堕落
「ありがと、もう大丈夫」
吸血衝動が満たされた彩夜はそう言って悠也から離れた。
「変な勘違いしないように聞いておきたいんだけど……今のは、私に選択の余地を与えないため。それ以外の意味はないんだよね?」
「……ああ」
悠也が答えるまで僅かな間があった。
彩夜はその意味を考えないようにする。
「そっか、それなら安心。それでこのあとどうするの?」
「実は少し困ったことになってる。外に待たせてきた人が二人いるんだが……」
と、悠也はここに来るまでの事情を話してくれた。長く生きられない少女と、その父親。彩夜の吸血で少女を不死にして寿命を伸ばすのが二人の目的だということ。
「判断はお前に任せる。したいようにしてくれて構わない」
悠也はそっけない口調でそう言ったが、彩夜にはそれが本心を隠すためのものだとわかってしまった。
だってそうだ。悠也なら少女を助けたいと思うに決まっている。
だが悠也はそれを口にしない。その気遣いが少し嬉しい。大切にされているような感じがして。
「私としてはそれでその子が助かるなら血を吸ってもいいけど、霧崎さんが許してくれるかどうかだね。スマホ貸してくれる?」
「構わないが、この辺りの電波は不安定だから……やっぱり圏外だな」
「てことはまず電話を探すとこからか」
彩夜の答えに、悠也は不安そうな顔を隠さない。
「……本当にいいのか?」
「もちろん。血を吸うとか吸わないとか、こうなっちゃったらもう今更だし」
「……そうか。お前が言うなら、わかった」
それで会話が途切れた。
なんとなく気恥ずかしくてソワソワしてしまう。それは悠也も同じだったようで、先に目を逸らしたのは悠也だった。それがおかしくて、彩夜は少しにやけてしまう。
馬鹿だと思う。そんな資格、自分にはないのに。
彩夜は自戒と共に立ち上がる。
「行こ、悠也」
「ああ」
そう言って立ち上がろうとした悠也がよろめく。壁に体を預けて頭を押さえる。
「大丈夫!?」
「……ああ」
悠也は強がるように笑って続ける。
「……貧血かな、これは」
「あー……ごめん」
少し、いやだいぶ血を吸い過ぎたかもしれない。普通の人なら死んでもおかしくない量の血を一気に失ったのだ。いくら不老不死とはいえ一時的に血が足りなくなっているのだろう。
「もう少し休んでから行く?」
「いや、急ごう。二人を待たせたままにはしておけない」
悠也がそう言うなら彩夜がそれ以上反対するわけにもいかない。
そうして二人は教室を出た。廊下を通って、階段をゆっくりと降りていった。
校舎を出ると悠也の言っていた二人が待っていた。
希凛と拓馬。不死の肉体を求めて彩夜を探していた親子だ。
「黒宮さん!」
希凛が満面の笑みで悠也に駆け寄ってくる。
「うまくいったんですか?」
「ああ、なんとか。希凛のおかげだ」
希凛が彩夜の方を見てくるので軽くひらひらと手を振ってみると、希凛の笑顔はぱぁっとさらに明るくなる。見ているこっちまで嬉しくなってきて頬が緩む。
そしてそれに水を差すが如き仏頂面で拓馬が言う。
「君が観鳥彩夜か」
「できれば紅野彩夜って呼んでもらえるとありがたいかな」
「む、籍が変わっていたのか」
「いえ、心持ちの問題で」
「そうか……それで、君に頼みがあるんだが」
「おおよその事情は聞いています。私は協力しても構わないと思ってますけど、その前にある人に電話して許可を取らなきゃいけないので、それまで待ってもらえますか?」
拓馬は見るからにほっとした様子で返す。
「ああ、待とう。確か駅に公衆電話があったはずだ。それを使うといい」
「あー、そういえばあったっけ。わかりました。今から行ってきます。――悠也」
そうして何気なく振り向いた彩夜は、思いがけないものを目にして絶句した。
悠也の左手が、希凛の胸を貫いている。
その手が乱雑に引き抜かれると、希凛は崩れ落ちるように倒れた。
紅色をした悠也の瞳は無感動にそれを見下ろしていたが、やがて自身の左手に移る。そこにはたった今引き抜かれた希凛の心臓が握られている。
「な……、やめろ……ッ!」
彩夜より少しだけ先に我に返った拓馬が叫んだ。
だが遅い。
べちゃりと瑞々しい音を立てながら、希凛の心臓は握り潰された。
悠也は手のひらに残った大量の血液をうっとりと眺めている。
まるで鏡を見ているようだと彩夜は思った。
これはきっと悪い夢だ。
だってこんなことはありえない。
悠也は彩夜とは違う。彩夜に血を吸われた人は不死身になるが、彩夜とまったく同じになるわけではないのだ。そのはずだったのだ。吸血衝動が芽生えるなんて話は聞いていない。そんなことがあれば霧崎が把握していたはずだし、彩夜に伝えていたはずだ。
それなのに。
彩夜にはわかる。悠也は今、抑え切れない渇きを潤すために血を欲している。
どうしてこんなことになったのだろう。
彩夜が悠也の血を吸い過ぎたからだろうか。同じ人の血を二度吸ったことはなかった。たった一人の血をあんなに一度に吸ったこともなかった。自分はバケモノだと開き直っていた頃でさえ、ここまで快く誰かの血を吸ったことなどただの一度もなかった。あんな風に血を吸ったのは悠也が初めてだった。
あるいは悠也自身に何か理由があったのだろうか。思い返してみれば、教室に現れた悠也は彩夜の攻撃のすべてを完璧に受け止めていた。あれは妙だ。だって悠也は昨日、魔族化した彩夜の動きに対応できずあっけなく胸を貫かれ倒れたのだ。それなのにどうして今日はあんな風に対応できたのか。そこに何か見落としがあったのではないか。
彩夜が考えている間にも状況は進んでいく。
悠也がべっとりと血液の付着した手を口元へ運んでいく。泣きそうになりながら希凛の名を呼ぶ拓馬には見向きもしない。意識にすら入っていないのだ。その衝動の前ではほかのすべてが無価値になると彩夜は身を以て知っている。
だから止めるのは彩夜の役目だ。
「駄目。それは駄目だよ、悠也」
彩夜は悠也の腕を掴んで言った。滴る血は口まで運ばせない。
ジロリ、紅の瞳が彩夜を見る。冷たい視線に彩夜の胸が締め付けられる。
叫んだのは拓馬だ。
「……っ、何をしている! 早く血を! お前は希凛を不死にできるはずだ!」
その声で彩夜は折れそうな心を律した。悲嘆も後悔も弱音を吐くのも後回し。
希凛の命が潰えようとしている。
彩夜は希凛を知らない。だがこのまま希凛が死ねば悠也はどう思うだろう。それを思えば彩夜のすべきことは一つだった。
だがその思考は何の前触れもなく空白に変わる。
「え……」
気づけば彩夜の体が宙に浮いていた。より正確には、腰をくの字に曲げて地面と水平に飛んでいた。悠也が遠ざかっていく。蹴り飛ばされたのだと気づいたのはそれからだった。
迂闊だ。今の悠也の膂力が魔族化した彩夜に匹敵するのはわかっていたのに。
悠也は彩夜には見向きもくれず、手についていた希凛の血液を舌先で舐めた。指の一本一本を丁寧に舐めとり、舌が掌に移動したところで、眼下に倒れた希凛に目を留めた。
「な、何をする気だ。お前が血を吸っても、希凛は不死になれるのか……?」
流石の拓馬も動揺が表情に出ていたが、それでも怯えて悲鳴をあげるようなことはしなかった。こんな状況でさえ、あるいはこんな状況だからこそ、希凛のことが何より大切なようだった。
その姿に影響されたというわけではないのだろう。ただ衝動が満たされただけ。
だがそれは考え得る限り最悪のタイミングでもあった。
「……え」
悠也の口から漏れたその声は、あまりにも感情的だった。
眼下には血を流した希凛。唾液塗れの手。彩夜のときと同じなら記憶もしっかりと残っているはずだ。状況を理解するのに時間はいらない。
「俺が、やったのか……?」
茫然自失と呟く悠也は、近寄る彩夜の足音に怯えた顔で振り向いた。
気持ちは痛いほどに理解できた。
「説明は後。先にこの子を助けなきゃ」
口調は努めて冷静だった。
希凛の傍らにしゃがみ込み、彩夜は傷口に口を付ける。悠也が血を舐めたことで希凛の間接契約が成立する可能性もあったが、彩夜が直接吸血した方が確実だろう。
やがて徐々に希凛の胸の穴が塞がり出す。
その間ずっと、悠也は立ち尽したままだった。
◇
誰も悠也を責めなかった。
きっとそういう気持ちがなかったわけではないのだろう。希凛が目覚めるまで拓馬は一言も言葉を発さなかったし、目覚めてからも決して友好的な態度を取っては来なかった。それでも悠也を非難しなかったのは、ただ単にそれが無意味と知っていたからだろう。拓馬はただただ希凛の身を案じ、希凛が目覚めたことに歓喜の涙を流すだけだった。
一方、目覚めた希凛は悠也の謝罪を笑って許した。老人に突き飛ばされたときとはわけが違う。殺されかけた、否、事実殺されたと言って相違ないことをされたのに、それでも希凛は怒らなかった。それどころか悠也のことを案じてくる有様だった。
彩夜も悠也を責めなかった。ただ無言で付き添ってくれるだけだった。
『どうか私を軽蔑して』
その意味を痛感する。いっそ責めてくれれば楽なのに誰もそうしてくれない。
悠也はこっそりと宿を出た。眠れる気がしなかったし、一人になりたかった。
深夜の暗い山道を歩いて辿り着いたのは崖の上の野原。
だが到着する前に悠也は自分の思惑が外れたことに気づいていた。少し距離を離して彩夜が付いてきているのを『魔術師の勘』が察知していた。おそらく彩夜も『魔術師の勘』で悠也を追ってきたのだろう。『勘』の精度では彩夜が勝る。逃げられるはずがなかった。
「さっき霧崎さんに電話したら、希凛さんはとりあえず連れて来いだって」
彩夜はそれだけ報告し、けれど立ち去ろうとはしなかった。
無言で悠也の後方に立っている。
それを強く意識すると、思わず口から言葉が漏れた。
「……お前も、こんな気持ちだったのか」
手のひらを見つめる。希凛の胸をいとも容易く貫いた自分の手を。
映画を見ているかのように、体は勝手に動いていた。
自分が自分じゃないみたいだった。
でも違う。あれはたしかに悠也の内から生じた衝動だ。
手に付着した希凛の血液を舐めたあのとき、どれだけの恍惚を味わったか。
どうしようもないほどの自己嫌悪が、心の中を黒く染めていく。
それだけではない。
いつまたあの衝動に身を任せ、自分が自分でなくなるか。
それが恐ろしくて、恐ろしくて、情けないことに体の震えが収まらない。
こんな思いをし続けてきた彩夜に、悠也はそう生きることを強要した。
その残酷さを、今更ながら本当の意味で理解した。
「元に戻りたい? 戻りたいなら――」
「それは駄目だ……ッ!」
言葉の続きを察し、悠也は叫びながら振り向いた。
振り向いて、意外な表情に意表を突かれた。
そこにあったのは、自責と自罰の感情から死を望む少女の哀しい微笑ではなく。
見惚れるほどに美しくて愛らしい、屈託のない笑みだった。
「さっき私に言ってくれた言葉、忘れちゃった?」
彩夜は悠也に一歩近づき、上目遣いで言う。
「百万年後も一緒にいてくれるってやつ。私はもうすっかりその気になっちゃったけど、撤回する?」
「……いや、そんなつもりは、微塵も」
「なら大丈夫」
不思議なことに。
「私と一緒にいる悠也の傍に、私はいるもの。心配することなんて何もないよ」
その言葉を聞いた途端、震えはぴたりと収まった。
「まあ課題は色々あるけどね。私は観鳥彩夜でいることから逃げたけど、悠也はまだ黒宮悠也で在り続けるんでしょ?」
「……ああ、そうだ。それが俺が生きていていい理由だから」
結局のところ、状況が大きく変わったわけではないのだ。
悠也は魔術と関わりを持った人殺しだが、そうとも知らずに大切に思ってくれる人たちがいる。その人たちを悲しませないために、生きることを選択した。その人たちを危険な目に遭わせないために、強くなろうと思った。それはきっと卑怯なことだとわかった上で、それでも選んだ。
同じことだ。
黒宮悠也が大切な人を傷つけないよう、万全の対策と鍛錬をすればいい。
今度こそ間違えないように。
もう、誰も殺さなくて済むように。
「手伝ってくれるか?」
「もちろん。とっくに約束したでしょ?」
「あの時とは違う。俺も、お前も」
「……かもね」
彩夜は柔らかな微笑を浮かべた。
そう。状況が大きく変わったわけではないが、変わったものもある。それは変わってしまったものであったり、変わることができたものであったり。前進とも後退とも知れないが、それでも確かに変わったのだ。
月夜に佇むは二人の人殺し。
夜風に吹かれる野原は青く、紅が野を彩る夜はもう遠い過去の話。
◇
丸一日まちの中を歩いて、気付けば夜遅くになっていた。
いろんな場所を見て回って、蘇った記憶が本物であることを確かめていた。
織原幸姫は失った記憶を取り戻すことに成功した。
世界で一番大好きだった敷根潤との思い出を。
「……この写真も、本当は三人で撮ったのよね」
とある高台の公園。幸姫はスマホに保存された写真を眺めながら呟いた。
沢山の思い出があった。潤と二人で過ごした時間も、ほかの友人たちも含めた皆で過ごした時間も、忘れてはいけない大切な思い出だった。特にこの一年ほどは幸姫と潤と悠也の三人でいる時間がほとんどで、それが当たり前ですらあった。
大切な思い出が蘇ったことを、幸姫は心の底から嬉しく思った。
けれど。
「ねえ悠也、潤を殺したって……どういうこと?」
虚空に向けて問いかける。電話をして直接聞くだけの心構えはまだできていなかった。
断片的な情報から推測してみる。先月悠也の靴箱に入れられていたメッセージ。昨日潤の家にいた少女が泣きながら幸姫に言った言葉。霧崎が語った跡切刀の性質と、その所有者である彩夜と悠也が親しい間柄であること。それらとここしばらくの悠也の態度を考慮すれば、少女の口から出たあの言葉が出まかせでないことはまず間違いないだろう。
悠也は潤を殺し、それを幸姫に隠していた。
だがやはり理由はわからない。どうして殺したのか。どうして隠していたのか。
本当は知っていたのかもしれない。だが霧崎が復元した七割の記憶に明確な答えは見つからなかった。だから今日一日何度も悠也にそれを聞こうとして、でもいざとなると気持ちが竦んだ。
時刻は二十三時。流石にこの時間に電話をしては迷惑だろう。
そんな風に考えて、しかし幸姫は頭を振った。それはただの言い訳だ。このまま何もしないのでは何のために記憶を取り戻したのかわからない。苦しむ悠也を少しでも楽にしてあげたかった。そのために取り戻した記憶のはずだ。
そう意を決し、今度こそ悠也に電話をかけようとした、そのとき。
「はぁい、こんばんは。織原幸姫さん」
背後から、軽薄そうな女の声が聞こえてきた。
振り向くと、そこにいたのは金髪の女だ。モデルかと思うくらいに良いスタイルを隠そうともしない露出の多い格好は街中にいれば目立つこと間違いなしだが、今この公園にいるのは幸姫とこの女の二人だけ。
幸姫はその不審さに眉を潜める。
「何か用ですか」
「用が無かったら話しかけないわよぉ。私は心童葵。よろしく幸姫ちゃん」
「……どうして私の名前を?」
不信感をあらわに尋ねると、葵は謎めいた笑みを作って答えた。
「魔術師だから」
意外な答えに意表を突かれて息を呑む。
少し前までなら絶対に信じなかったであろうその肩書が空想だけのものでないことを、今の幸姫は知っている。
「辛かったわねぇ。でも泣くことも喚くこともしなかった。立派だわ」
「……なんの話ですか」
「決まってるじゃない。黒宮悠也が敷根潤を殺したって話よ」
葵は幸姫に同情するような口ぶりで、
「最低よねぇ。あなたの大好きだった潤くんを殺してあなたの思い出まで奪っておきながら、優しいふりして傍にいてさ。次第に自分に気を許していくあなたを見ながら、きっと内心ほくそ笑んでたんだわ。ここまでのクズ野郎そうはいないわよ」
「……何が言いたいの」
「別にぃ。私はただあなたの気持ちを言葉にしてあげてるだけ。その上でちょっとした交渉が出来ればいいとは思ってるけどね」
「私の、気持ち……?」
「ええそうよ。私は人の心の声が聞こえる魔術師だから」
葵は得意げに言った。
嘘ではないのだろう。何故か幸姫の名前を知っていたし、幸姫が今考えているのが悠也と潤のことであるのも当ててきた。魔術師ならば決してありえない話ではない。
だが、それはそれとして。
「ふざけないで」
幸姫は自分でも意外なくらい怒気を孕んだ声でそう言った。
「あらぁ、何か気に障るようなこと言っちゃったかしら」
「気に障るどころの話じゃないわ」
目の前の女の張り付けたような薄気味悪い笑顔に吐き気さえ覚える。
幸姫は思う。これならまだ悠也の下手な笑顔の方が、何万倍もうまくできていると。
「悠也が潤を殺してほくそ笑んでいた? 馬鹿言わないで。そんなの、一番辛いのは悠也自身に決まってるじゃない」
眉を潜めて押し黙る葵だが、幸姫の気持ちはこんなものでは収まらない。
「悠也が進んで人殺しなんてするはずがない。まして相手が潤だなんて。殺したくて殺したはずがないの。何かそうしなきゃいけない理由があったに決まってる。それなのに私を気遣って隠して、どれだけ後ろめたい思いをしていたか……私と変わらず接しようとすることが、悠也にとってどんなに辛かったか。その程度のことすらわからないくせに、心の声が聞こえる? ふざけた妄言を垂れ流すのも大概にして」
尋常でないほど腹が立った。はらわたが煮えくり返るとはこういうときに使う言葉なのだと初めて知った。
昨日幸姫を怒鳴りつけてきたあの少女が感じていたのも似たような感情なのだろう。今度謝りに行くべきかもしれない。記憶を取り戻したことを後悔しているわけではないが、今ならあの少女があそこまで取り乱したのも理解できる。
きっとあの少女は、あるいは幸姫以上に悠也を大切に想っているのだ。
そう思うとなんだか少し悔しい気もしたが、今はそれより目の前の女である。
幸姫の言葉を受けた今も、その薄気味悪い笑みは崩れていない。
「なるほど、あなたのこと少し甘く見てたわ。まさかそこまで彼のことを信頼していたなんて」
でも、と葵は続ける。
「あなた自身はどうなのかしら?」
「……どういうこと?」
「黒宮悠也がすごくいい人なのは伝わったわ。でもあなた自身は? そう聞いてるの」
「……悪いけど意味がわからない。これ以上あんたと話すつもりは」
話を切り上げようとした幸姫の言葉を遮る形で、葵は言った。
「だってとっくに気づいてたでしょ。彼があなたに惚れてるってこと」
思わず押し黙る幸姫に、葵は不快な笑みを深くして続けた。
「あなたは彼に惚れられてるって勘付いてたのに、そんなわけがないって言い訳してきた。だって愛しの潤くんがいたから。みんなでいるのが楽しかったから。悠也が自分に優しくしてくれるのは当たり前、だって悠也は優しくて良い人だから。なーんて、そんな風に自分を騙してきたんでしょう?」
「……何、言ってるの?」
「敷根潤の記憶を失った後はもっと酷いわ。愛しの潤くんをすっかり忘れて寂しくなっちゃったあなたは、彼に甘えようとした。依存と言っていいほどに」
「適当なこと言わないで。私が悠也に依存なんて」
「ほらまた、今あなたの心は別のことを言ってる。へえ、友達にも指摘されてたのね。最近のあなたは彼に好意を抱いているように見えるって。それなのにしらばっくれてたんだ」
「っ……、それは違」
「自覚がないのは当然よ。あなたは自分を騙して来たんだから。悠也が強がって弱みを見せないのも、優しくしてくれるのも、彼が強くて優しい良い人だから。自分が特別なわけじゃない。そう自分に言い聞かせてきた。本当はあなたのために強がってあなたを想って優しくしてるってわかってたのに、あなたはずーっと目を逸らしてきた」
「やめて。……そんなことしてない。目を逸らしたりなんかしてない」
ひたすら首を横に振る幸姫を葵は愉しそうに見ている。
「だから自覚してなかっただけなのよ。無意識では気づいてた。彼はそんなに強くなくて、ただあなたの前では意地を張っているだけなんだって。気づいていてその好意に付け込んだ。そんな卑怯な女があなた。卑怯な自覚があったからこそ自分を騙してきたし、騙しきれなくなったからこそ罪悪感から記憶を取り戻そうとした。彼に甘えるには良心の呵責が邪魔だった。後ろめたさが邪魔だった。本当は彼のためになんてこれっぽっちも考えてなくて、全部自分のためだった。辛くて男に縋りたかった。そうよね?」
「いい加減なこと言わないで! そんなこと全然思ってない……っ!」
「こんな性格ブスに惚れちゃう彼もツイてないわぁ。もしかしたらぁ、近くにもっと良い人がいたかもしれないのに」
言われた瞬間、脳裏に浮かぶ顔があった。
全身の体温がすっと引いていくような感じがした。
「曖昧な態度で惑わされちゃってかわいそう。ああでもあなたからすれば、勝手に惚れた方が悪いって感じかしら」
「違う……違う……違う」
幸姫は力なく首を横に振る。
「何が違うの? 黒宮悠也はかわいそうじゃないってこと?」
「違う……っ。そうじゃなくて、私は」
「優しい悠也に都合よく甘えようとした卑怯な女でしょう? 違うの?」
さも当然のことを確かめるかのように、葵は小首を傾げて聞いてきた。
幸姫はそれを――――否定、できなかった。
「……何が目的なの?」
「ん?」
「そんな滅茶苦茶言って私を惑わせて、何がしたいの?」
「惑わされてるってことは、少しは自覚があるのかしら。口では違うって言ってるくせに」
「質問してるのはこっち。答えなさいよ」
「んー、まあいいわ。教えてあげましょう」
もう幸姫は葵の顔を見ていなかったが、悪趣味に笑っているのは容易に想像できた。
「あのね幸姫ちゃん、あなたに自殺してほしいの」
「え?」
意外な返答に、幸姫の思考が刹那の間空白になった。
「幸姫ちゃんもちょっと思ってるでしょ。こんな醜悪なクソ女死んだ方がマシだって」
「……私が死んだら、あなたにはどんな得があるわけ?」
「あなたが死ぬこと自体が得なのよ。魔術によって記憶を失い、その記憶を取り戻し、そうして振り回されたあなたが、自ら死を選ぶ。それは私にとって価値のあることなの」
「……悪趣味ね」
「否定はしないわぁ。で、どうする?」
葵は芝居がかった声で問いかけてくる。
「あなたさえいなければぁ、悠也くんはもう悩まなくて済むかもしれない。本当に結ばれるべき信頼できる人と一緒になって、幸せに生きられるかもしれない。お友達の月乃ちゃんだって、強引なあなたを迷惑に思っているかもしれない。両親だってあなたが死んで悲しむような人じゃないでしょう? むしろ子どもがいなくなったことで清々と離婚できるって喜ぶかもしれない。ほら、何もかもいいこと尽くし」
「……」
もう、考えるのが嫌になっていた。
何かがおかしい。そう思っているのに否定すべき点が見つからない。悠也には幸姫以上に信頼を寄せる彩夜がいて、悠也のことを想ってあれだけ怒ることができる少女もいる。月乃は幸姫が誘った七夕祭りに消極的だったし、両親にとって幸姫は邪魔な存在だ。全部幸姫自身が心のどこかで考えていたことなのに、どうして否定などできるだろうか。
「必要な道具があれば用意するわよ。どうやって死にたい?」
「……」
「……突然じゃ死に方なんて思いつかないか。ならゆっくり一緒に考えましょう」
葵はそう言って手を差し伸べてきた。
不思議だ。目の前にいるのは世界一嫌な人間なのに、その手を取るのに躊躇いはなかった。
だが、その瞬間。
「――――――――――――――――え」
幸姫は信じられないものを目にした。
目の前にいた葵の後方。闇の中から突然腕が伸びてきて、裏拳で葵を殴り飛ばしたのだ。それもものすごい力だったらしく、横顔を殴られた葵はそのままの勢いで側方に吹っ飛んでしまった。
「……嘆きに暮れる命を終焉に誘う。度し難い悪だ」
低く唸るようで威厳を感じさせる声だった。
見れば、そこには一人の男が立っている。年齢は読み取れない。若くはないが年寄りにも見えない。身に纏うのは黒衣。顔は一切の感情が読み取れない無表情。
あまりに異質な存在感に目が話せなかった。
と、そこで咳き込む声。葵がふらつきながら立ち上がるところだった。
「……接近する心が聞こえなかった……何者よ、あんた」
男は葵に向き直り、
「破荒墨影。魔術師だ」
その名乗りを聞いた途端、葵は驚愕に目を見開いた。
「破荒……? そう、あんたが……」
葵が表情を隠すように俯いた――瞬間、その姿が掻き消えた。
同時に幸姫の襟首が捕まれる。掴んだのはいつの間にかそこにいた葵だ。
「邪魔!」
吐き捨てるように言って幸姫を自分の体で隠すように位置取り、空いた手でベルトに下げた箱を手に取る葵。一連の動作は流れるようにスムーズだ。
その中で幸姫は、眼前の破荒を鬼のような形相で睨む葵を見た。
「死ねよ。あんたのせいで、楓は……っ!」
そう怒鳴りつけると同時、破荒に向けて箱を放る。
幸姫の視界が途切れ、一瞬の後に切り替わる。
直後、夜闇は爆炎によって壊された。
吹き荒れる爆風が砂塵を巻き上げ体を叩き、熱が肌を焼いていく。
幸姫には何もかもがわからない。自分が葵の有していた魔術道具によって一緒に空間を転移したことも、この爆発を起こした爆弾が魔術を利用した特別なものであることも、葵が突然こんな行動を取った理由もわからない。ただ目の前の状況に翻弄されるのみ。
かろうじてわかったのは、葵が幸姫を爆発から庇ったということ。
「どうして私を……」
「妙な勘違いしないの。あなたの楓のせいで死ぬ。じゃないと意味ないんだから」
幸姫の方を見向きもせずに葵は言った。視線は燃え上がる爆炎に固定されている。まともに見れば眼球の水分が蒸発するほどの高温のはずなのに、それでもじっと睨みつけている。
そして、
「豪快だな」
低く唸るような声が、炎の中から聞こえた。
「……うそ、でしょ」
葵が愕然と声を漏らした。
だがそれも当然のことだ。あれだけの爆発の中心にいながら、破荒墨影の体には傷一つない。炎に黒衣を焦がされることもなく、ただ悠々と佇んでいるのだから。
「そりゃ殺せるとは思ってなかったけど……どうなってんのよそれ。あれだけの爆発を受けて無傷? そんなはず」
そこで葵の言葉は途切れた。代わりに漏れたのは乾いた笑いだ。
「……はは。何その魔術。それがあの子らの不老不死の仕組みってわけ? ……いくらなんでも滅茶苦茶すぎる」
突然の態度の一変はそう奇妙なことではない。葵は人の心の声を聞く魔術を使う。そうして破荒の思考を読み取ったために、破荒の返答を待つまでもなく疑問の答えがわかったのだ。
だから奇妙だったのはむしろ、一切の動揺を見せない破荒の方。
「我が魔術を看破したのか」
無感動にそれだけ言う姿は、まるで機械のようだった。
葵は自嘲気味に笑って、
「看破? 無理に決まってるじゃない。誰があんたみたいなバケモノを理解できるのよ」
「心外だ。私は誰よりも人間らしく在り続けている」
「あんたみたいな人間がいるもんですか。超人はもはや人じゃないの」
言いながら、葵は幸姫の腕を掴んで立ち上がらせた。同時にまたベルトに下げた道具を手に取り、足元には淡く輝く魔術陣が浮かび上がる。
「気に食わないけど引かせてもらうわ。悪く思わないで」
葵の言葉で、幸姫は葵がまた空間転移をするつもりなのだとなんとなく察した。
だがその瞬間、葵の腕は破荒の右手で切断された。
「へ……?」
葵が呆然と声を漏らす。
いつ接近したかもわからない。どんな理屈で切断したかもわからない。ただ破荒はいつの間にか二人のすぐ近くにいて、その指先がまるで水の中に指を入れるようにぬるりと葵の二の腕に滑り込んだかと思うと、次の瞬間幸姫の腕を掴んだ葵の腕は落とされていた。
「っ―――――――――――――!」
地にうずくまり傷口を押さえ、声にならない悲鳴をあげる葵。
それを見下ろし、
「この女は置いていけ」
破荒はやはり低く唸るような、それでいて感情を感じさせない声で告げた。
「絶望の底にある命に必要なのは、死ではない。希望に満ちた光ある未来だ」
「……っ、どの口が」
葵は破荒を睨みつけたが、同時に足元の魔術陣が眩く発光し、その身は光の中に消えた。
残されたのは幸姫と破荒の二人だけ。幸姫は最初魔術陣の中にいたが、腕を落とされて藻掻き苦しんだ葵に合わせて陣も移動してしまったため取り残されてしまった。
もっとも、葵と共に行きたかったわけではないけれど。
「辛いか、女」
破荒が言った。
幸姫は考えることを放棄していた。もうわけがわからないし、何もかもがどうでもいい。
死ぬことにだって抵抗はない。誰も幸姫の生存など望んでいない。なら潤の後を追うのもありかもしれないと思った。死後の世界なんてものがなくて死が虚無しか残さないのだとしても、マイナスよりはマシだ。
そう思っていた。それなのに。
「私と来い。君の未来に幸福を約束しよう」
破荒が告げたその言葉には、どうしてだか縋りたくなるような魅力があった。
以上で三章は完結となります。
四章は近日中に投稿予定です。
それといつの間にかついていた評価とブックマークのお礼を。
正直、こんな独り善がりな作品では誰かに評価されることはないと思っていました。話は暗いしweb小説らしい空行もない。誰に読まれることもない自己満足の作品で終わると思っていました。
それがごく少数の方にでも読んでいただけて、なんというかもう感無量です。
本当にありがとうございます。
この先の物語がご期待に添えるものかどうかはわかりませんし、そもそもここまで読んでくださっているかもわかりませんが、しっかりと完結させるつもりでいます。
是非とも最後までお付き合いいただけると幸いです。




