想いと呪いの行方
力の差は歴然だった。
「諦めろ。お前が命を捨てたところで私が織原幸姫を見逃すわけじゃない」
霧崎は静かな口調で事実だけを告げた。
悠也にできるのは意味もなく拳を握ることくらいだ。空中で静止した無数の刀に取り囲まれて身動き一つ取れない。喉元に触れた刃の冷たい感触が、残酷なまでの力の差を突きつけてくる。
戦闘が始まることすらなく、気付いた時には勝敗が決していた。
以前彩夜は、彩夜と霧崎が百回戦ったら百回とも無傷で霧崎が勝つと言っていたが、まさにその通りだった。霧崎が傷を負うどころか、悠也の体にも傷一つ付いていない。それが二人の力の差だった。
自惚れがあったわけじゃない。勝てると思っていたわけじゃない。だがそれでも、ここまで圧倒的な差を見せつけられるは。これでは戦う以前の問題だ。
「抵抗はするな」
霧崎は釘を刺すように言う。
「実は私も本調子じゃなくてね。うっかりお前を殺してしまわないとも限らない」
どこまで本気で言っているのか。これで本調子でないなんてことがあるだろうか。あるのなら、本調子でない霧崎に手も足も出ない自分はなんなのか。
多少は力を付けたつもりでいた。
それなのに、魔術師の本気とはこうも底知れないものなのか。
「諦める気になったか?」
黙り込むしかない悠也に、霧崎はそう問いかけてきた。
悠也は答えられない。諦めるつもりなど毛頭ないが、それを言えば殺される。
黒宮悠也にできることは何もない。
可能性を模索すれば模索するほど、その事実だけが悠也の思考に満ちていく。
そんな悠也を見て戦意を喪失したとでも思ったのか、霧崎は悠也に背を向けた。直後に悠也を取り囲んでいた刀は闇に溶けるように消失する。
「帰って寝ていろ。すぐに片付く」
「待ってください、織原を死なせるわけには」
「くどい」
振り向き、凍てつくような視線が悠也を射抜いた。
暗闇の中、霧崎の傍らに刀が出現する。無論その鋒は悠也に向いている。
「これが最後の忠告だ。織原幸姫は私が片づける。お前はおとなしく――」
言いかけた言葉は途中で途切れた。
だがそれを悠也は疑問に思わない。言葉が途切れた理由はわかっていた。
その魔力の気配は一瞬にして爆発的に膨らんだ。
遠く離れた悠也の『魔術師の勘』ですらはっきりと感じ取れるほどに。
その魔力はまるで空が落ちてきたかのように重たく濃密だった。
同じ気配をよく知るはずの悠也が、その正体をすぐには察せなかったほどに。
「今のは……」
脳裏に浮かぶのは二人の少女の姿。
確かに知っている気配だ。
だが、こんな風ではなかった。こんなに重く濃くはなかったはずなのだ。
「くそ、時間を使いすぎたか」
吐き捨てた霧崎が悠也より先に動いた。刀を消して駆け出した。
悠也も慌てて後を追った。脳裏にまとわりつく嫌な予感を置き去りにしようとするかのように、全力を振り絞って駆け抜けた。
だが無意味だった。
やがて幅広の河川にかけられた橋に出たとき、予感は最悪の形で現実となった。
規格外に巨大な軟体生物。幅広の河川を塞ぐほどの巨体で君臨し、根のような触手を河川敷に突き刺している。巨体を構成するのは泥と岩とコンクリート、さらには草花にガラス片。それらが混じり合い混沌とした触手を形成している。
あまりにも場違い。
映画の中でしか存在し得ない巨大な怪物。
だが、注目すべきはその巨体ではなかった。
「織……原……?」
触手を束ねる上半身は、触手の体積とはまるで釣り合わない少女のものだった。
銀色の髪と紅の瞳。だが、その顔を悠也が見間違えるなどありえない。
「なんで、織原が……」
呆然と呟き、それからざわつく声に気が付いた。
はっとして周囲を見やると、橋の上には人だかりができていた。
電話で誰かと話している人がいた。
カメラを構えている人がいた。
スマホを操作し、何かをネットに書き込んでいる人がいた。
彼らの好奇の視線の先には、異形に成り果てた一人の少女の姿がある。
「てかあれどうなってんの。映画の撮影?」「流石にないでしょ」「じゃあ本物かよ。その方がねえだろ」「とか言ってお前結構ビビってんじゃん」「いやビビってるとかじゃねえけどさ。でも普通にやばくね」「やばいね」「まじでどうなってんだろ」
目の前の脅威を認識できていないのか、感覚が麻痺しているのか。その会話には緊張感がない。ありえない異常を前に興奮しているのが伝わってくる。
シャッター音。異形の怪物の姿を収めるための。
「やめろ……」
悠也の声は誰にも届かない。
「やめてくれ……」
誰も悠也に見向きもしない。彼らの意識は今怪物にのみ向けられている。
「なんか駅前の通り魔に似てない?」「通り魔?」「今ネットで話題になってんの。ほらこれ」「あー……いやでもここからだと遠すぎて見えんわ。画像も画質悪いし」「でも銀髪の時点でそうそういないし」「んー……あ、動画あんじゃん」「それ結構グロイから気を付けた方がいいよ」「まじか。……うわぁ……やっば。キチガイじゃん」
耳障りな喧噪。場違いな奇声。他人事だからこその熱狂。
「――」
そんなものに構っていても意味がない。
「――」
わかっている。
「――――――ッ!」
わかっているのに。
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
悠也は、叫ばずにはいられなかった。
絶叫と同時、橋の上に刹那の静寂が訪れる。好奇の視線が悠也に向く。
だがそれだけだった。
当然だ。彼らは悠也の事情など知らない。むしろ話のネタが増えただけ。茶化すような声が飛んだ。悠也をからかっているのだ。それが彼らにとっては最高の娯楽なのだ。
そんな中、行動を起こしたのは霧崎だった。
人だかりの中であるにもかかわらず惜しげもなく漆黒の刀を空中に展開。人々がそれに驚くのも無視して幸姫へ向けて射出する。
しかし距離が遠すぎた。刀はすべて触手によって打ち落とされ、幸姫まで届くことはない。霧崎は舌打ちし「正常に動けばこのくらい……」と忌々しげに呟いた。
霧崎は再度刀を展開する。数はさっきの倍以上。人々の間にどよめきが広がるが霧崎は気にも留めない。魔術を見られるリスクより目の前の危機への対処を優先したのだ。
そう。あの異形の怪物はそれほどまでに危険だと、霧崎楓が判断したのだ。
再度一斉に射出された刀の雨が蠢く触手に突き刺さる。周囲一帯を蹂躙する刀の雨に逃げ場はない。太く小回りの利かない触手にそのすべてを打ち落とせるはずもない。不死殺しの刃はあまりに容易く泥の触手を引き裂いた。
それに幸姫が反応した。
およそ人の声とは思えない絶叫が空気を震わせ、人々の体を叩いた。
「痛覚があるのか!?」
霧崎が驚くのも無理はない。切り裂かれたのは土砂と瓦礫で構成された触手だ。痛みを感じるなどあるはずがない。それなのに、幸姫の絶叫はまるで触手を切られたことに反応したみたいだった。
いったいどういうことなのか。
悠也が考えている間に霧崎は橋を飛び降りた。
一泊遅れて橋が突き上げられるように揺れた。否、事実突き上げられた。水中を通って近づいていた極太の触手によって、真下から破壊されたのだ。
逃げ惑う人々を無慈悲に巻き込み、橋が崩壊を開始する。
悠也はその身体能力でなんとか河原に着地できたが、普通の人々はそうはいかない。為す術もなく瓦礫とともに落ちていく。混沌とした悲鳴は騒音に聞こえた。
助けに行かなければと思う気持ちと、自業自得だと思う気持ちが悠也の中でせめぎ合う。だがそれは良心の問題でしかなく、現実として助けに行くことはできない。この状況で幸姫以外を気にかける余裕はない。
何せ、眼前の驚異は今も尚健在だ。
「……まさか再生するとは」
悠也の一足先に河原に降りていた霧崎が言った。
霧崎の刀は切断されたという情報を挟み込むことで切られたという結果を生じさせる。その情報が残留する限り治癒も治療も不可能な不死殺しの刃なのだ。切られた触手が再生して橋を破壊するなどあるはずがないのだ。
しかし現実として触手はすべて再生し、今も悠也たちの目の前で蠢いている。
霧崎の刀に不具合でも起きたのか。
悠也はそう思ったが、霧崎は別の結論に達していた。
「いや、あれは再生ではないのか」
「再生ではない……? 何かわかったんですか?」
「ちっ、ひとりごとだ。お前に話す必要はない」
霧崎はつまらなそうに言い捨て、また刀を展開する。
悠也はすかさず跡切刀を構えて霧崎の前に立った。
「教えてください。織原に何が起きているのかを」
霧崎は面倒そうに息を吐いた。
「私の刀で切られたものが再生することはありえない。切断されたという情報は私が取り消さない限り残り続ける。だからあれは、切断されたという情報を残したまま新たな触手として形成されたんだ。元に戻ったのではなく、異なるものへと変貌した」
「変、貌……?」
「触手を切り落とされた時、あいつは悲鳴をあげただろう。神経が通っていたんだ、あの触手には」
つまり、と霧崎は結論を語る。
「織原幸姫は周囲のものと融合することで自分を拡張している。触手は再生したのではなく、新たに泥と瓦礫を取り込んで別のものが作られた。だから再生を妨げる私の刀が通じなかった」
例えるなら、義手のようなものだろうか。
霧崎の刀で腕を切断されたならその腕には切断されたという情報が付与され、繋ぎ合わせることもできなくなる。しかし切断された腕を治すのではなくまったく新しい義手をつけるのなら話は別だ。義手には切断されたという情報は付与されていないのだから、そのまま新たな腕として使用できる。
幸姫がしているのはそれと同じことだ。
元々自分ではない外部のものを取り込み――霧崎の言葉を借りれば自分を拡張し――それによって切断された触手を実質的に再生することに成功した。
「……そんなことって」
「霧崎さんの言う通りだよ」
声に振り向くと、そこには酷く憔悴した彩夜の姿があった。
「彩夜! 無事だったのか」
思わず安堵した。緊張は途切れさせられないが、それでも彩夜が無事でいてくれたことが救いのように感じられた。
だが彩夜の表情には暗い影が落ちた。
「私は……ね」




