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吸血少女と人殺し  作者: 伝々録々
第三章 紅が野を彩る夜は
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吸血少女の失踪


 悠也が目覚めたのはこじんまりとした和室だった。ちらりと視線を動かすと、柱にかけられたアナログ時計が十時を示しているのが目に入る。破れた障子の向こうは暗闇。十時といっても二十二時の方であるらしい。

「あ、気がついたんですね」

 声の主は見知らぬ少女だ。まず目を引くのは髪の色。肩にかかる程度の長さに切り揃えられたその髪は、光の加減によっては白にも見える淡い桜色をしていた。身にまとうのはゆったりとした涼し気なルームウェアだが、その割に何故か手袋をしているものだから季節感がちぐはぐだった。

「良かったです。倒れてるのを見つけたときはこっちの心臓が止まるかと思いました」

「君は……」

白石希凛(しらいしきりん)といいます。希凛でいいですよ」

「……俺は、いったい」

 悠也はゆっくりと体を起こし、そこで唐突に思い出した。


 銀色の長髪と、紅の瞳。

 悲しげな微笑。

 意識を失う直前に起きた出来事を。


 気づいたときには前のめりで声を荒げていた。

「彩夜を、君と同じくらいの歳の女の子を見なかったか!? 茶髪……いや銀髪か。とにかく髪が長くて、衣服は上下黒、肌が白くて。近くにいたはずなんだ!」

「お、落ち着いてください、そんなにいっぺんに言われても」

「見たか見なかったか、どっちだ!?」

「えと……見てない、です。たぶん」

 怒鳴り散らす悠也に委縮しながら希凛は言った。

 その姿に全身の熱がすっと引いていく。取り乱していた自分を自覚する。

「……すまん、礼を言うのが先だった。ありがとう、助けてくれて」

「そんな、当然のことをしたまでです」

 希凛は気恥ずかしそうに言う。

「それに私、実は何もしてないんです。最初は大怪我してると思ったんですけど、見てみたらどこにも傷が無くて……」

 言葉の途中で、悠也は胸元が赤黒く染まった自分のシャツに目を向けた。彩夜に貫かれた穴も噴き出した血の痕もしっかりと残っている。こんな格好の人間が倒れていれるのを見つければ驚きもするだろうが……問題はむしろ傷がなかったことの方だ。

「……何か、あったんですか?」

 その疑念は当然のものだった。

 血塗れの人間がいて、その人自身は怪我をしていない。であればその血は誰のもので、どのような経緯でついたものなのか。気にならないわけがないのだ。

 しかし悠也としても迂闊に人に話せる事情ではないわけで。

「あ、その、答えにくいことなら別にいいんですけど……」

「……そうしてくれると助かる」

 何かを察したような希凛の言葉に、悠也はそう返す以外なかった。

「それより、俺の近くに何か落ちていたりはしなかったか」

「? 何か、というと?」

「……いや、思い当たらないならいいんだ。その方が良い」

 もしかしたら跡切刀を拾っているのではないかと思ったが、あてが外れたようだ。

 とするとやはり跡切刀は今も彩夜が持っているのだろう。そもそもあんな危険な道具を彩夜が放置するはずがない。そういうことができない強い責任感を持っているからこそ、彩夜は自殺すらできずに苦しみ続けてきたのだ。


 だが、さっきはその彩夜が悠也に自分を殺すよう誘導してきた。


 そこには確かな変化がある。今までの彩夜は理由をつけて自分が死ぬという選択肢を提示してきたことはあっても、自分のために殺してほしいとは言わなかった。自分が苦しいから殺してほしいのではなく、あくまでもほかの理由のためになら喜んで命を差し出すというスタンスを取り続けていた。

 であれば、今の彩夜が自殺を選ばないという保証がどこにあるだろう。

 自分が理性を失ったバケモノになる前に。そうして罪のない人を襲ってしまう前に。そういう建前があれば、今の彩夜は自殺を選択してしまうのではないか。

 それを考えたとき、跡切刀を彩夜が持っているのは決して喜べる状況ではない。


 彩夜を見つけ出す必要がある。一刻も早く。


 ちらりと希凛の表情を窺ってみる。どうやら悠也への不信感を強くした様子だが、その一方で露骨にそういう顔をしているわけでもない。むしろ悠也を心配しているようにも見える。そのことに若干の心苦しさを覚えないわけではないが、話せないものは話せないのだから仕方がない。

 何より、今は彩夜以外のことに割ける思考など残っていない。

「とにかく助かった。それで悪いんだが、急ぎの用があるんだ」

 悠也は布団から出て立ち上がる。

 しかしそこへ声がかけられた。


「どこへ行くつもりだ」


 背後の通路からの声だった。

 振り向くと、白髪混じりの壮年の男がそこにいた。線は細いが顔立ちはいかつく、眼鏡の奥の瞳には言い知れぬ凄みが感じられる。おまけに笑っているところが想像できない仏頂面。

 男を見て、希凛は「お父さん……」と小さく声を漏らした。

「君、名前はなんという」

「黒宮……悠也です」

「黒宮くんか。希凛には名乗ったのか?」

「……」

「倒れていた君をここまで運んできたのは希凛だ。なんの関わりもない君を放っておけないと連れてきたのは希凛だ。まさか君は、その希凛に名を明かすことすらなく立ち去ろうとしていたのではないだろうな?」

「待ってお父さん。黒宮さんは急いでるみたいなの。だから」

「どうなんだ。君は希凛に恩を返すことなく立ち去るのか?」

 不義理を糾弾するように、男は悠也を睨みつけた。

 その心理は理解できる。理不尽を嫌う悠也の人間性が、むしろ間違っているのは自分だと訴えてくる。悠也を心配して助けようとしてくれた希凛には、何かしらの報いがあるべきだと。

 だが、彩夜の捜索は一刻を争う。

 悠也は爪が手のひらに食い込むほどに拳を握る。痛みで少しだけ頭が冷える。

「……何が目的ですか?」

 その問には隠しきれない焦りや苛立ちが滲み出ていた。

 そして男は仏頂面のまま「尋ねたいことがある」と前置いてから言った。


「黒宮くん、君は吸血鬼に会ったことはあるか?」


 思わず目を見開いた。

 吸血鬼。今の悠也にとってその単語は、否応なく紅野彩夜を連想させる。

 その驚きを男は見逃さなかった。

「あるようだな。その話を聞かせてもらいたい。希凛の気持ちに報いる気があるのならば」

 男は畳の上に腰を下ろし、あぐらをかいた。

「座りたまえ。君が協力的ならその分だけ早く用が済む」

 男の言葉に、悠也が逡巡しているときだった。


 パン、と空気を破るような音がして、男と悠也は同時に肩を跳ねさせた。


 音の方を見やると、畳に手を着いた希凛が険しい表情で男を睨んでいる。どうやら今の音は希凛が力いっぱい畳を叩いた音だったようだ。

「お父さんの馬鹿!」

「ば、馬鹿……!?」

「黒宮さんは急いでるっていってるでしょ!? 自分の方こそ挨拶も自己紹介もしないで一方的に偉そうにして! そういうの恥ずかしいって思わないの!?」

「お、おう、そうか……すまなかった」

「謝るのは私じゃないでしょ!?」

「は、はい!」

 男は正座で背筋を伸ばし、わざとらしく咳払いしてから言った。

「……すまなかった黒宮くん。白石拓馬(たくま)だ。よろしく頼む」

「は、はい。えと……その、よろしくお願いします?」

「黒宮さん、ほんとに急いでいるなら気にしなくても……」

 突然のことで困惑する悠也に心配そうな顔を向けて希凛が言った。

 悠也は軽くかぶりを振って返す。

「いや、拓馬さんの言う通りだ。質問くらいは答えてから行くよ」

「いいんですか?」

「ああ。気にしないでくれ」

 その選択は希凛への不義理を正すというより、状況を冷静に分析した上での判断だった。

 拓馬は吸血鬼と言った。それで彩夜を連想してしまったのは、悠也が彩夜のことを考えていたからだけではないかもしれない。ここは彩夜の故郷だ。拓馬が口にした吸血鬼という単語がそのまま彩夜を指していることも充分に考えられる。

 もしそうなら無視はできない。何か彩夜に繋がる手がかりが得られるかもしれないし、拓馬がなんのために彩夜の話を聞きたがっているかも気にかかる。

「先に一つお尋ねしてもいいでしょうか」

「何かね」

「吸血鬼に会ったことはあるか、でしたね。何故そんな突飛な質問を?」

「ふむ……」

 拓馬は顎を撫でながらしばしの間考え込み、口を開いた。

「君の状態はあまりに奇妙だ。服には何かで突き刺されたような穴があり、尋常でない量の血の跡も残っているにもかかわらず、肉体には傷一つ残っていない。だとすれば血の方は返り血なのか。それはありえない。それでは穴に説明がつかない。君は確かに何者かに刺殺にも等しい傷を負わされ、その状態から再生した。そう考えるのが妥当なわけだ」

「妥当ですかね。俺には現実離れしすぎているように聞こえますが」

「とぼけなくていい。現実離れしたことを可能にする何かを、君は知っているはずだ」

「……要領を得ませんね。何かとはなんですか」

「魔術だよ。君は魔術師なんじゃないのか、黒宮くん」

 瞳をじっと見てくる拓馬を、悠也は真正面から見返した。

「それはあなたもですよね、拓馬さん」

 拓馬は眉間の皺を深くした。

 悠也の『魔術師の勘』は、拓馬が魔術師であることをとうに見抜いていた。それでもあえて魔術を知らないかのように受け答えしていたのは、確かめたいことがあったからだ。

 悠也が魔術師かどうかを尋ねてきた。つまり、拓馬には『魔術師の勘』が使えない。

 この情報は大きい。例えば拓馬がこの場を離れても近距離なら悠也はその気配を追えるが、その逆はない。いざとなれば身体能力に任せて逃げ去るのも選択肢に入ってくる。

「いかにも私は魔術師だ。君もそうだと考えていいのかな」

「構いません」

 魔術が使えるわけではないが、間接的ながら魔族と契約はしているし、それ由来の性質が肉体に表れている。大きな括りでは魔術師に区分されるのは間違いない。

「しかし、それと吸血鬼になんの関係が?」

「もしも君の治癒能力が魔術に由来するものでなかったとしても、私にはもう一つ考えられる可能性があった。いや、むしろそちらが本命だった」

 そう前置きしてから、拓馬は続けた。


「不死身の吸血鬼。私と希凛はそれを求めてこの村までやってきたんだ」


「……」

「あまり驚いている様子がないな。君も目的は同じだったか?」

「……荒唐無稽すぎてついていけなかっただけです」

「いないと思うか?」

「鬼が実在するとは思いません」

 人の血を吸う人間の少女なら、知っているけれど。

 内心でそう呟きつつ、悠也は拓馬が続きを話すのを待った。

「まあ、そう考えるのが普通だろうな。私も始めは信じていなかった。根も葉もない噂だと思いながらも藁にも縋る思いでここへ来た。だが、その認識は既に改められた」

「まさか出会えたとでも?」

「いいや。わかったのは名前だ。興味があるか?」

「……ここまで聞けば、多少は気になりますよ」

「なるほど」

 一呼吸おいて、拓馬は告げた。


観鳥彩夜(みどりあや)


 無表情を心がけたが、内心困惑するのは避けられなかった。

 彩夜という名前は同じだ。偶然にしては出来過ぎている。だが苗字が違う。

 これはいったいどういうことなのか。

 悠也が困惑していると、希凛は思い出すように口を開いた。

「……そういえばさっき黒宮さん、彩夜って」

「ほう」

 希凛の言葉で確信を得たとばかりに拓馬は言う。

「君は吸血鬼と知り合いなのか?」

 これは誤魔化しきれないだろう。自分の嘘が上手くないのは自覚している。

「彩夜という人物は知っています」

「吸血鬼ではないのか?」

「鬼の知り合いはいません。でも……そうですね、一般的な吸血鬼のイメージに近い人物ではあるかもしれません」

 悠也が言うと、拓馬は腕組みして考え込んだ。

 ひりついた緊張感が狭い和室を支配する。

「……希凛、お前はもう寝なさい」

「えっ」

「いいから、もう寝なさい。これ以上は体に障る」

「だ、大丈夫、今日は調子いいから」

 希凛は努めたように明るい声でそう返し、続ける。

「……私のために黒宮さんに迷惑かけてるんだもん。一人だけ寝るなんてできないよ」

 その言葉に、拓馬は深々と息を吐いた。

「……気分が悪くなったらすぐに言いなさい」

「うん。ありがと、お父さん」

 そうして拓馬は悠也に視線を戻し、唐突に言った。

「君は他人に同情するタイプか。ならば事情は話しておくべきかもな」

「……何を」

「希凛は生まれつき体が弱くてね。専門家からはあと五年も生きられないと聞いている」

 警戒する悠也に構わず、拓馬は一方的にそう告げた。

「私はそれをどうにかする方法を探してきた。そんなとき、血を吸われた人間を不死身にするという吸血鬼の噂を聞いた。だからここへ来た。希凛の寿命を伸ばすためだ」

 静かで落ち着いた声音ながら、そこには言い知れぬ気迫が感じられた。

「君は観鳥彩夜と知り合いだと言ったね。聞かせてくれ。彼女に血を吸われた人間が不死身になるというのは真実か?」

 悠也は考える。

 答えはイエスだ。しかし彩夜に希凛の血を飲ませるわけにはいかない。それは彩夜自身がもっとも恐れていることだ。賛同することはできない。

 でも、だからといって、真実を隠すのも気が引けた。自分の嘘が下手という以上に、希凛を思う拓馬の気持ちが伝わってきて、無下にするのが難しかった。

 二つの願いは矛盾している。

 彩夜はもう誰の血も吸おうとしないだろう。吸血がクセになって我慢が利かなくなる前に死んでしまいたいと思っているほどだ。だが彩夜の吸血なしに希凛の命は救えない。そのどちらも悠也には無視できず、しかし選ばなくてはならなかった。


 そもそも。

 今の彩夜の状態を解決する方法が、彼女を殺す以外にあるのか。

 そんなものがあったとして、姿を消した彩夜を見つけることができるのか。


 熟考の末に悠也はひとまずの結論を出し、口を開いた。

「真実です。ただ、それが希凛さんの寿命を伸ばすものになるかどうかはわかりません」

「どういうことだ?」

「彩夜が不死なのは契約した魔族の影響です。あなたも魔術師なら、魔術が秘匿すべきものであるのは知っているでしょう。機関にとって不死の人間の存在は都合が悪い」

「つまり君は、希凛が不死になっても魔術師に殺される危険があると?」

「はい」

「不死であっても殺されるのか」

「常識が通用しないのが魔術師です。現に、俺は不死を殺す方法を知っています」 

 悠也が言うと、拓馬は苦渋を呑むように顔を歪めた。

「……だが、希凛の寿命は長くともあと五年しかないんだ。それを伸ばせるかもしれないとわかっていて、手を出さずにいられると思うか。そんな親がいると思うのか、君は」

「わかりません。しかし、いずれにせよ今は時間がありません」

「どういうことだ?」

「あいつは……彩夜は、そう遠くない未来に自殺をするつもりです」

 これには拓馬も唖然と口を開けた。希凛はもっと大げさに驚いている。

「……だから急いでいたんですね」

 悠也は首肯した。

「協力してもらえませんか。希凛さんの血を吸わせるかどうかを考えるのは彩夜を見つけてからでも遅くない。彩夜が死ねば選択肢そのものが失われてしまいます。それではあなただって困るはずだ」

「居場所の当てはあるのか?」

「いえ……でも数時間前まで一緒にいました。まだそう遠くへは行っていない……それと、人のいる場所には近づかないと思います」

 彩夜の吸血衝動は膨張を続けている。そんな状態で不用意に人に近づくことはないだろう。故に電車やバスのような公共交通機関も利用していないはず。

「例えば山の中とか、そういう人のいない場所を探せばあるいは……」

 拓馬はしばらく考え込み、深く息を吐いた。

「わかった。君の口車に乗ろう。こちらとしても人手が増えるのはありがたい」

「ありがとうございます」

「地図を用意しよう。少し待っていてくれ」

 拓馬はそう言って部屋を後にした。

 緊張が途切れ、悠也の肩から力が抜けた。

 そこへ希凛が「あの」と声をかけてきた。

「どうした?」

「……さっきの話を聞いていて思ったんですけど……その胸の穴、もしかして」

「ああ、彩夜にやられた」

「どうしてそんなことを……」

「さあ」

 悠也はそう言葉を濁した。

 一切予想できないわけではない。彩夜の吸血衝動は疑似魔族化と連動している。それを踏まえると、わざわざ心臓を貫き大量の血液を噴出させたのには意味があるように思えてくる。理性を失ったバケモノが、生き血を啜るためだけに悠也を襲ったような気がしてくる。

 だが、それは違うと悠也は確信していた。

「自分の思い通りにならないから拗ねたのかもな」

「拗ねたって……拗ねて胸を貫くんですか?」

「ああ」

「それって、え? でも……あれ?」

 希凛はわけがわからないというように首を傾げる。

「めんどくさいやつなんだよ。感謝をすれば軽蔑しろと返してくるし、人に死ぬなって説教したくせ自分は死のうとするし。真面目な話の途中でからかってきたり、ふざけているように見えて真面目な話してたりさ。頑固で融通利かないところもあったりして、ほんと、めんどくさくて……」

 だけど、そんな彩夜がいたから今の悠也がいる。

 声には出さなかったが、悠也はそれを自覚していた。

「そういうやつだから、拗ねて殺しにかかってくることくらいあるさ。俺のことが気に食わなかったんだろう」

 そう言うと、ふいに希凛が噴き出すように笑った。

「悠也さんって、彩夜さんのこと大好きなんですね」

「は?」

「ああいえ、その、変な意味じゃなくて……ただ、大切に思ってるんだなって」

「……かもな」

 大切。その言葉はどこか曖昧だけれど、だからこそ間違いのない表現だった。

「絶対に見つけましょうね。自殺なんて、させちゃ駄目です」

「ああ。ありがとう」

 そうして二人笑っているところに、拓馬が地図を持って戻ってきた。そしてすぐに希凛に言った。

「流石に遅い時間だ。希凛はもう寝」

「嫌」

「……希凛」

「私も手伝いたいよ。黒宮さんは彩夜さんのことを本当に大切に思ってるの。私も力になりたい。それに、これは私のためでもあるんだから」

「だが、お前はもっと自分を大切に」

「そんなのお父さんが言えることじゃないでしょう?」

 強く言い放った希凛に、拓馬が怯んだ。

「……仕方ない。でも、絶対に無茶はするんじゃないぞ」

 渋々と言った拓馬に、希凛は微笑を浮かべてありがとうと言った。


    ◇


 話を終えてまもなく、三人は外へ出た。言うまでもなく彩夜を探すためだ。

「このあたりはスマホが圏外だ。連絡にはこれを使ってくれ」

 拓馬は小型のトランシーバーを悠也と希凛に手渡した。

「……調子が悪ければすぐに戻ってくること。いいな?」

「うん、わかってる」

 元気よくそう答えた希凛を拓馬は変わらず心配そうに見つめる。

「……やっぱりついて行った方が」

「お父さんが一緒に来ちゃったら私がいる意味ないでしょ。心配し過ぎ。大丈夫だから」

「……わかった。それじゃ全員、手筈通りに」

 頷き合い、三人別々に捜索を開始した。

 時刻はまもなく日付が変わる頃。民家は静まり返り、虫の音だけが騒々しく響く。田畑と木造の住宅だけが延々と続く風景は、悠也に限界集落という言葉を想起させた。

 長閑とは違う。深い夜闇と相まって不気味さを感じるほどに閑散としている。

 悠也が最初に訪れたのは、表札の文字が石か何かで削られて読めなくなった空き家だった。この過疎化の進んだ集落において空き家そのものは珍しくないらしいが、それでもこの家だけは見るからに異質だ。二階建ての木造建築に近づくことを拒むように生い茂る雑草が、一切の手入れがされていないことを見せつけてくるのだ。


 拓馬によれば、ここが彩夜の住んでいた家であるらしい。


 玄関の鍵は閉まっていた。雑草を踏み分けて側面に回り込み、割れた窓ガラスを開けて侵入した。当然ながら室内も荒れ果てている。砂埃で汚れた床に、蜘蛛の巣の張られた天井。割れた窓から猫でも入り込んだのか、机の上には泥が渇いてできたような土の痕があった。

 人が寄り付かない場所へ潜伏しているとすれば有用な選択肢の一つに思えるが、悠也の『魔術師の勘』は彩夜の気配を感知していない。ここにはいないのだろうか。悠也の『勘』の精度はお世辞にも高いとは言えないが、徐々に向上はしている。ここは早々に立ち去り別の場所を探すべきかもしれない。

 そう思ったけれど、何故だかそうする気にはなれなかった。

 この家には写真の一つも残されていない。残っているものといえば空虚だけだ。

 両親を殺したと彩夜は言った。おそらくは跡切刀でその存在ごと消し去ったのだ。

 だとすれば、この空虚は意味のあるものだ。何も残らないよう、残さないようにしようとして、その結果空虚だけが残ったのだ。ここには誰もいなかった。何もなかった。それを何者か――おそらくは自分自身に対して示すために、わざわざ空虚だけを残したのだ。

 削られて読めなくなった表札を思い出す。あれは住民の誰かがやったものだと思っていたが、そうではないのかもしれない。動機があるとすれば、むしろそれは彩夜の方。


(……ああ、そうか)


 悠也の中で、不可解だったことが一つ腑に落ちた。

 何故ここに住んでいたのは観鳥彩夜で、紅野彩夜ではなかったのか。同じ名前だ。偶然ということはないだろうが、まさか彩夜が籍を入れて性が変わったわけでもあるまい。だからきっと、あれは彩夜が過去と決別しようとした結果だったのだ。観鳥彩夜という少女が生きていたという事実を消し去ってしまいたかったのだ。

 それは不完全だ。彩夜という存在が生き続ける以上、観鳥彩夜が生きていたという過去はなくならない。観鳥彩夜という名に拓馬が行きついてしまったように。しかしそれでも、彩夜にとっては必要なことだったのだ。バケモノになっていく自分と、平凡な少女を隔てるために、きっとそうしなければならなかったのだ。

(……いけない。感傷的になりすぎてるな)

 そんな風に思いながらドアを開けると、足元に酷く傷んだクマのぬいぐるみが落ちていた。兄弟姉妹がいるという話は聞いたことがないので、彩夜のものだろうか。彩夜がぬいぐるみを持っている姿など想像したこともなかったが、いざ思い浮かべてみると意外なことにしっくりきた。

 このぬいぐるみにも意味があるのだろうか。彩夜が空虚だけを残そうとしたこの家の中で、それでも失われずに残っていたこのぬいぐるみは、彼女にとってどんなものだったのだろうか。

 悠也にはわからない。できるのは妄想だけだ。。悠也がこの場所で感じるすべてはどこまで行っても悠也が感じることでしかない。そこにあったはずの営みは当人以外の誰にもわからない。だから、こんなことで彼女を知った気になるのは自惚れだ。

 だが、わからないなりにわかった気になれたことはある。

 きっと、遠い日にここで暮らしていたのは、どこにでもいる普通の少女だった。普通が不変の概念でないことを悠也はつい二か月ほど前に体感したばかりだが、しかしやはりここにいたのは普通の少女だったはずなのだ。

 その認識で何が変わったわけではないけれど、気持ちは引き締まった気がした。

 家の中は一通り調べ終わった。これ以上の長居は本格的に時間の無駄だ。


 そんなときだった。


 突如トランシーバーから聞こえたのはノイズ混じりの希凛の声。

『黒宮さん、彩夜さんを見つけたかもしれません!』



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