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吸血少女と人殺し  作者: 伝々録々
第五章 楽園創造
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約束



「死んだんだ。あいつは、私と倉沼を逃がそうとして犠牲になった」



 霧崎は窓の外に目を向けている。悠也の方を見ずに淡々と続ける。

「私も死ぬところを見たわけじゃない。だから確信はなかった。……だが今お前を見て確信した。今のお前からは、一切の魔力を感じない」


 言われてハッとし、指先の傷口に目を向けた。

 切り傷からはまだ血が滲み出ていた。


 彩夜を介して間接的に魔族と契約している悠也は、彩夜が死ねば普通の人間に戻れる可能性があった。そして今悠也の体はかつてのような超人的な肉体再生能力を備えていない。昨日までは確かにあったが、今は失われた。ならそれが意味するものは。


「すまなかった。私が愚かだった」

「……待ってください。状況がよくわからなくて」


 動悸が収まらない。頭の中が真っ白になって何も考えられなくなる。考えることを脳が拒んでいる。わからないということにしたがっている。

 霧崎の言葉はすべて聞こえていた。ただ、それが呑み込めない。

 困惑の中、悠也は自分の耳が捉えた言葉を確かめるように再生した。




「彩夜が……死んだ?」




 霧崎は何も言わない。呆然と横に目をやると、いのりはすっと顔を逸らした。

 虚しく静まり返った病室は、事実を無慈悲に突き付けてくるかのよう。


 彩夜が死んだ。

 霧崎は今、確かにそう言った。


「そんなの、突然言われたって……」

「……」

「何があったんですか。……説明してくれなきゃ、わけがわからない」


 そんなはずはない。わからないわけではない。ただ受け入れたくないだけだ。

 その程度のことは容易に見通せただろうに、霧崎は静かに「いいだろう」と返してきた。


 続けて霧崎は昨夜の出来事を抑揚に乏しい声音のまま事務的に説明した。霧崎が破荒を殺しに行ったこと。そのために彩夜が必要だったこと。霧崎の危機に倉沼と彩夜が割って入ったこと。そして、彩夜が破荒に一矢報いた隙に逃げてきたこと。


「そのまま……置いてきたんですか」

「そうだ」

「どうして……!」

「助けに戻る方法が無かったからだ」

 思わず声を荒げる悠也に、霧崎は冷めた口調で応じた。


「嘘だ。破荒を殺しに行ったんでしょう。なのに方法がないなんて」

「あれはいくつもの特殊な状況が揃って初めて可能になったことだ。倉沼は救出に戻ろうとしていたようだが、やつが倉沼の作っていた出口を塞いでしまった以上はどうにもならなかった。向こう側の裂け目がすべて消えては手の出しようがない」

「……死ぬところを見たわけじゃないんでしょう。彩夜が破荒に勝った可能性だってある。その場合でも俺の間接契約は切れるはずじゃないですか」

「だとしても同じだよ。お前と魔族の契約が切れている以上、小娘との契約も切れているはずだ。……あの怪我で肉体の再生能力を失ったのでは助からない」


 悠也の指摘そのものは否定しないことが、余計にそれが事実だと強調しているように思えた。彩夜が勝利したという僅かな可能性を考慮してさえ、その生存は望めないのだと。


「すまなかった」

 霧崎が悠也の目をまっすぐに見て告げた。

「これは私が招いた結果だ。お前には私を責める権利がある」

「……そんなこと、言われたって」

「困るか。……だろうな」

 霧崎は曖昧に笑う。


「それなら何か要求はないか。せめてもの詫びだ。私にできる範囲でのことになるが、望みを一つ叶えてやる。なんだっていい」

「望み? ……望み、なんて」


 抱いた希望はあったはずだった。

 深い悲しみの中で、縋っていた何かがあったはずだった。

 だけど、それはもう失われた。


 俯くしかない悠也に霧崎は言う。

「そうだな……たとえば、魔術師の社会から足を洗うというのはどうだ?」

「……できるんですか、そんなこと」

「魔族との契約が断たれ、お前と魔術に直接の繋がりはなくなった。お前を知る魔術師も我々だけだ。今なら魔術となんら関わりのない平穏な日常にも戻るのも不可能じゃない。お前が日常に戻れるのなら、あいつも悪い気はしないだろう」


 予想外の提案だった。

 だって、戻れるはずがなかった。手放さなければならないと思っていたし、その覚悟もできていた。平穏な日常なんて、もう求めてはいけないもののはずだった。

 

 だが、霧崎は戻れると言った。

 あの優しくて暖かな家族の元にいていいのだと。

 辛くて悲しい魔術の世界なんかじゃない、普通の毎日に戻れるのだと。


 それはきっと、魅力的な提案のはずだった。

 それなのに。

 

「望みを叶えてくれると言いましたよね」

 悠也は、それに何の魅力も感じなかった。


「ああ。何でも言ってみろ」

 求めるものは、もう決まっていた。





「俺を、彩夜のところに連れて行ってください」





 霧崎は鋭い目を悠也に向ける。

「それはどういう意味だ。自殺志願ならお断りだぞ」

「彩夜を迎えに行きます。だから俺を連れて行ってください」


 霧崎は彩夜が死んだと言った。

 だが本当にそうだろうか。まだ、彩夜が死ぬところを見た人は誰もいない。ならそれは死んだと決まったわけではないということではないか。

 確かに悠也と魔族との契約が切れたことは彩夜の死を示唆しているように感じられるが、絶対じゃない。もしかしたら何かしらの手段で生き延びているかもしれない。


「……悪いがそれは無理だ。さっきも言った通り、その方法がもうない」

「だったら、俺に魔術を教えてください」

 食い気味に悠也が口にした言葉に、霧崎は目に見えて驚いた。

「一見不可能に見えることでも可能になるかもしれない。魔術にならそれができる。だから、俺に魔術を……魔族と契約する方法を教えてください」

「お前、自分が何を言っているかわかっているのか。魔術の世界から完全に足を洗う機会を得ているんだぞ。それを……それがどれだけ得難いものかわからないのか。もう一度魔族と契約するだと。そんなこと、あいつだって望んでいないだろう!」

「いいから教えてください。俺の望みを聞いてくれるんでしょう。それとも、俺を魔術師にするのも不可能だと言いますか」

「私が言っているのは……っ、それではあいつへの報いにならない。あいつが、お前の破滅を望んでいるわけがない」

「破滅を望んでいるわけじゃありません。それに彩夜の考えは彩夜にしかわからない。それは霧崎さんの決めることじゃありません」


 病室内に沈黙が落ちる。

 ややあって、霧崎は重々しく嘆息した。


「……破荒墨影は離れた地点を自在に行き来していた。おそらくは魔術によって」

 突然の話の意図が掴めず眉を潜める悠也に、霧崎は続けて言う。


「やつは自分の契約魔族は三体だと言った。一体は時間の凍結、一体は対象の複製、そしてもう一つが万物との一体化。この三つの中でそれを可能にするのはおそらく万物との一体化……つまりお前や彩夜が契約していた魔族の力だ。高台の公園で観測された魔力がお前たちと同一だったことから考えても間違いない。そしてその魔族に限り、お前はすぐにでも契約できる可能性を有している」

「本当ですか!?」


 悠也は思わず聞き返した。

 魔族との契約は基本的に無作為で、魔術師の側が魔族を選ぶことはできない。故に魔術師は不平等なのだと潤から聞いた。霧崎の言葉はそれに反するものだった。


 もしも本当にそんなことができるなら、悠也の望みは現実味を帯びてくる。

 彩夜を迎えに行くことができる。――もし、生きているなら。


「本当だとも。契約術式にも色々あるからな」

 ただし、と霧崎は付け足す。

「私にできるのは契約までだ。その後お前がどうなるかは保証できない。言っている意味がわかるか?」

「魔族に心を喰い尽くされて魔族化するかもしれないと? そういう心配をしているなら」

「それもある。そもそもお前は魔術師として魔族との契約に耐える鍛錬を積んでいない。加えて、予め契約する魔族を指定することは、本人と魔族の相性を度外視して契約を成立させるということでもある。はっきり言って成功の確率は低い。危険な賭けだ。契約の直後にお前が魔族に心を喰い尽くされて廃人になったとしても、あるいは契約後に魔術を一切使えなかったとしても、私にはどうすることもできない。だが、私が言っているのはそれだけではない」

「……」

「いいか黒宮、魔族と契約した人間だからといってすぐに魔術を使えるわけじゃない。契約魔族の力を探り探り引き出し、魔術と言う形に落とし込み、更に研鑽を積んで、ようやく使い物になるのが魔術だ。いくら一度契約していた魔族だからといって、あるいはその力の一端を直感的に使ったことがあるからといって、それですぐ破荒と同様の移動手段が使えるとは限らない。お前がしようとしている契約は、まったくの無駄になるかもしれない。いや、きっとそうなる。それでもやるのか?」

「構いません。それでお願いします」

 即答すると、霧崎はゆっくりと目を伏せた。


「わかった」


 たっぷりと間を置いてから放たれたその一言は、異様に重たく感じられた。垣間見えた感情は諦観と落胆。いずれにせよ暗く沈んだものだった。


「私はこの通りここを動けない。倉沼に話を通しておこう。準備にはしばらく時間がかかるだろうから、お前はあいつから連絡が来るまで適当に時間を潰して待っていればいい」

「はい。……それじゃあ、俺は家族を待たせているので」

「ああ。大事にしろよ」

 冷めた声音での応答を聞きつつ踵を返し、病室のドアを開ける。

 すると、


「先輩、ちょっと待ってください」

 いのりの声だった。首だけ振り返って続きを待つ。

「その……」

 いのりは躊躇うように口ごもっている。ここ数日ずっとこんな感じだ。何か言わなければならない一方で、それは言いづらいことでもあるのだろう。なんとなくそう思う。


 悠也はしばらく無言のままいのりの背中を見つめていたが、いつまで経っても何も言わないのでそのまま部屋を出ようとした。そしてそのとき、ようやくいのりが口を開いた。





「凛堂月乃先輩が入院してるの……知っていますか」





 意外な名前に眉根を寄せた。

「凛堂が?」

「はい、昨日の夜から」

 希凛は霧崎のベッドに体を向けたまま悠也の方を見ずに続ける。

「先輩、たまに学校でお話してましたよね。だから……一応、報告しておいた方がいいかと思いまして」

「……ありがとう。でも、なんで入院なんて」


 と、そこで悠也は先ほどのいのりの言葉を思い出しひっかかりを覚えた。


「昨日の夜から?」

「……」

 背中に嫌な汗が滲んだ。だって、いくらなんでもタイミングが良すぎる。偶然と捉えるのが難しいくらい、あまりにも。だからつい、したくもない想像をしてしまう。

 いのりの沈黙は、その想像が事実であると語っているかのように思えた。

 恐る恐る尋ねる。

「……凛堂は、面会可能な状態か?」

「それは大丈夫です。私もさっき話してきましたから」


 そうしていのりは月乃の入院している病室を教えてくれた。

 月乃の病室も個室だった。ノックをすると「どうぞ」と聞き覚えのある声が聞こえてきたが、それは悠也をより緊張させるだけだった。ドアを開けて少し進み、案外普通な様子の月乃が目に入って、ようやく悠也は少しほっとした。


 月乃は悠也の顔を見て数度瞬きした。

「……まさかお見舞いに来てくれるほど好感度が高いとは。驚きです」

「いや、俺は」

 思わず口ごもると、月乃はくすりと笑った。


「本当に嘘がつけない人ですね。幸姫が言っていた通り」


「……」

 月乃が口にした名前に、悠也の体が硬直する。気持ちの整理はつけたつもりだったが、こうして他人の口から名前を聞くとまだ平然としてはいられない。ましてその相手がなんらかの理由で昨夜から入院している凛堂月乃であれば尚更。


「私がどうしてここにいるか、もう誰かから聞きましたか」

「いや、聞いてはいない。病院に来たのも偶然だ」

「そうですか。そういえば妹さんが入院していたんでしたっけ」

「ああ。ずっと昏睡していたけど、今朝目を覚ました」

 月乃は穏やかな微笑を浮かべた。

「それはおめでとうございます」

「ああ」


 吐き気がするほど薄っぺらい会話だ。

 聞かなければならないことを聞けずにいる。だがそれはきっと月乃も同じだろう。言わなければならないことを言えずにいる。悠也と月乃。二人はクラスメイトだが、その接点としては同じ教室で授業を受ける友人というよりある人物を介しての交流が主だった。だからこそ顔を合わせた瞬間、互いに同じことを話したいのだとなんとなく察した。少なくとも悠也はそう感じた。ただ、どう切り出したらいいかわからない。


「黒宮くんは、SNSはよくチェックする方ですか」

「……いや」

 悠也は困惑ぎみに返した。月乃の意図が読めない。話したいのは幸姫のことではなかったのだろうか。


 すると月乃はスマホを操作し、悠也を手招きしてその画面を見せてきた。

「これ、なんですけど」

 表示されているのは昨夜起きた通り魔事件に対するSNSの書き込みだった。被害者とその遺族に対する薄っぺらいお悔やみの言葉。犯人への怒りが如実に表れた頭の悪そうな暴言。よくわからない理屈で事件を社会問題と関連付けているのは、聞いたこともない名前の評論家。被害者とも犯人とも何ら接点のない他人が好き勝手語っているのはうすら寒く感じられるが、彼らが薄情なわけではないだろう。誰だってそうだ。見ず知らずの他人の身に起きた悲劇など日々を彩る刺激の一つに過ぎないのだ。


 そうして見ていくうちに気になる書き込みを見つけた。

 ――こんな名前してて周りに不幸振りまいてるとか皮肉すぎる。


 ほかのと同じただ無責任なだけのコメントに見えなくもないが、決定的におかしな点がある。似たような書き込みはほかにいくつもあった。


 事件をまとめているという個人ブログのURLがあったので見てみる。中身ゼロの導入文を飛ばしてまとめの内容に目を通す。犯人は女子高生。普段は穏やかで明るい性格の生徒であった。模範的な優等生だとの証言もあるが、犯行時は髪を銀に染めていた。動機は不明だが、なんらかの精神的ショックを受けたことが引き金となったのかもしれない。犯人に兄弟姉妹がいるという情報は今のところなく一人っ子の可能性が高い。犯人の写真が見つかっている。可愛らしい女の子である。犯人はまだ捕まっていない。


 犯人の名前は、織原幸姫という。


「……なんで」

 いったいどこの誰が、そんな情報を漏らしたのか。

 脳裏をよぎったのは昨夜の橋の上で見た光景。目の前の非日常に興奮する見物人と、見世物の怪物と化した一人の少女。だが書き込みは通り魔のことばかりで、河川に現れた異形に対するものはほとんどなかった。そもそも別件として扱われているのかもしれないと悠也は自分のスマホで検索してみたが、小規模なニュースサイトの記事が数件見つかっただけで、しかもその内容も映画の宣伝ではないかという見当違いな推測が短く書かれているだけだった。


 それで察した。

 機関が情報操作をしているのだ。潤と名守が起こした事件が世間から注目されなかったように、魔術の関係した大事件を隠すために同日に起きた通り魔事件で世間の注目を引いているのだ。そうでもなければおかしい。あの惨劇を引き起こした巨大な異形が一切話題になっていないなんて。あれだけいた見物人たちの書き込みが全然見つからないだなんて。それだけならまだいい。幸姫の名前なんていったいどこから流出したというのか。十七歳の高校生のしたことがこの短時間で実名報道されているとは思えない。知り合いがたまたま気付いたとして、あの銀髪と紅瞳の少女を幸姫だと理解できた人間がどれだけいたというのか。理解できたとして、そんな真偽の怪しい情報がここまで拡散するものだろうか。するときはするのかもしれない。それでも今回の場合は作為的なものを感じずにはいられない。あるいはそれは悠也が魔術師を知っているからそう思ってしまうだけなのだろうか。

 考えを巡らせ、やがてそんなことを考えられる程度に冷静な自分に嫌気が差してやめた。


「黒宮くんはどう思いますか」

 月乃が曖昧に聞いてきた。答えずにいると、月乃は続けた。

「私は……幸姫に殺されかけました。でも、それがわかっていても私は、幸姫がそんな風に好き勝手言われているのが許せません」


 月乃の肩は震えている。それがどんな感情によるものなのか、悠也には想像するしかない。悲しいのか、悔しいのか、腹立たしいのか。たぶんその全部だろう。


「お医者様に言われました。私が助かったのは見かけよりもずっと傷が浅かったおかげで、それは奇跡といってもいいくらいのことなのだと。……私には、幸姫がわざとそうしてくれたように思えるんです」

「……」


 それは違うと、冷静な悠也の思考は告げていた。

 月乃は首に仰々しいギプスのようなものをつけている。傷つけられたのがそこなのだろうし、それなりに深い傷だったのだろう。だとすれば医者の言う通り、生還したのは奇跡的だ。普通なら死んでいると悠也も思う。


 そう、普通なら死んでいた。だが普通でない条件が揃っていた。

 それだけのことだ。


 幸姫は破荒によって魔族と契約させられ、彩夜に近しい状態にあった。彩夜の場合と違って血を吸われた人のほとんどが死亡したが、不死身とまでは行かずとも再生能力を得ていた可能性は考えられる。傷が浅かった理由はそこにあるのではないか。少なくとも月乃の語る想像よりはそう考えた方が現実的だ。


「黒宮くんは、どう思いますか」

 祈るように。あるいは縋るように。月乃はそう尋ねてきた。


 悠也は「そうだといいな」とだけ返した。

 月乃から魔力は感じない。血を吸った幸姫が消滅しているのだから当然で、悠也の仮説は確かめようがない。そもそも魔術のことは月乃には話せない。だとすればわざわざ指摘する必要はない。思いたいように思えている方が救いがある。


 悠也がそれで口を閉ざすと、月乃はまた聞いてきた。

「黒宮くんのところに、幸姫から連絡はありましたか」

「いや」

 来るはずがない。幸姫は既に死んでいる。だがそれを知るのは一連の事件の真相を知るごく一部の人間だけで、世間一般では行方不明ということになっている。だから月乃も知らない。知らない方がいいかどうかはわからないが、悠也の口からは言えない。


「……そうですか」

 何かに落胆したような声だった。

「もし連絡があったら、絶対力になってあげてくださいね。幸姫が誰かに頼るとしたら、それはきっと黒宮くんだと思うので」

「……買い被り過ぎだ」





 黒宮悠也は織原幸姫のためにはなれなかった。だから幸姫は死んだのだ。





「そろそろ帰るよ」

「もうですか。……もう少し話したかった気もしますけど」

「ごめん、妹のとこに戻らないといけなくてさ」

「……それなら仕方がありませんね。いえ、謝ることじゃありません。――幸姫のこと、よろしくお願いします」

 悠也は返事をせずに病室を出た。






    ◇






 通路を歩いて悠香のいる部屋に戻ると、和久と遙と悠香が一斉に悠也の方を見た。

「遅かったじゃない。どこまで行ってたのよ」

「ごめん、偶然知り合いに会ってさ。話してたら遅くなった」

「はいこれ、絆創膏。自分で貼れる?」

「貼れるに決まってるだろ。……ありがとう」

 言いながら絆創膏を受け取り指先の傷口に貼る。


「悠也はこのあとどうする。父さんと母さんはこれから仕事だが」

「ん、結局行くことにはなったのか」

「そりゃいきなり丸一日は休めないさ。やることは山積みだ」

「私は今日仕事行く分お見舞いは毎日来る予定だけどね」

 和久に続けて遙が言った。

 悠香はずっと寝たきりだったため、目覚めたからすぐに退院というわけにはいかない。遙の言う通り、今日一日ずっといるよりも毎日短時間でも見舞いに来た方が悠香のためになるかもしれない。


「俺もできるだけ来るようにするよ。今夏休みだし」

「ごめんねお兄ちゃん、寂しい思いさせて」

「いや逆だろ。……とりあえず、俺はもう少し残る。急ぐ用もないから」

「そう。じゃあ気をつけて帰ってきなさい」

「はいはい。二人も仕事頑張ってくれ」


 そんな調子で和久と遙は病室を出ていった。それを視線で見送り、ふと病室内のほかのベッドに意識が向く。霧崎や月乃の病室と異なり、ここは複数の患者がいる相部屋。しかもそのすべてが悠香と同じ昏睡事件の被害者で、まだ目を覚ましていない。


 ふと、ほかの患者の親族が見舞いに来るところを想像する。難しいことではない。つい先日までは悠也もその一人としてこの病室を訪れていて、ほかの見舞客と軽く挨拶を交わしたこともある。曖昧な表情はお互いを慰め合うような感じだった。


 だが悠香は目を覚ました。奇跡的に。幸福なことに。


 ほかの見舞客が見たらどう思うだろう。悠香が目覚めたことで希望を抱いてくれるだろうか。そうだったらいいが、実際はどうして自分の家族じゃないんだと妬まれるだけのような気もする。そう考えると二人が仕事に行って良かったと悠也は思う。さっきまでのバカ騒ぎをほかの見舞客が目にしたら、きっと悲痛な思いをしていたはずだ。早朝から駆け付けたおかげかそうならなかったのは幸いというべきなのだろう。きっと。


 つくづくこの世界は不条理だ。そう実感せずにはいられない。


「なーに暗い顔してんの」

 悠香が言った。悠也は丸椅子に腰かけながら答える。

「別にいつも通りだ」


「いやー確かにいつも暗い顔してるけどさ、今日は一分増しで酷いって」

「一割もないのかよ」

「うん、だってここそんな暗くないし」

「暗い顔というのは照明の輝度を表す言葉ではないんだが」

 くだらない会話だ。でもここで眠った患者たちにはそれもできない。悠香もずっとできなかった。それができている今は、幸福だ。幸福は得難いものだ。


 ――それがどれだけ得難いものかわからないのか。


 霧崎に言われるまでもなくわかっている。客観的に見て悠也は恵まれている。一度は失う覚悟をした家族との時間を取り戻している。悠香が目を覚ましたことで。そして彩夜が消えたことで。悠也がそれをどう思おうと他者から見た悠也はきっと幸福で、羨み妬むべきものを手に入れているのだ。


 それを手放そうとするのは唾棄すべき愚行だ。

 わかっている。全部、ちゃんとわかっているのだ。


「何か気になることでもあるの?」

 何気ない口調で悠香は聞いてきた。

 反射的に「別に」とだけ返した。

「本当に?」

 重ねられた問いに、悠也は少しだけ考え込む。それから答える。

「……ないわけじゃないな。あるよ。でも、お前に話すようなことじゃない」

「そっか。まあ、私お兄ちゃんの悩みなんて聞く気ないからそれでいいけど」

「おい」

「けど、元気ないのはちょっと心配」


 思わず顔を上げた。切なげな微笑を浮かべる悠香と目が合った。その時になって、悠也は自分が悠香の顔をまともに見ていなかったことに気付いた。戻って来てからずっと悠香とは別の方を向いていた気がする。視線ではなく、たぶん、心が。


 黒宮悠香は大切な妹だ。その気持ちに偽りはない。両親が共働きでほとんど家にいないのもあって、悠也と悠香はこれまでの人生の多くの時間を二人で過ごしてきた。二人で食事をして二人でテレビを見て二人で他愛もない雑談をするのが学校から帰った後の日常だった。二人で出かけるようなことはほとんどなかったし特別親しいという実感もなかったけれど、きっと兄妹としては仲のいい方に分類されるはずだと確信していた。


 その悠香が長い眠りから目を覚まして、今目の前にいる。それなのに悠也の心はまったく別の方を向いていた。薄情にも程がある。だがそんな薄情な兄を悠香は心配だと言った。


「私に気を遣ってるつもりなんでしょ」

「……そんなつもりは」

 ない、とは言い切れなかった。一人にしたら悠香が寂しい思いをするんじゃないかと思った。だから倉沼からの連絡をここで待つのもいいだろうと考えた。誰かが悠香の傍にいてあげるべきだと判断してここに残った。


 でも、気持ちはまったく別の方を向いていた。

 考えているのはこの後のことだ。恵まれている今の境遇を踏まえた上で、この後の自分が取る行動の意味を自分自身に問いかけている。


「私に下手な気を遣ってる暇があったら、さっさと自分のしたいことしに行けばいいんじゃないの?」

 拗ねたようなわざとらしい口調だった。だがそれは悠香なりの照れ隠しだ。


 それで悠也は感慨深い気持ちになって、大きく息を吐いた。

「……お前、寝てる間に大人になったな」

「そんなわけないでしょ!? 前からだよ!」

「そっか。寝る子は育つっていうからてっきり成長したのかと」

「成長っていうかたぶんダイエットに成功しちゃった感じですけど」


 やはりくだらない会話だ。それができる今はやはり幸せだ。


 悠也は立ち上がった。

「……ありがとな。行ってくる」

「はいはい。どうぞどうぞ行ってらっしゃーい」

 投げやりに言った悠香は、しかしその後思い出したように付け足す。

「あ、そうだお兄ちゃん一個だけ」

「なんだ」

「次回の差し入れはケーキとシュークリームでお願いします。わかってるよね?」

「……ああ。約束だからな」

 ケーキはカフェ・Vivreのチョコレートケーキ。シュークリームは駅前の洋菓子屋で売っている悠香お気に入りの一品。それからポテチも必要だ。全部ちゃんと覚えている。


 約束は大事だ。

 約束とは未来に期待し、期待させることだ。だから守られれば嬉しいし、破られれば落胆する。果たせれば安心するし、果たせなければ後ろ暗い気持ちになる。不安になるのは嫌で、だから不安にさせたくないと思う。そう考えると、どんな些細な約束でもそれを果たすことには何か意味があるように感じてしまう。特に、大切な人との約束は。


 だから行動せずにはいられないのだ。

 たとえそれが、明らかな愚行だったとしても。


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