忘却
夕刻。
織原幸姫がその家に到着したのは、待ち合わせより一時間以上前だった。家にいても落ち着かないので来てしまったが、いくらなんでも早すぎただろうか。
そんなことを思いながらインターホンを押そうとして、
「……あれ?」
得体の知れない違和感を抱いて指を止めた。
違和感の正体を探るように曖昧な記憶を手繰り寄せ、やがて幸姫は気づいた。
「私……ここ、来たことある」
それどころか、つい最近までそれなりの頻度で訪れていた。
表札には「敷根」の文字。それを見たとき、脳内に一つの文字列が思い浮かんだ。
シキネジュン。
悠也を酷く動揺させたメモに書かれていた名前。この一致に意味はあるのだろうか。
「よっ」
「っ――!?」
背後からの声に驚いて、幸姫は肩を跳ねさせ振り向いた。そしてそこにいたのがサングラスをかけたガラの悪そうな青年だったおかげで、重ねてもう一度驚くことになった。正直ちょっと怖かった。
しかしそんな第一印象とは異なり、青年は気さくな口調で聞いてきた。
「師匠が言ってた織原幸姫ってのはお嬢ちゃんのことだな?」
名前を知られていたことにまた驚く幸姫。だがよくよく思い返してみると、確か幸姫が爆弾処理の一件に関わった際、カフェVivreで悠也と一緒にいたのがこの青年だった気がした。顔を見たのはほんの僅かの間だったが、特徴的な出で立ちだったため記憶に残っていたのだ。
「……師匠というのは霧崎さんのことですか?」
「おう。記憶を戻してもらいに来たんだろ?」
幸姫は緊張気味に首肯した。
そう。先日の七夕祭りで霧崎楓と偶然に再会した幸姫は、霧崎に記憶の復元を頼んだ。そのときは、準備が必要だから後日連絡するとだけ言われて連絡先を交換して別れ、待ちに待った連絡が来たのが昨日の夜だった。
「だいぶ早く来たな。師匠なら中で準備してる頃だ。入って待ってな」
そうして幸姫は敷根邸の居間に通され、テーブルを挟んで青年と向かい合わせに腰を下ろした。
室内を軽く見回すとやはり見覚えがある。この部屋だけではない。庭の様子も、だだっ広い家の造りも覚えている。次々と記憶が思い起こされる中で自分がこの家の鍵を持っていることも思い出したが、その鍵を誰から渡されたのかは思い出せなかった。
幸姫には記憶の欠落がある。
これから取り戻すそれの正体が、少しだけわかったような気がした。
「倉沼翔太朗だ」
「えっ、あ、織原幸姫です」
「そっちは知ってる。一つ聞いておきたいんだが、いいか?」
「なんでしょうか」
「最初に師匠から記憶の復元を提案された時、お嬢ちゃんは断ったんだろ。どうして今更復元してほしいなんて思うようになったんだ?」
「……あのときは半信半疑でしたから。それに、少し考えを改めるような出来事もあったので」
「そうか。お嬢ちゃん悠也の知り合いだよな。……悠也には、話したのか?」
「……」
「いや、別にだからどうこうってわけじゃねえんだけどな。オレも悠也とはちょっとした付き合いがあるんで気になったんだ。お嬢ちゃんと顔を合わせたときの悠也の動揺を見りゃ、何かしら事情があるのはわかるからな」
倉沼と幸姫と悠也が一堂に会したカフェ・Vivreでの件を言っているのだろう。悠也が酷く動揺していたのは幸姫も覚えている。まるで何かを恐れているみたいに。そしてその直後、彩夜にだけ信頼の言葉を遺して立ち去ってしまったことも。
「……悠也に話したら、反対されるのはわかっているので」
少し後ろめたい気持ちになって、幸姫は俯いたままそう答えた。
そのときだった。
「織原、先輩……?」
呆然とした声に顔をあげると、縁側に小柄な少女が立っていた。なんとなく学校で見かけたことがあるような気もするが、記憶にある限り知り合いではない。だが向こうは幸姫を知っている様子。
戸惑いを隠せない幸姫だったが、動揺はむしろ向こうの方が大きかった。
「どうしてこんなところにいるんですか。先輩がいないときに限って」
「えっ、あの、私はちょっと霧崎さんに頼みがあって……」
「記憶を復元してもらうんだと」
倉沼が端的に説明すると、少女は驚愕するように固まった。
直後。
「ふざけないでください!」
少女は激高し、幸姫に怒鳴りつけてきた。
「記憶を復元する? どうして。黒宮先輩がどんな思いで今まで頑張ってきたかわからないんですか!? ああ、わかるわけないですよね。わかるわけない、わからないくせに……何、ふざけたことしようとしてるんですか……っ!」
突然のことに困惑する幸姫に、少女は続けて叫ぶ。
「帰ってください!」
「……いや、私は」
「帰ってください!」
聞く耳持たない。少女は可愛らしいはずの顔を激怒一色に染めて幸姫を睨んでいる。
だが幸姫としても帰るわけにはいかない。
「……どうやら悠也の知り合いみたいね。確かにあなたの言う通り、私は悠也のことを何も知らない。でも、だからこそ記憶を取り戻すの。ふざけてるつもりなんてない。悠也だけを苦しませるなんて、そんなの友達として駄目だと思うから」
「駄目……? 駄目ってなんですか?」
呆然と目を見開いて、少女は続ける。
「先輩は私に話してくれました。私を諦めさせるためだったのか、私のためなのか……たぶんその両方ですけど、とにかく話してくれたんです。どんなに辛い思いをしたか、どんなに後悔したか。それでも先輩は諦めなくて、私にも頑張って生きようって言ってくれて……自分を思ってくれる人のためって言いますけど、あれ、どう考えても織原先輩のことじゃないですか」
そこで。
我慢の限界だとでも言うように、少女は泣きながら幸姫に掴みかかった。
「あんなに想われてあんなに慕われてあんなに大切にしてもらえて、それ以上何が不満だっていうんですか!? 先輩の苦しみも先輩の努力も、敷根潤さんを殺してしまった後悔も、そのせいであなたに感じている後ろめたさも、全部、全部、全部、全部、全部全部全部全部全部、これっぽっちも知らないあなたみたいな人が、なんで先輩の頑張りを台無しにしようとするんですか!? そんなの許せるわけない。許されるわけない! ふざけてないなんて言えること自体ふざけてるってそう言ってんのがわからねえのかよ! どんなに私が頑張ったってあんたにはなれないのに、どんなに羨ましくても届かないのに、なんで、なんでそのあんたが、先輩を苦しませるようなことするんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
幸姫がこれまで見たこともないほどの凄まじい剣幕だった。
ひとしきり叫んで疲れ切ったのか、少女は幸姫の胸倉を掴んだまま肩を上下させて呼吸する。それでもまだ不満は絶えないのか、涙をぼろぼろと流しながら幸姫を睨みつける。
発言の中に気になる部分はいくつもあったが、話しても無駄だろうと思った。
この少女の言う通り、幸姫は悠也の抱える事情を知らない。知らないから、少女の言葉の重さもわからない。悠也がそれを望んでいないであろうことも、自分が間違っていない保証がないことも、すべて承知の上だ。その上で現状を変えたくて、だからここに来た。
「私は大切にされるだけのお姫様じゃない。対等になりたいの」
「――――っ!」
少女は悔しそうに歯噛みし、そのすぐ後。
「なんの騒ぎだ、これは」
現れたのは霧崎楓。幸姫の記憶を復元してくれるという魔術師だ。
「準備が整った。ついて来い」
無感動に言って歩き出す霧崎に遅れまいと、幸姫は少女の手を振り払った。だがすぐに、
「待て!」
掠れ気味に叫びながら、少女は幸姫の手を掴んで引き留めた。
「行かせない、絶対に……っ」
その必死さに何も感じない幸姫ではなかった。だが、記憶を復元しなければ幸姫は悠也に何もしてあげられない。引き留められてあげることはできなかった。
「さっきあなたは私を羨ましいと言ったけど、私はあなたのことが羨ましいわ。悠也に事情を話してもらえて、対等に接することができるんだから」
手を振り払う。少女はほとんど抵抗しなかった。それでも肩は震えていたから、納得したわけではないのだろう。ただ何を言っても幸姫が諦めないと察しただけ。
「ごめんね」
それだけ言い残し、幸姫は霧崎の後を追った。
案内されたのは物置のような部屋だった。薄暗く、畳の敷かれた和室より一段低い。壁際にくたびれた段ボールが山のように積まれている一方、部屋の中心部は不自然なくらい何もなかった。
「最初にもう一度確認しておくが、これから行うのは記憶の復元であって再生じゃない。元に戻してほしいと君は言ったが、より正確には再現だ。記憶を蘇らせるのではなく、あったはずものを当てはめることで穴を塞ぐ。君が元々持っていた記憶がそのまま完全に蘇るわけじゃない。それはわかっているな?」
「はい。実感的には元に戻ったと感じられるという話でしたよね?」
「そうなるように最善は尽くすが……保証はできない。君と初めて会ったときならともかく、少し時間が経ってしまっているからな」
「……どういうことですか?」
「君の欠落を発生させた跡切刀は対象の存在をその痕跡ごとこの世界から消し去る魔術道具だ。逆に言えば、失われた部分は空白のままとなる。周囲のすべてが残っているのにその部分だけが空白なのだから、その欠落を観測すれば失われたもののカタチがわかる。このカタチとは空間的な意味の形状ではなく、形而上の概念を便宜的に表現するものだ。つまり私がしようとしているのは、この町全体を観測して収拾したカタチの中から君の欠落に一致するものを選んで君の記憶にはめ込む作業なわけだが、ここで時間の経過がネックとなる。その時点から過去にさかのぼって消滅させる跡切刀によって生じた空白が、時間の経過によって埋まっていくからだ」
霧崎は意味ありげに間をおいてから続ける。
「もしかしたら君自身自覚していることかもしれないな。君にとってその記憶の欠落は、その欠落を自覚したときより重大なものではなくなっているはずだ」
「――――――――――――――――――――」
言われてみればそうだった。初めてこの欠落に気づいた夜は不安で不安で堪らなかったのに、今の幸姫にとって記憶を取り戻すことは手段でしかない。あんなに重大なものに感じられた欠落が、ほかの何かによって埋まったのだ。
「そうして空白が別のカタチで埋められていくために、復元する記憶の再現性は時間が経過するほど低くなる。今日君を突然に呼び出したのもそれが理由だ。やるなら君の欠落が少しでもカタチを保っているときにやりたかった。実はカタチの収拾を終えたのがつい先日でね、今日元々入っていた予定がキャンセルになったので急遽呼び出させてもらったわけだが、これでも正確に再現できるのは七割程度だろう。余計なものを入り込ませるわけにはいかないから、安全に復元可能な部分はその分少なくなってしまう」
「……七割は復元できるんですね?」
「ああ」
「充分です。記憶なんて、何もしなくても少しずつ消えていきますから」
「そうか」
霧崎は無感動に返事してから、「最後にもう一つ」と切り出した。
「私は黒宮悠也の味方ではないし、お前の味方になったわけでもない。ただ自分が作ったものへの責任としてお前の欠落を補填するだけだ。復元そのものに失敗した場合はともかく、成功した場合にお前がそれを後悔しようと、私にはどうすることもできない。そこまでの責任は負えない。それでも構わないな?」
「はい」
幸姫ははっきりと宣言した。ほんの僅かの迷いもなかった。
当然だ。そんな脅し文句でやめるのならば、さっきの少女の説得に応じていただろう。
「では始めよう」
霧崎の言葉と共に、足元に描かれた幾何学模様――魔術陣と呼ばれるそれが発光した。




