吸血少女と人殺し
校舎に踏み込んだ悠也は、頭上の気配を確かめながら階段を上った。
熱っぽさは残っているが、それでも全身の力はほぼ元に戻っている。どういうわけか再生能力がいつもより向上しているらしい。この状況ではありがたいことだ。
辿り着いた三階。階段から数えて二つ目の教室に足を踏み入れる。
机も椅子も撤去された殺風景なその空間は、まるで劇場だった。
窓辺に立つのは一人の少女。繊細で、冷淡で、儚げな印象を抱かせる後ろ姿。クセのついた銀髪は窓から入る仄青い月明かりを受けて幻想的に煌き、視線を釘付けにして離さない。
「彩夜」
名前を呼んだ。反応はなかった。
歩を進める。窓際の彼女に近づいていく。
そして――突如振り返った紅い瞳が悠也を映した。
乱雑に振るわれる白い手。僅かに身を反らして回避。続けて側面から顔に飛んでくる踵を手の甲で弾く。顎を突き上げようとしてきた右手は、その細い手首を掴んで止めた。
「なんの真似だ、これは」
彩夜は答えない。無言のまま悠也の手を振り払い背を向けるだけ。
だが悠也は不敵に笑ってみせる。彩夜の思惑は透けて見えていた。
「当てようか」
「……」
「理性がなくなっているフリなんだろ。昨日もそうだった。俺を襲って、俺の血を吸おうとするフリをして、俺にお前を諦めさせようとした。違うか?」
彩夜は何も言わないまま、窓際に向けて静かに歩き出す。
「答えろよ。黙っていたんじゃわからない。それとも、それも言葉はもうわかりませんって演技のつもりか。言っておくが、お前そういうの上手くないぞ」
安い挑発。だが二人の間ではそれも普通のコミュニケーションだった。悠也が潤と真剣な話をしているときに現れ、悠也の物真似をしてからかってきたのが最初だったか。あのときはまだ彩夜の人柄を知らずにいたから、悠也は戸惑うばかりだった。
会話を重ねるにつれ、彩夜のそれがいつも何か意味のあるものだと悠也は気付いた。下手な気遣いとでも言えばいいのだろうか。悠也が何かに悩んでいるとき、肩ひじ張って思いつめているとき、彩夜は決まってどうでもいい戯言を言って、それで悠也は少し気が楽になる。認めるのは悔しい気もするが、そんな彩夜の存在にずっと救われてきた。
今はどうだろう。
悠也の精一杯の安い挑発は、彩夜に届いているだろうか。
広い教室を満たす静寂の中、悠也は全神経を集中させて彩夜の言葉を待った。
そして。
「……私が逃げずにここで待ち構えたの、何故だかわかる?」
その声は自嘲の色を帯びていて、答えを期待していないかのようだった。
事実そうだったのだろう。だから彩夜は悠也の言葉を待たずに言った。
「血が吸えると思ったからだよ」
落ち着いた口調で彩夜は続ける。
「いけないってわかってるのに、期待して待った。高ぶる気持ちを抑えきれなかった。やっとこの渇きを潤せると思った。……ううん、本当は今も期待してる。悠也に飛び掛かって、無理矢理にでも血を吸いたいって、心のどこかで思ってる。さっきの、半分演技だけど、もう半分は本気だった」
その言葉尻の声が震えていたのを、悠也は聞き逃さなかった。
「怖いのか?」
「怖いよ」
ぽつりと、彩夜は細い声で答えた。
「怖いに決まってるじゃん。だって、私が私じゃなくなるんだよ。あと一度血を吸ったら、私は我慢ができなくなるって確信がある。他人の人生を蔑ろにして、自分の快楽のためだけに生きるバケモノに戻る。そんなの……そんなの、怖くないわけないでしょ」
「だが、お前は一度吸血をやめることに成功した」
彩夜は力なく首を振る。
「あれは両親をこの手で殺したおかげ。二度目はない。二度目のきっかけなんてあってほしくない。このままバケモノになり果てる以外、私に残された道はないの」
「どうあっても我慢はできないのか」
「そう言ってる。……だから、その前に殺してほしかった」
恨み言を言う彩夜は、拗ねた子供のようだった。
彩夜は窓枠に置いていた跡切刀を手に取る。
「悠也がついてくることになったとき、正直私は不安だった。悠也は私を殺さないってわかってたから。でもね、少し期待もしたの。悠也は殺した人のことを忘れないだろうから。悠也は辛いだろうけど、私をちゃんと覚えていてくれる人に殺されるなら、それも魅力的なことだと思った」
悠也に見せるように跡切刀を持って、彩夜は微笑とともに小首を傾げた。
「どう。今の話を聞いて、心変わりしてたりしない?」
悠也は小さく息を吐く。
「しないな」
「そっか。残念」
「代わりと言ってはなんだが、今度は俺が来た理由を話そう」
「あら、連れ戻しに来たんじゃないの?」
「それはそうだが、その方法だ。お前の吸血衝動がどうにかできなきゃ、連れ戻すのは不可能だろう?」
彩夜が僅かに驚いた顔を見せた。
「どうにか……できるの?」
「ああ」
悠也は告げる。
「簡単だ。俺はお前に、俺の血を飲ませに来た」
「……え?」
彩夜の表情が困惑に変わる。
「この前も言ったろ。血を吸ったあとだけ理性的でいられるなら、ずっと俺の血を吸っていればいい。ほかの誰の血も吸わず、俺だけの血を吸えばいい。それなら被害者は増えない。誰も不幸にはならない」
「……それなら私、この前も言ったよね。血を吸えば吸うほど我慢できなくなるって」
「ああ」
「自分じゃどうにも抑えられなくなるんだよ。依存して、中毒みたいで、やめられなくて」
「ああ」
「悠也は……私にそうなれって言うの? 所かまわず人の血を求めるバケモノになれって」
ありえない。そんな気持ちが伝わってくるような声だった。
信じていたものに裏切られた。そんな絶望さえ感じられた。
だが悠也は動じない。
「ああ。お前が死ぬよりずっといい」
彩夜が動いた。悠也の襟を強引に掴んで押し倒して馬乗りになって叫んだ。
「ふざけないで!」
二人だけの教室に響き渡った怒声は悲鳴のよう。
それから再び満たされた静寂の中で、感情を剥き出しにした激怒の表情は、今にも泣き出しそうに見える。それだけの心が、まだ彩夜の中には残っている。
「ふざけたつもりはない」
まっすぐに彩夜の紅の瞳を見て、悠也ははっきりとそう返した。
彩夜の顔がくしゃりと歪み、それは直後に前髪で隠された。
「……どうして、わかってくれないの?」
握った跡切刀ごと悠也の襟を掴んだまま、弱弱しい声で彩夜は言う。
「悠也の血を吸って、それに慣れて、当たり前になって……そんなのバケモノ以外の何者でもないでしょ。私はそんなふうになりたくない。戻りたくない。バケモノである自分を肯定して、開き直って、他人のことなんて考えられなくて、あんな醜い自分になるのはもう嫌で、怖くて、耐えられなくて……」
彩夜の頬を、一筋の雫が滑り落ちた。
「……それなのに、今も悠也の血が吸いたくて堪らない……そんな自分が、嫌なの」
襟を掴んでいた手から力が抜ける。跡切刀が悠也の胸の上に置かれた。
「殺して。お願い」
まるで感情が抜け落ちたかのように、静かで虚ろな響きだった。だがそこに滲んだ絶望と恐怖が、悠也にはしっかりと伝わってきた。
だからこそ悠也は答える。
「できない。俺はお前を殺さない」
「……私が死にたいって言ってるのに?」
「ああ。お前がどうしたいかなんて、俺の知ったことじゃない」
彩夜は乾いた笑いを漏らした。
「なにそれ。私の命だよ。わかってる?」
「わかってる。でも、お前がいくら死にたくても、俺は死んでほしくない」
「だから知ったことじゃないって?」
「ああ」
「自分が滅茶苦茶言ってる自覚ある?」
「ああ」
「死んでほしくないから、バケモノになって生きろって?」
「ああ、そうだ!」
瞬間、悠也は勢い良く跳ね起きた。自分の上にいた彩夜を逆に押し倒し、逃れようと抵抗する彼女の両手首を掴んで強引に押さえつけた。
「いいかよく聞け。お前がどんなバケモノになり果てようと、俺はお前を見捨てたりしない。十年だって百年だって千年だって、百万年だって。それでお前が生きていてくれるなら、俺はお前に血を飲ませ続けてやる。約束する。バケモノだろうがなんだろうが、お前が俺にとって紅野彩夜である事実は変わらない。絶対にだ」
言葉の途中で、彩夜の抵抗は止まった。
彩夜は目を見開いて、ただただ戸惑った様子で口を開く。
「……正気? 百万年って」
「足りないか。なら千万年だって、世界が滅びるまでだって、それ以上だって構わない」
「そうじゃない。そうじゃなくて……なんで、そこまで」
彩夜の表情は困惑一色だった。
悠也は少し戸惑った。改めて考えてみれば、自分がここまで執着する理由がわからなかった。否、わからないはずはないのだ。潤を殺してもうあんな思いはたくさんだと感じ、いのりを助けて殺す以外の方法もあるのだと実感した。それと同じだ。死んでほしくないという感情は、特別珍しいものではない。
「俺はもう、誰かが……」
そこまで言って、止めた。その理由ではやはり違和感があった。
考えて、考えて、考えて、それで、腑に落ちる理由に行きついた。
「……お前がいなくなるのが、耐えられないからだ」
自分でも驚くほど情けない声だった。でもそれがきっと真実だ。黒宮悠也は有象無象の顔も知らない誰かではなく目の前の紅野彩夜に死んでほしくないからこうしているのだ。
彩夜はすっかり呆けたまま固まってしまっている。
血を飲ませるなら今しかない。
両手で彩夜を押さえつけたまま、悠也は自分の頬の裏を思い切り噛み切った。血液がどろりと溢れ出し、鉄のような苦味が口内を満たす。
「何、を……」
呆然と呟く彩夜の瞳を真っ直ぐに見つめた。それで悠也のしようとしていることに気づいたのか、涙で滲む真紅の目が目一杯に見開かれた。
「……やだ………お願い、やめて………………」
か細い声で、子供がイヤイヤをするように拒絶を示す。
「いや…………放して、お願いだから」
震えながら懇願する彩夜の口を、唇で塞いだ。
閉じた柔らかな唇を強引にこじ開け、口内に溜まっていた血液を流し込んだ。
眠り姫を起こすのが王子様の口づけならば、少女をバケモノに堕とすそれは悪魔の口づけだろうか。ロマンチックさの欠片もない。両手が塞がった状態で血を飲ませるにはこうするしかなかったというだけのこれは、きっとこの世で最低の口づけに違いない。
でも、彩夜に死なないで欲しいという気持ちは本当だ。
その一心で彩夜の口を塞いだ。唾液と混じった血液を強引に飲ませた。
やがて変化が訪れた。
立場が逆転する。最初は悠也が彩夜の口に血を流し込んでいたのに、彩夜の舌が悠也の口内の蹂躙を始めた。その血を一滴たりとも残すまいと、丁寧に舐めとるように犯してくる。押さえつけていたはずの細腕はいつの間にか自由になって、悠也の背中を掴んでいた。乱れた呼吸を整える間さえ与えられず、黒宮悠也が貪られていく。
頭がくらくらする。意識が遠くなって、何も考えられなくなる。
長いようで短いような不思議な時間。
その果てに、悠也はゆっくりと顔を上げた。
悠也の体の下で、彩夜は仰向けのまま脱力していた。乱れた吐息の熱が感じられて、危うく悠也の方が理性を失いそうになる。
彩夜はとろけた目を三日月型に歪めた。
「最、低……」
悠也の目が狂っていないとするならば。
言葉とは裏腹に、彩夜は憑き物が落ちたように笑っていた。
「嫌がる女に無理矢理キスするなんて……何考えてるの?」
「……最初に言ったつもりなんだが」
「そっか。……なんかもうどうでも良くなっちゃった。色々と」
彩夜は微笑んだまま、潤んだ紅の瞳で悠也を見つめる。
「ねえ悠也。私、まだ足りない」
頭が沸騰するかと思った。
こんなのは反則だ。血のことだとわかっているのに、加速する心臓の鼓動が収まらない。
戸惑う悠也を楽しそうに見ながら、彩夜はくすりと笑いを漏らした。
「……いいかな?」
「……そういう、約束だからな」
視線を逸らしてぎこちなく答えた。
再度彩夜の瞳に目を向ける。正面から見つめ合う。それ自体に何か意味があったわけではなく、ただ単に気恥ずかしさから身動きが取れなくて固まってしまっただけだった。
「血が吸えれば……いいんだよな?」
「ん。それと実はこの体勢、床が硬くて痛かったり」
悠也は跳ねるように体を起こした。
「悪い、気が回らなくて」
「いいよ。それより、続き」
体を起こした彩夜が両手を伸ばし、悠也の背後に回してくる。悠也も彩夜の背中にそっと手を添えた。華奢な体は少し力を入れたら壊れてしまいそうで、彩夜が不死身であることを忘れそうになった。
首筋に鋭い犬歯が突き刺さる。じわりと滲み出た鮮血を彩夜が啜っていく。初めは舌先で舐め取るように、やがては貪りつくように。
傷口を蝕む微熱の尊さを、悠也は深く心に刻みつけた。




