それぞれの戦い
「ごめん織原。急いでるんだ、俺」
そう言って立ち去る悠也を、幸姫は引き留めることができなかった。ただ呆然と見送るしかなかった。悠也があんな風に自分をあしらうなんて思ってもみなかったから。
ハッと我に返ったのは、その場にいた少女に「お話でもどう?」と声をかけられてから。
そうして幸姫は流されるまま窓際の席に腰かけた。
「とりあえず自己紹介からしようか。私は紅野彩夜。よろしく」
「……織原、幸姫です」
やや委縮しながら返した。
「前に一回会ってるんだけど、覚えてるかな?」
「はい、公園で」
悠也と話していた時、唐突にナイフを突き付けてきた少女だ。あの衝撃的な出来事を忘れる方が難しい。……その割に、悠也と何を話していたかはよく覚えていないのだが。
「あのときは邪魔しちゃってごめんねー。色々事情があってさ」
彩夜の声音は場違いに明るい。まるでその裏の暗い何かを覆い隠そうとするかのように。
「事情……ですか」
「うん。ほんと色々大変だった」
詳細を語ろうとしないのは、それが幸姫に話せないことだからだろうか。
幸姫はふと思う。これは幸姫にとってもいい機会なのではないか。
この少女なら、幸姫の知りたいことを知っているのではないかと。
「その……こういうこと聞いていいかわからないんですけど」
「なんか堅苦しいね。タメ口でいいよ」
「えっ、あ、はい……じゃなくて、うん」
「飲み物頼むけどいる?」
「あ……ではアイスカフェオレを」
「りょーかい」
気の抜けたような返事をする彩夜。
……すっかり話の腰を折られてしまった。
このままではいけない。聞きたいことはいくらでもある。この機会を逃す手はない。
幸姫は決意を新たに再び口を開く。
「悠也とは……どういう関係なんですか?」
彩夜がにやりと笑う。
「意味ありげな質問だね。あと口調」
「いえあの……話せないなら別にいい、んです、だけど」
どうも話しづらい。完全に向こうのペースに呑まれているような感じだ。
彩夜はうーんと唸ってから、
「話せないっていうか、自分でもよくわかんないんだよね。関係性って一言で表現できるものじゃなくない?」
「……まあ、場合によるとは思いま……思うけど」
「私には悠也に負い目があって、だから悠也の手伝いをしてる。簡単に言うとそんな感じ。もしくは目的を果たすための協力者。あ、一言で言い表せたね」
彩夜は他人事のように言って、運ばれてきたココアを一口飲んだ。
今度は目的ときた。しかし彩夜は肝心な詳細までは語ろうとしない。
「……確かこの前は、『私の悠也』とかなんとか言ってたような」
「あれは完全に出まかせ。悠也弁明しなかったの?」
「いえ、はっきり否定してました」
「でしょ? 私より悠也を信じなきゃ。友達なんだから」
「でも……」
悠也にとって彩夜はただの協力者ではない。そんな気がする。
思えば彩夜にナイフを突き付けられたあの夜からそうだった。人付き合いに関して奥手で不器用な悠也が、彩夜にはまるで壁を感じていないようだった。
さっきだってそうだ。悠也は彩夜に「頼む」と告げてこのカフェを出て行った。あの言葉には、悠也から彩夜への強い信頼が滲み出ていた。その信頼は悠也がもう幸姫には向けてくれなくなったものだ。悠也は悩んでいるけれど、それを幸姫に話してはくれない。
そう。幸姫にだけは。
「彩夜さんは……知ってる?」
「何を?」
「悠也が私に隠していること。……私がなくした、記憶のこと」
「さあ。なんのことだか」
「なら、シキネジュンという人のことは?」
彩夜の表情が目に見えて変わった。――当たりだ。
「どうしてその名前を?」
「……今朝、悠也の靴箱に何かを入れている子を見かけたの。メモ用紙だった。でも入れ方が甘かったみたいで、その子が立ち去ってすぐ、メモは風で靴箱から落ちてしまって」
「あなたは拾って悠也の靴箱に戻した。そのときにメッセージの内容を見た。そういうこと?」
幸姫は頷いた。
「初めは気に留めなかった。偶然でもメッセージを見てしまったことへの罪悪感もあって、なるべく早く忘れようと思ってた。でも、悠也が教室に入って来たときにわかったの。あれは悠也にとって、そして多分、私にとっても、特別な意味のある名前なんだって」
悠也は嘘を吐くのが下手だ。だがそれでも、幸姫の前では平然を装っていた。見ていて辛い笑顔だったけれど、まだそんな顔をするだけの余裕はあったのだと今日わかった。
それくらい、今朝の悠也は目に見えて動揺していた。
彩夜は小さく吐息してから答えた。
「悪いけど教えられない。それは悠也に聞くべきことだから」
「……悠也が話してくれるなら、苦労はないわ」
聞きたいことがある。そう言っただけで、悠也は逃げるように立ち去った。
確かに急いでいたのかもしれない。何か理由はあったのかもしれない。だが幸姫の話を聞こうともしない悠也なんてあれが初めてだ。そこには明確な拒絶が感じられた。
「なら知るべきじゃないってことなんじゃない? 友達の秘密を暴くなんていい趣味とは言えないし」
「それは……そうだけど」
「誰にだって隠し事はある。みんなそれをわかった上で、見ない振りして人と付き合ってる。たぶん、そういうのも優しさなんじゃないかな」
言われるまでもないことだった。幸姫だってそんなことは百も承知だ。
それでも、知りたいと思ってしまうのだ。
それを肯定してくれたのはほかならぬ悠也だった。知りたいと思うことは間違いではないのだと言ってくれた。あの当時の自分が誰のことを知りたいと思っていたのかはもう思い出せないけれど、その言葉だけははっきりと覚えている。
だから。
「悠也が悩んでいるのは、私のせい?」
一番聞きたかったそれを、とうとう幸姫は口にした。
彩夜は無言で拒絶を示した。だが幸姫とて簡単には譲れない。
「私だって待つつもりだった。悠也が話してくれるまで、信じて待つつもりでいた。だけど、それは悠也が苦しんでるのをただ見てるって意味じゃない。私のせいで悩んでるのに、見てみぬ振りをするのが友達だなんて、私は思わない。だから教えて」
正直、ついさっきまでは悩んでいた。
悠也を信じて待つべきかどうか、判断はついていなかった。だから昨日、魔術師を名乗る女から記憶の復元を提案されたときも断った。女の言葉を信用しきれていなかったのもあるが、それ以上に悠也を信じたいという気持ちが強かった。
だけど月乃との会話を通じて、それでは駄目だと思い直した。
「悠也が抱えていることが何か、彩夜さんは知ってるんでしょう?」
「肯定はしなかったつもりだけど」
「私も……私だって、このままは嫌なの。どうせ苦しむなら一緒に苦しんで、支え合えって、その方がいい。私のことを悠也一人に背負わせるなんておかしいと思う。だから知りたいの。悠也が私に隠してる、私のことを」
「あなたの気持ちはよくわかった。でもごめんなさい。私からは言えない」
突き放すように彩夜は言った。
だが、言えないというのは知っているという意味でもある。
幸姫はテーブルの下、彩夜の見えないところで悔しさに拳を握った。
その後、熊井店長が彩夜を休憩室に呼び出した。
幸姫は休憩室のすぐ前で会話を盗み聞きすることにした。罪悪感がないわけではなかったが、知りたいという欲求が勝った。二人が話そうとしているのは幸姫が知らなくて悠也が知っている何かなのだという予感があった。
聞こえてきたのは彩夜と店長の声だけだ。悠也とサングラスの男だけでなく、魔術師の女も幸姫が彩夜と話している間に出て行っていたらしい。
会話の内容に耳をすます。爆弾とか被害者とか物騒な単語に、魔術や魔力といった現実離れした用語の数々。事前に魔術師を名乗る女と出会っていた幸姫にとっては、不信感よりも驚きの方が強かった。
SNSで検索をかける。もしも爆発事件なんてものが本当にあったのなら、ネット上で騒ぎになっているかもしれないと思った。予想通り、いくつかの書き込みがヒットした。
加えて、悠也とその妹である悠香の名前も聞こえた。
予感は確信に変わった。幸姫の知らない悠也の何かを二人は知っている。
だが、そんなことはもうどうでも良かった。
二人の会話がひと段落した頃、幸姫はドアを開けて告げた。
「もう一か所は、たった今爆発したみたいですよ」
突然休憩室に立ち入った幸姫に、二人ともすっかり驚いていた。
だが彩夜はすぐに幸姫を鋭く睨み、低い声で言った。
「どこから聞いてたの」
「ずっと聞いてた。彩夜さんがこの部屋に入ってから、ずっと」
はっきりと答えた幸姫に、彩夜の表情はいっそう険しくなった。
「盗み聞きしたことは悪いと思ってる。でも今はそれどころじゃない。悠香ちゃんの命も危ないんでしょ。私にも何かできることがあるなら」
「これはあなたが知っていいことじゃない。今すぐここを出て行って」
「根掘り葉掘り聞く気はないわ。……今は、まだ。私が知っちゃいけないことを知りたいなんて言わない。だから、なんでもいいから、私にできることを手伝わせて」
幸姫は繰り返し懇願した。
今、自分は悠也が隠している何かにあと一歩のところまで接近している。それはわかっていたし、喉から手が出るほど知りたいとも思ったのに、それすらもどうでもいいと思えた。
だって、そんなものは自分勝手な都合だ。確かに悩んでいる悠也を見ているのが辛かったのもきっかけではあるが、それ以上に悠也との繋がりが薄れていくのが怖かった。だからもっと知りたいと思ったし、悩みを共有したいと思った。自分の知らない悠也を知っている彩夜を羨ましく思った。だが、別に命がかかっているわけではない。
そんなことより大事なことがあった。
この局面で悠香を助けたいと言えないようでは、悠也の友人として胸を張れない。
それだけは許せなかった。ほかの何よりも、絶対に認めてはいけないと思った。
彩夜は一瞬たじろぐ様子を見せたが、すぐに毅然とした口調で返してくる。
「素人のあなたにできることなんて何もない。今ならまだ聞かなかったことにできる」
「できるわけないでしょ。もう私は知ってしまった。それにさっき言っていたでしょう。魔術師じゃ爆弾には近づけないって」
今度こそ、彩夜は目に見えて動揺した。
「ば、馬鹿言わないで。あなた自分が何言ってるかわかってるの?」
「正直に言えば、よくはわかってないかもしれない。けどね、少なくとも私は魔術師じゃない。爆弾はあと五箇所で、人手が足りないのもわかってる。だから……」
「そんなのどうでもいいの。あなたは」
彩夜が何か反論を口にしようとしたところで、それを遮る声があった。
「いいじゃねえか。協力してもらおう」
「店長……っ?」
信じられない。そんな顔をして彩夜が振り向く。
「爆弾は可能な限り早く処理したい。だが魔族と契約してる彩夜ちゃんは直接処理には向かえない。俺だけじゃ人手が足りねえ」
「だからってこの子を危険な目に遭わせるわけには……」
彩夜は途中で視線を落とし、消え入るような声で続けた。
「悠也に……なんて言えばいいの」
「何も言う必要はねえ、どうせ魔術師連中にも言えねえことだ」
「……でも」
「爆弾は魔力を感知すると爆発する。魔力のない幸姫ちゃんに回収してもらうのは理に適ってる」
「でも魔術師がいない場所でも爆発は起きてる。安全な保障なんてどこにもない」
「それはその通りだ。だがこのまま爆弾の回収が遅れりゃ大勢の被害者が出る。一人を特別扱いするか否か。これはそういう話だ」
言葉を失い沈黙する彩夜。
熊井は少し考えてからまた口を開いた。
「例えばゴースト」
「……?」
「魔力を持ってるのが魔術師だけとは限らねえ。爆発のタイミングが付近の魔力を感知した瞬間で、かつ魔術師が近づかなくても爆発したってんなら、ゴーストの仕業って可能性は考えられる。あいつらは心と魔力の集合体。適当にさまよってるやつが偶然爆弾に近づけばそれだけでドカンだ。ここらじゃ魔術師による騒動が連続で起きてる。ゴーストが自然発生するくらいの魔力は漂ってるはずだ。ここまで言えば、あとはわかるな?」
「……なるほど」
彩夜は深く考えるように口元に手をやった。
「もしそうなら、『魔術師の勘』があれば爆発は事前に察知できる。ゴーストが近づいたら危険ってことだから、ゴーストの気配に警戒していればいい。ううん、ゴーストに限らず、魔力の気配さえ見逃さなければある程度安全に爆弾は探せる」
「俺は『魔術師の勘』が使えて魔術師じゃねえから、一人で爆弾の処理が可能だ。だがお前は『勘』が使えても爆弾には近づけねえ。そこで幸姫ちゃんの出番だ」
「安全は私が確保しろ。そう言いたいわけね」
「まあな。いずれにせよ時間がねえ。迷うより行動に移した方がいい」
そう言って熊井は幸姫に視線を投げた。
「どうだ幸姫ちゃん。爆弾回収、やってみる気はあるか?」
幸姫はここまでの二人の会話を聞いていたが、正直その詳細まではわからなかった。魔力だとかゴーストだとか、その辺りのことはよくわからない。理解できたのは、幸姫の協力が彼らにとって合理的な選択の一つであるということくらい。
それで充分だった。
「私にできることなら、喜んで」
それから彩夜に向けて言う。
「彩夜さんが私を心配してくれてるのは、なんとなくだけどわかった。でもね、私も力になりたいの。自分だけ安全なところでっていうのは、私には耐えられそうにない」
その言葉を聞くなり、彩夜は呆然と幸姫を見つめ返してきた。
まるで、幸姫に誰かの姿を重ね見ているかのように。
「あとから、後悔しない?」
彩夜は幸姫に問いかける。一言一言、丁寧に、言い聞かせるように。
「あなたが今踏み込もうとしてるのは、とても危険な場所。一瞬の後には死んでいたっておかしくない。後悔したって私には何もしてあげられない。その覚悟はある?」
「もちろん。だって、ここで手伝わなくても後悔するもの。だったら私は今できることを全力でするだけ。……なんだか忘れそうになっていたけど、そもそも私、ずっとそうやって生きてきたのよ」
そう。織原幸姫とはそういう人間だった。
迷いなく宣言すると、彩夜はわざとらしく嘆息した。
「……なるほどね。うん、これは私が馬鹿だった」
何やら納得しているようだったが、その心の内はよくわからない。
幸姫がそれを尋ねようとしたとき店長が言った。
「決まりだ。さっさと行動するぞ、時間がねぇ」
◇
とあるホテルの一室。照明の消えた暗がりで二人の魔術師が対峙している。
「行かないの? 爆弾処理」
心童葵は問いかけた。
霧崎楓は即答する。
「興味がないな」
葵は笑みを深くした。
「嘘。あんたはあれを無視できない。あんたの心がそう言ってるわ」
「お前は人の心を信じすぎだ。心に従って行動できる人間がそれほど多くいるものか」
「駄目よ誤魔化したって。あたしには聞こえてる。放っておけない、みんなを助けたいって叫んでるいい子ちゃんの声が」
「そうか。ならばお前を切ってから処理しに行こう」
霧崎の手元に刀が出現した。葵が霧崎から盗み出し、いのりに与えた力とよく似ている。
今から葵を殺すと言わんばかりに鋭利な刃。――だからこそ、笑ってしまう。
「だからぁ、できないでしょう? 優しい優しい楓ちゃんにはあたしを殺せない。だから早く爆弾の処理に行かないと」
窓の外を示し、
「さっきの爆発は見たでしょ。このままだとあなたのせいで人が死んでいくの。嫌よねそんなの。泣き叫びたくなるわよね?」
「……はぁ。昔から思ってはいたが、また一段とおしゃべりになったな、お前は」
「かっこつけたって無駄―――――よっ」
霧崎が予備動作ゼロで突っ込んだ。一瞬にして間合いを詰め、葵の懐へ。
しかし、その動きは既に予測している。他ならぬ霧崎の心が言っていた。
葵は刃を完璧にいなし、逆に背中に肘を入れた。
だが霧崎もそう簡単には倒れない。膝を曲げて体を下に落とし、衝撃を最小限にする。
そしてその動きさえ、心の声を聞く葵にはわかっていたこと。
葵は腰のホルスターから小型の拳銃を取り出し、姿勢を低くした霧崎の後頭部に突き付けた。
勝敗は決した。
「あーあ。ちゃんといい子にしないからこうなるのよ」
葵は冷めた口調で告げた。
「楓。あんたに人殺しは向いてない」
◇
無数の刃が舞う。滝のように降り、渦のようにうねり、嵐のように吹き荒れる。
いのりとの距離は歩幅にして約十。それがこの状況では理不尽なまでに遠い。
だが、その理不尽に抗うと決めた。
悠也は感覚を研ぎ澄ませる。
彩夜に血を吸われて以降、悠也の魂は魔族の侵食を受け、その影響は身体能力にも現れている。彩夜のように人の域を易々と超えるものではないが、それでも過去の悠也では考えられないほどにその能力は引き上げられている。
なら、可能なはずだ。
この刀の奔流を見切るだけの動体視力も。
目で見たものに反応するだけの反射神経も。
思った通りに肉体を動かすだけの筋力も。
すべて今の黒宮悠也には備わっているはずだ。
跡切刀を構えた。刃を露出させ、その銀色に負けないよう意識を尖らせる。
「ふふ。先輩、それで私を殺すつもりですか? でも残念、私が先輩を殺す方が先ですよ」
無数の刀が牙を剥いた。殺到するのは視界を埋め尽くす黒い刃の群れ。
だが悠也は動じない。
体を前に倒す。一歩目を踏み出す。
見えている。刀は目で追えている。行くべき道も見えている。
二歩目。大きく、けれど姿勢は低くしたまま。
三歩目。頭上スレスレに刀の群れ。
さらに極限まで身を低くし、四歩目。地面を思い切り蹴り、頭上の刀を置き去りにする。
眼前には別の刀。そう、いくら回避してもこの奔流にはキリがない。
五歩目。跡切刀で刀を受け、受け流すように弾く。その刀を当ててほかの刀も押し流す。
あと五歩。
六歩目。溜めに溜めたバネを使って跳ぶ。体を捻り、刀の群れを置き去りにする。
あと四歩。届く。いのりの元に。
届いたとところでどうなるというものでもない。この身は無残に引き裂かれて終わるのかもしれない。それでも行かなければならない。言わなければならない言葉がある。それはきっとこの刃に呑まれながらでは届かない。だからそれを届けるために、行かなければならない。
「俺は死なない」
あと三歩。
「君にも殺させない」
あと二歩。
「君は」
あと一歩。
だがそこで、限界が来た。
今の悠也に、この肉体の性能を限界まで引き出す能力はなかった。
あと三歩の時点で体には無数の切り傷があった。だが止まらなかった。
あと二歩の時点で刀が次々肉体を貫いた。だが止まらなかった。
だがあと一歩。そこで悠也の歩みは止まった。
眼前には無数の刃。それを避けるだけの力が、悠也の脚には残っていない。
「――まだだ!」
跡切刀を横に構え、その平を逆の手で抑え、刀の一本を受け止めた。
肘をまっすぐに伸ばす。悠也の体はそのまま後方に跳ね飛ばされた。
着地。身体を貫く刀が重くて仕方ないが、それでも倒れることはない。
「……なんで、」
いのりの声がした。振り絞るような、か細い悲鳴にも似た声。
「そんなに動けるなら、逃げればいいじゃないですか……っ」
「逃げない」
「だから、どうして」
「俺は一度現実に妥協した。でも、それを最後にすることにした」
「それがわからないって言ってるんです……!」
刀の群れが勢いを増した。
視界を埋め尽くすほどの刀は統制を失い、台風のように乱舞する。
「妥協するのが普通でしょう。手に入らないから苦しいのに、諦めないから嫌になるのに。それなのに、なんで先輩はそんなに……っ」
「それで後悔したからだ」
「―――ッ」
「待ってろ。今行く」
悠也は再度駆け出した。そこにさっきまでの勢いはない。
当然だ。すでに満身創痍。走るだけの膂力など残っていない。
それでも、止まることは許されない。ほかの誰でもない、黒宮悠也が許さない。
「―――――――――――――――!」
少女の声にならない絶叫が響いた。
そしてそれが一つの悲劇を知らせる警笛となった。
考えてみれば、これでも良く持った方だったのだろう。
複数の柱を切り崩された高架橋が、この激しい戦いの中で形を保っていられたことは。
崩落が始まった。
ひび割れ、崩れ、無数の瓦礫が二人の元に降り注ぐ。




