悲劇への追憶
悠也が目覚めると、布団の中でいのりに抱き着かれていた。
「……離れてくれるか」
「嫌です」
即答だった。
身動き取れないまま目だけを動かし周囲の様子を確認する。見覚えのある広い和室。潤の家。その一室に敷かれた布団の中だ。
「ばか。先輩のばかばかばかばかばかばかばかば」
「最後かばで終わってるぞ」
「そんなことどうでもいいんですー! ……ほんと、死んじゃうかと思ったんですから」
体に触れた小さな手に少しだけ力が入るのがわかった。それがいのりの隠せない本音を表しているようで、悠也は素直に嬉しく思う。
「……俺を殺そうとしていたやつの台詞じゃないな」
「先輩がやめさせたんじゃないですか」
拗ねたようにいのりが言うのを、悠也は無言で反芻した。
いのりは殺人をやめたのだ。悠也は潤のときとは違う結末に行き着いた。
胸の内をゆっくりと満たすのは達成感とは似て非なる何かだった。どうしてだか涙が出そうになって、それを堪えて、けれど確かにある手応えに胸の奥である決意が形を成していくのを感じた。
「倉沼さんは? それに彩夜やほかの人も」
「私ならいるよ。悠也の足元の方に」
彩夜の声だった。
「……いるなら言ってくれ」
「や、邪魔したら悪いかと思って」
「全力で邪魔してほしい状況だが」
「先輩なんでそんなこと言うんですか」
「俺キミの告白断ったよね?」
「それとこれとは話が別です」
「どの辺りが別だというのか」
そんなコントを経ていのりを(強制的に)引き剥がすことに成功。
体を起こし改めて視線を向けると、彩夜は畳に腰を下ろして膝を立てていた。
「怪我は治ったのか?」
「おかげさまで。というか、悠也が治ってるんだから私も治るでしょうよ。はっきり言って怪我のレベルが段違いだったんだから」
「なら良かった。……織原はどうなった。それに爆弾は?」
「幸姫さんはとっくに家に帰らせた。爆弾の方は今霧崎さんと倉沼くんと店長が最後の一個の処理に向かってる。残念ながら魔術師には逃げられたけど、とりあえずは追加の被害もなく片が付きそう。それと、最初の爆発も怪我人はいなかったみたい。霧崎さんが言うには、自分へのわかりやすいアピールのために一つ目だけは手動で爆発させたんだろうって」
「そうか」
それなら今回は本当にすべてがうまくいったということだ。無論、既に起きていたことまでは取り消せないが、悠也たちの行動次第で起き得たさらなる悲劇までは起こさずに済んだ。それも、誰かを殺すという手段に頼ることなく。
そしてそれは、決して悠也だけの力で成し得たことではない。むしろ悠也にできることなんてほとんど何もなかったくらいで、爆弾の方には一切関与できていない。
「ありがとう。またお前に助けられた」
悠也が言うと、彩夜は気まずそうに目をそらす。
「そういうのやめてって言ってるでしょ。感謝されるようなことはしてないよ」
「……相変わらず面倒なやつだな」
素直な感謝を伝えただけでこれである。どうせまた「そもそものきっかけは自分だ」とか屁理屈みたいな理由で自分が悪いということにしたがっているのだ。生真面目というべきか、むしろ偏屈というべきか。でも、それが彩夜だと悠也ももうわかっている。
「で、いのりはなんでまた抱きついてくるんだ」
「なんとなくですよ?」
「さも当然みたいに言うな」
「あえて言えば嫉妬ですかね」
「……ああ、そう」
もうどう反応していいかわからなかった。
そんなやりとりをしている間に倉沼が戻ってきて悠也を見て言う。
「お、目が覚めたか。調子はどうだ」
「問題はなさそうです。倉沼さんこそ大丈夫ですか?」
「見ての通り傷一つねえよ。てことで、お嬢ちゃんも心配しなくていいからな」
言われたいのりは口を尖らせる。
「ていうかなんで傷一つないんですか。確かに殺したはずなんですけど」
「俺の魔術はそういう小細工に向いてんだ。お嬢ちゃんの刀は一切俺に届いてねえ」
「それでやられたフリですか。意外とセコイですね先輩と違って」
「そりゃ俺に説得は無理だからな。戦略的撤退ってやつだ」
言われてみれば、いのりが倉沼を殺したつもりになって悠也の前に現れたのはちょうど悠也が店長との通話を終えた頃だった。倉沼は時間稼ぎをしっかり終えてから後を悠也に託すつもりで死んだフリを決行したのだ。空間と空間を繋ぐ倉沼の魔術なら刀が自分の体を貫通したように見せかけるのだって不可能じゃない。
そんな風に考察していると、ふいにいのりが緊張を孕んだ声音で言った。
「……ありがとう、ございました。私を止めてくれて」
倉沼は一瞬だけ驚いたように固まったが、すぐ軽薄な笑みと共に口を開く。
「だってよ、良かったな悠也」
「先輩は勿論ですけど、今のは倉沼さんに言ったんです。倉沼さんがいなければ、私は先輩を殺していたかもしれません」
「そうかい。……そう言うなら、まあ、気持ちは受け取っとこうか」
「といっても、私の一番は先輩ですけどね」
「はいはい」
悠也は軽くそれだけ反応した。なんとなくだが、今のはさっきまでの壊れた蛇口のような感情の漏出ではなく、感謝を伝えた倉沼への照れ隠しのための言葉であるような気がして、無粋なツッコミをしてはいけない気がしたのだ。
事実、倉沼がいなければ悠也はいのりに殺されていた。
そういう意味でも、今回悠也が担った役割はほんの些細なものだったのだと痛感する。それが嫌だというわけではないし、むしろ今の自分にできる精一杯のことはしたと自負しているが、いつまでもこのままでいいとは思わない。
「倉沼さん、相談があるんですけど……」
言いかけた悠也を倉沼は片手で制して言う。
「待った。師匠が戻ってきた」
直後、縁側を通って霧崎が現れる。片手を気だるそうに腰に当て、研ぎ澄まされた刃物のように美しくも怜悧な瞳で室内を見回し、はっきりした声で言う。
「小娘と黒宮悠也は揃っているな。雑事は済んだ。さっきの続きを話そうじゃないか」
悠也と彩夜の間に緊張が生じた。
いのりの一件は解決したが、まだその問題が残っていた。
「先月の一件、お前の報告に不足があったのはわかっている。私は立場上それを無視できない。何を誤魔化したかは既に判明したようなものだが、申し開きがあるなら聞いてやろう」
「……その前に一つ確認させて。さっき霧崎さんが悠也に言ったこと、覚えてる?」
「ああ。あくまでも私の管理下において、私に有益な限りという条件付きでだが、そいつの命は保証しよう。お前が何を話そうと理不尽に殺すような真似はしない」
彩夜は安堵の息を吐き、悠也に視線を送ってきた。悠也はそれに頷きを返す。
ここからが正念場だ。
霧崎に視線を戻し、その目を真正面から見つめて彩夜は言う。
「先月の一件の中で、私は悠也の血を吸った。理由は悠也を生かすことが事件の解決に繋がると考えたから。悠也が瀕死になったのが黒幕の魔術によるものなのは明らかだったから、目を覚ませば有益な情報が得られると思ったの」
「あくまでも事態を迅速に収めるためだと主張するわけか」
「そういう建前は用意してるって言いたいだけ」
「だろうな。隠していたのは吸血行為を隠蔽するため……というのが建前で、実際にはその小僧の安全を確保するのが目的だったわけだ。実にお前らしい理由で安心したよ。辻褄も合っている。咄嗟に考えたにしてはよくできた言い訳だ」
悠也は無意識に呼吸を止めた。
言い訳。霧崎は今、確かにそう言った。彩夜の説明が言い訳であることを見抜いている。ほかに隠したいことがあるのだと気づいている。
それは敷根潤の目的。すなわち織原幸姫と事件の関係。
今の幸姫は魔術となんの関係もない普通の少女だ。潤がそうした。悠也はその意思を継いだ。だからこそ、魔術師が幸姫に目を付けるようなことがあってはならない。それは悠也にとって何よりも優先される行動の指針だ。
それなのに……。
悠也は思わず口を挟んだ。
「言い訳って言い方はないでしょう。彩夜が嘘をついてるとでも言いたいんですか」
「事実言い訳だろう。この小娘自身が言っていたじゃないか、建前だと」
霧崎は楽しげに口元を緩め、続けた。
「なあ小娘、お前が本当に隠したかったなは自分が吸血衝動に負けたこと。それでいいんだな?」
「うん、いいよ。処分であればいかようにでも。殺してくれてもオーケー」
「残念だがそれはできんな。お前には利用価値がある」
「あらそれはラッキー」
「とはいえ気は抜くなよ。お前が吸血を我慢できなくなるようなことがあれば、私はお前を処分しなければならなくなる。せいぜい自分を律することだ」
「りょーかい」
彩夜は笑顔で悠也に振り向いて言う。
「だってさ、悠也」
悠也は困惑でいっぱいだ。
今のやりとりの白々しさ。まるで、あえて彩夜の隠し事を追及しなかったかのような。
「……もしかして、仲いいのか?」
尋ねると、彩夜はうーんと考え込む。
「まあ、付き合いも長いし?」
「それじゃあ警戒してた俺が馬鹿みたいじゃないか。本気で死ぬかと思ったんだぞ」
「勘違いするなよ小僧」
悠也を諌めるように霧崎が言う。
「私はお前たちの味方になったわけじゃない。言ったろう、有用性を認めると。私はただ私の目的のためにお前達を利用するだけだ。いずれ必要なときが来たなら力を貸してもらうし、そうでなくとも扱いとしては私の管理下だ。妙なことをすれば命はない」
「……何をさせるつもりですか」
警戒心をあらわに尋ねる悠也に、霧崎の口元が不敵に釣り上がる。
「そうだな……しばらくは小娘がヤケを起こさないよう見張っていてもらおうか。知っての通り何かと理由をつけて死にたがる面倒なやつだ。私からすればお前が死のうとこれといって問題はないが、小娘に死なれるのは少し困る」
「その言い方なんか酷くない?」
「事実だろう。どうだ小僧。できるか」
「……それくらいなら」
悠也とて彩夜を死なせるつもりはない。霧崎に言われるまでもないことだ。
だが困惑は深まった。そんな取ってつけたような役目だけでは、事実上悠也を自由にすると言っているようなものだ。多少の制限はあるにせよ、もっと束縛されると覚悟していただけに拍子抜けもいいところ。彩夜から聞いていた機関の話とはだいぶ印象が異なる。
魔術は秘匿されなければならない。
魔術師の社会と、魔術を知らない人々の社会。
今の世の中はその二つの絶妙なバランスの上で成立している。
故に魔術を秘匿するためなら機関は手段を選ばない。殺人すらも手段の一つ。
彩夜は何度も悠也にそう念押ししてきた。だから悠也も覚悟はしていた。
それなのに、こんな簡単に済んでしまっていいのだろうか。
「なんだ小僧。何か不満か?」
「いえ。……俺はただ、俺なんかに本当にそこまでの価値があるのかと」
「自分で勝ち取った権利に疑念を抱くのか。お前も殺されたいとか言い出すタイプか?」
「魔術師は魔術を秘匿するためなら何でもすると聞いていたので」
「するとも。だがそれを知っているお前をわざわざ殺す意味がどこにある」
「……それは」
「この一月、お前は自分の体質も魔術の存在も公言せず慎ましく生きてきた。それをわざわざ殺す意味を私は見出せない。規則は一定の目的を達成するために設けられるのであって、盲目的に従う必要はないわけだ。わかるか小僧」
「それなら、例えば他の誰かが新たに魔術を知った場合も殺すとは限らないってことですか。その人が魔術を誰にも公言しないと約束してくれたなら」
「勘違いするなと言っただろう」
霧崎は悠也の言葉を遮って言う。
「規則に盲目的でないのとただ違背するのとは別物だ。お前を認めるのはお前が自分の立場をよく理解していると判断したからであって、そう判断できるだけの材料がないのにリスクを抱え込むほど私は甘くない。要は状況次第なわけだが、変な気を起こそうとは思わない方が良い」
「……」
「それと小娘。今回は必要に駆られての吸血だったということにしておくが、念の為経過観察はさせてもらうぞ。万が一にも吸血衝動に身を委ねるようなことがあれば……わかっているな?」
「勿論。でも経過観察ってことは、霧崎さんもここに留まるってことでいいのかな?」
「止む終えまい。この家の広さなら多少住人が増えたところで誤差の範疇だろう」
二人のやり取りを聞きながら悠也は今後のことを考える。
(……織原とは、少し、距離を置くべきか)
霧崎が最初の印象より良い人そうなのは幸いだが、しかし悠也の目的は幸姫と魔術を関わらせないことだ。言ってしまえば、いくら霧崎が良い人だろうと何かしらの形で幸姫に目をつけられてしまえばその時点で終わり。潤の願いは叶わぬものとなってしまう。それを思えば、今後霧崎の管理下に置かれる悠也が幸姫と必要以上の交流を持つのはリスクが大きい。
とはいえ、ここで完全に縁を切るのもそれはそれで不自然だ。ただ魔術と関わらせなければいいというものではない。幸姫は幸せにならなければならない。平穏に暮らせなければならない。今ある彼女の日常はこのまま維持されなければならない。
悠也の存在が幸姫にとってどの程度のものかは知らないが……
それでもきっと、突然縁を切るような真似をすれば傷つけてしまうのではないかと思う。自惚れているわけではなく、ただ単に幸姫はそういう人物だと悠也は思う。
あくまでも自然に、これまで通りに、しかし深入りはしないように。そういう距離感を維持しなければならない。人付き合いの得意でない悠也にはなかなかの難題だ。
「先輩、ほかの女のこと考えてますね」
「突然意味不明な絡みをしてくるな」
そして何故か妙に鋭かった。
「って、そうだ。いのりは。……いのりはどうなるんですか?」
すっかりそのことを失念していた自分が嫌になる。
魔術師に唆されたとは言え、いのりは魔術に関わり両親を殺した。橋を一つ壊す要因にもなった。単純な罪の重さという意味でも、機関の方針たる魔術の秘匿という意味でも、いのりがこのまま放置されるとは考え難い。
そんな悠也の疑問に答えたのはいのり自身だった。
「心配ありませんよ、先輩。私もここで経過観察だそうですから」
「そうなのか……?」
「はい。なんでも私が使っていた刀の調整をするのに実際に使用した人物からデータを取りたいとかなんとか。理屈は私もよくわかんないんですけど、とりあえずは大丈夫そうです」
「……よかった。……よかったけどこの手を離してはくれないだろうか」
「無理です。心配してもらえたのが嬉しすぎて」
「それは理由になってない」
言いながらも、悠也はいのりをすぐには引き剥がさなかった。その小さな体が震えているのに気づいたからだ。
無理もない。事態は一応の解決を迎えたが、いのりにとってはここからが正念場だ。両親を殺してしまった事実は消えない。向き合うなり、背を向けて逃げるなり、自分なりに折り合いをつけて生きていくことになる。しかもまだまだ未知の多い魔術師の社会に身を置くことにもなるというのだから、不安になって当然だろう。悠也にも覚えのあることだった。
あの夜彩夜がいてくれたことに、どれだけ助けられたことか。
そんなことを思ってふと見ると、悠也の方を見ていた彩夜と目が合った。
「……なんだよ。そんなに見るな」
「ん、大丈夫大丈夫。ちょっと微笑ましくて見てただけだから」
「それをやめてくれと言ってるわけだが」
いのりに抱きつかれている姿を見られるのは気恥ずかしくて仕方がない。
「大丈夫です先輩。見せつけてやりましょう」
「何を誰にだ。一旦冷静になれ」
「刮目させていただきます」
「だから見るなと言ってるだろうが!」
思わず叫ぶと、彩夜が楽しそうに肩を震わせて笑う。
悠也は疲れてどっと息を吐き出す。
それからそれを呆れたような目で見ていた霧崎が言う。
「少し屋敷の中を一巡してくる。間取りは今日のうちに頭に入れておきたい」
「待ってくれ師匠、オレも行く」
と倉沼。これからここで暮らしていくからには当然の行動だ。
ちなみに、これからここで暮らすことになる人物はもう一人いる。
「いのりも行って来たらどうだ。色々見ておきたいだろう」
「いえ、それは後でいいです」
「……そうですか」
「それよりどうせなら先輩も一緒に暮らしませんか。寝室も一緒でいいですよ」
「謹んでお断りさせていただきます」
そろそろこのやり取りにも慣れ始めた悠也である。
さらりと受け流していのりに抱きつかれたまま視線だけを倉沼に向ける。
「倉沼さん、少し待ってください」
「なんだ」
「倉沼さんもここに残るんですよね。それなら、一つお願いをしてもいいですか」
「言ってみ」
「俺に……戦い方を教えてください」
その申し出が意外だったのか、その場の全員が少し驚いたのが雰囲気でわかった。
「どういう意図か知らねえが、まずは理由を聞こうか」
「今回みたいなことがまた起きないとも限らないでしょう。そのとき倉沼さんが都合よく助けてくれるとも。自分で戦えるだけの力がほしいんです」
教室でいのりと対峙したとき倉沼が来なければ、悠也たちは死んでいた。そうでなくとも彩夜は重症を負ったし、その後いのりを説得する際に悠也を守りながら戦った倉沼も大怪我をした。すべて悠也の力不足が原因だ。
「そう言われてもな……」
倉沼は困ったように頭を掻いた。
「どうしてオレなんだ?」
「倉沼さんの戦うところを見たからです。今の俺に必要なものを、たぶん、倉沼さんは持ってる」
無数の刀と対峙したとき、悠也の体は思った通りには動かなかった。決して身体能力が足りなかったわけじゃない。むしろ持て余していた。足りなかったのは経験と技術だ。
対して、倉沼はいのりの刀をすべて捌き切った。その身のこなしは素人目にも洗練されて見えた。今の悠也に必要なのはそういう技術だ。
「なるほど。だがオレもまだ師匠には遠く及ばねえ未熟者。弟子の分際で人に教えるっつーのは」
「お前を弟子にしたつもりは一切ないぞ」
さらっと衝撃の事実を口にする霧崎だった。
「足手まといが減るのはいいことだ。お前さえ良ければ存分に教えてやるといい。私は御免だが」
「……師匠が言うなら」
倉沼はサングラスの奥の瞳をまっすぐに悠也へ向けた。
「悠也。お前、どのくらい強くなりたい?」
唐突に問われて答えに窮する悠也に、倉沼は言う。
「オレが言うのもなんだが、世の中を生きていくのに力は必要ない。魔術師の世界じゃ確かに殺し合いだって起き得るが、そんなのとは無縁に暮らしている魔術師も大勢いる。今回みたいなことはそうそう起こらねえ。それでも必要な力ってのはどのレベルだ?」
問われて、答えはすぐには見つからなかった。
今回みたいなことは繰り返したくない。わかっていたのはそれだけで、無力でいるのが嫌なだけだった。程度なんてわかるわけがない。
自分を見つめ直して、考えて、浮かんできた思いを悠也は吐露する。
「……俺のせいで、深く傷つけてしまった人がいます。もうこれ以上悲しませたくない。そのためにできることはしたい。どんなことでも、俺にできる精一杯のことを」
だから、つまり。
「際限はありません。俺はただ、自分のできることに全力を尽くしたい」
自分にそんな生き方はできないと思っていた。
だけどその憧れは決して特別なことではなくて。
今の悠也にはそうするしかなくて。
でもそんな後ろ向きな理由以上に、そうしたいと思っている自分もいて。
その不器用な心根の吐露に、倉沼はニヤリと口端を釣り上げた。
◇
一口に女子高生と言っても個性は人それぞれであり、部屋の雰囲気も十人十色に変わってくるものだ。しかし、その中でもここまで一切の華やかさを感じさせない部屋はそうそうないのではなかろうか。
織原幸姫の部屋はそんな部屋である。
こうなった原因はそもそも幸姫が部屋にいる時間が短いことにある。基本的に家の中にいたくないので夜は遅くまで帰らないことがほとんどだし、勉強も喫茶店や近所の神社のテーブルなどで済ませてしまう。寝て起きるだけの部屋に余計な装飾は必要ないのだ。
ただし今日の幸姫が帰宅したのは、彼女にしては割合早い時間だった。
なんやかんやとあって、今はベッドに仰向けになって天井を眺めている。
――今日、悠也の関わる世界の一端を知った。
正直、想像を遥かに超えていた。爆弾だとか魔力だとか、今でも夢だったのではないかと疑いたくなるものばかり。だがそれは紛れもなく現実で、悠也が幸姫を巻き込むまいと考えたのにも納得してしまった。自分が悠也と同じ立場なら、やはり同じ選択をしただろう。
考えるべきはこれからのことだ。
ようやく悠也の事情を少しだけ知れた。だがそれだけだ。このまま悠也に「もう隠す必要はない」と伝えたところで、返って悠也を困らせるだけ。だからといって何もせずにいても悠也は思い悩み続けるだけで解決にはならない。
何かをしなければならないのだ。
ではそれは何か。
幸姫は視線を横にやった。そこには広げっぱなしの古いアルバムがある。
今日、早々に家に帰って来た理由がそれだった。
アルバムだけではない。スマホの中にある写真も隅から隅まで確認し、その結果不自然な写真の数々に気が付いた。正確に言えば、勘づいたの自体はもっと前。大切にしていたロケットペンダントを何故大切にしていたのかわからなくなった時点で、疑いは持っていた。
ペンダントに入った何も写っていない写真には、本当は誰かが写っていたのではないか。
もしそうなら、本来写真に写っていた人物が消えてしまったことになる。そんなことはありえないと思っていたから、これまでは本気で考えなかった。
しかし、世の中には本当に魔術師がいると知った。魔力なんてファンタジーじみた名前のものについて必死に考え、文字通り命がけで行動する人たちを知った。
だからきっと、あの女性が魔術師と名乗ったのも本当だ。
そして彼女が語った内容もまた、おそらくは真実。
それなら次にするべきことは決まっている。
「……よし」
気を引き締めると同時、体を起こした。出しっぱなしのアルバムを片づけるためだ。
ふいに卓上カレンダーが目に入った。今は六月の下旬。あとほんの少しで七月。
もうすぐ、七夕祭りの日がやってくる。
◇
雨上がりの空気は肌にまとわりついて鬱陶しいが、漂う草木の匂いは嫌いじゃない。
脳裏に蘇る苦い記憶を噛み締めながら、彩夜は夜道を進んでいく。
確かめておきたいことがあった。悠也に幸姫、いのり、そして彩夜自身のこれからを思えば本当に些細なことだけれど、思い出したら妙に気になって出てきてしまった。
辿り着いた公園は酷い有様だった。遊具についた無数の刀傷はその光景がどのようにして生まれたかを如実に語り、彩夜の不安を掻き立てる。
そして、探しものは見つからなかった
あったのは彩夜が置いていった傘の残骸だけ。小さな命は忽然と姿を消していた。
「……ま、この方が良かったんだよね。きっと」
見つかったとして彩夜に何かできるわけではない。命に責任を持てるような生活はしていないのだ。優しい誰かが拾ってくれたのならそれが一番いい。
気を取り直し、彩夜は公園を後にする。
考えるのはこれからのこと。
倉沼に弟子入りした悠也は魔術師の世界に浸っていくことになるだろう。それはもう仕方がない。引きずり込んだのは彩夜の方だからそれを哀しむのもおかしな話だ。
でも、その動機は既に崩れかけている。
悠也が語った傷つけてしまった人とは、妹の悠香を含む家族に友人――何より、自分の手で記憶を奪った織原幸姫のことだ。彼女たちを悲しませてはならない。その平穏を守らなければならない。それは潤を殺した夜から悠也が自分の命を肯定するために必要な生きる理由だ。そのために悠也は進もうとしている。
だが、織原幸姫は魔術の世界を知ってしまった。
今はまだ彩夜と熊井の二人しか知らない事実だが、いつまでもこのままとはいかないだろう。彼女の性格からして今後も自分から踏み込んでくるであろうことは想像に難くない。潤が命を賭して実現した彼女の平穏は、すでに失われかけている。
そして困ったことに、彩夜には幸姫の言い分もまた理解できた。魔術と関わらせたくないという潤と悠也の思いはもっともだが、彼女が友人としてできることをしたいと願うのも決して間違いではない。それは悠也が潤を思って行動したのと同じだ。大切な誰かを思う気持ちに突き動かされた行動をどうして非難できるだろう。
彩夜にその手の信念はない。
自分の行動はどちらかといえばいのりに近い独りよがりなものだ。よりにもよって親殺しというのも示唆的で、これを仕組んだ神様はきっと皮肉が好きなのだと思う。しかしそのいのりも悠也に触れたことで気持ちの変化があったようで、そうなると立ち止まっているのはいよいよ彩夜だけ。否、立ち止まっているだけならまだいい。今の彩夜はむしろ後退していると言っていい有様だ。
――酷く、喉が渇く。
自分で決めた禁忌を破った代償が、徐々に精神を蝕んでいくのがわかる。
あるいは、自分はそれを望んでいるのかもしれない。そんな風にも思う。
前方から歩いてくる人影が目に入る。高校生くらいの少女だ。部屋着のような薄手の格好で、片手に買い物袋を下げ、もう一方の手に持ったスマホを耳に当てている。
その白い肌に意識を惹きつけられる彩夜に気づかず、少女は誰かと通話しながらすぐ隣を通り過ぎる。
「うん、買えたよ。……わかってる、拾ったからにはちゃんと責任持って世話するから。………だから大丈夫だってば。……もう、ママは細かいこと気にしすぎ」
そんな声が聞こえて、彩夜はどうにか自分を保つ。
見上げた夜空には厚い雲。
もう一雨降ることを期待しつつ、彩夜は回り道で帰ることにした。




