少女、あるいは怪物01
敷根邸。薄い雲の向こうに滲む月光に照らされた縁側。
悠也は潤の隣に少し離れて腰かけ、殺風景な庭に目をやった。
「……それで?」
「それでって。なんだよ、いまいち驚いてねえな」
「その段階はとっくに過ぎた。知りたいのは肩書きじゃない」
事前に魔力という単語を耳にしていたからだろう。悠也は潤の正体にさほど動じなかった。
魔術師。
幽霊が実在するのなら、それくらいいたって不思議はない。
「俺を助けるときに使った虹色の渦……あれが魔術か?」
潤は「ああ」と頷いて、
「異世界に生息する魔族と契約し、対価として心を売り渡すことで、この世界とは理を異とする力――異世界の法則に基づいた力を行使する。それが魔術の原理だ。魔術を扱う人間を魔術師といい、魔術師が契約した魔族を契約魔族という」
異世界。魔族。この世界とは理を異とする力。
荒唐無稽な言葉の羅列に悠也は渋面を作る。
「信じられないか?」
「……いや。問題ない」
確かに信じ難い内容ではある。だが悠也が遭遇した「この世のものとは思えないもの」を説明するには、むしろ都合がいいように思えた。それにここで話の腰を折っても何にもならないという事情もある。
「異世界の法則は、この世界の法則とどう違う?」
「いい質問だ。魔族が住む異世界では、形而上の概念が形而下の概念より優先される。物質と本質、具体例を挙げるなら肉体と魂。かの世界では魂が肉体に束縛されることはなく、むしろ肉体が魂に追従する。つまり、物理法則によって支配されたこの世界とはまったく別の法則で成り立っているわけだ」
あくまで通説だがな、と付け足して潤は続ける。
「例えば、熱力学の第一法則ってあるだろ。俺たちが暮らすこの世界では物理法則が絶対だ。無から何かを生み出すことはできないし、その逆もない。エネルギーの総量は有限で、どんな現象もそれがただ形を変えているに過ぎない。だが魔術が扱う異世界の法則は違うわけだ。こんな風にな」
潤の右の掌に、ゆらり、虹色の光が生まれた。渦を巻きながら膨張し、周囲の空気を巻き込む小さな竜巻となり、そして弾けるように消えた。残された空気の流れが悠也の前髪を揺らした。
息を呑む悠也を見て、潤は満足そうに笑む。
「魔術の源は魔力と呼ばれるエネルギーだ。魔術師は心を対価として契約魔族から魔力を引き出し、それを何らかの現象に変換する。それが魔術行使のプロセスだ」
「それ、さっきも言ってたよな。心を売り渡すって。……危険はないのか?」
「ゼロってわけじゃないが、普通は問題ない。心は魂がある限り無限に湧き出し続けるからな」
それは悠也にとっては既に聞いたことの確認だ。
だからこそ生じる疑問がある。
「魂がある限り、だろ。それは無限じゃない。有限だ」
あの少女の意識が戻らなかったように。
「ん、鋭いな。でもまあ心配ねえよ。魔術師と魔族の契約は対等が原則だが、主導権は魔術師の側にある。魔術師が魔術を使おうとしない限り、魔族は魔術師の心に手出しできない。魂にもな。つーか、そういう風に契約できなかった時点でその魔術師は終わりだ。魔族に魂を侵食されて意識を失い、心を喰い尽くされてそのまま死ぬ」
あっさりとした潤の口調に、悠也は悪寒を覚えた。
だって、まるでそれが何でもないことみたいに言うのだ。珍しくもない、当たり前のことだとでも言うように、平然と。
「たまにいるのが、二体以上の魔族と同時に契約しようとして自滅するパターンだ。魔術は可能性の塊だが万能じゃない。魔術師が使える魔術は契約した魔族が司る性質のみに限られるからだ。で、それなら複数の魔族と契約すれば複数の性質が使えるようになるってのは道理なんだが、そううまくはいかない」
潤は続ける。
「二重契約を成功させた魔術師なんて歴史上数えるほどしかいねえんだ。大抵は魂が負荷に耐え切れず崩壊するか、契約術式が二体分の魔族を抑えきれずに破壊されて終了。だってのに何を勘違いしたのか自分は平気だと考えた馬鹿が遠回りな自殺をしてるっていう、一種の笑い話だな、これは」
潤はそう言って軽く笑った。
(なんで、笑ってるんだ……?)
人が死ぬなんて、そんな重い話。
わからない。この潤は本当に自分の知っている潤なのだろうか。本当は潤ではない別人が潤のフリをしているだけで悠也の知る潤は別にいるのではないか。
そんな風に考えかけて、しかし違うと自分で否定した。
だって、悠也は潤のことを何も知らなかったのだ。とうに自覚していたはずのそれを再認識した。これはそれだけの話だ。
「話が逸れたが、次はお前を襲ったあの蜘蛛みたいなやつらのことを話そうか。あいつらは」
「それはもう聞いた」
「は?」
間の抜けた声を漏らす潤に、悠也は静かな口調で問いかけた。
「……どうして、言ってくれなかった」
一番聞きたかったのは、それだった。
悠也は潤を知ろうとしてこなかった。だが、潤も何も言おうとしなかった。
「なぜ黙ってた。……俺は、そんなに頼りにならないか」
「そういうわけじゃねえよ。だが」
「なら俺を使え!」
思わず立ち上がり、潤の胸倉を正面から掴んだ。
潤は驚いたように目を見開く。
「お前、ゴーストからみんなを守ってくれてたんだろ。だから昏睡事件の原因は幽霊だと俺に忠告した。だから最近ずっと学校に来なかった。そういうことだろ。なら、どうして俺に言わなかった……っ!」
潤はバツが悪そうに視線を逸らした。悠也は糾弾するように続ける。
「どうして全部隠してた!? 雑用だって使いっ走りだって、なんだってやってやる! お前の頼みなら! それなのに……っ!」
「……これは魔術師敷根潤の問題だ。黒宮悠也の親友としての敷根潤じゃない」
「そんな説明で納得できるか……!」
「魔術師の社会とそうでない人間の社会は違うんだ。魔術師はこの世界に隠れ潜み、独自の社会を形成している。二つの社会の均衡を維持するためにも、魔術は秘匿されなきゃならない。何も知らないはずの一般人が魔術を知ればバランスが崩れる。二つの社会が独立して存続できなくなる。だから話すわけにはいかなかった」
「そんな理屈で……っ!」
「わかれよ親友。この世界は不条理なんだ」
潤が向けてきた冷めきった視線に、悠也は僅かに怯んだ。
そのとき、悠也のすぐ後ろで声がした。
「あーあー、熱くなってるところ申し訳ないんだけど」
聞き覚えのある女の声だった。
ゆっくりと振り返る。ありえない。そんな思いを抱きながら。
そして悠也は言葉を失った。
クセの付いたブラウンの長髪。淡色のワンピースから覗く、透き通るように白い肌。恐ろしいまでに整った容貌。その全てが赤黒い染みで汚れているが、顔にはあるべき傷が見当たらない。
――ああ、今夜は本当に驚くことばかりだ。
「見ての通り血塗れなの。ちょっとシャワー借りさせてくれる?」
悠也とは対照的に平然とした顔で、死んだはずの少女――彩夜はそう言った。