それぞれの決着
駆けつけた病院の駐車場は雨の中で穏やかな静寂を守っていた。騒ぎが起きている様子はなく、病棟に近づいていってもそれは変わらない。耳につくのは小刻みに傘を叩く雨音と濡れたアスファルトの上を行く自分たちの足音くらい。
今は、まだ。
「このどこかに……爆弾が……」
「それは調べてみてからのお楽しみ。なければ次に行くだけだよ」
緊張を隠せない幸姫の声に、彩夜はあえて軽い調子で返した。
無論彩夜とて心の中は穏やかではない。ここには悠也の妹である悠香が入院しているというのに、加えて幸姫も連れてきてしまった。もしここで爆弾が爆発したらどうなるか。それを思えば、あるいはその緊張は幸姫以上といってもいいくらい。
だが彩夜が不安がっていては幸姫を余計に緊張させるだけだ。
だから彩夜は平静を装ったまま、ただ『魔術師の勘』を研ぎ澄ます。爆弾は魔力を感知して爆発する。故に彩夜がどんなに微弱な魔力の気配も逃さなければ幸姫の安全は保証される。そのために自分はいるのだ。
「どうですか? 魔力の気配、ありそうですか?」
「敬語」
「あ……」
「魔力の方は今のところ特に……待って、ひとつ見つけた」
彩夜はそう言って進路を変える。見つけた魔力が病棟のどの辺りか目視で確認するためだ。とはいえその移動で彩夜の魔力が爆弾に感知されてしまう恐れもあるため、できる限り建物との距離は保ち続ける。恐る恐る、だが幸姫の不安を煽らないよう足取りは確かに。
そして彩夜はある病棟を見上げたまま脚を止めた。
「ゴースト……ではないね。微動だにしない」
「爆弾は魔力が近づいたら爆発するわけだから、とりあえずは安全ってこと?」
「それはまだ。それとあの場所……たぶん、悠香ちゃんの病室だ」
背後の幸姫が息を呑むのがわかった。
「……来たことあるの?」
「外から見てただけ。それより、これはちょっと偶然じゃなさそうだね」
敵はいのりを介して悠也に接触してきた。その悠也の妹である悠香のいる病室に魔力があり、その魔力を感知して爆発する爆弾がこの病院のどこかにある。その繋がりには明らな作為が透けて見える。
「……もしかして、敵の狙いは悠香ちゃん? でもなんで」
「悪趣味な魔術師みたいだし、霧崎さんと何かしら縁のある人を意図的に巻き込むよう場所を設定したのかも。他の候補地もそうだとしたらもう一度場所を洗い直す必要がありそうだけど、それより今は」
彩夜は身を反転させ、背後の幸姫に向き直る。
幸姫は緊張ぎみに喉を鳴らした。
「私の出番ってわけね」
彩夜は頷く。
「『魔術師の勘』で察知できるのは魔力だけだけど、この状況なら爆弾もあの病室にあると見ていいと思う。つまり魔力と爆弾の距離はかなり近い。何か罠が仕掛けられているかもしれないし、そうでなくとも一つミスをすればあなたも悠香ちゃんもおしまい。今更覚悟を確かめたりはしないけど、心構えは大丈夫?」
「当然。私が言い出したことだもの」
その瞳に迷いはない。
幸姫のこういうところは悠也に似ていると彩夜は思った。あるいは悠也が幸姫に影響されたのかもしれないが、いずれにせよその決意を砕く術を彩夜は知らない。
「じゃあ事前の打ち合わせ通りに。指示は電話で伝えるから、絶対に不用意な行動は取らないように。何か見つけたら必ずすぐ報告すること。わかった?」
彩夜の言葉に幸姫はしっかりと頷き、病棟内に入っていった。
一人駐車場に残った彩夜は傘と逆の手でポケットのスマホを取り出す。といっても自分のスマホは持っていないため急遽熊井に借りたものだ。操作に慣れていないのもあって通話を繋ぐのに少し時間がかかった。
『もしもし、聞こえる?』
「聞こえるよ。今どういう状況?」
『今悠香ちゃんの病室に向かってる。外観からの推測だから合ってるかわからないけど」
「そういえば、確かほかの患者もいる大部屋に入院してるって言ってた気がする」
悠香が巻き込まれた昏睡事件の被害者は多い。単純に個室が足りていないのだ。同室の入院患者も同じ昏睡事件の被害者だと以前悠也が言っていた。
『ならとりあえず方向は合ってそうね。――着いたわ』
「おーけー。慎重にね」
『……入るわ』
「まずは部屋の中がどうなってるか教えてくれる?」
『暗くてよく見えないけど、とりあえずベッドが左右に3つずつで計六つ』
「足元に何か落ちてたり仕掛けられてたりはしない?」
『ないと思うけど……」
「じゃあよく見て注意しながら窓際まで来て。ゆっくりでいい。で、こっちから見えるところに立ってくれる?」
『了解』
少しして窓際に立つ幸姫が見える。とりあえずここまでは順調だ。
『見える?』
「ばっちり。そこから窓に向かって右手に何かない? わかりやすく不審物だと助かるんだけど』
『右……あ』
「何かあった?」
『……ごめん違う。悠香ちゃんがいたから』
幸姫はそれだけ言うと、切り替えるように声を少し張って続けた。
『ものっていうと、花瓶が一つ。花が差してある。それからベッドの傍に紙袋が一つ。忘れ物っぽいけど、不審物といえば不審物かしら』
「それかも。魔力の気配の正体」
『この紙袋?』
「そう。動かさないように中身見れない?」
『……えっと、木の箱ね。オルゴールとかそういう感じの。もしかしてこれが爆弾?』
「その可能性もあるけど……」
そうではないかもしれない。
爆弾は魔力を感知して爆発する。だが魔術師やゴーストが接近しない限り爆発しないというのでは少々安全が過ぎる。それでは解除する側が焦る必要がなくなってしまうし、今回のように魔術師でない何者かに協力を要請すれば簡単に処理もできてしまう。
だがそう簡単にはいかないはずだ。
魔術師やゴーストが近づかずとも爆発するなんらかの仕組みがあると考えるべきだ。
そしてその考えに立ったとき、爆弾を爆発させるのは部屋の中にある魔力と見て間違いないだろう。つまり魔力を宿した何かは起爆装置なのだ。複雑な仕掛けは必要ない。おそらくは魔力貯蔵用の魔術道具だろう。一般的には魔術使用時の心の消費を緩和するために予め魔力を貯蔵しておく用途で使われるだけのものだが、爆弾が魔力に反応して爆発するこの状況設定では魔力を蓄えただけの箱も立派な起爆装置に変貌する。
さらにそれは同時に、爆弾とは別に魔力を宿す何かが存在していることも示唆している。でなければ爆弾と魔力が接近するという状況は起き得ない。
問題は爆弾の場所だ。
「花瓶の中は見た?」
『見たけど、不審なものは何も。とりあえず部屋の中探してみる?』
「お願い。ああでも物は動かさないで。今その部屋には魔力を感知して爆発する爆弾と、魔力を宿した何かがある。どちらか一方を迂闊に動かせばその瞬間爆発って可能性も……」
言いながら彩夜は気づ。
それこそが犯人の狙いなら、逆手に取って場所を絞り込めるのではないか。
『彩夜さん?』
「……紙袋があったのは悠香ちゃんのベッドの傍なんだよね」
『うん。窓側のところ』
「ならその向かいのベッドの辺りに何かない? 横とか、下とか」
『ん、見てみる』
少しして幸姫から報告がある。
『あったわ。同じような紙袋が一つ。でもどうして……』
「さっきも言ったけど、今そこには魔力を感知して爆発する爆弾と、魔力を宿した何かがある。だからこの二つはどちらか一方を動かせばその瞬間爆発する仕掛けになってるわけ」
『……どの辺りが『だから』なのかわからないんだけど」
「さっきあなたが言っていたように、紙袋が置かれていたらそれを見つけた人は忘れ物だと思って手に取るはずでしょ。でもそんなことされたら爆弾を仕掛けた魔術師は困っちゃう。というか、困るからこそ普通は見つかりづらい場所に設置するはず。そうしなかったってことは。その二つはいずれ発見されることを前提に置かれているってことになる」
そしてそれは「構ってもらいたいだけ」という霧崎から黒幕への評にも合致する。発見されることを前提に設置された爆弾なのだ。霧崎が見つけなければ他の誰かが見つけてタイムリミット。そういう意味では時限装置と表現してもいい。
そしてその仕掛けが正しく機能するためには……
『どちらが先に発見されても爆発する。そうなるよう配置してある。そういうこと?』
「そういうこと」
魔力に反応する爆弾と。魔力を秘めた何か。このどちらを移動させても爆弾が起動するには、どちらを移動させても爆弾と魔力の物理的距離が接近するようになっていなければならない。一方は悠香のベッドの隣の紙袋で、それを手にとった人が必ず通るのはそこから部屋の出口に向かうまでの通路だ。そしてそれと同じことがもう一方にも言える。どちらを手にとっても出口に向かう経路で自然と二つの距離が接近するよう仕掛けられているなら、向かい合ったベッドの近くに設置されているのではないかと思ったのだ。
「これでどっちが爆弾なのかもはっきりした。爆弾は魔力と接近しなければ爆発しないから、爆弾の他に魔力源があるはず。てことは」
『魔力のないベッド下の荷物が爆弾で、悠香ちゃんのベッドの横の紙袋はただ魔力が入ってるだけの箱になるわけだ。どっちから回収する?』
「爆弾を手荒に扱うわけにもいかないし、まず魔力源の紙袋を窓の外に投げてもらって、それから爆弾を回収するっていうのは?」
『了解。それでやってみる」
幸姫の声音からは微かな緊張が感じられた。
そして彩夜はふと思う。
この程度の推測は霧崎なら余裕で立てられるはずだ。当然霧崎を知っている敵もそれを考慮した上で行動している。それなのにこんな簡単な仕掛けをするものだろうか。
本当にこれで正しいのだろうか。
『ねえ、やっぱり爆弾を先に回収した方が良くない?』
思っていたのと同じことを言われて、彩夜は驚く。
「どうしてそう思うの?」
『私が詳しくないからかもしれないけど、魔力を貯めた箱ってどういう仕組みかわからないから。もしこの中から魔力が漏れ出したらそれで爆発しちゃうわけでしょ。それを動かすのってなんか怖くて。実際、そういう可能性は考えられるわよね?』
「……そうだね。私も同じこと考えてた」
『良かった。そうなるとまず爆弾の方を回収した方が最終的には安全よね。少なくとも爆弾の方は魔力を近づけなければ爆発しないわけだし、爆弾を動かしたせいで魔力が漏れ出すことはないんだから』
確かにその通りだ。
さらに付け加えるなら、魔力の方を処理しても爆弾を放置するわけにはいかないという事情もある。彩夜が近づけない以上、結局は幸姫に爆弾を回収する役目を押し付けることになる。なら始めから爆弾のみを回収したほうが危険は少ない。しかし爆発したときのことを考えると、少しでも爆弾から遠い方が生存の可能性は上がるのも確かで……
彩夜は頭を悩ませる。
そもそもが確実性のない情報を元にした偏見混じりの推測だ。それで正解に辿り着けるはずはない。二人は正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。それを確かめる術はない。安全を確保するにはどうしても確証に欠ける。一歩間違えれば幸姫と悠香を含む人たちが一変に死ぬことになる。
考えれば考えるほどドツボにはまる。
……これは駄目だ。一旦、
『私だけでも逃した方がいい、とか考えてる?』
また思っていることを当てられて、彩夜はハッとする。
『逃げないわよ。誰かがやらなきゃいけなくて、今その誰かは私しかいないんだから』
力強い宣言だった。ただし彩夜に対する宣言というよりは、自分自身を鼓舞するような響きにも感じられた。
そう、怖くないはずはないのだ。その上で自分を奮い立たせている。
魔術を知らなかった幸姫が爆弾を動かした方が安全なことに気づいたのも、もしかしたら恐怖心故かもしれない。自分の置かれた状況の危険性を理解しているからこそ必死に頭をはたらかせ、どうすべきかを考えたからこそ気づけたのかもしれない。
対する彩夜はどうだ。幸姫の身を案じるあまり、病室にいる悠香たちの危機を取り除くのを後回しにしようとした。安全の確保に万全を期すのは決して間違いではないが、別の人達が危険に晒されるのでは意味がない。それは単なる責任逃れ。自分には許されない行為だ。
そうして彩夜はゆっくりと呼吸を整え、覚悟を決めた。
「爆弾を先に回収しよう」
『いいのね?』
「敵は爆弾を解除してみろって挑発してきてる。なら、爆弾そのものに動かした瞬間爆発するなんて理不尽な仕掛けをしている可能性は低い……と思う。相手がフェアとは限らないけど」
あるいは卑劣な相手こそ「助ける方法があったのに助けられなかった」という展開を狙っているかもしれない。これも根拠のない想像だが、それでも。
「大丈夫。あなたの考えは正しいって、私が保証する」
彩夜はそう言い切った。幸姫を安心させるため。あるいは、卑怯な自分が責任から逃れられないよう自戒の意を込めて。
「ただ、少しだけ待ってもらえる? 少しやらなきゃいけないことができたから」
『わかった。待ってる』
「一旦切るね」
通話を切り、彩夜は会話に割いていた意識を『魔術師の勘』に集中させる。
周辺に動いている魔力の気配が三つ。おそらくゴーストだ。
ゴーストは心と魔力が混ざり合って生じる不安定な存在で、その存在を保つために人を襲って心を根こそぎ奪うことがある。爆弾を持ち出した幸姫に近づいて来られたらそれだけで爆弾が爆発してしまう。露払いは彩夜の役目だ。
彩夜は魂を魔族に委ねる。髪は銀色、瞳は紅。その姿は雨の夜にも良く映える。
疑似魔族化状態。心を吸収しようと魂に侵入するゴーストを逆に契約魔族で喰い尽くす、対ゴーストにおいて圧倒的優位を誇る切り札。あるいは、余計な心を削ぎ落とすための手段。
邪魔な傘を畳むと同時、彩夜は濡れた地面を蹴った。
三体のゴーストの気配はいずれも微弱。〈煉霊の魔術師〉が使役していたものとは比べ物にならない雑魚だ。すべて処理するのに三十秒とかからない。
戦闘を終えた彩夜は傘を開き、スマホを取り出し、幸姫に通話を繋ぐ。
「お待たせ。もう出てきていいよ」
『さっき話してた川辺まで持っていけばいいのよね?』
「人がいないか確認する必要はあるけどね。とにかくあなたは爆弾を落としたり衝撃を加えないようにするのだけに気を遣って」
『……了解』
「緊張してる?」
『この状況じゃ、流石にね』
躊躇うように間を置いてから幸姫は言う。
『……悠也の方は、大丈夫なのよね?』
「大丈夫だよ。今は自分の心配だけしときなさい」
彩夜は確信を持って返した。
今度は根拠がちゃんとあった。何故なら、既に彩夜の傷は治っている。
◇
つまらない毎日を繰り返していた。
毎朝起きて学校に行って、歓談するクラスメイトたちを教室の隅から眺めていると予鈴が鳴る。授業の内容は難しくて、わからないところを聞く相手もいないからどんどん置いて行かれる。家に帰るとリビングのテーブルに紙幣が一枚置いてあって、それを持ってその日の夜から翌朝にかけての食事を買いに出かける。そんな毎日を繰り返していた。
生きていることに喜びはなかった。
特別苦痛と感じることもなかったけれど、周囲の人々を羨ましいとは感じた。誰も彼もが私のしたことのないような表情をしていて、どうしてあんな顔ができるのだろうと疑問に思いつつも嫉妬した。本当は疑問の答えに気づいていたけど、惚けている方が簡単だった。
魔術師を名乗る女性と出会ったのも、いつも通りにつまらない日の夕暮れ時だった。
「ねえキミ、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな」
「お願い……私に、ですか?」
「そうよ。キミにしかできないお願い。お名前教えて」
「……水無月いのり、ですけど」
「いのりちゃんかぁ。いい名前ね。あ、自分では嫌いな名前だったりするのかしら」
「名前そのものはどうでもいいです。ただ……」
あの両親に付けられたものだと思うと、好きにはなれない。
「……あの、さっきの話ですけど、お願いなら私以外の人にした方がいいと思うんです」
「そんなことないわよ。あたしはね、いのりちゃんの力になりたいの」
「私の……? いえ、人違いなのではないかと」
「違わない違わない。あたしはいのりちゃんのこと、よーく知ってるんだから」
「え……? それってどういう」
「あたしがいのりちゃんを解放してあげる」
そう言って、魔術師は水無月いのりに魔法をかけた。
彼女に言われるがままに、一人目――母親を特に疑念を抱くことなく殺害した。
すると何故だか気分が高揚してしまって、二人目――父親は自分から殺害した。
「すっきりしたでしょう?」
「……そうなんでしょうか。よくわかりません」
「あの二人はあなたを縛り付けていた元凶だもの。時間が経ったら、きっと実感できるわ」
「でも私、人を殺してしまいました。捕まるのはちょっと嫌です」
「大丈夫。人殺しなんて案外どこにでもいるものよ」
そうして魔術師は教えてくれた。同じ学校に通う先輩のことを。
もちろん鵜呑みにはしなかった。何せ根拠は「心の声が聞こえる」と自称する魔術師の証言だけだ。それまでのやりとりに思い当たる節はあったし、渡された刀だって明らかに科学で説明のつかない領域の力だったのだから、魔術師の能力そのものは信じてもいいと思ったけれど、それは証言のすべてを信じるのとイコールじゃなかった。
だって身近に人殺しがいるなんて話は都合が良過ぎだ。魔術の存在に比べればいくらか現実的だったけれど、だからこそ返って盲信しづらかった。
そうして疑惑の先輩を観察する日々が始まった。休み時間に見る先輩は、一人でつまらなそうな顔をしているか眠っているかのどちらかで、それになんとなくシンパシーを感じた。単なる人殺しという以上の自分に似た何かを感じたのだ。
我ながらキモチワルイ話だと思う。
一度も話したことのない他人を勝手にわかった気になって、勝手に理想を押し付けて、作り上げた幻想に依存した。彼なら自分を理解してくれると思い上がり、優しい言葉をかけてくれると期待した。それがどんなに哀れなことか気づいていないわけじゃなかったのに、それでもその気持ちは捨てられなかったし、捨てる気にもならなかった。
そんな風にして、黒宮悠也は水無月いのりにとって特別な一人になった。
決して綺麗な気持ちではなかったと思う。
人に誇れるようなものでもなかった。
だけど水無月いのりという人間にとって、それは否定しようのない真実でもあって。
――だから、なのだろう。
崩落する高架橋に気づいた時、咄嗟に刀を使って彼の頭上の瓦礫を切り刻んだのは。
大バカだ。だってこれでは自分が死んでしまう。
刀はいくらでもあるけれど、全部を同時に別々に動かすことなんてできない。動かせたとしてももう間に合わない。いくら切り刻んだって、この瓦礫が人の上に落ちて無害になるほど粉微塵にするのはそもそも無理がある話なのだ。彼が少しでも軽い怪我で済むようにするので精一杯。
そしてそれ以前に、実はもう刀が言うことを聞いていない。暴走してしまったらしい。最後に彼の頭上の瓦礫を除去できただけでも自分を褒めていいくらいだ。
それなのに――どうして彼は、こちらへ向けて跳んでしまっているのか。
彼の不死性は既に失われたも同然だ。この刃は存在そのものを切り裂き不死さえも殺すのだと魔術師が言っていた。体中に刀の突き刺さった状態で瓦礫の下に埋まったら、きっと助からない。
それなのに何故、そんな一所懸命に地面を蹴って、こちらに来てしまうのか。
これでは台無しだ。せっかく助けられるはずだったのに。
でも不思議だ。台無しなのに、何故かすごく満たされた感じがする。
知らない感覚。両親を殺したときですら味わえなかった高揚感。
なんだかふわふわして、温かい。
もしかして、こういうのを喜びというのだろうか。
かくして瓦礫は二人の上に降り注いだ。
少女と、少女に覆いかぶさる傷だらけの少年の上に。
雨はまだ降り続いている。宙を舞う塵や埃を地に伏せて、倒れた少女の背中を濡らす。
でも温かい。自分に覆いかぶさる少年の体温が、これ以上なく自己主張している。瓦礫で視界が真っ暗なせいで、この温もりばかりに意識が向いてしまう。
「……どうして」
無傷の少女は尋ねた。
少年は瓦礫を背に、少女が潰れないよう骨の付きだした腕を突っ張ったまま、少女の耳元で力なく囁いた。
「人が死ぬのは……嫌だから」
「……馬鹿じゃないですか。私を助けたら、もっと人が死にますよ」
「そうはならないよ。だって、君は……俺を助けようとしてくれた」
「……っ、違います。私は、先輩を殺そうとして」
「生きてるよ。……それに見てたんだ。ちゃんと、助けようとしてくれた」
その声は優しくて、温かかった。
もう駄目だ。泣きそうだ。というかとっくに泣いていた。なのに余計に酷くなった。
泣いてしまっているせいで声が出ない。反論できない。
それなのに、卑怯なことに、向こうは一方的に言ってくる。
「それが、君の本当の願いだよ」
酷い決めつけ。声が出るなら絶対に反論している暴論。
でもどうしようもない。込み上げてくるのは嗚咽ばかりで言葉が出ない。
だから、否定もできない。
完敗だ。これ以上ないくらい、完璧に負けてしまった。
視界が開けた。涙で滲んでよく見えなかったけれど、サングラスの男が瓦礫をどかしたらしいことはかろうじてわかった。殺したつもりだったのに、どうやら生きていたらしい。
不思議なことに、それでほっとした。
殺した相手が生きていたことに、この上なく安堵した。
たったそれだけのことが、自分でもよくわからないくらい嬉しかった。
◇
暗く静かな室内に一発の銃声が響いた。
「何、これ」
呆然と呟いたのは葵だった。
銃を撃ったのは葵だ。狙ったのは目の前の女の後頭部。
だというのに、何故か銃弾は葵の腹部に命中していた。
「状況から見て倉沼の仕業だろうな。空間に作った裂け目と裂け目を繋ぐ魔術だ。私の後方に裂け目を二つ用意しておけば、一方に入った銃弾がもう一方から出てくる。結果、銃を撃ったお前に銃弾が返るというわけだ」
言いながら霧崎は立ち上がった。その身には傷一つない。
腹部を押さえ膝をつく葵を霧崎が見下ろすという、さっきまでとは反対の構図。
「なんで……おかしいでしょ? だって、あいつはこの場にはいないのに」
「事前に発動していたんだろう。そもそも空間に作る裂け目とは相対的なものだ。あいつは普段地球に対し相対的な裂け目を作っているから、自転と公転の影響を受けずに魔術を使える。今回は私を基準にして術を使った。私がどう行動しようと背後に裂け目がついて回るように」
「だからそれがありえないって言ってんのよ……っ。あいつはそんなことしてない。もしそうなら、あたしの思考盗聴でとっくに……」
と、そこで葵ははっとした。霧崎の思考を聞いて答えがわかったからだ。
「あんた……自分とあいつの記憶を、切除したの……?」
霧崎楓はかつて切った対象の痕跡を世の中から抹消するナイフを作ったこともある魔術師だ。記憶を消す手段を有していることに不思議はない。
「あくまで状況からの推測だが、そうだろうな。やったのはおそらく数日前。あれを盗んだのがお前と気づいたときだ」
「ありえない。ありえないありえない。だってそれじゃ、まるで初めから、あたしが後ろから撃つってわかってたみたいじゃない。そんなのありえないでしょう?」
「はあ」
呆れたため息の後で霧崎は続ける。
「……お前さ、自分が何を盗んだか覚えてるか?」
「―――!」
それですべてが繋がった。
いのりに預けたあれは相手を全方位から攻撃できる武器だ。それを対策しようと考えたとき、背後を狙われてもいいようにするのは道理。ほかならぬ霧崎楓が開発者なのだから、それくらいしていてもおかしくはない。むしろその方が自然とも言える。
「つまりこの結果は偶然だ。私はただ殺されないよう工夫をしただけであって、お前に銃弾を当てるつもりなどなかった」
「……でしょうね」
心の声を聞く葵にはわかる。それが霧崎の嘘偽りない本音だと。
だからこそ、口元を釣り上げて葵は告げる。
「あんたに人殺しなんて、できるはずがないもの」
「これまで何度もしているんだがな」
「それが無理してるって言ってんの」
葵は霧崎を睨みつけた。
とはいえ、強がっていられるのもここまでだ。流石に出血量が多すぎる。そろそろ手当をしないと間に合わない。
「……今回はあたしの負けね。でも、これで終わりじゃないから」
言いつつ、ベルトに引っ掛けていた道具を起動した。足元に魔術陣が出現し、葵の体を光が包む。緊急用の転移魔術を可能にする魔術道具だ。一回使い切りなのが残念だが、こういうときには役に立つ。
「……随分と手癖が悪くなったな、お前」
「言ってなさい。次こそは、絶対にあんたを負かしてみせる」
そうして葵は姿を消した。
残された霧崎はつまらなそうに息を吐き、一人静かに立ち去った。




