反転する日常02
カフェ・Vivreは個人経営の小さなカフェだ。
内装は静謐な雰囲気を漂わせるアンティーク調で、ひっそりと置かれた木彫りの動物たちが訪れる者の心を癒してくれる。ただし立地の問題なのか客入りは少なく、今も店内は閑散としていた。
唯一使用されている窓際の四人席には、制服姿の女子高生が二人。
「そういえば幸姫、この間の古文の試験、満点だったらしいですね」
誕生日を迎えた本日の主役、凛堂月乃はそう言ってコーヒーを啜った。
「そうだけど……いきなりどうしたの?」
「勉強のコツでも聞いておこうかと思いまして。二人が来るまで退屈なので」
月乃が言う通り、この集まりにはまだ到着していないメンバーが二人いる。
共に二人のクラスメイトであり友人、敷根潤と黒宮悠也だ。連絡の繋がらない潤はともかく悠也はそろそろ到着して良い頃なのだが……
(……いったいどこで何をしているやら)
幸姫は物憂げな吐息を漏らしてから問いに答える。
「特別なことなんてしてないわ。普通に頑張ってやってるだけ」
「うわ、優等生発言」
「ほんとに普通にやってるだけなんだってば。当たり前みたいに満点ばかりの潤と違って、私は必死に勉強してようやくあれなんだから」
「……のろけ話を求めたつもりはないんですけど」
「そんな話してませんが!?」
「冗談です。大げさに否定すると返って本当っぽいですよ」
眼鏡の奥の目を細める友人に、幸姫はぐぬぬと表情を歪めた。
凛堂月乃にはこういうところがある。一見すると生真面目そうな風貌にクラス委員という肩書まで有していながら、その実他人をからかって遊ぶのが好きなのだ。
「遅いですね、二人とも」
「問題はあいつよ。悠也も居場所知らないって言うし」
「まあ、幸姫が知らないくらいですから」
見え透いた挑発をしながら、ポーカーフェイスを崩さない月乃である。
何度も同じ手に乗るものか。
幸姫は砂糖たっぷりのカフェオレを一口啜り、心を落ち着けてから話題を変える。
「そういえば潤、今日の誕生日会すごく反対してたのよね」
「来たくなかったのでは? 私とはそれほど親密なわけでもありませんし」
「うーん。そんなやつじゃないはずなんだけど……」
ふいに先程の悠也の言葉を思い出す。
確か、ここ最近話題の昏睡事件は幽霊の仕業であるとかなんとか。
「まさか……ね?」
◇
そのまさかであった。
「ゴースト……幽霊ってことか?」
「おおむね正解。で、あなたが壊したこれはその体。破壊されたから中身が飛び出てきたってわけ」
そう補足しながら、悠也を助けた少女は手のひら大の破片を一つ拾い上げた。悠也が破壊した蜘蛛の残骸である。
この少女は悠也が遭遇したものについて知っている。それはあの不定形を切り裂いた鮮やかな手際で十分に察せられた。だから悠也は少女に説明を求め、返ってきた答えがそれだった。
ゴースト。
それがあの不定形を指し示す名前らしい。潤が聞きつけた噂は当たっていたわけだ。にわかには信じ難いが、実際に遭遇してしまった以上は受け入れるしかない。あれが悠也の理解を超える何かであったのは事実なのだ。
とはいえ全てを鵜呑みにできるわけでもなかった。
悠也は少女に背を向けたまま、自分の足元に散らばった欠片に目をやる。
「体? ……明らかに人工物じゃないか、こんなもの」
「じゃあ器。うん、確かにこの言い方の方が正確か」
少女は軽い口調で続ける。
「ゴーストは心が魔力と混ざり合って生じる実体を持たない存在なの。実体がないから存在が安定しない。煙みたいに。でも、入れ物があれば話は別。あのゴーストはこの中に入ることで存在を安定させていた」
少女は手にした破片を示しながら言ったようだった。
「幽霊の次は魔力か……何でもありだな」
「そうだね。知らない人にはそう感じられるかも」
「なら、」
悠也は声が感情で震えそうになるのを抑えながら言う。
「ゴーストがこの子を襲っていたのは何のためだ。どうして人を襲う?」
アスファルトに膝をついた悠也の腕には、路上に横たわる一人の少女が抱かれていた。ゴーストに襲われ、悠也に助けを求めた少女である。
意識はない。眠っているだけなのか、それとも。
「ゴーストは人の心を吸収して糧にする。それが彼らの食事なの」
「……だから、目覚めないのか」
体は無事だ。呼吸はしているし、体温だって感じられる。それなのに一向に目覚める気配がない。心を奪われたから意識が戻らない。そういう事だろうか。
「っ、ちょっと待て。ゴーストは心を吸収するって言ったよな」
だとすれば。
「まさかさっき君が切ったのは、この子の……」
「落ち着いて。あなたの推測が全て間違っているとは言わないけど、誤解がある」
「……誤解?」
「心は魂さえ無事なら自然に回復するの。人間ひとりひとりには魂があって、心はその中に湧き出すから。逆に、一度魂から吸い出された心をどうしたってその子の容態に影響することはない」
「……そう、だったのか。悪い、早とちりした」
「…………」
少女の沈黙に、悠也は何故だか嫌な予感がした。
「目、覚ますよな。怪我はないし、呼吸だってちゃんとしてるんだから」
応じる声はない。事情を知るはずの少女は、悠也の背後で口を閉ざしたまま。
「今は少し寝ているだけで、心さえ回復すれば、きっと。いや、必ず目を覚ます。そうだろ?」
まだ少女は何も言わない。
「……どうして、黙る」
静かにそう問いかけると、ようやく声が返ってきた。
「魂さえ無事なら、そのうち心は回復する。魂さえ無事ならね」
少女は淡々と言う。
「魂は心の入れ物なの。そしてその子は魂に入っていた心を強引に抜き取られた。そんなことをされて、魂に傷がつかない保証はない。ううん、傷ついている方が自然。目覚めないとは言わないよ。でも目覚めると約束もできない。私にはわからないし、どうすることもできない」
それはある程度予想できた答えだったのに、言葉にされると想像以上に堪えた。
この少女が目覚めなかったとして、悠也の日常に影響はない。元々関わりのなかった少女だ。家族や友人のように悲しむことはできない。
だが、これはあまりに理不尽だ。
あんな不条理なバケモノに捕まり、どうすることもできず、ただ心を吸い尽くされるのを待つしかできなかった。そんな最期があっていいものか。
「……っ、なんで……こんな」
無力感に押しつぶされそうになる。
悠也に助けを求めたとき、この子は何を思っていたのだろう。助かると希望を見たのだろうか。それとも、無力な悠也を呪ったのだろうか。
「ごめんなさい。私がもっと早く駆けつけていれば、その子を助けられたのに」
その声には強い自責の念が滲んでいた。それで悠也は少しだけ冷静になった。
「俺に謝ることじゃない。……君が謝ることでもない」
責められるべきは悠也だ。悠也に助けを求めた時点では、まだこの少女に意識はあった。悠也がもっと早く助けていれば、結末は変わっていたかもしれないのだ。
「君はすごいよ。あんな得体の知れないものを相手に、正面から、臆しもせず、ちゃんと俺を助けた。……俺なんてビビりまくりで、結局間に合わなかったっていうのにさ。どうにもならなかったことを謝る必要はないだろう」
悠也は気を失ったままの少女を路上に横たわらせて立ち上がり、背後の少女に向き直った。
「名前、聞いてもいいかな。俺は黒宮悠也だ」
「……彩夜」
短く答えた少女は悠也と視線を合わせようとしなかった。その表情は暗い。
「ありがとう彩夜、君のおかげで助かった。俺も君みたいだったら良かったんだけどな」
何故だろうか。礼を言われたはずの彩夜の表情は、さらに影を濃くしたように感じられた。顔を隠すように俯き、黙り込んでしまう。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか。
悠也がそんな風に考えるのと、彩夜が顔をあげるのは同時だった。
彩夜は何かを言おうとした。
だがその瞬間。
彩夜の頭蓋が、赤い血飛沫と共に弾けた。