最後の夜
惨殺された友人の亡骸を改めて見てみると案外堪えて、霧崎はなんとも言えない気持ちになった。そもそも友人と呼べる間柄だったのかどうかも定かではないのだ。かつてはそうだったはずだが、自分が復讐のみを胸に生きるようになってからは自信がない。だからここまで感傷的な気分になるとは思いもしなかった。
心童葵は霧崎楓とは対極に位置する人柄の女だった。
例えば外見。
霧崎は昔から自分の容姿には無頓着な方だが、葵はそうではなかった。頻繁に髪を染め直しては感想を聞いてきたが、霧崎にはそういう微妙な色の違いがよくわからなくて怒られた。当時はまだセーラー服を着ていた頃だからそこまで奇抜な色にはしていなかった。先生にも気付かれないような色で染めても誰も気付かなくて意味ないんじゃないかと思ったけれど、葵は楽しそうだった。
例えば社交性。
葵はクラスの中心人物というわけではなかったが、目立つ方のグループに所属していた。誰といても人懐っこい笑顔を絶やさなかった彼女は多くの人たちと友好的な関係を築いていた。対して霧崎は自分から誰かと会話するようなことは稀だったから、学校では孤立気味だった。
片や笑顔で明るくて社交的、片や無愛想で暗くて非社交的。
そんな二人が友人になれたのは、ある共通点があったからだ。
魔術。
二人の家はどちらも魔術師の家だった。
初めてまともな交友を持ったのは、葵が父親に連れられて霧崎の家に来た中学生の時だ。霧崎は小学生の頃から葵が魔術師であることを見抜いていたが葵はそうではなかったらしく、クラスメイトが魔術師という事実に随分驚いていたのを覚えている。
葵が霧崎の家に連れてこられたのは、卓越した魔術師であった霧崎の父に魔術の教えを請うためだった。父親同士は機関に命じられた仕事で幾度も顔を合わせていたらしく、そこで娘の話が出たことでそういう流れになったらしい。
霧崎にとって意外だったのは、学校ではどちらかというと素行不良だった葵の魔術を学ぶ姿勢が、真剣そのものだったことだ。魔術師の能力は才能に依拠する部分が大きいものの、努力によってできること増やしていくのは充分に可能だ。努力を惜しまないその様を見て、霧崎は初めて葵に好感を抱いた。
そうして特に意識もしないうちに、気付けば一緒にいる時間が長くなっていた。
葵には葵の交友関係があったため変わらず学校での霧崎は一人だったが、放課後はほとんど毎日一緒に過ごした。魔術の研鑽に励む傍ら、葵の愚痴に付き合ったりもした。いつも人懐っこい笑顔を浮かべていた葵でも他者に対して黒い感情は抱いているもので、それを聞くとどうしてだか心が安らいだ。
そんな関係を、霧崎が一方的に終わらせた。
父親を失った悲哀が、葵と一緒にいる時間を楽しく感じる自分を許さなかった。
わかっていた。葵に言われるまでもなく、自分が意地を張っていただけだということは。
だがそれは葵も同じだったと思う。どうしてあんなに自分なんかに執着していたのか、霧崎にはまるでわからない。いや、わかった気になるのが怖いのか。それすらもよくわからない。考えたくない。考えるのも怖い。
「馬鹿だな、お互い。割に合わない」
霧崎はそう呟くと、葵の死体に背を向けて歩き出した。いくら周囲の注意が崩落した橋の方に向いているとはいえ、死体の目の前で佇んでいるのを見られるとまずい。それにいつまでもここにいたところで何ができるわけでもない。
心童葵は死んだのだ。
もはや霧崎の復讐を妨げるものは何もない。
霧崎は思考を切り替える。
復讐を遂行する。そのために今考えるべきは、幸姫と悠也が発現させた魔術についてだ。
彼らの契約魔族の有する特性は彩夜と同じ不死身のはずだった。だから始めは幸姫だけが別の魔族を含めた二重契約をさせられたのかとも考えたが、悠也が同じ力を使ったことでその線は消えた。そもそも『魔術師の勘』で捉えられる気配がまったく同質だったのだから契約魔族も同一と考えるべきなのだ。彩夜も含めて三人とも。否、おそらくは破荒墨影も同一の魔族と契約している。だからこそ考察する価値がある。
周囲の物質を取り込み自分の肉体の一部にする力。
あるいは、周囲の物質を自在に操る力。
性質が契約魔族に依存するという魔術の原則に従えば、それらはいずれも不死身と同様の魔族の性質から生じたものであるはずだ。そこがわからない。外部のものを自分の一部にする力なのだとしたら、何故不死身になれるのか。
そもそも不死身という表現が間違っている可能性もある。破荒墨影は確認されている限りで二百年以上生きているが、その命に本当に限りがないかどうかはわからない。
傷の再生については、飛び散った血肉を自分の魔術でもう一度自分の一部にしていると考えたらどうか。一見それっぽくはあるが、彩夜が傷を再生したあとも飛び散った血液はそのままになっていたはずだ。辻褄が合わない。
何かがおかしい。
何らかの前提が間違っているのか。
実は皆二重契約だったとしたらどうか。可能性がないとはいえないが、二重契約に耐えた魔術師など魔術の歴史上数えるほどしかいない。彩夜だけでなく彩夜に血を吸われた人々まで正気を保っていられたというのは奇妙に思える。
それに何より、彩夜は幸姫や悠也が起こした奇妙な現象を一切発生させていない。
この差はどうして生まれたのか。
「そういえば、小娘が黒宮について何か言っていたな……」
彩夜の故郷で起きた出来事の報告の最中だ。悠也の暴走について前兆はなかったかと尋ねた霧崎に、彩夜は悠也の身体能力が上がっていた気がすると答えた。彩夜の例に倣うなら、それは魔族による魂の侵食が進行したことを意味している。だがその一方で、今日霧崎が見た悠也は彩夜に迫るほどの身体能力を有しているようには見えなかった。
仮説を立ててみる。不死身はあくまでも魔族の持つ性質のごく一部であり、悠也はなんらかのきっかけでそれ以上の力を引き出すことに成功した。その際に魔族と魂の結びつきが強くなり、一時的に魂の侵食も進行した。
もしそうだとすれば、やはりすべての現象は一体の契約魔族が有する力によるものということになる。二重契約ではない。
だがその力とはなんだろうか。どんな性質ならその現象すべてに説明をつけられるのか。
霧崎の場合、契約魔族の有する性質は『切断』であると認識している。あくまでも霧崎がそう解釈しているだけで魔族が申告したものではないが、そう捉えることで自分の魔術に説明がつく。例えば跡切刀は人の記憶を消し去ることができるが、それはあくまでも存在を世界から切り取るという現象の副次的な効果に過ぎない。
「……世界?」
ふと、何かがひらめきかけた。
魔術が扱うのは異世界の法則だ。故にその能力はこの世界を支配する物理法則の枠に囚われない。ときにはこの世界そのものに作用し絶大な効力を及ぼすこともある。
「そういう、ことなのか……?」
馬鹿げた妄想が浮かんできた。しかしその妄想の通りなら、ここまでの考察すべてに矛盾なく説明をつけられる。
「……だとすれば、あいつらはもう人間と呼んでいいかすら怪しいぞ」
いくらなんでもありえないだろう。そう否定しそうになるが、しかし考えれば考えるほどに妄想は真実みを増していく。それが答えなのだと霧崎の理性が主張する。
思わず笑いが込み上げてきた。
もしもこれが答えなのだとしたら――。
「私はあの男を殺せる。やつは無敵なんかじゃない」
込み上げた笑いが歓喜の微笑に変わっていくのを霧崎は感じた。
復讐を完遂できるかどうか、正直半信半疑になりかけていた。破荒の契約魔族の性質によっては不可能かもしれないとすら思った。葵の死も重なって自分には復讐などできないのではないかと思いかけた。
だが違った。
この推測通りなら、破荒には霧崎の魔術で充分に対抗できる。決して無謀などではない。
もっとも、今はまだ破荒の居場所がわからないのでどうしようもないが。
しかしそれもいずれは突き止める。そして、絶対に復讐を完遂する。
ふと、雑念が脳裏に浮かぶ。
復讐を完遂したとき、自分は何を思うのだろうか。復讐だけを胸に生きてきた。必死になってそれに縋ってきた。だがそれを果たしてしまったら、自分はどうなるのだろうか。
「おい、〈切断の魔術師〉さんよ。ちょっといいか」
振り返ると、そこにはカフェ・Vivreの店長熊井がいた。熊井は魔術師ではないが、魔術師の存在を知る機関の協力者である。
「何か用か」
「用がなきゃ話しかけねえよ。サングラスの野郎からあんたの様子を見てきてほしいと頼まれてな。なんだか大事になってたみてえだが、とりあえずは無事で何より」
「そうか。やつは無事か?」
「死んではいなかったな。歩くのがやっとってとこだろうが」
倉沼は魔術で傷口を塞げるためさほど心配していたわけではなかったが、そう口にされると少しは安堵の気持ちが湧いた。
そんな霧崎へ向けて、熊井は「ああそれと、」とついでのように続けた。
「例の魔力の持ち主は見つかったのか。さっき一際でかいのがあったが今は消えてる。あんたらがやったってんなら、俺はお役御免ってことでいいのか」
「例の魔力?」
「ああ。……なんだ、あんたの指示じゃねえのか。高台で見つかった魔力が誰のか特定してくれって話だったんだが」
熊井は訝るような顔をし、霧崎もまたその不可解さに眉をひそめた。
確かに霧崎は昨夜高台の公園で起きた爆発の調査を倉沼に頼んでいた。葵が関わっているかもしれないと思ってのことだが、その後の魔術師特定の依頼については覚えがない。
――一際でかいのがあったが今は消えてる。
その言葉を信じるなら、例の魔力とは幸姫のものだ。幸姫と葵が戦ったということだろうか。
そこまで考えて、あることを思い出す。
「……それは、昨夜の爆発現場で黒宮たちと同じ魔力が検出されたという話だな?」
確認のためにそう尋ねた霧崎は、期待と緊張に心臓の鼓動が早まるのを感じていた。
昨夜、悠也と彩夜はこのまちにいなかった。いたとすれば幸姫だが、一昨日までは魔族と契約などしていなかった。契約したのはそれ以降。だからつまり、幸姫はその間にあの男と接触したということになる。
――あのね楓。あたし、破荒墨影に会ったの。
葵はそう言っていた。
点と点が線で繋がる。
高揚感が胸を満たす。
「それだ。やっぱりあんたも把握してんじゃねえか」
倉沼は霧崎の様子の変化に気付かない。
「念のため高台の方にも行ってみたが、そっちはまだ魔力がはっきりと残ってた。市街のとはまるで密度が違う。うまく説明できねえが、何か捻じれてるって感じだ」
破荒墨影は神出鬼没の魔術師だ。その潜伏場所は定かではないが、おそらくなんらかの手段で物理的な距離を無視して移動している。捻じれているというのは、熊井なりに破荒が移動した後の空間の歪みを感じ取ったということだろう。流石、『魔術師の勘』の精度を理由に生かされているだけのことはある。
離れた空間を移動する手段。それが何かはわからないが、関係ない。こちらには類似の空間跳躍を行える倉沼がいる。この日のための特殊な魔術は随分昔に構成し、微調整だけでいつでも使用可能な状態になっている。
ようやくその尻尾を掴んだ。
絶対に逃がしはしない。
「お手柄だよ、お前。報酬はいくらでも弾んでやる」
「そりゃどうも。だが俺が聞きたいのはあの魔力と悠也たちにどんな繋がりがあるのかだ。あんたなら何か知ってるんじゃねえのか」
「知ってるさ。ああ、良く知ってる。だから安心しろ」
霧崎は唇を薄く歪め、心の中で宣言する。
私があの男を殺す。
それで終わりだ、何もかも。
◇
何度訪れても、悠也の部屋が特徴に乏しい平凡な部屋であるのは変わらない。
入って左手、出窓側の壁に沿ってベッドと洋服掛け。その向かいに学習机、本棚、箪笥と並ぶ。それだけ。スポーツ選手のポスターだとかプラモデルの模型だとか、そういう趣味嗜好の際立つものは何一つない。かといって小奇麗でおしゃれというわけでもなく、あえて悪い言い方をすれば面白みに欠ける。
しかしそんな部屋に一人でいるのも、今の彩夜には心地良く感じられた。
悠也はシャワーを浴びている。お互い泥だらけだったので冗談で一緒に浴びようかと提案してみたら案の定断られて、悠也の勧めで彩夜が先に浴びることになった。その間ふいに両親が帰ってきた場合に備えて悠也は脱衣所で待機していて、だから風呂場から話しかけてみたりもしたけど反応は悪くて、なんだか無性に切なくなる感じがしてやめた。
空回ってるな、と思う。
悠也にしてみれば能天気な会話ができないのは当然だ。あるいは彩夜も一緒に悲嘆に暮れるべきなのかもしれない。
でもそれをすると嘘になる。幸姫を救えなかったことへの負い目もあるし、彼女の死を悲しく思っているのは本当だが、悠也のそれには遠く及ばない。そんな彩夜が白々しく悲しんで見せたところで、悠也を余計に傷つけてしまう気がする。
そんなふうに考えると、かけるべき言葉が見つからなかった。
だが黙っているのは無理だった。何か言ってあげたくて仕方なくて、その結果ああなった。正しいかどうかはともかくとして、そうしたかったからそうした。
無神経で身勝手な自覚はある。
だが、彩夜はそれに救われた。
死にたいと懇願する彩夜に、悠也は自分勝手な言葉ばかり突き付けてきた。彩夜のためとかそういう綺麗事は言わなかった。ただ自分が彩夜に死んでほしくないのだと、そのためなら彩夜がバケモノになっても構わないのだと言い切った。
あんな無神経はそうそうない。でも確かにその言葉に救われたから彩夜は今悠也の部屋にいて、悠也がシャワーを浴び終えるのを待っている。
誰かの自分勝手な「そうしたい」が、ほかの誰かを救うこともある。
生きていてほしい。泣かないでほしい。落ち込まないで欲しい。元気でいてほしい。笑っていてほしい。そんな願いはどれも押し付けがましい独りよがりだ。だけどそう思ってくれる人がいるだけで少し気持ちが楽になる。勝手にわかったようなことを言われて煩わしく感じたりもするけど、それでも自分で気付かないうちにちゃんと救われている。
まあ、どんなときもそうだとは保証できないけれど。
でも、そうだったらいいとは思う。
だから彩夜はやっぱり悠也のことを考える。どんなことをしてあげたいかを考える。たまに脱線して、してもらいたいことを考えてしまったりもする。悠也の部屋にいるという状況が悪いのか馬鹿げた妄想に浸ってしまう。してあげたいこととしてもらいたいことの境界がだんだん曖昧になってきて、一緒にしたいことに思いを馳せる。
そうしている内に時間が溶けた。
「悪い、待たせた」
悠也がそう言って部屋に入って来る。
「ううん、一人でいるのも悪くなかった」
「そうか」
彩夜がベッドに腰かけていたからか、悠也は机の前の椅子に座った。
とんとん、と隣を叩く。悠也が不審そうな顔をするので、もう少し強く隣を叩く。
「いや、別にここでいいだろ」
「じゃなくて。そろそろ限界なの」
「……ああ、そういうことか」
悠也は納得した様子で彩夜の左隣に腰かけ、右手を彩夜の顔の前に差し出してきた。
彩夜は目の前の手の親指の付け根辺りに齧り付く。犬歯が肌を突き刺し血が滲み出る。
しばらくそうしていると、ふいに悠也が口を開いた。
「この話をお前にすべきかどうかは、少し悩むところなんだが」
なんの話だろうと興味を持ちつつも、彩夜は無言で吸血を続ける。
「織原はさ、俺にとって特別だったんだ」
ちらりと横顔を窺う。悠也は何を考えているかわからない顔で、ただ淡々と言葉を紡ぐ。
「すごい頑張り屋で、輝いて見えて、ありていに言えば憧れた。傍にいるのが奇跡みたいで、でも潤がいたから肩身が狭くて、少し居心地悪い感じもして、だけどそういうのも悪くなかった。二人とも俺の気なんて知りもしないでさ。いや、知ってたのかもしれないけど、それでも一緒に笑ってくれた。俺にとって、それは本当に幸福なことだったんだ」
でも、と悠也は抑揚の小さい声で続ける。
「潤を殺してから、気付かない内に特別の意味が変わっていた。織原は笑顔でいてくれなきゃいけなくなったし、幸せになってくれなきゃいけなくなった。ずっとそうあってほしいと思っていたはずなのに、いつの間にかそうでなくてはいけないものになっていた。潤がそう言い残したからってのもあるけど、でも、たぶん俺がそう思わなきゃやっていられなかったんだ。理由がないと織原の傍にはいられなかった」
彩夜の胸に刺すような痛みが走り、だんだんと鈍く疼き始める。負い目があるから理由がないと傍にいられないという境遇に、感じるところがあったのかもしれない。ただ彩夜はそれで悩んでいるわけではない。あるいは、悩んでいないから後ろめたいのか。
自然と吸血をやめていた。衝動はすっかり収まっていた。
悠也は大きく深呼吸してから言う。
「馬鹿だよなぁ。本当は、遠ざけなきゃいけなかったのに」
表情は穏やかだった。
「俺が織原と魔術の接点になるって、わかってた。ちゃんとわかってたんだ。でも、俺は周りの人たちを悲しませないように生きなきゃいけない、だから織原を傷つけるようなことを言っちゃいけない……それを都合の良い言い訳に使った。本当に織原のことを大切に思うなら、傷つけてでも距離を置くべきだったのに」
「そんなことないよ。元はと言えば私がそうさせたんだから。悠也は悪くない」
「……そう思えれば良かったな。でも、選んだのは俺だ。わかるだろ」
たとえきっかけが誰かに与えられたものでも、選んだのは自分だ。だから責任から逃れられない。そんな、どこかで聞いた話。
悠也は自嘲気味に口端を上げた。
「結局、俺が大事だったのは俺なんだ。織原のことなんか、まるで考えちゃいなかった」
そこに滲んでいたのは、諦めに似た感情だった。
だから淡々と語っていられるし、穏やかな表情のままでいられるのかもしれない。その結論は悠也にとって単なる事実でしかないから。自分はその程度の人間だったと受け入れて、この結果はどうしようもないものだったと諦めた。そこには後悔すら残っていない。
彩夜の頭に浮かんだのは、陳腐でありふれた言葉だった。
「やっぱり、悠也は何も悪くないよ」
悠也が彩夜の方を見てくる。その瞳はあくまでも無感動なまま。
そんな悠也に向けて、彩夜はただ思ったことを――言ってあげたいことを口にする。
「確かに悠也は自分勝手かもしれない。でもね、自分勝手だから誰かを大切に想っていないなんてことにはならないの。なってほしくない。悠也は彼女を心から大切に想っていた。それでいいの。どんなに結末が悲しくても、それは否定しなくていいことだと思う」
どんな命にも終わりはある。それはきっと不死の彩夜も例外ではない。死はある日突然望まない形でやってきて、残された人を耐え難く悲しい気持ちにさせるのだろう。
だけど、その過程で芽生えた想いはきっと尊いものだ。それを否定する必要はどこにもない。
「……そうだな。そうかもしれない」
悠也は僅かに顔を上げた。
「俺にとって織原は特別で、大切だった。潤もそうだった。あの時間は楽しくて、俺にはもったいないくらいの幸福だった。それでいいのかもしれない」
表情が大きく変化したわけではないけれど、その顔はどこか清々として見えた。
「悪いな、つまらない話をして。たぶん気持ちの整理をつけたかったんだ」
「つまらなくなんかないよ。大事な話でしょ」
「……そうだな」
それから悠也は何か考えるように黙り込んで、床を見たまま唐突に口を開いた。
「どこにも行くなよ」
「え……?」
突然過ぎて真意を察せずにいる彩夜に、悠也は続けて言った。
「俺はこれからも生き続ける。織原を守れず、私怨で人を殺しておいて、のうのうと、無責任に。死ぬのは駄目だとお前が言った。俺もお前にそう言った。だから……一人で消えるのは無しだ。絶対に」
少しだけ、呼吸を忘れた。
それから自然と微笑が浮かんできて、彩夜は自分でも意識しないうちに口を開いた。
「……うん。どこにも行かないよ。絶対」
数多の物語の中で、自立は良いことだと描かれる。依存はいけないことだと。一人で立っていられることが偉いのだと誰もが言う。
本当にそうだろうか。
だってこんなに幸せなのに。こんなに、悠也のために生きたいのに。
この気持ちが、この在り方が、間違っているのだろうか。
間違っているのかもしれない。でもそれで構わない。二人で生きていくしか自分たちにはきっとできない。そう思うから、それでいい。どうせ間違い続きの人生だ。
さっきまで血を吸っていた悠也の右手を左手で握った。
悠也は少し驚いたようだったが、握り返してくれた。
しばらくは無言で、その幸福に身を委ねた。
「明日霧崎さんに話をして、できるだけ早くここを離れよう」
「……高校を卒業するまではいるんじゃなかったの?」
「事情が変わった。俺がここにいたら、次は父さんや母さんが悲惨な目に遭うかもしれない。……もっと早く、悠香が巻き込まれた時点でそうしておくべきだったんだ」
「……そっか」
そうかもしれない。
自分勝手に生きることを決めたからには、周りに迷惑はかけられない。
「私たちさ、いつか天罰が下るかな」
「……どうだろうな。俺は宗教的なものは信じていないから……でも、下るべきだと思うよ。そうじゃなきゃ理不尽だ」
悠也らしい答えだ。だけど少しだけ疑問に思う。
確かにその考えには頷ける。世の中は因果応報であるべきだ。それなら何もかもが自己責任。いいことをすればいいことが返ってくるし、悪いことをした人には罰が当たる。それは誰もに平等な素晴らしい世界のはずだ。
でも、それは寂しいことかもしれない。
何もかもが因果応報な世界なら、どんな善行も利己的な行為にすり替わってしまう。自分のために誰かに優しくできるのは素敵なことのようにも思えるけれど、みんながそうならそこはきっと優しい世界になるのだろうけれど、どこか空虚な気がしてしまう。
無償の愛があったっていい。
だって、誰かを好きになるのはもうそれだけで素敵なことだ。好きで好きでたまらなくてどうしようもなく気持ちが溢れてきて、その気持ちだけでもう充分だ。その気持ちから生じる行動は、決して見返りを求めるものなんかじゃない。ただその人に幸せになってもらいたくて、苦しんでほしくなんかなくて、居ても立っても居られないだけなのだ。
すべてが因果応報な世の中だったら、こんな感情は知らなかった。
彩夜が自分を大切にできない人殺しじゃなかったら、こんな気持ちにはなれなかった。
「ねえ悠也。私さ、思ったんだけど……」
「……」
「悠也?」
反応がないのを奇妙に思って見てみると、悠也は座ったまま眠ってしまっていた。
思わず笑みがこぼれる。
「よっぽど疲れてたんだ」
考えてみれば、彩夜のことを探して歩き回っていたのがつい昨日のことだ。帰って来て早々にこんなことがあったのでは疲れ切って寝てしまうのも無理はない。
まあ、話すのはまた今度でいいだろう。
正直助かった。なんだか今の気分のまま話をしたら、伝えなくていいことまで勢いで伝えてしまいそうだ。今はそんなことはしなくていい。この気持ちは見返りを求めるものではないのだから。握り返してくれたこの手の温もりだけで、有り余るほど幸せなのだから。
幸せ過ぎて罰が当たりそう。さっきの質問はそういう意味だ。
大勢の人が死んで、悠也の大切な人が死んで、それは彩夜のせいでもあって、それなのにこんなに幸せな気持ちでいる。こんな理不尽なことがほかにあるだろうか。悠也なら全力で怒っているところだ。……なんて、実際悠也は他人に激甘なタイプなので、そうはならない気もするけれど。
そんなことを思いながら、座ったまま寝ている悠也の横顔を眺めてみる。
……。
…………。
………………ちょっとだけ、訂正。
この手の温もりだけで幸せなのは間違いないけれど、やはり自分は贅沢な人間らしい。
少しだけ。そんな思いで隣の悠也に体重を預ける。寝ている悠也が倒れないようにそっと、本当にほんの少しだけ。触れたところが温かくて、悠也の静かな寝息がさっきより少し近くに聞こえる。心臓の鼓動が加速する。昨夜の吸血の姿勢はほとんど抱き合ったようなものだったし、キスだってしているのだけれど、気持ちが曖昧で開き直っていただけの昨日と今とでは感じ方も少し違う。いややっぱり同じかもしれない。でもとにかく今はこれで充分。そういうことにしておかないとブレーキが利かなくなりそうな予感がする。何せ今の自分はしっかり自覚する程度には狂ってしまっているのだ。
でも、それでいい。
気が狂うのも悪くない。
霧崎に告げたその言葉は偽りのない本音だ。むしろ少し不足していた気さえする。
断言できる。気が狂っている今が、これまでの人生のどんなときより幸せだと。
――そうして、しばらくの時間が経った。
肩を触れさせたまま少しだけ微睡の中に落ちて、なんてことのない夢を見た。
名残惜しい気持ちを振り払い、ゆっくりと立ち上がる。
パジャマから外出できる服装に着替えて、念のため机に置いてあった跡切刀を持って、以前の反省で部屋の中に持ち込んでいたレディースサンダルを手にして、出窓を開ける。
「ちゃんと、帰ってくるからね」
まだ寝ている悠也へと振り返り告げた。
「行ってきます」
以上で第4章は完結です。
残すは第5章とエピローグのみとなりました。
読んで良かったと思える結末を迎えられるよう精一杯励みますので、最後までお付き合いいただけると幸いです。




