輩?」
「……なんでもないわ」
目尻に浮かぶ涙を隠すように幸姫は上を向く。
「とにかく協力してくれてありがとう。あなたがいてくれなかったら、きっとここへは来られなかった」
「やめてくださいよ。私は黒宮先輩から織原先輩のことを頼まれてただけです。十年前に」
「なるほどね。……ほんと過保護なんだから」
「なんかムカつくのでニヤけるのやめてもらえます?」
「に、ニヤけてないわよ」
「言っときますけど、別に織原先輩だけが特別だったわけじゃありませんから。私だってお手紙貰いましたから。ちゃんと気にかけてもらいましたから」
「あーはいはい」
「ちょっと、何テキトーに流そうとしてるんですか」
「真面目に取り合う必要ないでしょ。ていうか何、十年前の恋愛まだ引きずってるわけ?」
「そうですよ悪いですか。初恋は特別なんですー」
「……そっか。そうよね。うん、今のは私が悪かったかも」
初恋云々はともかく、十年後の自分が十年前を引きずっていないとは限らない。むしろ引きずっていたいと思う。いつまでもあの時間を胸に抱いていたいと思う。そういう気持ちを茶化すべきではなかった。
「え、急になんですかその態度キモいんですけど」
「あんたねえ……」
「ちなみに手紙は何が書いてありました?」
「別に面白いことは何も。つまらない謝罪だとか、ありきたりな感謝の言葉だとか」
潤の計画の全貌だとか、幸姫の身に起きたことの説明だとか。
「でも、すごく悠也らしい手紙だった」
十年前に悠也が書いた、十年後に目覚める幸姫への手紙。妙に回りくどかったり急に直接的だったりと不器用さ全開の文章に、幸姫は確かな悠也らしさを感じた。
「だからそういう『私わかってます感』出すのやめてください」
「あんた自分から質問しといてなんなのよ」
呆れながら幸姫は言い、それからなんだかおかしくなってしまって微笑んだ。
涙はもう引っ込んでいる。悪くない気分だ。こんな晴れやかな気持ちになっているなんて一時間前の自分に言っても絶対に信じないだろう。人間、行動は起こしてみるものだ。
駅への道を進んでいく。織原家から一歩一歩遠ざかっていく。
それを名残惜しく思えたことが、幸姫にはたまらなく嬉しく思えた。




