いつまで生きれば
「ッ、離れろ小娘! まだ終わっていない!」
叫ぶのは少し遅かった。
突如として泥が吹き上がる。さながら旋風の如く吹き荒れる。
巻き込まれ空中に放り出された彩夜は、空中で猫のように器用に身を捻り霧崎のすぐ傍に着地した。
泥の旋風が散る。
そこに立つ悠也の体は、欠けた部分が泥で補修されていた。
「あれって、あの子と同じ……」
「ああ、人体でないものへと変貌しようとしているんだ。存在を保つために」
言いながら、しかし霧崎はハッとした。
存在を保つために肉体を拡張する。幸姫がしたのと同じことを悠也もした。泥で塞がれた傷口がその証拠。
だがそうさせる原因はなんだったか。
判断から行動までは迅速だ。〈千本骨刃鎧刀〉が悠也に挟みこんだという情報を消去する。その肉体の再生を妨げる「切断された」という情報を。
それによって悠也の肉体は再生を開始する。傷口を覆う泥がぼろぼろと崩れ落ち、その下から通常の皮膚が現れる。
気づくのが遅かった。
周囲のものを取り込んで自分を拡張しようとするのは、そうしなければ自分の体を保てないからだ。そうしていたのは霧崎の刃が備えた性質だ。
だからつまり、霧崎が中途半端に傷をつけなければそれで済んだのだ。
(……だからといって何もせずに解決したとも思えんが)
考えるのは織原幸姫のことだ。
霧崎が手を出す以前から幸姫は理性を失っていた。自我を制御できていなかった。そんな状態でまだ救えたとは思わない。
だから、後悔は殺したことに対してではない。
どこかでそれをしたくないと感じていた自分が、彼女の殺害に時間をかけ過ぎたのが問題だった。もっと無慈悲になるべきだった。一切の容赦をせず彼女を肉片以下の残骸になるまで切り刻んでしまえばよかった。悠也が来る前にすべてを終わらせておくべきだった。倉沼の言葉に惑わされたりせず。そうすれば、被害がここまで拡大することはなかったかもしれないのだ。
(……まあいい。今は黒宮だ)
小さく息を吐き、気持ちを切り替える。
この反省を元に、自分は目の前の黒宮悠也にどう対処すべきなのか。
外部に肉体を拡張し続けた幸姫も、幾度となく肉体を切り裂かれた後、最期には泥の塊と成り果てて消滅した。同じ方法を取れば悠也を殺しきることも不可能ではないだろう。
だが、その過程でまた同じような化け物になるとしたら。
しかも悠也は幸姫と異なり霧崎の刃すらも自分の一部に変えてしまう。同じようにうまくいくとは限らない。殺し切る前に〈千本骨刃鎧刀〉の支配権を完全に奪われでもすればそれこそ手がつけられなくなる。
なら跡切刀ではどうか。おそらくはより簡単に殺しきれるはずだ。切られたという情報を付与する〈骨刃〉と異なり、跡切刀は黒宮悠也が存在するという事象そのものを消し去れる。しかし遠隔操作可能な〈骨刃〉と異なり、跡切刀は直接手に持って悠也に突き立てなければならない。仮にも魔族化状態の身体能力を発揮する今の悠也を相手に、それは現実的と言えるだろうか。彩夜なら可能だろうが、彩夜が悠也を殺すとも思えない。
とすると、
(……残された手は一つ、か)
正直あまり気は乗らない。だが客観的に考えてそれが最も妥当な方法だ。
だから霧崎は傍らの彩夜に告げた。
「小娘。お前が黒宮を説得しろ」
彩夜は意外そうな顔をした。
その反応はもっともだ。この提案は霧崎楓らしくない。
だがこれが今の状況では最善なのだ。
「殺せない以上はそれしかない。髪の色が抜け切っていないことから察するに、侵食はそこまで進んでいないだろう。おそらく吸血衝動が原因で暴れているのではなく、ただ自暴自棄になっているだけなんだ。説得は決して不可能じゃない」
気になるのは彩夜にはない外部の物質と一体化する能力の発現だが、同じ契約魔族から引き出せる魔術が魔術師によって異なること自体は珍しくない。悠也の方が魔族との相性が良かったのか、あるいは別の原因があったのか。理由はいくつか考えられる。いずれにせよほかの方法が現実的でない以上、説得が通じると仮定して動くしかないだろう。
「正直放っておきたいが、そういうわけにもいかないからな」
何故だか言い訳がましい言い回しになったが、事実は事実。これでいいはずだ。
「……近づくだけでも一苦労だよ、これ」
「そこはお前の力でどうにかしろ。私も支援する。まさか嫌なんて言わないだろう?」
彩夜の返事はわかっていた。
「もちろん」
一字一句予想と違わぬ答えに、思わず口元が緩んだ。
「行くぞ」
霧崎の声に彩夜は頷き、悠也へ向けて一直線に駆け出した。
◇
悠也を守護するのは泥と刃の暴風だ。
近づくのは至難の業。しかし霧崎の言う通り彩夜ならば可能だ。
銀色の髪と紅の瞳は、その身がただの人間でないことを示している。
今は悠也もそうなりかけているが、そうはさせない。自暴自棄になった人間の宥め方はほかならぬ悠也から教わった。だから今度は彩夜の番だ。
こうなった責任の一端は彩夜にもある。悠也が触手にぺしゃりと潰され、霧崎が幸姫の殺害を決めたとき、彩夜は反対しなかった。悠也の再生を待っていては更に多くの人が犠牲になると思った。同じ大量殺人者としてあれ以上幸姫を放っておけなかったし、救い出す方法は何一つとして思い浮かばなかった。だから悠也に恨まれるのを覚悟の上で幸姫が殺害されるのを見過ごした。一度は悠也から幸姫を任されたというのにそうした。
これでいいのかと、何度も自分に問いかけた。
こんな彩夜を悠也は軽蔑するかもしれない。買い被っていたと失望するかもしれない。そう思うと怖くて、何度も霧崎を止めてしまいそうになった。でもその度に踏み止まった。そんなことをしても何も解決しないと、彩夜の中の冷静で冷徹な部分が告げていた。
所詮、紅野彩夜とはそういう非情なバケモノなのだ。
悠也のように不条理に挑み続けられるほどタフではない。それが仕方のないことなら受け入れてしまえる。済んだことだと割り切れてしまう。血も涙もない人外の怪物。
だけど――いや、そんな彩夜だからこそ諦められない。
悠也の悲しみの深さは計り知れない。もしかしたらこのまま何もかも壊して、幸姫と一緒に死んでしまいたいと思っているのかもしれない。
けど、それは許さない。
彩夜がそうしたいのだから、許してなんかやらない。
「悠也!」
名前を叫ぶ。それだけで気持ちが前を向く。刃が襲って来ようと、泥の旋風に打ち上げられようと関係ない。心は何度でも奮い立つ。折れるなんてありえない。
泥と刀がでたらめに吹きすさぶ一方で、悠也は抜け殻のように立ち尽くしている。紅の瞳が感情を灯していないのは、魔族に心を食われているからだけではないのだろう。何かを考えるのに疲れてしまって、そうしているのが楽なのだ。かつて自分はバケモノだと開き直っていた彩夜がそうだったように。
今の彩夜は違う。紅色の瞳にはバケモノなりの大切な感情が灯っている。
泥と刀の暴風の向こうにいる悠也のことを大切に思える。
それはきっと幸福なことだ。
走る。悠也に向けて一直線に。
飛び交う刀を霧崎の操る刀が弾き返し、銃弾のような泥の荒らしを跳んで身を捩って回避して、ただひたすら悠也に向けて突き進む。
「悠也!」
手を伸ばして名前を呼ぶと、悠也の目が僅かに見開かれた。
そのまま真正面から抱き着いた。
力なく立っていた悠也はそれでバランスを崩して尻もちをつく。泥が跳ねる。彩夜は悠也を離さない。悠也の背中に回した腕で、精一杯力強く抱きしめる。
泥と刀の暴風が霧散した。
「彩…………夜…………?」
抱きしめられた悠也が呆然と口を開いた。
彩夜はいっぱいの思いで返す。
「そうだよ。私だよ」
霧崎が言った通りだ。悠也はちゃんと自我を残していた。
だけどそれはもしかしたら、悠也にとってむしろ残酷なことなのかもしれない。
「……織原が、死んだんだ」
それを忘れてしまえたのなら、どんなに楽だったろう。
でも悠也は忘れない。それができるほど図太くない。だから苦しい。
「俺のせいだ。俺のせいで、織原は死んだんだ」
「悠也だけのせいじゃない」
「でも守れなかったんだ。俺は、そうしなきゃいけなかったのに」
「私もだよ。私が悠也に任された。それなのに私は、彼女が死ぬのをただ見てた」
「また人を殺した」
「私なんてその何倍も殺してる」
「お前を傷つけた。お前を……殺してしまいそうになった」
「髪が少し切れただけだよ。そんなの気にすることない」
「だけど……俺は……」
虚空を見上げたまま、悠也は力なく続けた。
「俺は……いつまで生きればいいんだ……?」
それが悠也のどうしようもない本音だと、彩夜にはすぐわかった。
潤を殺した夜、悠也は自分を殺そうとした。それを彩夜が許さなかった。責任から逃れるための自殺は身勝手な行為だ。本当に罪を償いたいなら生き続けるべきだ。そんなことを言って死ぬのをやめさせた。死んで楽になりたかった悠也は、そのせいで死ねなくなった。
必死に藻掻いていたのを知っている。自分の命を肯定するには誰かのためになるしかなくて、そのために無我夢中だったのを知っている。誰も悲しませないように。そんな思いでずっと頑張ってきたのを知っている。でもそれはうまくいかなくて、一番大切だったはずの人を失った。親友に託された想いを果たすことができなかった。生きるための最大の言い訳をなくしてしまった。
悠也は救いを求めている。
辛い現実から、背負った罪から、逃れることを望んでいる。
そうとわかっていて、彩夜はそれとは違う答えを返した。
「百万年……ううん、世界が終わるまでかな」
つい昨日、悠也が彩夜にそう言った。
死んでしまう方が楽だった彩夜に、悠也は死ぬなと叫んだ。
「辛くても、苦しくても、悠也が死ぬのは駄目。だって私が嫌だもの」
酷く自分勝手なことを言っている。でも伝えたい言葉はそれだった。
「そうか。……そうだったな」
悠也はどんな顔をしているだろう。気になったけれど、なんとなく泣いているんじゃないかと思って、彩夜はそれを見ないようずっと悠也を抱きしめ続けた。
「ありがとう」
やがてそう告げた悠也の声は、微かに掠れて震えていた。




