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吸血少女と人殺し  作者: 伝々録々
第二章 混濁した喜悦の在処
35/78

少女と殺人


「良かったのか。知り合いなんだろ、さっきの子」

「織原は魔術を知りません。それに今はいのりの方が優先ですから」

「……そうかい」

 ありがたいことに、倉沼はそれ以上何も聞いてこなかった。

 悠也は倉沼と二人、いのりを呼び出した場所への移動を開始する。ちょうど仕事上がりの時間帯だからか、駅の方からまばらに歩いてくる人とすれ違った。時折相手の傘から垂れた雨水が悠也の肩に落ちた。

「どうだ、説得の文言は考えたか」

 前を歩く倉沼が聞いてきた。

「考えてはいます。……ただ、俺はまだいのりの事情を何も知りません。まずはそれを尋ねてみないと」

「それもそうか。まあそのあたりはお前次第だ。思うようにやればいい」

「はい。……聞きづらいことを聞いてもいいですか」

「好きにしな」

「倉沼さんは……人を殺したことってありますか」

「あるぜ。何度もな」

 倉沼は即答した。

「では、人を殺して後悔したことは?」

 今度は答えるまでに少し考えるような間があった。

「ねえな」

「……ないんですか? 一度も?」

「一度もねえ。思うに、誰が見ても正しい殺人なんてありえねえんだ。殺されたい奴なんていねえだろうし、そいつが死んで悲しむやつだっているだろ。それならせめて殺した本人だけはそれが正しかったと思わなきゃ、殺されたやつも納得ができねえ。持論だがな」

 倉沼の言葉には頷ける部分もあったが、すべてに同意することはできなかった。

 潤を殺したこと。それによって幸姫の思い出を奪ったこと。彼女が大切にしてくれていたみんなで過ごす時間を無にしてしまったこと。そのどれも正しかったなんて思えない。もしかしたらほかに方法があったんじゃないか。そんなことばかり考える毎日だ。

 いのりはどうだったのだろう。

 彼女は誰かを殺したことを、どう思っているのだろうか。


    ◇


 その公園の遊具には無数の刀傷が刻まれている。否、遊具だけではない。草花は散りゴミ箱の中の空き缶は散乱しさらには誰のものかもわからない傘が見るも無残な有様で雨に晒されている。

 そしてその惨状を作り出した元凶たる少女もまた、公園の中心で雨に濡れていた。


 気に入らない。

 気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない。


 何もかもを滅茶苦茶にしてしまいたい。

 そんな風に思っていたら無数の刀が勝手に飛び交い、次々と遊具を切り刻んでいった。その結果がこれだ。しかしそんなことで腹の虫は収まらない。こんな八つ当たりでは意味がない。この苛々の原因は物言わぬ遊具や草花などではないのだ。

「あーらあら、荒れてるわねいのりちゃん」

 肩を上下させて息するいのりにかけられたのは軽薄そうな女の声だった。

 振り向くと、女は傘を持つのと逆の手をひらひらと振ってきた。

「霧雨とはいえ、傘も差さないんじゃ風邪ひくわよ」

「……魔術師さん」

 派手な恰好をした女だ。髪は金色でメイクもばっちり。どこかのファッション誌に載っていてもおかしくないスタイルの良さは嫉妬してしまうほどで、元々根暗な気質のいのりにはいけすかない相手でもある。

 だがこの女は、いのりの人生を変えてくれた。

 鬱屈だけが蓄積していく退屈な日々を打破する方法と力を与えてくれた。そのことには感謝しかない。確かに嫌な相手なのだが、きちんと恩人だとも認識している。

 もっとも、その存在がいのりの苛立ちを解消してくれるなんてことはない。

「あの二人はなんなんですか。いいところだったのに邪魔をして」

 いのりは尋ねずにはいられなかった。

 放課後の教室で、悠也と二人きりのときを邪魔した二人。女の方は弱かったが悠也と親しげだったのが気に入らないし、男の方はいのりを敗走させた。どちらの存在も頭から離れることなくいのりの気持ちを逆立てる。

「女の方は黒宮くんの理解者、男の方は女の知り合いってとこかしら。どっちもただの邪魔者よ。あなたと彼の仲を邪魔する嫌なやつら」

 魔術師は自分の傘でいのりを雨から庇いながら言った。

(理解者?)

 そんな人がいるなんて聞いていない。黒宮悠也を最も理解できるのは同じ人殺しである自分だと思っていた。少なくとも織原幸姫ではなかった。そんな優越感とも言うべき自尊心があの女のせいでズタズタにされてしまった。

「……でも、一番がっかりなのは黒宮先輩本人でした」

「どうして?」

「私、先輩のこと好きだったんです。優しくして欲しかった。先輩も同じだと思ってました。同じ人殺し同士というのもありますけど、もっと根本的な部分で似た者同士であるような気がしてたんです」

「違ったの?」

「わかりません。でも、振り向いては貰えませんでした。そのせいで私、すごく苦しくて、嫌になって……なんか、全部どうよくなってしまって」

 と、そのときだった。

 いのりのポケットからスマホの通知音が鳴る。見るとそこには意外な名前が表示されていた。

「……先輩?」

 黒宮悠也からの呼び出しのメッセージ。もう一度ちゃんと話をしたい。飾り気のない文体でそれだけのことが書かれていて、あとは時間と場所が指定されていた。

 簡潔で事務的。感情の滲む余地のない文章。

 だけど、いのりにとってはそれだけではなかった。自分でもよくわからない感情が溢れてくるのを感じた。

「……先輩が、私と」

「罠かもしれないわよ。彼、助けに来た魔術師と繋がっているかもしれないし」

 釘を指すように魔術師は言った。

 確かにその通りだ。いのりを振った悠也に今更話したいことがあるとも思えないし、何か別の理由でいのりを呼び出したいのだと考えた方がしっくりくる。

 あくまでも理屈としては、そうなる。

 だがいのりは小さくかぶりを振った。

「それでもいいです。……せっかく先輩が誘ってくれたのに、断るなんてできません」

「がっかりしたんじゃなかったの?」

「それとこれは話が別です。それに、もし罠でも関係ないじゃないですか」

 いのりの口元に無邪気な微笑が浮かぶ。


「だって、先輩が私を苦しめるなら殺してしまえばいいんです。お母さんたちと同じように。きっとすごくすっきりしますよ」


「そう。なら、あたしはいのりちゃんを応援するだけ。頑張ってね」

「はい。……でもどうして私なんかを気にかけてくれるんですか?」

 魔術師の言葉は心地が良い。いのりの求めている答えを返してくれる。

 だからこそそれが気になった。

 自分にそれほどの価値があるとはいのりには思えなかった。

「実を言うと、打算込みの部分もあるのよねぇ。あたしはあたしで目的があるわけ」

「目的……ですか」

「そ。それを邪魔されたくないの。ほら、いのりちゃんの邪魔をした男いたでしょう? あいつをいのりちゃんが引き付けてくれると、あたしの目的が達成しやすくなるわけ」

「つまり、私はあの男を引き付ける陽動要因と」

「平たく言えば、まあそうなるわぁ。学校みたいに派手にやってくれるほどありがたいわけ」

「そこはもう少し誤魔化すべきところなんじゃないでしょうか」

「そうかしら。それじゃああたしが『いのりちゃんの心の声を聞いたら放っておけなかった』って言ったら、信じてくれる?」

「いいえ。それはちょっと胡散臭すぎます」

「でしょ。利害関係があったほうがわかりやすくていいじゃない」

 作られたように完璧な笑顔を浮かべる女に、いのりは納得するだけだった。


    ◇


 悠也がいのりを呼び出したのは人通りの少ない高架下の空き地だった。通行人はほぼゼロで広さも充分。おまけに雨も凌げる。街灯の間隔が遠くて暗すぎるのだけが難点だが、短時間で思いついた場所としては上々だろう。

 この場所を知っていたのは、以前潤と幸姫と三人で訪れたことがあるからだ。

 潤が妙な噂を聞きつけてきて、その真偽を確かめるため三人で歩き回って、結局これといった収穫もなく終わっただけのなんでもない一日。それでも、悠也にとっては忘れられない大切な思い出であり、また悠也が幸姫から奪ってしまった思い出でもある。

 悠也は潤を殺した。

 あのときはそれ以外どうすればいいかわからなかった。

(……でも、今回は違う)

 思うに、殺人は手段に過ぎない。恨みを晴らすため、口を封じるため、苛立ちを解消するため、快楽を得るため、自分の身を守るため、自分以外の誰かを守るため。理由は様々だが、殺人そのものはあくまでも手段の一つでしかないのだ。

 今度こそほかの手段で解決する。

 決意を確かめるように、悠也は握った拳を見つめた。

 待ち始めてから三十分。未だいのりは姿を見せない。

「確認するが、お前が説得できなければ戦うしかなくなる。わかってるな?」

 柱を隔てた向こうの倉沼が声をかけてきた。

「はい。でも、戦いながらでも説得は続けます」

「……そうかい」

 倉沼が笑ったのが気配でわかった。

 そしてその少し後、薄い水の幕が張られたコンクリートを踏む音が高架下に響いた。

 待ち人の到着だ。

「先輩から呼び出してもらえるなんて思いませんでした。とても嬉しいです」

「話がしたいと思ってさ。さっきはあまり話せなかったから」

「それは私を知りたいってことですか?」

「そう考えてもらって構わない。……君の気持ちを受け入れるつもりはないが」

「そうですか。まあ、それならそれで構いません」

 いのりは傘を降って水気を落とし、畳んでから近づいてきた。

「何が知りたいんですか?」

「君は俺と同類だと言ったな。人殺しだと」

「はい。言いました」

「そのときのことだ。君は誰を、どうして殺したのか。それが知りたい」

「なるほど……んー」

 いのりは吟味するように唸ってから、

「交換条件にしましょう。私がそれを話したら、先輩のことも教えてください」

「わかった。俺だけ聞くのは不公平だからな」

「ありがとうございます。交渉成立ですね」

 いのりは無邪気な笑顔で続けた。

「最初に殺したのはお母さん、次がお父さんでした。理由は嫌いだったからです」

「……それだけか?」

 悠也は思わず聞き返していた。

 その動機はあまりに単純で、お粗末すぎるように思えたから。

「それだけって。先輩酷いです。私にとっては深刻だったのに」

 いのりは頬を膨らませた。

「……すまん、続けてくれ」

「所謂ネグレクトってやつですよ。親のくせに私のことなんて眼中にない人たちで、最近は顔を合わせることすらありませんでした。同じ家に住んでいるのにおかしいでしょう? でも、私にとってはそれが普通で、普通じゃないって気づいたから嫌いになりました」

「だからってすぐに殺そうとは思わないだろう。誰かに唆されたんじゃないのか」

「鋭いですね。実はその通りです。でも、私はちっとも後悔していません。むしろ感謝しているんです」

「感謝?」

 悠也は目を細めた。唆されたとわかっていて感謝する。その歪さに。

「あの人は私と真っ当に向き合ってくれました。正直あまり好きなタイプの人ではありませんけど、それでも私に大切なことを教えてくれました。自分が何をしたくて、何を望んでいて、どうしたら嬉しいのか。どうしたら私は喜びを感じられるのか。いままでそんなことも知らずに生きてきた私に、それを教えてくれたんです。お母さんとお父さんを殺せたのもそのおかげでした」

「……じゃあ君は、それが正しいことだと思って両親を殺したのか?」

「そんなわけないじゃないですか。人殺しは犯罪ですよ。やっちゃいけないことです。それはわかっていましたけど、死んでくれたら気持ちいいと思ったから殺したんです。先輩だって、正しいと思って殺したわけじゃありませんよね?」

「…………」

 悠也は答えに窮した。

 正しいと思って殺したかどうか。それは存外に難しい問いに感じられた。

 もちろん人殺しが犯罪なのはわかっている。それが間違ったことであるのもわかっている。でも、あのとき自分が考えていたことは違った。

「……俺は、そうするべきだと思って殺したよ」

「え?」

「唯一自分にできることがそれだったんだ。道徳的にも社会的にも間違っているのは知っていた。でも、潤の友達として俺にできることをしようとして、その結果あいつを殺すことを選択した」

 いのりは目を丸くする。

「では、先輩はシキネジュンさんを殺したいわけじゃなかったんですか?」

「そうだ」

 それは間違いない。だからといって罪が消えるわけではないけれど。

 いのりは口元に手を当てて考え込むような仕草をした。

「そうすると私とは正反対ですね。間違ってるけど殺したくて殺した私と、殺したくないのにそうすべきだと思って殺した先輩。ある意味相性ピッタリかも」

「……いや。たぶん、いのりも俺と同じだ」

「……何言ってるんですか。私の話、聞いてましたか?」

 じーっと半眼を向けてくるいのりに、悠也は告げる。

「みんな自分に嘘つきなんだ。みっともない自分を認めるのが嫌だから、理由をこじつけて正当化する。自分は殺すべきだった、殺したかった、だから後悔はない。そう思い込もうとする。でも、違うんだよ」

「違う?」

「俺は潤を殺したくなかったし、殺すべきでもなかった。ほかに方法があったんじゃないか。今になってそんなことばかり考えてる。けど、あのときはそうするしかないと思ってた。だから殺した。いのりはどうだ。君は本当に両親を殺したかったのか?」

 いのりは怪訝そうに悠也を見つめた。

「当たり前じゃないですか。だって、私をどうでもいいと思ってた両親ですよ。殺せてすっきりしたに決まってます」

「後悔はないと?」

「はい」

「なら、どうして俺に近づいた」

「へ……?」

「君は言った。人殺し同士支え合っていけるはずだと。それは、君自身支えが欲しいと感じているからじゃないのか。同じ苦しみを抱えた仲間が欲しかった。だから俺に近づいた。違うか」

「違います……私はただ、先輩のことが好きなだけです」

「今はそう思っているのかもしれない。けど、元々俺たちに接点なんかないだろ。きっかけは違うものだった。そうじゃないのか」

「……やめてください。私、先輩とお話をしに来たんです。お説教されに来たわけじゃありません」

「説教じゃない、説得だ。俺は君にこれ以上誰も殺してほしくない」

「それが余計なお世話だって言ってるんです……っ!」

 叫び声が高架下に反響した直後、いのりの背後に複数の刀が展開された。数は六。教室では刀は手元にしか出現させられなかったように見えたが、力を隠していたのだろうか。それとも引き出される力が増大し、暴走に近づいていることの表れだろうか。

「先輩の言う通り、私は先輩に支えてほしかったのかもしれません。けど、それは私のことを理解してくれると思ったからです。こんなのを望んだわけじゃない……こんな先輩なら、いりません」

 刀の鋒が悠也へと向けられる。

「さようなら、先輩」

 一斉に射出された。

 同時、悠也の前に倉沼が割って入った。一瞬で数度薙刀を振るうと、刀はすべてその軌跡の中へと消えていく。悠也には一振りたりとも届かない。

 仕掛けは倉沼が有する連結の魔術と、手にした薙刀状の魔術道具――空切刃にある。

 空切刃はその名の通り空間を切断する魔術道具だ。そうして生まれた空間上の切断面を連結の魔術によって別の切断面と繋げることで、空間上の二点を繋ぐトンネルができる。つまりはワームホール。それがいのりの刀を消滅させた魔術の正体だ。

 悠也は息を呑む。

 ここへ来る途中、悠也は倉沼からその魔術の説明を聞かされていた。その光景自体は教室でも見ている。だが、それでもいざ目の当たりにすると驚かずにはいられない。

 これが魔術師。悠也が今後敵対するかもしれない相手。

「一旦引くぜ」

 倉沼は空切刃でさらに裂け目を作り出すと、呆けたままの悠也の腕を引いてその中へ飛び込んだ。一瞬の後には目の前の景色が変わっている。同じ高架下ではあるが、いのりと会っていた場所からは柱数本分は離れた場所。空間の裂け目を通って別の場所に移動したのだ。

「おい悠也、説得するんじゃなかったのか。挑発してどうすんだよ」

「そんなつもりは」

 ないはずだ。

 悠也はいのりを説得しに来たし、説得しようとしているつもりだった。

「無自覚か。なら覚えときな、わがままな女相手に正論ぶちかますのは挑発っつーんだ」

「正論なんか言ってません。伝えなければならないと思ったことを口にしただけです」

 犯した罪の重圧から逃れる唯一の方法が、たぶん、向き合うことなのだ。逃げようとしても逃げられない。逆に追い込まれる。悠也は彩夜のおかげでそれに気付けた。だから、いのりにも気付いてほしかった。そして、殺す以外の方法を探ってほしかった。

 倉沼は小さく嘆息する。

「まあいい。ぶっちゃけ俺も女を口説いたことなんかねえしな」

「……意外ですね」

「俺は一途なんだよ。で悠也、まだあのお嬢ちゃんを説得するつもりはあるか?」

「そのために来ました」

 悠也の力のこもった即答に、倉沼は気持ちのいい笑顔で返す。

「はっ、いいねぇ見込み通りだ。最高に熱いハート持ってんじゃねえか。今度こそばっちり口説き落としてこい。いいな?」

「はい」

「行くぜ!」

 倉沼が空間を裂いた。この中に飛び込み、さっきの場所に戻る。

 そのはずだった。

 しかしその直前、二人の背後にあった柱が斬撃によって切り刻まれた。

「もう、急にいなくなるからびっくりしたじゃないですか。先輩、私を説得しに来たんじゃなかったんですか?」

 いのりは相変わらず笑顔だった。そこには何らかの破綻が感じられる。

「……説得するとも。こんな力、君には必要のないものだ」

「いいえ先輩、これのおかげで私は自由になれました。そしてこれからも……これは私にとって必要なものです」

「違う。君は本当は殺したくなんてなかったはずだ」

「違くありません。……先輩は私をわかってくれない。でも、こんなときこそこの力があれば全部解決です。目ざわりな先輩を消して、私はもっと自由になる」

 刀が展開、射出された。倉沼が空間を裂いて防御。しかしすぐに刀は再展開される。

「そんなものは自由じゃない! 思い通りにならないからって自分が欲しいものを壊していたんじゃ、いつか何もかも失うだけだ!」

「っ、知ったような口を利かないでください! 私の気持ちなんてわからないくせに!」

 力強く叫ぶいのり。

 ――そこに、一瞬の隙が生じた。

 刀の合間を縫って突撃したのは倉沼だ。いのりは焦ったように刀を射出するが、倉沼を捉えることはできない。獣のように身を屈め、跳躍し、瞬く間にいのりの背後に入る。素人目にも戦い慣れているのが明らかな動きだった。

 だが、そこまで。

 どこからともなく飛来した刀が、いのりの背後を取った倉沼を襲った。

「一度そのやり方でやられているんです。対策するのは当たり前でしょう?」

「ちっ、やるじゃねえかお嬢ちゃん」

 倉沼は間一髪のところで刀を回避したが、そのために距離を取らされてしまった。

 今のいのりに死角はない。刀の展開範囲における死角は、事前に刀を展開しておくことでカバーできる。もう安全地帯は存在しない。

 だが倉沼翔太朗はそこで折れるような男ではなかった。

「悠也、お前は説得を続けろ!」

 そう叫び、再びいのり目掛けて疾走する。飛び来る刀を回避し、薙刀で打ち払い、どうにか接近を試みる。

「無駄ですよ。先輩には私の気持ちなんてわかりません」

「……わからないわけじゃないんだ」

 いのりが怪訝そうに眉根を寄せた。

「何言ってるんですか。全然わかってないじゃないですか」

「この世界で、思い通りになることなんてほとんどない。俺はそれが嫌で、だから何も求めないように、期待しないように生きていた」

「……? だからなんなんですか。そんなこと私には関係ないでしょう」

「関係あるさ。だって、それは楽しいことや嬉しいことを初めから捨ててしまうのと同じだ。君がしていることもそう。確かに、殺せば楽になれるのかもしれない。思い通りにならない人がいなくなってしまえば、悩むことはなくなるのかもしれない。だけど、本当の願いは違うだろう」

 殺人はあくまでも手段にすぎない。

 殺したくて殺したわけじゃない。思い通りにならないから殺すのだ。

 ならそこには、本当は別の願望があるはずだ。

「君は俺に好きだと言った。ならそれが本当の願いじゃないのか。君の両親だってそうだ。君は両親が嫌いだから殺したんじゃない。君は本当は、両親のことが好きだったはずなんだ」

「……私が……あの人たちのことを……?」

 いのりが呆然と呟いた。意味が分からない、そんな顔をしていた。

 悠也は重ねて言う。

「これから君が殺そうとするのも君が好きな人たちだ。君は自分の好きな人たちを、思い通りにならないからって殺してしまおうとしている。それが自分にとっていいことだと勘違いしている。でも違うんだ。君は誰も殺したいなんて思っちゃいない」

「私が……殺したいと思っていない……?」

「そうだ。だからその力は君には不要なものだ。君に人殺しは必要ない」


『騙されちゃ駄目よぉ、いのりちゃん』


 突然の第三者の声。全員の視線が一点を向いた。

 そこにいたのは真っ白な人形だった。つるつるの表面が雨を弾く。衣服は一切纏っておらず、マネキンみたいに顔がない。顔がないのに、発せられるのは不愉快な女の声だ。

『よく考えなさい、いのりちゃん。そいつそんなこと言ってるけど、結局いのりちゃんの気持ちを受け入れるつもりはないのよ。本当の願いなんてきれいごと言っちゃってさ、何もわかってない。だって、そうならないから苦しいのに。馬鹿よ馬鹿、暑苦しいだけのメルヘン野郎』

「……でも、先輩は先輩なりに、私のことを考えてくれて」

『そんなの全部出まかせよ。本音は別。いのりちゃんから力を取り上げるのが目的なの』

「そんな、こと……」

『あのねいのりちゃん。そいつがいのりちゃんの力を取り上げたいのは、さっきいのりちゃんの邪魔をした女を治療するためなの。いのりちゃんの力で受けた傷は、そうしないと治療できないんだって。だから――』

 声が唐突に止んだ。

 倉沼がその薙刀で人形の腹部を一刀両断したからだ。上半身が落ち下半身も倒れて、二重の水音を立てた。

 だが少し遅かった。すでにいのりはそれを聞いてしまった。

 残ったのはしとしとと降る静かな雨音。

「……いのり、俺は」


 そのとき、突然の爆発音が静寂を破壊した。



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