七月七日
拳が頬を掠めた。
怯まず反撃に移るが、胴へ突き出した拳は紙一重の差で届かない。
と、そこで顎が強烈に突き上げられた。膝蹴り。衝撃が脳天まで突き抜ける。
視界が酩酊し、悠也はがくりと膝をついた。
「集中力が落ちてる。今日はここまでだな」
目の前に立つ倉沼に告げられ、悠也は肩で息をしながら「はい」と返した。
夕刻。敷根邸の中庭。すっかり日課になった倉沼との戦闘訓練だった。
だいぶ倉沼の動きについていけるようになったが、それでもまだ軽くあしらわれてしまっているのが現状だ。身体能力では悠也が勝る。彩夜ほどではないにしろ、悠也のそれも魂の侵食に伴う変質によって人体の限界以上に引き上げられている。しかしまだ技量も経験もまるで足りず、それが結果に現れていた。
悔しさに歯を噛み締める。
このままでは駄目だ。魔術の使えない悠也にとって頼りになるのはこの身体能力のみ。それで魔術師相手に負け越しているようでは話にならない。
「先輩、お疲れ様です」
いのりがタオルとペットボトルを持って駆け寄ってきた。短く応答してタオルを受け取り汗を拭い、改めて呼吸を整えてから水分補給。疲労困憊の肉体に水分が染みわたっていく。
「大丈夫ですか?」
「なんとか。……いつもありがとう、助かってる」
特に頼んだわけではないのだが、いのりは訓練初日からずっと甲斐甲斐しく世話をしてくれている。本当にありがたいことだ。
「だが」
「わかってます。でも、諦めが悪いのっていいと思うんです」
何を言われるか察したのか、いのりは笑顔でそう言ってきた。
その笑顔が晴れやかであったが故に、尚更罪悪感は膨らんだ。悠也はこの少女の気持ちに応えられない。このまま厚意に甘えていていいのかと自問自答する日々だ。
「言っておきますけど、先輩の影響ですからね、これ」
「え?」
いのりは口を尖らせて続ける。
「わからないならいいです。それより先輩、時間はいいんですか?」
「ああ。すぐに着替えるよ」
「シャワーも浴びなきゃ駄目ですよ。こんなに汗かいてるんですから」
言われてみればそうだ。となると急いだ方がいいかもしれない。
悠也は改めて倉沼に礼を言い、シャワーを浴びるため屋敷内に入っていった。
◇
「いいのか、お嬢ちゃんは行かなくて」
悠也が屋内に姿を消すのを待っていたようなタイミングで、倉沼がいのりに言った。
「行くわけないじゃないですか」
いのりは拗ねたように返し、消え入るような声で続ける。
「……先輩がどんな思いでいるか考えたら、そんなことできるはずない」
「……そうかい」
倉沼はそれ以上何も言わず、いのりを残して家の中に戻った。
本日の日付は七月七日。このあと、悠也には大切な約束がある。
◇
駅前では浴衣を着た複数のカップルや中高生が会話を弾ませていた。
悠也はその中に幸姫の姿を見つけると、ギリギリで待ち合わせ時刻に間に合ったことに安堵しながら駆け寄った。幸姫も悠也に気づき、笑顔で小さく手を振ってくる。
「すまん織原、待たせた」
「全然。それに月乃もまだ来てないし」
「凛堂は電車で来るんだよな?」
「うん、そのはず」
と、そこで二人のスマホから同時に着信音が鳴った。
確認するとグループメッセージが一件。凛堂月乃からだ。
『人波にもまれて酔ったので帰ります』
「「まだ会場ついてないのに!?」」
思わずハモる二人。
そこに続けてメッセージがもう一件。
『二人で楽しんできてください』
そうして二人は月乃の意図を察した。
「……最初からこうするつもりだったと見た」
「……間違いないわね」
幸姫は物憂げな吐息を漏らす。
「やっぱり、無理やり誘ったのは迷惑だったかしら」
「いや。そうじゃないと思う」
悠也はどこか懐かしい気持ちになりながら言う。
「こういうときってさ、結構気が引けるものなんだ。自分が邪魔になってるんじゃないか、気を遣わせているんじゃないかって不安になって、無性に後ろめたくなる」
ちょうど去年のこの日、悠也がそうであったように。
「けど嬉しい気持ちはあって、心のどこかでは楽しみたいと思ってもいるんだ。凛堂もそうだと思う」
「……本当に?」
「絶対ではないけどな。昔の俺がそうだったからそう思っただけ。とにかく、凛堂は織原のことを迷惑だなんて思ってないから、そんな心配はしなくていい」
「そっか」
幸姫はスマホの画面を見つめたまま何やら考え込み、そして言った。
「ねえ悠也。月乃、迎えに行っちゃ駄目?」
不安そうな、そして同時に真剣さの窺える表情で幸姫は続ける。
「今から戻ったらだいぶ遅くなっちゃうし、月乃は余計なお世話だって嫌がるかもしれない。……でももし悠也の言う通りなら、このままにはしたくないの」
その言葉を聞いて、悠也の口元は少し緩んだ。
「駄目なわけないだろ。みんな一緒の方がきっと楽しい」
元より幸姫なら絶対にそう言うと思っていたし、そうでなければ今の話はしていない。
何より。
(……お前と二人で祭りを楽しむ資格は、俺にはないよ)
七月七日。天の川に隔てられた恋人が、年に一度の逢瀬を許された日。
だが織原幸姫にとっての彦星は別にいて、もういない。
敷根潤は悠也が殺した。
それに幸姫を魔術から遠ざけるという意味でも、悠也は幸姫と距離を置かねばならない。
だがそんなことも知らない幸姫はぱぁっと明るい笑顔を悠也に向ける。
「そうよね。なら急ぎましょ。花火までには間に合いたいし」
「ああ。でも、その前にちょっと試してみよう」
「試す?」
織原が不思議そうな顔をする傍で、悠也は月乃にメッセージを送った。内容は、月乃が来なければ織原が帰ると言っているという脅迫めいたものだ。これなら月乃も来ざるを得ないだろう。
「ちょっと強引すぎるんじゃない? もし本当に嫌がっていたら……」
「家まで迎えに行くのだって充分強引だろ。それに、本当に織原がこう言ったわけじゃないんだ。あくまでも俺が勝手に言ってるだけだから、説明すれば織原が嫌われることはないと思う。俺は元々そこまで親しいわけじゃないし、最悪嫌われても問題ない」
「嫌われても……って」
「あくまでも最悪の場合の話だ。それにたぶん、凛堂は来るよ」
悠也が言ったところで、月乃からのメッセージが届いた。あくまでも渋々といった感じではあったが、これから向かうという内容だった。
「ほらな」
「……」
幸姫は呆けたように無言で数度瞬きした。それから躊躇いがちに口を開く。
「……悠也ってさ」
「ん?」
なんだろうと思って続きを促したが、幸姫は脱力するように息を吐くだけだった。
「ごめん、なんでもない。気にしないで」
そう言われると気になる。何か思いつめたような表情にも見えたから、余計に。
しかし尋ねるタイミングを逸してしまい、妙にむず痒い沈黙が二人の間を流れた。
「そういえばさ。……似合ってるな、それ」
明後日の方を見て悠也が言った。
今幸姫が着ているのは浴衣だ。決して派手でない落ち着いたデザインが彼女の生来の雰囲気と調和し、その魅力を最大限に引き出している。そんな風に感じられた。
「あ……うん。……ありがと」
小さな声でそれだけ返してきた幸姫の顔を悠也は見れなかった。
馬鹿だ、と思う。
こんなベタな台詞、口にする前から後悔するとわかっていたのに。
沈黙がいたたまれない。今はただ、月乃の到着が待ち遠しかった。
◇
屋台が並んだ大通りを埋め尽くすのは華やかな人の群れ。
紅野彩夜はそれを近くのビルの屋上に腰かけて見下ろしていた。
そんな彼女に近づく気配が一つ。霧崎楓。〈切断の魔術師〉の異名を持つ魔術師である。
「何をしている」
「花火。せっかくだから見ようと思って」
彩夜が答えると同時、夜空に一発目の花火が咲いた。続けて二発三発と続き、怒涛の勢いで打ち上げが始まる。空はあっという間に極彩色で染め上げられた。
「特等席というわけか。だがその割に目線は下を向いている」
「わかる?」
彩夜は誤魔化そうとはしなかった。
「どうしても気になっちゃってね」
通りを埋め尽くす人々。彩夜の視線はその中でも特定の集団に固定されている。黒宮悠也と織原幸姫、そして凛堂月乃の三人組である。
「お前は視力も人並み外れているんだったか」
「細かいのは疲れるけどね。悠也の気配が『勘』で追えなかったらとっくに見失ってる」
悠也は彩夜に血を吸われたことで魔族との間接的な契約状態にある。そのおかげで魔力を感知する『魔術師の勘』を使って気配を追うことができるのだ。
「前から聞こうと思っていたんだが……お前、あの小僧に相当思い入れているな」
「そう見える?」
「ああ。いったい何があった?」
「それはもう話したよ。血を吸ってしまったから、私には悠也の行く末を見届ける責任がある。私の都合で勝手に生き延びさせておいて、そのまま放置なんてできないでしょ?」
「そうか。……それならいいんだ」
霧崎はそこで一度わざとらしく咳払いした。
「実は、お前があの小僧に惚れているんじゃないかと倉沼が言っていてだな」
「え、霧崎さんそれ信じたの?」
「……念のため確認しただけだ」
むすっとした不機嫌な口調で霧崎は言った。どうやら恥ずかしいらしい。
クールなようで割と隙が多いのが霧崎楓のかわいらしいところだと彩夜は思う。それは彩夜が霧崎と出会った十年前、まだ霧崎がセーラー服を着ていたころから変わらない。
そんなことを思いながら彩夜は言った。
「恋愛感情ってさ、自分が幸せになりたいと思ってなきゃ抱かないものだと思うの。私は自分が幸せになるなんて耐えられない。誰かに愛されたいなんて贅沢が言える立場じゃない。だから悠也に惚れるなんてありえないわけ。――ま、それはそれとして応援はしてるし、思い入れがあるのは認めるけどね」
「……幸せに、か。それは難しい話だな」
「それで本当の用件は何? まさか恋バナしに来ただけなんて言わないでしょ?」
「ああ、お前の経過観察の結果を話しておこうと思ったんだ」
一呼吸おいて、霧崎は告げた。
「結論から言おう。お前をこれ以上野放しにするのは危険だと私は考えている」
「あら、それは大変」
彩夜は特に動じることなく返した。霧崎の言葉は予想通りのものだった。
「最初に気になったのは、怪我をした黒宮を見るお前の目つきだ。その後の観察でわかったのは、今のお前が極力人を裂けて生活していること。今もそうだ。よって、私はお前が吸血衝動を抑えきれなくなっていると考えている。反論はあるか?」
「ないよ」
完全に霧崎の言葉通りだった。
彩夜は以前、その衝動に任せて人々の血を吸い続けていたことがある。吸血は麻薬だ。契約魔族による魂への負荷が嘘みたいに軽くなり、同時にこの世のものとは思えないほどの快楽が全身を支配する。当時の彩夜は吸血中毒だったと言っても過言ではない。
それから紆余曲折あって長いこと吸血をやめていたわけだが、悠也の血を吸ったことでその衝動は蘇った。あの感覚を思い出してしまって、どうして我慢などできるだろうか。
おそらくはあと一度。
次に誰かの血を吸ってしまった時点で、彩夜はこの衝動を抑えきれなくなるだろう。
「あと一月は猶予をやる。それまでに抑え込めなければ、私はお前を殺すことになる」
「ありがと。是非そうして」
他人事みたいに彩夜は言った。
「……いいんだな?」
「一か月も猶予を貰えるとは思ってなかった。それだけ時間が貰えるなら、私も悠也にいくらかのものは残してあげられる。『魔術師の勘』の使い方とか、倉沼くんは教えるの下手そうだし」
霧崎は予想外の返しに面食らったようだったが、少ししてから小さく噴き出した。
「よくわかっているじゃないか。実戦訓練ならいい相手だろうが、技術的な面はまるで駄目だ。あいつは教えるのに向いてない。その点、元々魔術師じゃなかったお前は黒宮と近い立場にある分、適任かもしれないな」
「だといいんだけど、個人の才能の問題もあるからねぇ」
潤の一件が解決してから、彩夜はすぐに悠也に『魔術師の勘』の使い方を教え始めた。しかし成果は思うように現れず、悠也の『勘』はまだ実用には程遠い。最近は彩夜の方から距離を取っていたから、それほど進歩はしていないだろう。
「諦めるなよ。向いていようがいまいが、成し遂げてしまえば同じだ」
その言葉には奇妙な重みが感じられた。
彩夜はあえて軽い声音で返した。
「了解。まあ、それなりにね」
◇
じゃんけんで負けた悠也が串焼きの屋台の行列に並ぶことになった。屋台の食べ物はほかにいくらでもあるが、結局みんな肉が大好きなのだ。大雑把に塩のふりかけられたあの雑な味が何故だか無償に食べたくなってしまうは、祭りの熱気のせいだろうか。
悠也が行列に並んでいる間に幸姫と月乃は焼きそばと飲み物を購入。河川敷の石段に座る大勢の中に加わり、端の方で花火を見上げながら悠也を待っていた。
「すみません、本当なら花火を見るための穴場があるという話だったのに、私のせいで」
「いいのいいの。運良く座れたんだから問題なし」
「ですが……」
月乃の表情は晴れない。幸姫たちが月乃を迎えに行ったことで会場に着くのが遅れ、屋台を回ってから花火を見る穴場まで移動する時間が取れなかったのを気にしているらしい。
だがそんなことを気にしているのは月乃だけだ。
「無理やり誘ったのは私の方でしょ。謝るくらいなら一緒に楽しんでくれた方が嬉しいわ」
「……ありがとうございます」
それでようやく、月乃はやわらかく微笑んだ。
「しかしそれはそれとして、黒宮くんと二人きりの時間は作りますから」
「いらないわよ!?」
思わず食い気味に突っ込んでしまった。月乃は案の定ニヤけ顔。これならもう少し落ち込んでくれていた方が良かったかもしれない。
「さっきのじゃんけんも私が負ける予定で提案したんですよ。それなのに黒宮くんが負けてしまって」
「……狙って負けるの難しくない?」
「三分の一なんて積極的に狙える確率じゃないですか。駄目でもリトライすればすぐです」
要するに運任せだった。発想が完全にゲームのそれである。
「まあ黒宮くんが負け続ける可能性もありますが」
「……何故かそうなるような気がするわ」
じゃんけんはやめた方がいいと思う幸姫だった。
「しかし話す時間は必要でしょう。この間の相談の後、ちゃんと黒宮くんと話しましたか?」
「…………」
それを言われると弱かった。
悠也は幸姫には言えない隠し事を有しており、おそらくはそのせいで苦しんでいる。幸姫はそれを月乃に相談し、このまま放置しないことに決めた。そこまではいい。
だがそのすぐあとに事情が変わった。魔術という未知の概念を知る者たちとの接触により、悠也の抱えるものを垣間見たのだ。そこには命のやり取りがあった。迂闊に踏み込んだ話をすれば、悠也を余計に悩ませてしまうのは明らかだった。
結果、今も幸姫はどうすることもできず現状維持に甘んじている。
正確にはするべきことは決まっているのだが、その糸口が掴めずにいる。
「ああそれとずっと聞こう聞こうと思っていたんですが、幸姫って黒宮くんのこと好きなんですか?」
「はい!?」
思わず声が裏返った。
「どうなんですか?」
「いやいやいやいや、話変わり過ぎじゃない?」
と、そこではっとする幸姫。
「あー、えーっと、わかってるわよ。友達的な意味よね、もちろん大好」
「いえ恋愛的な意味です」
「っ……」
まずい。顔が熱い。確実に赤くなっている。二人で話すと月乃はいつもこうだ。
恨みごとの一つでも言ってやろうと思った幸姫は、そのときふと気づいた。てっきりニヤけているかと思った月乃が、まじめな顔をしていたのだ。
もしかして……からかわれているわけではないのだろうか。
「以前は黒宮くんの一方通行だと思っていたのですが、最近わからなくなりました」
「以前の時点でおかしいのはともかくとして、どういうこと?」
「自覚はないんですか?」
「……まあ、大事にされてるなーとか、前より感じるようになったのはあるかもしれないけど。でも悠也って私に限らずそうだし」
言いかけて、疑問に思う。幸姫以外で悠也が大切にしていた友人とは誰だっただろうか。
もちろん月乃もその一人であろうし、彩夜もきっとそうだ。しかし自分が今考えていたのは、その二人のどちらでもなかった。というより、思い浮かべようとした記憶自体、どこにも存在しなかった。
不可解な記憶の齟齬。失われた記憶。
だがそれは今更驚くようなことではない。自分の記憶の欠落はとうに自覚している。
その欠落が、いくつもの写真から姿を消した誰かに関するものだということも。
「……幸姫?」
月乃の声で我にかえった。
「ごめん考え事してた」
「そうですか。で、結局好きなんですか?」
月乃は花火を見上げながら他人事みたいに言った。だがその口端が歪むことはなく、幸姫には彼女がふざけていないことがすぐにわかった。
だから改めて考えてみる。自分が悠也のことをどう思っているか。
「……………………わからない」
「それは好きかもしれないということですか?」
「わからないんだってば。悠也をそんな風に意識したことなかったもの」
少なくとも、つい最近までは。
今はどうだろう。無理して強がる悠也を見ていられないのは友達だからだろうか。それとも、月乃の言うような気持ちがあるからだろうか。さっき浴衣姿を褒められて、自分はどう感じたのだったか。……駄目だ。なんだか顔が熱くなってきた。
幸姫はわざとらしく声を張り、
「そんなことより今は花火を見ましょ。あー、早く悠也来ないかしら」
そんな風に言いながら、後方、通路の方へと目をやった。
「――え」
目をやった先に予想外の人物がいて、幸姫の思考は止まった。
意識するまでもなく体が動く。だって、自分は彼女をずっと探していた。
「ごめん月乃、私トイレ」
戸惑う月乃を残して幸姫は駆け出した。走りづらさに浴衣で来たことを後悔する。すぐ先には人の群れ。その中に入った彼女を見つけるのは容易なことではない。
だが、この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかなかった。
人の波をかき分け、その背中に手が届く。
「あの!」
思い切って声をかけると、女は顔だけ振り返った。
「なんの用だ。……お前は確か」
「織原幸姫といいます。ずっと探していました、魔術師さん」
「……妙な呼び方をするな。霧崎楓だ。霧崎でいい。用件はなんだ?」
聞かれて、幸姫は咄嗟の答えに詰まった。言うべき言葉は決まっているが、いきなりそれを言うのは無作法のような気がした。
そんな幸姫に霧崎は言った。
「私は野暮用を済ませてきたところでね、これから留守番してる連中に夕食を持ち帰らなければならない。用があるなら手短に頼む」
見ると、霧崎が手に下げたビニール袋には屋台で購入したと思しき食べ物が詰まっていた。中身は焼きそばと焼き鳥と……と、そんなものに気を取られている場合ではない。手短にと言われたからには、妙な遠回りは必要ないだろう。
幸姫は小さく呼吸を整え、霧崎の目をまっすぐに見て告げた。
「お願いがあります。私の記憶を、戻してください」




