想いと呪いの顛末
闇の中へ墜ちていく。
ゆっくりと、静かに。まるで水の中にいるみたい。次第に遠のく水面の淡い光をぼんやりと眺めながら、深く暗い闇に包まれていく。
光が遠ざかるほどに、少女の心は安らぎを覚えた。
ここには何もない。少女を糾弾する視線も、少女を暴く言葉も。ここではただ墜ちていくだけでいい。何をする必要もなく、何を考える必要もない。穏やかな闇に身を任せれば、あとは何もしなくていい。視線も言葉も届かない。あるのは優しい静寂だけ。
「――――――――!」
耳障りな雑音がした。せっかくいい気持ちだったのに台無しだ。
少女は少し不機嫌になって、そのあとすぐに疑念を抱いた。この静かな闇の中に雑音なんてあるはずがない。ここには何もないのだから音もしない。静謐で心地の良い虚無だけがこの場所のすべてのはずなのに。
「――――――――!」
雑音が大きくなる。
心がざわつく。何か大切なことを忘れている気がする。
でもそれはもういらないものだ。ここには何もないのだから、何も考えなくていい。何もかもを忘れても誰も咎めない。ここはそういう場所のはずだ。
「――――――――!」
雑音は大きくなる一方だ。
うるさい。誰だか知らないが放っておいてほしい。何も考えさせないでほしい。このままゆっくり眠らせてほしい。
「――――――――!」
駄目だ。雑音は一向に収まらなくて、だんだんと眠気が醒めてくる。
おかげで考えたくもないことを考えてしまう。
自分がいかに醜悪な人間か思い出してしまう。
そう、醜悪だ。
そんなことは言われるまでもなくわかっていた。でもやめられなかった。初めて向けられた純粋な好意は心地が良かったから。それは少女がほかの誰からももらえなかったものだったから。
両親は少女を忌み嫌っていた。表面上は善良な親を装っていたから余計に質が悪かった。初めて両親の喧嘩で目を覚ました幼少期のとある夜、少女は自分が愛されていないことを知った。こんなはずじゃなかったと。少女さえ生まれてこなければ自分たちの人生は違ったはずだと責められているようで、家にいるのが苦痛になった。
学校も少女の安寧の地とはならなかった。仲の良かったクラスメイトも、優しくしてくれた先生も、その態度の裏にどんな本音が隠れているかを想像すると怖くなった。だって学校ではみんな仲良くしなければいけなくて、先生は生徒の面倒を見るのが仕事で、それは親が子を愛さなければならないのと同じだから。嫌われるのが怖くて優等生な自分を演じようと必死になった。綺麗な表面以外を見せたくなくて、見たくもなくて、気付けば少女は孤立していた。
そんなとき、声をかけてきた少年がいた。
誰からも嫌われたくなかった少女は、おしゃべり好きな彼のつまらない話を拒絶することなく聞き続けた。それが珍しかったのか少年はよく少女に話しかけてくるようになって、それが少女の初恋になった。孤立していたところに構ってくれただけで惚れてしまったのだから冷静になってみると馬鹿みたいだが、それを自覚してからも少女にとって少年はずっと特別な人だった。
決定的だったのはある日の会話。
悩みを打ち明けた少女に少年が呆れ顔で返した一連の言葉だ。
『嫌われたくないとか当たり前だろ……何言ってんだお前』
『えっ』
『人生楽しんだもん勝ちなんだよ。そのための努力なんてお前以外も普通にしてるって』
少女が悩みに悩んだ末打ち明けたことだったというのに、少年は馬鹿にした態度でそう言った。少年にとってはなんでもないことだったのだろうけれど、少女にとっては天啓だった。嫌われないために取り繕っていた見せかけの自分を好きになれたのは、きっとそのおかげだった。
少女の人生の中心に少年がいた。つまらなくてどうでもいい噂話を聞き続けるのが、いつしか苦ではなくなっていた。
ただし、いつだってどうでもいいことを話し続ける少年は、肝心なことは何一つ口にしなかった。時折見せる物憂げな表情の理由も。少女をどう想っているのかも。
そして高校生になり、その少年の紹介で彼と出会った。
最初はどうとも思わなかった。それどころか大好きな人をとられた気がしてちょっと嫉妬した。でもそれは本当に最初だけの話。
彼は嘘が下手で不器用だった。人付き合いが不得手なところにはどこか親近感を覚えた。
だからなのだと思う。
人付き合いの不得手な彼が、不器用ながらも歩み寄ろうとしてくれたのがわかったから、それが本当に嬉しかった。それがどんなに怖いことか知っていたから。怖がりながらも頑張って近づこうとしてくれているのがよくわかったから。
この人はきっと私を裏切らない。
少女は心の底からそう思えた。高校のクラスで友人を作れたのも、彼の頑張りに触発された部分が大きい。ずっと避け続けていた人との関わりを、そうすることの喜びを彼が思い出させてくれた。皆で一緒に過ごすのがどれだけ楽しいことかを教えてくれた。
けれどその思いが膨らむにつれ、後ろめたさも大きくなった。彼が自分に向けてくれている想いをなんとなく察したから。でも彼はそれを必死に隠そうとしていて、だから少女も気のせいだと自分に言い聞かせた。気持ちに応えることはできなかったから、気づかないフリをし続けた。
それなのに、大好きだった人のことを忘れた途端、少女は彼に依存した。
加えて嫉妬ときた。それまでは彼の気持ちに応える気などなかったくせに、彼の傍に別の少女がいるとわかったら不安になった。自分以上の深い繋がりを感じて気持ちが沈んだ。
そんな資格がどこにあったというのか。そう思うと彼に対する後ろめたさは膨張し続けて、それを誤魔化そうと彼のためにできることを探した。
手放したくなかった。それは少女が初めて誰かから向けられた純粋な好意だったから。それはとても温かくて心地よかったから。だからずっと留めておきたかった。
なんて、醜い。
こんな自分はいなくなった方がいい。その方がきっと彼のためにもなる。
「―――――――――!」
またこの雑音。眠りを妨げる嫌な音。
繰り返しだ。この音が聞こえる限り、頭の中を支配する自己嫌悪は消えてくれない。
(……どうして?)
ふとそれを疑問に思った。
この雑音は、どうしてこんなに自分を嫌な気持ちにさせるのか。
もしもこの雑音が少女の自己嫌悪の根源と同じものなら。
少女が自分を責めずにはいられない理由そのものなら。
だとすれば、その正体は。
「織原ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その声が聞こえた途端、織原幸姫は覚醒した。
晴れていく闇の向こう。光の中に彼の姿が見えた。
(悠也……)
必死に幸姫の名を叫びながら触手の上を駆ける悠也。その姿を見ていると胸が締め付けられた。彼の真剣さが伝わるほどに、それを嬉しいと思ってしまう自分が嫌になった。
でも、それ以上に。
(そうだ……言わなきゃいけないことが……あるんだった)
醜い自分を知られるのが怖かった。
だけどそれは悠也も同じだ。知られたら赦してはもらえない。嫌われてしまう。そう思っていたから隠し続けたことがあった。でもそれが後ろめたくて、ずっと苦しかった。
その苦しみを知っている。
悠也が本気で幸姫を想ってくれていたことも。
悠也が心の底から潤との繋がりを大切にしていたことも。
そのすべてを、疑いようもなく信じられる。
だからせめて。一言だけでもいい。伝えなければならない言葉がある。
悠也が手を伸ばしてくる。
それを掴もうと幸姫も手を伸ばす。
それなのに、その意思に応じて視界を横切ったのは黒い影だった。
ぺしゃり。
なにかが潰れるみたいな音がして。
目の前から悠也が消えていて。
それで、全部が終わった。
伝えなくてはならない言葉と。
伝えたい言葉と。
伝えてはならない言葉と。
そのすべてを口にする前に、幸姫の意識は闇に落ちた。
◇
悠也が目覚めると同時、全身を疼痛が蝕んだ。どうやら肉体は再生の途中らしい。
でもすぐにそれはどうでも良くなった。自分が何をしていたか思い出したからだ。
「織原……っ、……」
瞼を開くと飛び込んできたのは荒れ果てた黒い河川。汚泥と瓦礫に塗れた濁流。
蠢く触手は見当たらない。
息を呑む。嫌な予感がした。
悠也は瓦礫の中に埋もれていた。なんとか這い出て、立ち上がる。
最初に彩夜が悠也に気付いた。ハッとした様子で、焦るように振り向いた。
少し離れたところには霧崎が立っていた。目を伏せたまま悠也を見ようとしなかった。
そしてその少し奥。墓標のように地面に突き刺さる刀の向こう。ぶちまけた水風船のように広がった泥の上にもう一人いた。いくつもの黒い刀で背中を貫かれて膝をつく人影が。
呼吸を忘れたまま呆然と近づいた。
声が出ない。
そこにいたのはひび割れた泥人形だった。
ただし、少女の姿をした。
「悠也……?」
泥人形の口から掠れた声が漏れた。
「悠也……いる……?」
声と共に泥の肌がひび割れ、欠片がぱらぱらと地面に落ちる。
悠也は血が滲むほど固く拳を握り、肩を震わせながら言う。
「ああ、いる。目の前に」
泥人形の反応はなかった。
「……織原?」
「彩夜さん……霧崎さん……いる? 悠也に……ね、伝えてほしいことが……あるの」
「いるぞ織原。俺がいる、目の前に」
悠也はしゃがんで少女の瞳を真正面から見つめた。
だが泥の瞳は目の前の悠也を映さない。
「自分を、責めないで……って」
悠也の声を無視して泥人形は続ける。
「誰も、恨んだり……しないから……」
掠れた弱弱しい声で。
「……私も……潤も……悠也と、いれて……楽しかった……から…………だから、苦しむ必要なんて、ない……って」
「ああわかった。わかったから。ちゃんと聞いてるから。頼むから、俺の言葉を」
「幸せ……だった。私には……贅沢すぎる、くらい」
「織原!」
振り絞るように名を呼んだ。
反応はない。
泥人形は穏やかな表情で言葉を紡ぐだけ。
「あと……もう一つ。……謝っておいて、ほしい」
「なんだよ。ちゃんと俺が聞く。聞いてやるから、だから俺を見て直接言ってくれ、織原」
「……きっと、悠也は……悲しむ……けど……」
「織原!」
「私、ね……それが、嬉しいって…………思っちゃってるんだ」
「……っ、ふざけるな。そんなの謝ったって許さない。俺は……っ、織原……!」
泣き叫ぶ悠也のすぐ目の前で。
泥の口元が、小さな笑みを形作った。
次の瞬間。
織原幸姫だったはずの泥人形は、土塊となって崩れて消えた。受け止めた悠也の掌に残ったのはほんの僅かで、残りは足元の泥と混ざってわからなくなった。
「………………………………なんだよ、それ」
掌に残った土を大切に握りしめ、悠也は震えた声で呟いた。
「なんで、他人の心配なんてしてるんだ。俺のせいだろ。織原を巻き込んだのも、こうなったのも。潤を殺したのだって。知ってたんだろ。なのに、なんでそんなこと言うんだ」
恨んでいないだなんて。
苦しむ必要がないだなんて。
それならいったい、悠也は誰を責めればいいというのか。
自分のせいにすらできずに、この結末を受け入れろというのか。
「そんなの……無理だ」
◇
今一番会いたくない客が来た。
幸姫が崩れて消えるのを見届けた霧崎は、背後から近づいてくる魔力の気配に振り向いた。
「ねぇ、今どんな気持ち?」
派手な格好をした隻腕の女魔術師。心童葵は冷たい言葉とともに歩み寄ってくる。
「あんたがトドメを刺した。でもそれだけじゃない。この結末に至るよりずっと前から、彼女の人生はあなたのせいで歪んでいた。あんたのせいで何もかも滅茶苦茶にされて、それなのに恨み言の一つも吐かずにただ消えた」
意地の悪い笑みで続ける。
「本当は思ってるんでしょ。もしかしたら間違えたかもしれないって」
霧崎は言葉を返さない。だがその胸の内は筒抜けだ。
「彼女は救えたかもしれない。無駄な争いなんてせずに初めから助けようとしていたら、結末は違うものになったかもしれない。あんたはそう思って後悔してる。あたしにはわかる」
「だから?」
「あんたの才能は復讐なんかに使うべきじゃない。もっと多くの人を助けるために使うべきなのよ」
「……結局それか」
霧崎は落胆して呟き、自嘲するように口元を歪めた。
「無駄だよ。私にはもう復讐しかない。それだけに縋って生きてきたんだ」
「そうかしらぁ。だってあんたは、貴重な情報源であるあの子を迷わず殺そうとした。それって、あんたが復讐よりもあの子のためを思ったからでしょう。情報を得るために生かしたりしないで、すぐにでも死なせてやろうって思ったんでしょう。それは復讐なんかより大事なことがあるってわかってるからできることよ。それなのに……」
「あのさ」
霧崎は意図して冷たい声音で。
「自分の都合で他人を巻き込んできたお前に、私に説教をする資格があるのか?」
意趣返しのような意地の悪い微笑に、今度は葵が押し黙った。
「自分の力をどう使おうが私の勝手だ。それでどんな悲劇が起きようと、それを咎める資格はお前にはない」
「……そうね、それは認めるわ。でも、あんたの本当の気持ちに気付いてもらうにはそれしかなかった。あんたのせいで死ぬ人も、あんたの力で助けられる人もいる。あんたが本当にしたいことは復讐なんかじゃないって、わかってほしかった」
「はっ、そのために何人殺したんだお前は。馬鹿どころの騒ぎじゃないぞ」
「流石にここまでの被害は想定外よ。あたしはあの子の心を追い詰めただけ。自殺を図らせてあんたに救出させるつもりだった。……邪魔が入ったのよ」
「それは嘘だな」
眉を潜める葵に、霧崎は続けて言った。
「被害を大きくしたのはお前だろう」
「……どうしてあたしがそんなこと」
「知るか。楽しいからとか、そんなところじゃないか?」
「っ、ふざけないで。あたしはそんなことは絶対に」
「じゃあ、なんで織原幸姫は駅前なんかにいたんだ?」
霧崎の鋭い問いかけに、葵は愕然と表情を歪めた。
「何、言ってるの。そんなの、ただの偶然に決まって……」
「ありえないな。あれは破荒墨影の仕業だ。あの男の実験はその多くが人の少ない地域で行われてきた。多少の騒ぎになっても機関から見過ごされるであろうことを見越してだ。目的が何かは知らないが、やつは今までそうしてきた」
例えば、過疎化の進んだ集落で彩夜が実験に使われたように。
「だが今回はどうだ。駅前なんて人の集まる場所に、しかも人の集まる時間に、わざわざ織原幸姫を放った。そんなことがあると思うか。それに何の意味がある。ないだろう。だからお前がやったんだよ。お前が、より多くの人間を巻き込もうとしてそうしたんだ」
もう何も言えない葵に、霧崎は決定的な一言を告げる。
「お前は都合の良い言い訳を使って自分の欲求を満たしていただけだ。人の気を引くために少しでも派手なことをしようとして、その果てに一線を超えてしまった。いくら自己正当化の言葉を並べたところで本質はその程度。お前は他人の心の声が聞こえるくせして、自分の心に鈍感すぎる」
おそらくその言葉は、どんな刃物より鋭利に葵の心を切り刻んだ。
夜の川辺に静寂が落ちる。
それを破ったのは、泥の上でふらりと立ち上がった少年の足音だった。
「そいつが、織原に何かしたんですね」




