望まれざる遭遇
違和感に気付いたのはいつの頃だっただろう。
曇天。梅雨の湿った風が肌に纏わりつく放課後の帰り道。
隣で欠伸をした黒宮悠也に、織原幸姫は呆れ口調で言った。
「眠そうね悠也。さっきの授業寝てたでしょう」
「寝てないぞあれは。ちょっと意識が飛んだだけで」
悠也は目をしょぼしょぼさせながら気怠そうに返す。
「なんかあるだろ、そういうの」
「ないわよ」
「ないか。……ないな。うん、何言ってんだ俺」
「ちゃんと寝てる? 夜更かしとかしてるんじゃないの?」
「平気だって。母親じゃないんだから」
「ならいいんだけど……でも、心配なものは心配だし」
「それはどうも。別になんでもないよ」
気怠そうな声だったが、それ自体は特に珍しいことではない。むしろ活力に満ちた姿の方が幸姫には想像しづらいくらいで、これが悠也の平常運転と言っていい程度にはいつも通り。
そう。いつも通りのはずだ。
「悠也」
「ん?」
「その……」
隣を歩く悠也の様子をちらりと窺う。そこにいるのはやはりいつも通りの悠也だ。
幸姫は出かかった言葉を呑み込み、咄嗟に別の話題を捻り出した。
「悠香ちゃんの様子、どう?」
「特に変化なし。今日も見舞いに行ってくるよ」
「それなら私も……」
「いいよ来なくて。どうせ寝たままだから」
悠也は優しく、けれど突き放すように言った。
「……わかった。早く元気になるといいわね」
「ああ」
先月このまちで多発していた謎の昏睡事件。悠也の妹である黒宮悠香はその被害者の一人だ。被害者の中には既に意識を取り戻した人もいると聞くが、悠香にその兆候はないらしい。
「あんまり思いつめないでね。悠香ちゃんの件は、悠也のせいじゃないんだから」
「なんだ。今日はやけに心配性じゃないか」
「そんなことないけど……なんか最近の悠也、少し変だから」
「気のせいだよ」
悠也はやはり平然とそう返した。
違和感。
悠也は不器用な性格だ。考えていることが言葉の端や仕草からなんとなく伝わってきて、おかげで嘘をつけばすぐにわかってしまう。
だからこその違和感。
だって、これは嘘だ。
黒宮悠也が黒宮悠也らしい態度を取り、黒宮悠也らしい言葉を使う。そんな当たり前が、何故だか虚飾に満ちたものに感じられる。まるで仮面を被っているかのよう。
いつからこうなったのだろう。
最近はもうずっとこんな調子だ。最初は些細なものに思えていた違和感がだんだんと膨らんで気づけばこうなっていた。その中であえてきっかけを探すとすれば。
……やはり、悠也の様子がおかしかったあの夜だろうか。
『知ってる。でも、話せない』
そう言った悠也の辛そうな顔を覚えている。
幸姫が忘れてしまった何かについて悠也は知っているが、話すことのできない理由がある。そういうニュアンスの言葉だった。幸姫はその意を汲んで悠也が話してくれるまで待つことにした。辛そうな悠也から無理に聞き出す必要はないと思ったし、悠也が覚えているなら幸姫が無理にそれを知る必要もないと思った。
だがこのぎこちなさのきっかけがそれなのだとしたら、少し話は変わってくる。
明確に何かが変わったわけではない。元々仲が良いといっても四六時中一緒にいるわけではなかったし、今も距離を置いているわけではない。学校で話す機会はそう多くはなくとも、昇降口でばったり会えば当然のように一緒に帰る流れになる。今日もそうだったし、ずっと前からそうだった。最近は休日には遊びに行けていないが、中間試験が近いことを考慮すれば特別おかしなことでもないだろう。特別疎遠になったという感じはしない。
何が変わったのかはわからない。
だが、何かが変わったはずなのだ。
最近の悠也を見ていると、幸姫は胸が締め付けられるように痛くなる。以前はこんなことはなかった。一緒にいてこんなにも安らげる相手がいるものかと感動を覚えるほどに、悠也と過ごす時間は心地が良かった。そのはずだった。
今は違う。
いつも通りに振舞う悠也は何故か辛そうに見えて、一緒にいる幸姫まで苦しくなる。
「そういえば月乃、七夕祭り行くって」
無言の気まずさに耐えられなくて幸姫が言った。
「よく口説き落とせたな。凛堂って学校とゲーセン以外行かないイメージだ」
「結構強引に誘ちゃった。嫌がってはいないと思うけど」
「いいと思う。そういうの、乗り気じゃなくても当日になると案外楽しめるもんだ」
「謎に説得力あるわね」
「だろ」
悠也は笑った。だがその笑顔も幸姫を不安にさせた。
「……悠也も、ドタキャンとかしないわよね?」
思わずそう聞いていた。悠也は幸姫の方を見もせずに返す。
「するわけないだろ。約束したんだから」
「そうよね。一応聞いてみただけ」
足を止める。特別意味があったわけではなく、一緒に帰るのがここまでだからだ。
「それじゃ俺、病院行くから」
「うん、また明日ね」
「ああ」
去っていく悠也を見送り、幸姫もまた歩き始めた。
空虚な会話を頭の中で反芻すると、どうしようもなく気分が沈んだ。
このままではいけない気がする。なんとなく居心地が悪くなって、なんとなく疎遠になって、気付いたら気軽に話せないくらいの仲になっていそうな予感がする。
それは嫌だ。
でも、ならどうすればいいのだろう。
きっかけがあの夜だとすれば、解決の糸口は欠けた記憶の中だろうか。
記憶の欠落そのものは幸姫にとってそう珍しいものではない。最近はあまりなくなったが、一昨年くらいからしばらくの間、幸姫は徐々に激しくなる物忘れに悩まされていた。だから今更少し記憶が欠けた程度では動じない。
だがあの夜だけは事情が違った。
自分の忘れている何かが忘れてはならない何かであるという確信めいた予感があった。
そしてあの夜の悠也は、幸姫が忘れてしまった何かについて調べようとするのを止めてきた。いつになく必死な様子で、ともすれば泣き出しそうにも見える表情で。どんな事情があったかは知らない。悠也はそれを話してくれない。そして幸姫は話してくれるまで待つと決めた。
あれは正しい選択だったのだろうか。
辛そうな顔をした悠也から無理に聞き出したくなかったのは本当だが、今の悠也を見ているとその選択が正しかったかどうか不安になってくる。抱えた秘密のせいで苦しんでいるなら、それは幸姫のせいでもあるのだから。
とにかく今のままではいけないのだ。どうにかしなければならない。
例えば幸姫が失った記憶のすべてを思い出せたならどうだろうか。
悠也とのぎこちない関係を修正し、元の仲に戻ることもできるだろうか。
仮定に意味がないのはわかっている。だがそれでも考えてしまう。幸姫にとって悠也はかけがえのない大切な存在で、このまま疎遠になるなんて絶対に嫌だ。できることならいつまでだって一緒にいたいし、苦しんでいるなら力になりたい。
「……乙女か、私は」
自分で自分の思考に突っ込んでしまった。
いつまでだって一緒にいたいというのは友人的なアレであって、恋愛的なアレではない。たぶん、そのはず。……これまで一年以上そういうのとは別の良好な関係を築けてきたのだから、そんなわけのわからない方向に話を持っていくなんておかしいではないか。
まったくどうかしている。
あまりに頭の悪い思考に頭痛を覚えながら住宅街を歩いていると、路面の色がぽつぽつと濃くなり始めた。雨が降り始めたのだ。梅雨の時期にしては控えめな降り方なのが幸いだろうか。
鞄から折り畳みの傘を取り出して開く。
その瞬間。
「おい、そこの君」
女の声がした。
顔を上げると、前方に透明なビニール傘を差した女が立っていた。
黒髪を後ろで束ねた女である。歳は幸姫より一回り上くらいだろうか。身に纏うのは白のワイシャツとスーツのような黒のズボン。すらりとした立ち姿は、研ぎ澄まされた刃物のような雰囲気を纏っている。
幸姫は周囲を見回してみたが、自分とその女以外には誰もいなかった。ということは、話しかけられたのは自分ということだろうか。試しに自分を指で示してみる。
「そう、君だ。少しいいか」
どうやら正解だったらしい。……無視するべきだったかもしれない。
雨に濡れるのも嫌だし本当は早く帰りたかったのだけれど、なんとなく断りづらい雰囲気だ。
「えと……どなたですか?」
「誰でもいいだろう。一つ尋ねたいことがあるだけだ」
そんな風に前置きしてから、女性は言った。
「君、記憶の欠落に自覚はないか?」
「……え?」
言っている意味がよくわからなかった。
いや、意味はわかる。確かにその自覚はある。幸姫の記憶には欠落がある。
だが、何故この人はそんなことを知っているのだろうか。
「その欠落は以前私が作った道具が原因でね、欠落の大きさに気づいて心配になったんだ。自覚するほどの欠落は滅多に起こらないはずなんだが、どうも今回君は君自身の根幹とも言うべき何かを失くしてしまったらしい」
「私の……根幹?」
「現在は過去の積み重ねによって形作られる。ならば精神を担う魂を形作るのは記憶の蓄積にほかならない。記憶の欠落は魂の欠落と同義だ。忘却――思い出せないのではなく、欠落――失ってしまうのだからね。その状態まで持ち直したのは奇跡的だ」
何を言っているんだろう、この人は。
いきなり魂とか言われても意味がわからない。危ない人なのかもしれない。
だが、それにしては妙に気にかかる。
理由はさっぱりわからないが、何故かこの女性の言葉はしっくりくるのだ。
「どうして……そんなことがわかるんですか」
「言ったろう。私の作った道具が原因だと。他人にはわからんだろうが、私にだけはその効果……というより、影響がわかる。そういう仕掛けがしてある」
「……持ち直したというのは?」
「おそらく君の欠落は少し前に起きたことだろう。魂に空いた穴が新しい記憶で埋まりつつある。だがそれは歪で不安定だ。もともと他の部品があった部分に別の部品をはめ込むようなものだからな。今も空白のカタチは残っているし、何かのきっかけで歯車が噛み合わなくならないとも限らない」
そうして女性は、驚くべき言葉を続けた。
「もしも君が望むというなら、欠落した記憶を復元してもいい」
「ふく、げん……?」
聞き間違いだろうか。
いや違う。この女は今確かに言った。記憶を復元すると。
「できるんですか?」
思わず聞き返していた。そんなことできるわけがないと思いながらも。
「完璧にとは言えないが、ある程度なら可能だろう。元に戻すというより再現という形を取ることになるが、実感としては記憶が戻ったと感じられるはずだ」
女の言葉はいちいち難しい。
だが要旨は充分に伝わった。この女は幸姫の失われた記憶を戻すことができる。
脳裏にチラつくのは悠也の顔。あの夜、悠也が見せた辛そうな表情。
ここしばらくの悠也との間に流れるあの違和感。
幸姫が記憶を取り戻すことで、何かが変わるのだとしたら。
「あなたは……何者なんですか?」
女性が応じるまでに若干の間があった。雨音だけが耳に届く刹那が、幸姫には酷く長い時間のように感じられた。
「……あまり正体を晒すべきではないんだが、今回は止むを得んか」
そんな風に前置きしてから女性は答えた。
「魔術師。到底信じられないだろうが、そう呼ばれる類の人間だ」




