悲劇の開演
凛堂月乃が異変に気づくのに時間はかからなかった。
駅前通りのゲームセンターで丸一日遊び倒して充実した気分で駅の方に向かうと、通りを行く人々が興奮気味に何事かを囃し立てている。
何かあったのだろうか。そんなことを思いながら駅に向かった。
駅前広場は不自然なほど閑散としていた。
何かがおかしい。そう気付いた時点で引き返すべきだったのだろう。そのくらいの危機管理は月乃にもできたはずだった。そうすればその後の悲劇は起きなかったのだ。
だが、そこにいた一人の少女の存在が月乃から冷静さを奪ってしまった。
「幸姫?」
ぱっと見ではわからなかったが、間違いない。月乃の大切な友人である織原幸姫だ。
ただし様子が普通じゃない。
閑散とした駅前広場にぺたりと座り込み、血に塗れた若い女をその腕に抱いている。介抱しているようにも見えたが、違う。女の首の裂傷からとくとくと流れ出す血液を指先で掬い、大事そうに自分の口元に運んでいく。
ぺろり、と。
手のひらの血を丁寧に嘗めとり、また女の首から血を掬う。どこか恍惚にも似た表情を浮かべながら、その異常な行為を繰り返す。
「幸姫、何をしているんですか……?」
呆然と問いながら、一歩、また一歩と近づいていく。誰かに引き止められた気もしたが、立ち止まりはしなかった。できるはずがなかった。紅色の水溜りに佇んで血を啜っているのは大切な友人だ。だからそのことしか考えられなかった。
ふいに月乃は気付く。
広場にいるのは幸姫とその腕に抱かれた女だけだと思っていたが、よく見ると奥の方にまだ人がいる。地に伏したままピクリともしない彼らは、その服の色からして警察や警備員ではないだろうか。
何故こんなに集まっているのか。
何故こんなに倒れているのか。
ありえないと思いつつも、ふざけた想像が脳裏に浮かぶ。
その直後、幸姫の視線が月乃を捉えた。
「――――――」
紅の瞳は感情を灯さない。
抱いていた女をその場に放置し、幸姫はゆらりと立ち上がった。
銀色の髪が揺れる。
そうして一歩、また一歩と月乃の方へ歩いてくる。
「幸姫、これはいったい……なんで、こんなことを……」
問わずにはいられなかった。返答はなかった。
幸姫は月乃の片手を掴んで逃げられなくすると、指先で躊躇いなくその首を掻っ切った。
戸惑いは声にもならない。脱力して倒れるところを抱きかかえられたが、頭はほとんど働いていない。ただ呆然と幸姫の顔を見つめるしかできなかった。
だってあるはずがないのだ。
大好きな友人が、こんなにあっさりと自分を殺そうとするなんて。
そんなこと、考えられるはずがなかったのだ。
徐々に意識が薄れ途切れる中、幸姫の口元に鋭く尖る牙が見えた気がした。
◇
「酷いな、これは」
駅前広場に駆け付けた霧崎楓は思わずそう呟いた。倒れた男の一人が完全に死亡しているのを確認した上での言葉だった。
死体が複数落ちた中に佇む幸姫は、まだ足りないとばかりに少女の血を啜っていた。髪は銀で瞳は紅。『魔術師の勘』で感じ取れる気配を含めて魔族化した彩夜にそっくりだ。
ただし彩夜とは異なる点もある。
まず、地に伏せる血を吸われたであろう人々が誰一人として息を吹き返していない。全員がピクリとも動かない。彩夜に血を吸われた人間は不死になるが、幸姫の場合そうではないらしい。
そもそも破荒墨影の被検体の中で彩夜は特異な存在だ。まともな人格を保ち、完全な不老不死を備え、さらには血を吸った相手をも不死にする吸血鬼のような体質。それは現在のところ彩夜一人しか確認されていない。仮に彩夜を成功例とするなら、それ以外はすべて失敗作ということになる。
だからきっと、あの織原幸姫もその部類なのだろう。
問題はその失敗がどの程度か。被害者が不死にならないことは確定としても、幸姫自身についてはわからない。素手で次々人を殺したと思われる惨状を見るに、少なくともその身体能力は彩夜に迫ると考えた方がいいだろうか。
そうこう考えているうちに救急車のサイレンが聞こえてきた。誰かが通報したらしい。
「おい、場所を移すぞ。お前もこれ以上注目を集めたくないだろう」
反応はない。幸姫は静かに吸血を続ける。
であれば仕方ない。
霧崎はスーツのポケットから黒い円筒を取り出すと、小さく顎を上げ、自分の喉に突き刺した。円筒は喉の肉を破ることなく、まるで溶けるように霧崎の中へ入っていく。
それは魂に接続して使用する魔術道具の試作品。
目の前の少女が何者であろうと問答無用で殺害し得る、不死殺しの刀の群れを操る鍵。
「いくら魔術師でもこの目立つ場所で人を殺すのはまずいんだ。だから」
歩いて幸姫との距離を詰めながら手を水平に掲げ、告げる。
「避けてくれ。でないと――――――――――死ぬぞ」
伸ばした手の陰に、漆黒の刀が出現した。
幸姫以外からは見えない角度。刀を人目に触れさせないための工夫。幸いなことにこの漆黒の刀身は暗闇の中では見えづらい。
きっちり予告した甲斐あって幸姫は霧崎の刀を俊敏に回避した。抱えていた少女はその場に放置。霧崎から距離を取り、警戒して見つめてくる。
狙い通りだ。
霧崎は飛び退いた幸姫に向けて駆け寄りながらまた手を伸ばした。刀が出現する。至近距離で射出。幸姫はまた回避。誰にも見られないよう射出した刀をすぐに消し、霧崎はまた別の刀を腕の影に隠しながら射出。幸姫はそれを紙一重で避けると今度は霧崎に向けて手を突き出してきたが、霧崎もそれを僅かに体を反らして避け、至近距離の幸姫に刀を向ける。幸姫はすぐに跳躍して距離を取った。
殺すのは簡単だがここでは殺せない。だから追い立てて人の来ない場所へ誘導する。
誘導は想像以上に簡単だった。
行きついたのは近くにあった広い有料駐車場。いくつもの車が停められていることから一切人が来ない場所とは言い切れないが、逆に言えばそれらが死角を作ってくれる。迅速に事を運べば目撃者を出さずに済むだろう。いずれにせよ建物が多いこの駅周辺で、しかも自由に逃げ回る相手を前に、これ以上の好条件を望むのは難しい。
「言葉は通じるか」
霧崎の問いかけに、幸姫はただ威嚇するような視線だけを返してきた。
「そうか。……悪いな」
それだけ告げると同時、漆黒の刀が幸姫へ向けて射出された。
しかし幸姫を確かに捉えたと思われたその刃は阻まれる。
銀色に煌めく薙刀によって。
「……どういうつもりだ」
眉をひそめずにはいられない。
なにしろ、霧崎の刀から幸姫を守ったのは倉沼翔太朗なのだから。
「それはこっちの台詞だぜ、師匠。いきなり殺そうとするなんてあんたらしくもねえ」
サングラスの奥の目をまっすぐに霧崎へ向けて倉沼は言った。
「そいつはもう助からない。これ以上騒ぎになる前に処分するべきだろう」
「まだわかんねえさ。紅野彩夜も悠也もちゃんと正気に戻れた」
「あいつらとは違う。そいつは散々血を吸った状態でそれだ」
「本気で言ってんのか」
「いいから退け。これ以上そいつに人を殺させる気か」
「退けねえ。これでもあいつの師匠なんでね」
倉沼は霧崎に相対したまま薙刀を構える。
その瞬間、動いたのは幸姫だった。
「何――ッ!?」
背後から突き出された白い手。倉沼は間一髪で回避して距離を取る。だが幸姫は正気を失った紅の瞳で倉沼を見つめ獣のような疾走で肉薄する。倉沼は薙刀の柄を使って受け止めるが続けて蹴りが飛んでくる。動きは乱雑だが一撃が重い。一瞬の油断が命取りになる。
しかし倉沼にとってもこの手の戦闘は得意分野。再度距離を取り体勢を立て直す。
その一瞬を狙い澄まし、漆黒の刀を飛ばす。
「師匠っ!」
制止の声は遅い。
霧崎が放った幾本もの刃は幸姫を貫き、コンクリートの壁に磔にした。
「今のでわかっただろう。手遅れなんだ、もう」
霧崎は倉沼に言い聞かせるように告げた。
しかし倉沼は消沈するわけでもなく、むしろ口端を歪めた。
「……まだわからねえさ。そうだろ?」
その言葉に応じるようなタイミングだった。
「織原!」
叫び声に振り向くと、そこにはまっすぐに少女を見つめる黒宮悠也。
悠也と倉沼は一緒に稽古をしていた。倉沼が駆け付けたのなら情報が悠也に伝わっているのは道理だ。時間がないと考えて倉沼が先行し、遅れて悠也がやってきた。そんなところだろう。
悠也は霧崎を一瞥すると、磔にされた幸姫の元へ駆け出そうとした。
しかしそうはさせない。
足元に突き刺さる漆黒の刃が悠也の進行を妨げる。
「動くな。それ以上近づけばお前も切る」
「待ってください、そこにいるのは俺の……」
「知らん。お前の口からこいつの話を聞いたことはない」
霧崎が幸姫と悠也の間に何らかの関係があるのを知ったのはつい先日。幸姫に食いかかるいのりの声を聞いたときだ。悠也は幸姫との関わりを巧妙に隠していた。彼らの間にどんな事情があったのかなど霧崎には知る余地もない。もう、知る必要もない。
「見ての通り、あれはもうバケモノだ。お前やあの小娘が行きつく果てだ」
事実だけを端的に告げる。感情の入り込む隙がないように。
「私が処理する。お前は手を出すな」
返答はなかった。悠也は唇を引き結び拳を握りしめ肩を震わせているだけ。
その心の内が霧崎には手に取るように理解できた。織原幸姫を死なせるわけにはいかない。だが悠也の力ではどう足掻いても霧崎には勝てない。逆に殺される。それでは幸姫を助けられない。意味がない。ではどうすればいいか。どうにもできない。そんなはずはない。考える。考える。考える。それでも何も思い浮かばない。そうして焦燥だけが募っていく。
この場において黒宮悠也は無力だ。できることなど何もない。
それは悠也も自覚している。それなのに認められない。諦めることができない。どんなに足掻いてもすべて無駄になると知っていながら、意味もなく歯を食いしばっている。
もう見ていられない。
霧崎は再度幸姫に視線を戻し、漆黒の刀を実体化させた。
これで終わりだ。
織原幸姫は死ぬ。
霧崎が殺す。
そのはずだった。
「なっ……」
視界に飛び込んできたのは、がむしゃらに地面を蹴って走る悠也の姿。向かう先には幸姫。一直線に、脇目も振らず駆け抜ける。
無駄と知っているはずなのに。
諦めるべきなのに。
「っ、止まれ! さもないと」
霧崎の言葉はそこで途切れる。背後から振るわれた薙刀に意識を向けざるを得なくなったためだ。
漆黒の刀が薙刀を受け止め、鋼のぶつかり合う音が強く響く。
「何をしている、倉沼……!」
「悪いな師匠。いくら師匠でも、あいつの戦いは邪魔させねえ」
ふざけている。この状況で、悠也に何ができるというのか。
霧崎は苛立ちながらも悠也の方に目をやった。今すぐ刀を射出して殺すこともできたが、あえてせずにその様を静観することにした。あいつの戦いとやらの決着に興味があった。
「織原! 俺だ、黒宮悠也だ! 聞こえないのか!?」
無駄だ。悠也がいくら呼びかけたところで、彼女の瞳が悠也を映すことはない。
「なら……痛いと思うが、我慢してくれ」
「何?」
霧崎は動揺を隠せなかった。。
まさかそんなことはしないだろうと思う。冷静に考えてそれだけはありえない。
だが、そのまさかだった。
「……ッ!」
悠也は幸姫に突き刺さった刀を引き抜いた。
一本、また一本と彼女を縫い留める楔が失われていく。その度に幸姫は獣のような悲鳴をあげ、傷口からは鮮血が噴き出し、代わりに四肢の自由を取り戻す。
馬鹿げている。
幸姫は正気を取り戻していない。その状態で拘束を解いても逃げられるだけだ。そんな行動にどんな意味があるのか。それで何が解決するというのか。
「……この刀、やっぱりいのりのときの」
悠也はそう呟いて、ちらりと倉沼を見やった。
以前、水無月いのりがこの試作品を操って彩夜に怪我を負わせたとき、駆け付けた倉沼が傷を塞いだことがあった。悠也は同じことができないかと期待したのだろう。
だが倉沼は今霧崎から離れられない。幸姫の傷口を塞ぎに戻ることはできない。仮にそれが可能だったとしても、霧崎が刀の魔術的効果を解かない限り完全回復はありえない。いのりの一件に関わった悠也もそれは知っている。
だからもしも悠也が幸姫の命を救いたいと願うなら、取るべき行動は一つだ。
「私を殺すか?」
霧崎は意地が悪いと知りつつそう聞いた。
「言っておくが、説得に応じる気はないぞ。そいつはもう手遅れだ」
「……手遅れじゃなければ、助けてもらえますか」
「その仮定に意味はない。既に大量の血を吸っているにも拘らず、そいつは正気を失ったまま。お前たちとは違う」
「まだわかりません」
師に似たのか、元からの性格か、それとも意地か。悠也はきっぱりとそう言った。
今にも泣き出しそうな顔。絶望に押しつぶされそうな顔。
それでも悠也は諦めない。幸姫を解放し、両手に抱える。幸姫は暴れて抵抗したが、全身に負った傷のせいかその抵抗は弱弱しく、悠也はそれを強引に抑えるように抱えて立ち上がった。
阻もうとする霧崎を襲うのは、倉沼の操る銀の薙刀。
「行け悠也! その子を正気に戻して返って来い!」




