反転する日常04
――もう、一年も前のことになる。
その日の体育の授業は体育館でのバレーボール。いくらかの基礎的な練習を終えてからチームを分け、順番に試合をする運びとなった。順番待ちのチームは自分たちの番が来るまで談笑という緩い空気の中、悠也は一人体育館の端に座っていた。
そこへ潤がやってきたのだ。
「よう親友。どうした、いつも通り暗い顔して」
「いつも通りなら何も問題ないだろ。余計なお世話だ」
「そうかい。そりゃあよかった」
潤は当たり前のように悠也の隣に座った。
「いいのか。チームのやつと一緒にいなくて」
「お前も一人じゃねえか」
「……俺以外のみんな、仲いいみたいだったからさ。気まずくて」
「そうか。こっちもまあ似たようなもんだ。――お、幸姫のやつやるな。何気に活躍してんじゃねえか」
潤の一言で、奥で試合をしている女子の方に目をやった。
何やら点が入ったところらしく、ちょうど次は幸姫がサーブを打つ番のようだ。
素人にしては上々のフォームからの力強いジャンプサーブ。だが、
「ぬぁぁぁぁしまったぁぁあ!?」
体育館の端にいる悠也たちからは見えにくかったが、どうやらエンドラインを越えてしまったらしい。頭を抱えている幸姫に、ドンマイ、切り替えていこう、とチームメイトからの声がかかる。
「んー、惜しい。結構いい感じに見えたんだけどな」
苦笑いの潤がそう言っている間にもプレーは続く。失敗を取り返そうとしているのか幸姫は必死だ。相手チームのスパイクを滑り込むように拾い、すぐに立ち上がる。
「……織原ってさ、かっこいいよな」
悠也の口からそんな言葉が漏れた。
「お、なんだ惚れたか?」
「違う、そうじゃない。けど……」
頭の中で自分の気持ちをまとめてから、悠也は続ける。
「手を抜くってことしないだろ、織原は。運動でも、勉強でも、遊びにだって全力だ。どんなことにも本気で、失敗だってするのにへこたれなくて」
ちょうどそこでまた幸姫がミスをした。悔しそうな顔をして、手のひらを顔の前で合わせてチームメイトに謝り、そしてまたプレーに戻る。
今日に限ったことではない。知り合ってまだ間もないが、少なくとも悠也の知る織原幸姫はいつもそういう風に振舞っている。
その姿に魅せられた。恋愛とかそういう類の感情以上に、ただその在り方が尊いものだと感じたのだ。
「……俺は、あんな風にはできないから」
「ほう。どうしてそう思う?」
「前に言わなかったか。徒労が嫌なんだ。だから頑張れない」
いくら頑張ったところで望んだ結果が伴うとは限らない。それは誰にとっても当たり前のことだとわかっているが、わかっているから頑張れるというわけでもない。
この世は不条理にできている。
それがなんとなく受け入れられないのだ。
「宙ぶらりんだ。何も頑張らないし、何もしない。何も選ばない。それが俺だ」
「そんなことねえと思うけどな」
「いいよ。否定してほしいわけじゃない。ただ……頑張ったやつが頑張っただけ報われる世の中だったらいいのにって、そう思う。俺はそれでも頑張れないかもしれないけど、頑張ってるやつは報われてほしい。そうじゃなきゃ理不尽だ」
「理不尽なのは嫌いか?」
「なんていうか、認めたくない。織原みたいなやつを見てると、特にそう思う」
幼稚な考えであることは自覚していた。
だが潤はそれを笑うことなく、いつも通りのいい加減な口調で言った。
「一つ言っとくけどよ。別に幸姫だって、お前が思ってるほど特別じゃねえぞ。あいつが実践してるのは『つまらないより楽しい方がいい』ってだけのことだ」
「楽しい……方が?」
意外な言葉にきょとんとする悠也に、潤は頷く。
「世の中は不条理だ。努力が報われるようにはできてねえし、結果が期待を裏切ることなんていくらでもある。徒労なんか最悪だ。でも、だからって何もしなかったらつまらねえだろ。極論、今が楽しけりゃそれでいいんだ。今楽しいことをずっとしてりゃ、一生楽しいままなんだから」
「それはあくまで極論だ。嫌な結果は何にだってついて回る。それを全部考えるなってのは無茶な話だ」
「まあな。ただ、世の中楽しんだもの勝ちってのは真理だと思うぜ。ほら、あいつだって、すげえ楽しそうに笑うだろ?」
言われてはっとした。
確かに、何かを頑張っているときの幸姫はいつも楽しそうにしている。今この瞬間だってそうだ。真剣に競技に取り組みながらもふいに覗かせる笑顔が、同じくらい楽しんでいることを伝えてくれる。
潤の言葉を鵜呑みにするわけではない。極論は極論だ。
だが幸姫に関しては腑に落ちた。
悠也が魅せられたのは、そういう彼女だったからこそなのかもしれない。
「俺がお前と親友なのと一緒でさ、楽しいからそうしてるんだ」
潤は常識を語るような口調で続けた。
「お前だって、そうだろ?」
◇
どこまでも左右に続く生垣に囲まれた広い敷地。その中にどっしりと構えた和風の邸宅。さながら武家屋敷といった様相のこの家に、潤は一人で住んでいるらしい。
汗をかいたり彩夜の血を浴びたりしていた悠也は、潤の勧めでシャワーを借りた。
流水を浴びながらさっきまでの出来事を思い返す。人工の蜘蛛のこと。その中に入ったゴーストのこと。助けられなかった少女のこと。助けてくれて殺された少女のこと。それから、陽気なクラスメイトのこと。
――思い返してみれば、敷根潤は口数の割に自分の話をしない人間だった。
話すことといえば、どこで聞きつけてきたのかもわからない胡散臭い噂話や他人のことばかり。自分のことを何も語ろうとしないくせに人のことを勝手に「親友」なんて呼び始めて、ことあるごとに絡んでくる。そんなやつだ。
だから潤の家を知ったのも、一人暮らしであることを知ったのも、今日が初めてだった。
それに、悠也が今日遭遇した異常の数々。潤はあれらを知っていた。知っていて、悠也に真実を語らずにいた。
(こんなものが親友……か)
シャワーを止める。ゆっくりと深呼吸をして、複雑に絡まった思考を整える。
何もかもわからないことだらけだ。それをこれから問いたださねばならない。
借りたジャージに着替え、脱衣所を後にする。
潤は殺風景な庭の見える縁側に腰かけて悠也を待っていた。
「出てきたな。服のサイズはどうだ?」
「問題ない」
意図せず素っ気ない声音になった。
対する潤の態度はいつもと変わらない。何を考えているかわからない。
本当は、ずっと前からそうだった気がする。
悠也には潤の考えていることがわからなかった。潤は自分のことを語らなかったし、悠也は知ろうとしなかった。知らなくていいと思っていた。そのままでいるのが心地よかったのだ。
だけど今は、少し、違う。
「全部だ」
「ん?」
「全部聞かせてもらう。お前が知ってること、隠していたこと、全部」
潤の目をまっすぐに見て悠也は言った。
「……はいはい、了解だ」
潤は観念したというように両手を上げて、
「どうせこの状況で中途半端に話したところで逆効果だ。話せることは全て話す」
そう言ってから顎に手を当て、今度は悩ましげな様子で、
「問題はどこから話すかなんだよなぁ。……んー、よし。やっぱ語り始めはガツンとインパクトのある入りが鉄板か」
そうして、いつもの噂話を語るみたいに得意げな調子ではっきりと告げた。
「聞いて驚け親友。この俺、敷根潤は魔術師だ」