呪い
アスファルトの道路を力強く蹴り、悠也は加速した。
葵の懐に踏み込む。跡切刀を振り抜く。葵が一歩下がって届かない。だが悠也は跡切刀を振り抜いた勢いでそのまま身を捻り次の攻撃に移っている。水平に薙がれた踵が再び葵を襲う。これも届かない。
視線が交差する。
余裕のない悠也とは対照的に、葵の微笑は勝ち誇るかのよう。
「無駄よ。いくら考えて戦ったところで、全部筒抜けなんだから」
いや、事実勝ち誇っている。侮っている。
しかしだからこそ、
「勝ち目があると思ってる?」
「……ッ!」
思考を先読みする葵の言葉に動じながらも、追撃の手は緩めない。
悠也の優位は魔族由来の身体能力にこそある。下手な思考は逆効果。頭に浮かべた策はそのすべてが葵に聞こえてしまうのだから、考えるより攻めるが吉。
「ないわよ勝ち目なんて。あたしが誰を目指して鍛えてきたと思ってるんだか」
知らない。そんなことはどうでもいい。
今すべきは幸姫を追うこと。
殺させてなはらない。
絶対に助けなくてはならない。
そのための障害はなんであろうと排除する。
どんな手を使ってでも。
トクン、と。
心臓が一際大きく鼓動するのを悠也は感じた。
「これは……ッ!?」
葵が両目を見開く。
だが遅い。
斜めに振り上げた跡切刀が葵の頬を掠め、紅色の灰が夜に溶ける。
「この……ッ」
忌々しげに睨んでくる葵に、悠也は無言で拳を叩き込む。葵は腕で受けるが膂力では悠也に敵わずバランスを崩す。ここにきて隻腕になっていたのが大きく響く。
そうして両者は同時に理解する。
今この瞬間、悠也の身体能力が明らかに一段階上昇した。
もはや葵の速度では敵わない。
いくら思考を盗聴できようと肉体がついていかないのでは意味がない。
葵は咄嗟に背後へ跳躍して距離を取ったが、
「しまっ――」
間近に迫る悠也を前に、葵の表情は自身の決定的な過ちを悟っていた。
開いた数歩の距離を縮めることなど、今の悠也には造作もない。にも拘らず焦った葵は跳躍した。空中で動きが制限されるそれは、この状況では決定的な隙になる。
悠也の後ろ蹴りが葵の鳩尾に炸裂した。
葵は数メートル吹っ飛ばされて路上に転がる。
それでもよろめきながら立ち上がり、
「……なんて間抜け。腕を落とされたばかりだったってのに」
自嘲する葵にとって幸いだったのは、そこで悠也の追撃が止んだことだろう。
悠也とて決して望んで止めたわけではない。止めざるを得なくなったのだ。
「ふふ。いいとこに来てくれたわね、楓」
「……」
霧崎は無表情に葵を見つめる。
(どうする……、どうすれば……)
焦燥感が募る。悠也の頬を冷や汗が伝う。
霧崎楓が悠也を追って現れた。。
それはつまり、悠也より遥かに強い倉沼が負けたということ。
「随分と遅かったじゃない。どう、倉沼くんとやり合った感想は」
「お前の話に付き合っている暇はない。やることがあるんでな」
霧崎は幸姫を殺すつもりだ。
となればもはや考えている余裕もなかった。
悠也は霧崎の進路を塞ぐ。真正面に立って跡切刀を構える。
「……それではお前も織原幸姫を追えないが」
「そっちは彩夜に任せました。……今はあなたを止めるのが俺の役目です」
「止めてどうする。それで何か解決するのか」
返す言葉は持ち合わせていなかった。
苦し紛れの返答を探す思考に、霧崎の言葉が水を差す。
「あいつは既に大衆の前で人を殺した。素手で肉体を引き裂くことで。それはもう変えられない事実なんだよ。このままでは警察に捕まるのも時間の問題。そうなればその肉体の特異性から魔術の存在が公になる恐れがある。揉み消すのだって楽じゃないんだ」
「……でも、殺したくて殺したわけじゃありません」
「そうだな、血を啜りたくて殺したんだ。危害を加える意思があった」
「だからそれは」
「いっそその跡切刀で織原幸姫を殺すのもありだな。目撃証言をゼロにできる」
「……っ、そんなこと」
できるわけがない。
「あーあー」
会話に割り込んできたのは葵だ。
「ねえ楓、偉そうなこと言ってるけど、元はと言えばあんたのせいよ。あんたが復讐に囚われて作った道具のせいであの子はああなった。記憶の有無に翻弄され、誰かに縋るしかなくなった。全部あんたが招いたことなの」
「お前が余計なことを言ったんじゃないのか。得意だろ、そういうの」
「ええ得意よ。でも私、本人が少しも思っていないことを刷り込んだりはできないの。元から持っている気持ちに気づかせてあげることしかできない。記憶が戻って動揺してるみたいだったからさ、親切に教えてあげただけ。わかる?」
記憶が、戻った……?
悠也は動じずにはいられない。
記憶の有無に翻弄されて、幸姫は今の状態になったという。そこにどんな因果関係があるかはわからない。悠也は何も知らない。だが、きっかけが記憶の欠落にあるのなら。
それならいったい、きっかけを作ったのは誰だったのか。
道具を作ったのは霧崎だ。だがそれを実際に使ったのは。
潤を殺して、幸姫の思い出を奪ったのは。
体が急激に冷めていく。跡切刀を持った手が震え出す。
「あのな、あいつは自分の意思で記憶を取り戻すと決めたんだ。後悔も覚悟の上。それは先に確認した。私にはどうもお前が事実を歪曲しているようにしか思えないんだが」
「うーん……どうも本気でそう思ってるらしいわねぇ。これは失敗したかしら」
わざとらしく言いつつ葵が腰のベルトに手を伸ばすと、その足元に淡く発光する魔術陣が浮かび上がる。
「じゃ、私一旦消えるんで。あとはお二人で頑張ってくださいな」
引き止める間もなく葵の姿は消失した。魔術道具を使った空間転移だ。
もっとも、もはや葵の存在など悠也にとって問題ではなかった。
相手をすべきは霧崎楓。
そして、確かめるべきは。
「織原が……記憶を取り戻した。今、そう言いましたよね?」
呆然と問いかけると、霧崎は静かに「ああ」と返した。
「どうして……そんなことを。だって、魔術師は魔術を秘匿するはずじゃ……」
「あいつがそれを望んだからだ」
口調は凍てつくように冷たかった。
「確かに魔術が広まるのはまずいが、その存在を知る一般人が一人や二人増えたところで大きな問題にはならん。たとえそいつが言いふらしたとして、いったい誰が信じるって話だからな。お前を生かしてやっているのも同じ理由なわけだが」
そういうことではない。そういうことではないのだ。
確かに霧崎の言う通り、幸姫一人が魔術を知ったところで魔術師社会に影響はないだろう。
だが、幸姫の人生は確実に歪む。
織原幸姫は魔術なんかと関わりのない平和な世界で生きて、幸せにならなければならなかった。それが潤の願いであり、彼を殺した悠也が果たさなければならない責務だった。
それなのに現実はどうだ。
我を失って暴走し、望まぬ殺人を繰り返し、刀で全身を貫かれて。
織原幸姫は、そんな風になってはいけないはずの人だったのに。
黒宮悠也が、そうしなければならなかったのに。
「……っ」
もっと気を付けていなければならなかった。彼女が魔術師の都合に巻き込まれないように護ってやらなければならなかった。彼女が幸せに生きられるようにしなければならなかった。それが潤を殺した悠也の義務であるはずだった。
そのはずだったのに。
「なあ黒宮。お前にとって織原幸姫とはなんだ」
「え?」
「さっき言いかけただろう。続きを聞いてやる」
問いかけてくる眼差しは真摯そのもの。侮蔑や嘲笑の色は欠片もない。
「例えば友人。恋人。憧憬や依存の対象。いくらでも言葉を尽くして説明してみろ。茶化しているわけじゃないぞ。至って真面目な質問だ。」
「質問……どうして、そんな」
「だから、先に言いかけたのはお前だ」
呆れたように霧崎は言う。
「今回は水無月いのりのときとはわけが違う。あのときはまだ会話の余地があった。だが今回は意思の疎通すらできず、お前も結局は逃げられた。大量の犠牲者も出ている。それも確執のあった両親を家の中で殺したいのりと違い、なんの関係もない通行人を公衆の面前で片っ端から殺してしまっているんだ。あれではもう元の社会には戻れない。私としても、あんなものを管理下に置ける自信はない。……諦めるべきなんだ、普通なら」
だが、と霧崎は続ける。
「お前はそれをまだ救いたいと執着する。到底敵わないとわかっている私に刃を向けてまで。何故だ。そこまでさせる織原幸姫とはお前にとって何者なんだ」
まだ、答えが浮かばない。
否、本当はあるはずだった。黒宮悠也にとって織原幸姫は特別だった。
霧崎の言葉を借りるなら憧憬という表現が近い。だがそれだけでもない。
彼女が笑っているなら嬉しかったし、不安そうな顔をすれば苦しくなった。そのせいで潤と言い争いもした。最初で最後の喧嘩のきっかけも幸姫だった。
とにかく大切な人だった。
今だってそう。そのはずなのに、どうしてだか言葉にするのは躊躇われた。
「答えられないか」
「……」
黙り込む悠也に、霧崎は憐れむような口調で告げる。
「私には、呪いに見えるよ」
「呪い……?」
「ああ」
霧崎は僅かに目を伏せ、それからもう一度悠也の方を向いた。
「どんな事情があるのかは知らない。だがお前にとってあれは呪いだ。どうあっても逃れられない業の擬人化。お前を縛りお前を蝕みお前という生き方を定義している。それが織原幸姫だ。私にはそう見える」
言葉は刃物のように鋭くて、冷たかった。
だけど、的を射ているような気がした。
そんなはずはないのだ。そんなはずはないのに、否定できなかった。
いつから。
いつの間にそうなっていたのか。
いや、たとえそうだとしても。
「……だとしたら、なんだと言うんですか」
関係ない。悠也が幸姫を助けなければならないという事実に変わりはない。
尋ねた悠也に、霧崎は静かな声音で返した。
「失うことで踏み出せる一歩もある」
「ッ―――――!!」
思わず跡切刀を構えて駆け出した。激高とともに。我慢などできるはずがなかった。
霧崎はつまらなそうに吐息した。
「悪いが時間がない。容赦はできないぞ」
◇
彩夜が幸姫に追いつくまでにそれほどの時間はかからなかった。幸姫は全身に傷を負っていたし、彩夜は魔族化により強化された身体能力を存分に使って駆けることができたのだから当然だ。
背後から飛び掛かり、アスファルトの上を転がり、それでも抵抗する幸姫を強く抱きしめて動きを止める。
「落ち着いて! 大丈夫だから! 私はあなたの味方だから!」
必死に呼びかけ、それでも抵抗は収まらず、彩夜は幸姫に覆い被さりながら何度でも呼びかけ続けた。
すると、あるところでぴたりと幸姫の力が弱まった。
「彩夜……さん……?」
呆然と目を見開いて、幸姫はそう尋ねてきた。
「そう。そうだよ……! ……良かった」
思わず泣きそうになった。
だがそれはまだ早い。幸姫の無事が確定したわけではないのだ。
「わた……し、なに、を」
「喋らないで。ここだと誰か来るかもしれないから、移動する。いい?」
小さく頷いた幸姫を背負い、彩夜は移動を開始した。
二人の姿はとにかく目立つ。血塗れとなれば尚更。ぽたぽたと路面に血が垂れるものだから後を追うのも簡単だ。霧崎だけでなく警察や通行人の目をすべて掻い潜るには少し工夫がいる。
彩夜はなるべく人の通らない狭い路地を通り、目に付いたビルの非常階段を上り始めた。
「彩夜さん……私、悠也に……言わないきゃいけないことが……あって」
「うん。大丈夫、あとでちゃんと言えるから」
「そう……ですよね」
「口調。ため口でいいって言わなかった?」
「あ……そう、だった」
そう言って、幸姫は苦しそうにしながらも少しだけ笑った。
非常階段から屋上まで上った彩夜は、そこから周囲を見回し、
「ごめん、少し揺れるけど我慢してね」
そう言って、隣のビルの屋上へと跳躍した。
地上を歩いて移動する限り、血の痕跡によって後を追われてしまう。それを避けるには常人では不可能なルートで逃げるしかない。地上からは死角になるため警察に見つかる心配もしなくていい。
そうしてビルからビルへと飛び移り、最初のビルが見えないくらいまで移動したところで彩夜は背中から幸姫を降ろした。剥き出しのコンクリートの上に寝かせるのは気が引けたが、他に場所もないので仕方がない。
「痛い?」
「……そんなには」
「そっか。なら良かった」
嘘をついた。
これだけの大怪我だ。激痛がなければおかしい。既に痛覚が機能しなくなっているのかもしれない。だとすれば、幸姫の命はそう長くない。
「待ってて。今止血するから」
どうすればいい?
いくら考えても都合の良い解決法は浮かんでこない。霧崎によってつけられた傷は彩夜が血を吸ったところで戻らない。彩夜に傷を塞ぐ手段はない。倉沼なら可能だろうが、今は霧崎と交戦中で手を離せないはずだ。引き返して加勢すべきか。しかし倉沼と協力して霧崎を打倒できたとしても、霧崎が術の効果を解かないことには真の意味で傷を治すことはできない。そして傷を治せたところで、幸姫の吸血衝動を鎮める手段がない。
考えれば考えるほど、絶望的な気分が押し寄せる。
ここで幸姫を死なせてはならない。
悠也が悲しむし、潤の想いが無駄になる。だがそれ以上に、今の彩夜の微妙な立ち位置が幸姫の死を認めてはいけないと主張する。
悠也の幸姫に対する気持ちには気付いていた。
幸姫の悠也に対する気持ちにも気付いていた。
それなのに開き直って悠也の傍にいることに決めた。その矢先にこれだ。
幸姫と不老不死の悠也では生きる時間が違う。幸姫と魔術に関わる悠也では生きる世界が違う。だから二人の関係は有限で、それは悠也もわかっているはずだ。そんなふざけた言い訳が心のどこかにあった。見ないようにしていたけれど、確かにあった。
きっとこれはそんな彩夜への罰なのだ。
ここで幸姫を死なせてしまえば、彩夜はもう一生悠也に顔向けできない。そんな気がする。だから、絶対に死なせてはならない。それなのに。
考えていた彩夜は、ふとそれに気づいた。
「……え」
幸姫の傷口が塞がりかけている。ただし塞いでいるのは肌とは思えない灰色の何かだ。
傷口だけではない。よく見れば手足の全体、幸姫の全身が同じように変化している。触れると冷たくざらざらしていて、とても生物の肌とは思えない。まるで……
彩夜は急いで幸姫を抱きかかえ持ち上げた。幸姫の身に起きた変化の正体がわかったからだ。
しかし遅かった。
持ち上げた幸姫の手足からは、コンクリートの屋上に向けて灰色の帯が垂れている。帯はコンクリートの屋上を溶かし、幸姫の肉体へと吸い上げていく。
要するに、幸姫の肉体は今、寝かせられたコンクリートとの融合を始めていた。
慌ててそれを断とうとする彩夜だが、うまくいかない。帯を無理矢理引き千切ろうと、その切れ端が足元まで伸びて幸姫と繋がる。キリがない。
それだけではなかった。
幸姫を抱きかかえた彩夜の腕が溶け、幸姫の肉体と混ざり始めていた。
「彩夜……さん、私、なんだか……おかしくて……」
虚ろに呟く幸姫に向けて、彩夜は悲痛な思いを隠しながら言う。
「心配しないで。絶対大丈夫。絶対、助けてみせるから……!」
無責任な言葉に吐き気がした。
だって、何故こんなことになっているかもわかっていない。
幸姫を助ける方法なんて検討もつかない。
だから。
繰り返した絶対という言葉はきっと、自分がそう信じたいがためのものでしかなかった。




