人殺しと吸血少女01
高校生になったばかりのある日、私は心の底から驚いた。
これまで特別親しい友人を作らなかった■が、突然「親友だ」と言って友人を連れてきたのだ。同じクラスの黒宮悠也といって、どこか近寄り難い暗い雰囲気の少年だった。
正直に言うと、初めは少し不満だった。
■と親しいのは私だけだと思っていたから鳶に油揚げをさらわれたような気分だった。そりゃ友達ができるくらい普通のことかもしれないけれど、■の悠也に対する信頼はどこか異常とも思えるほどで、だからたぶん、要するに、嫉妬していた。
けれどすぐにその気持ちは変わっていった。
楽しくなってしまったのだ。
三人でいる時間が当たり前で、それがとても幸福に感じられた。■と二人で過ごす時間が減ったことに不満がないわけではなかったが、それ以上に三人で過ごす時間も大切だと思うようになっていった。
考えてみれば私にとっても■以外に心を許せる友人ができるのは初めてだった。理由を言葉で説明するのは難しいけれど、なんとなく信頼できる人だと思えたし、それがきっかけで私は少しだけ社交的になれたと思う。月乃と仲良くなれたのだってそのおかげだ。
私は人に恵まれている。心からそう思う。
だんだん激しくなる物忘れに危機感を覚えて記録を残すために始めた写真も、結果的に大切な友人たちとの大切な思い出を残すための趣味になった。気に入った写真はプリントアウトしてファイルに閉じて何度も眺めて、忘れてしまわないように記憶に刻みつけるのが日課になった。
初めて三人で写真を撮ったのは七夕まつりの花火大会だった。
当時の悠也のぎこちない態度が懐かしい。あの頃はまだ私に対して壁を感じている様子で、でもあの日がきっかけで少しは心を開いてくれたようだった。■はいつも通りに遅刻してきたけれど、急いで走ってきたのを誤魔化して余裕そうに振舞う姿が愛おしかった。
ああ良かった。まだちゃんと覚えている。私はちゃんと思い出せる。
……あれ?
■って、誰だったけ……?
◇
瞼を開いた織原幸姫の視界に映ったのは、消灯した背の低いビルと夜空に瞬く星々だった。
寝ていたのは路上に設置された木製ベンチの上。
奇妙な状況に困惑しながら体を起こすと聞き慣れた声がする。
「起きたか、織原」
ベンチのすぐ傍に立っていた黒宮悠也は柔らかな笑みを浮かべて言う。
「道端で寝てるからびっくりしたよ。大丈夫か?」
「……たぶん」
いまいち記憶がはっきりしない。何故自分はこんなところにいるのだろうか。
状況に対する疑問はあったが、とりあえず言うべきことを言っておくことにした。
「ありがと悠也。助けてくれた……のよね?」
「たまたま通りかかっただけだよ」
「でも、心配してついててくれたんでしょう?」
「……まあな」
悠也は幸姫に視線を背けて言った。
「時間も遅い。送っていくよ」
「あ……うん、ありがとう」
戸惑いながら返し、先を行く悠也の後ろについていく形で歩き出した。
相変わらず状況は呑み込めないままだ。幸姫の物忘れが多くなったのは随分前からだが、それにしたって今日のは一段と酷い。知らないうちに見ず知らずの場所までやって来て眠ってしまうなんてどう考えても普通じゃない。
眠っている間に連れてこられた?
いや、そもそも自分はいつ眠ったのだろうか。
今日一日のことがまるで思い出せない。スマホのカレンダーを確認してみたが、特に予定は入っていない。昨日が友人である凛堂月乃の誕生日で、その夜遭遇した悠也に贈られて家に帰った。そこまでは覚えているが、今朝目覚めてからの記憶が完全に抜けてしまっている。
時刻は日付が回った頃で、大通りに出ても車の通行はまばらだった。朝からこんな時間になるまでずっと眠っていたというのはいくらなんでも考え難い。
何かをしていたはずなのだ。
だが、何を?
「……あ」
ふと頭に浮かんだその考えの回答が、幸姫の首元にあった。失くしたはずのロケットペンダントだ。
「悠也。これ、もしかして見つけてくれた?」
「いや、自分で見つけたんじゃないか?」
どうやら悠也ではないらしい。
とすると、幸姫は今日一日これを探すために活動していたということだろうか。
……それは違う。探し物をしていたのなら訪れていない場所へ行くのはおかしい。少なくともベンチの上で寝ていたのには別の理由があったはずだ。
「良かったな、見つかって」
「えっ。あ、うん。そうね。良かった」
そう返したものの、奇妙な違和感が胸中を渦巻く。
確かに良かった。良かったはずだ。これは本当に大切なものだったのだから。
でも、どうして?
幸姫は思わず足を止めた。ロケットを開ける。中の写真には誰も写っていなかった。
その違和感は致命的だった。
織原幸姫の根幹を崩しかねない猛毒。胸にぽっかりと孔が開いたような喪失感。
このロケットには確かに何か特別な意味があった。織原幸姫という自分を支える大切な何か。これがあったから今日まで生きてこられたと言っても過言でないほどの意味が。
そのはずだ。
それなのに。
「……嘘」
それなのに、それが何なのかわからない。
織原幸姫という自分が足元から崩れていく。そんな錯覚に陥る。
あんなに大切にしていたはずのロケットなのに、今は何の感情も湧いてこない。
「織原?」
立ち止まっていた幸姫を奇妙に思ったのだろう。悠也は足を止めて振り向いた。
「どうした。何かあったのか?」
「何か……あったのかな」
「……織原?」
悠也が怪訝そうに呟く。当然だ。悠也には幸姫の呟きの意味はわからないだろう。
幸姫にとって悠也は大切な友人だが、酷くなる物忘れについて話したことはなかった。だって、普通友人に物忘れが多いなんて相談をされて、真面目に取り合う高校生がどれだけいるだろう。冗談と思うか、本当でもそこまで真剣に考えないのが大半だ。そんな風に受け取られるのが怖かった。
もしかしたら、悠也なら親身になって聞いてくれたかもしれない。でももしそうじゃなかったら……きっと自分は悠也に失望する。そうなるのが怖かった。
黒宮悠也は不器用だが優しくて、幸姫のことも大切に思ってくれている。そう感じているからこそ、それが錯覚だったらと思うと打ち明けられなかった。
今もそうだ。
記憶がないなんて世迷言でも、悠也なら信じてくれるかもしれない。
だけど、幸姫の方に勇気が足りなかった。
「……ごめん悠也。やっぱり私、今日は一人で帰る」
僅かに体を震わせ、俯いたまま言った。
悠也の目が見開かれた。
「なんで、そんなことを」
「わからない」
杜撰な出まかせ。本当は欠けてしまった記憶の手掛かりを探しに行くためだ。
今自分が忘れてしまった何かは、このままにしてはいけない大切なことなのではないか。そんな妄想との区別も曖昧な予感。けれどどうしようもない強迫観念に流されているだけ。
「……ごめんね、そういう気分だから」
「待て織原」
背を向けた幸姫を、悠也は焦ったように引き留めた。
「さっきの場所に戻るのか?」
「……うん」
なかなかに鋭い。
「勝手なこと言い出してごめんなさい。どうしても気になることがあるの」
「待ってくれ。今日はもう遅い。また今度にすればいいじゃないか。家族だって心配する」
「……しないわよ」
思わず自嘲気味に言ってしまった。
その自覚はあったのに、八つ当たりのように続く言葉が止められない。
「私の両親、仲悪いの。私が小さい頃からずっと喧嘩ばかり。だから本当は離婚したいんだけど、私がいるせいでできないでいる。きっと疎ましく思ってるし、私も帰りたくない。ちょうどいい寄り道になるわ」
子供の頃からずっとそうだった。家に帰るのが嫌で、学校帰りはいつもどこかに寄り道していた。喫茶店や公園、神社の駐車場……もっとお気に入りの場所もあった気がするが、思い出せない。
悠也は黙ったまま何も言ってこなかった。
それはそうだろう。突然こんなことを言われても面食らうだけ。ドン引きもいいところ。そんなことは百も承知だった。ずっと隠してきた。
それなのに、今日の自分はどうかしている。
「……ごめん。私、行くね」
背を向けたまま歩き出した。悠也の顔は見られなかった。
逃げるように駆け足になる――寸前、肩を強く掴まれた。
「駄目だ」
切迫した低い声には必死さが滲んでいた。掴まれた肩が痛い。
驚いてしまって思考が止まる。
まさかこんな強引に引き留められるなんて思わなかった。
「……行かせて。一人でも大丈夫だから」
意外なことに――幸姫の肩を掴んだ悠也の手から、すっと力が抜けた。
まさかこんな簡単に解放されるとも思わず、幸姫は拍子抜けした気持ちで振り向いた。
そしてそこにあった表情を見て悟った。
悠也自身、幸姫を引き留めたことに対して困惑しているのだと。
「……いや、これは。……なんでもないんだ。ごめん」
明らかにそうは見えなかった。
悠也は手を引っ込めて、言い訳するように言う。
「織原が帰りたくないのはわかった。でも危ないものは危ないだろ。行かない方がいい」
「……悠也?」
嫌な予感がした。
だって、悠也が何かを誤魔化そうとしているのは明白だったから。
初めは幸姫を心配して引き留めてくれたのだと思った。優しい悠也のことだ。思わず吐いてしまった弱音を真に受けて、一人で行かせられないと感じてくれたのだと思った。
でも、たぶん、違う。
悠也は引き留めてくれたのではない。引き留めてしまったのではないか。
確証はない。だがもしもそうだとしたら、そこには残酷な差異がある。
弱音を吐いた幸姫を案じたのではなく、ただ幸姫をあの場所に戻らせたくなかった。
つまりそれは。
「何か……知ってるの……?」
そんな疑念が生まれ、問い詰めるように聞いてしまった。
自分が嫌になる。こんな友人を疑ってるみたいな言い方……最低だ。
だが後悔しても遅い。一度出た言葉は取り消せない。ここで取り消そうとしたところで、幸姫が悠也を疑ったという事実は悠也の記憶に残るだろう。それでは意味がない。
いや、その方がまだマシだったのかもしれない。
悠也には何も非がなくて、ただ幸姫が最低なだけならそれで良かった。
それなのに悠也は馬鹿正直に答えてしまった。
「知ってる。でも、話せない」
まっすぐ幸姫へ向けられたその目は、何かを堪えている目だった。
黒宮悠也は不器用で嘘が下手だ。だからそこに嘘はないとすぐにわかった。
話さないのではなく、話せない。本当は打ち明けてしまいたい秘密を必死になって隠している。打ち明けてしまえば楽になれるのに、そうしてしまいそうな自分に抗っている。
それで苦しむのは悠也自身だ。
では、それは誰のためなのか。
織原幸姫のためだと思うのは、思い上がりが過ぎるだろうか。そうだったら嬉しい気もするけれど、誰のためでもいいような気もする。だって黒宮悠也はそういう人間だ。他人のために必死になれるその様を、いつか誰かが称賛していた。
「……わかった。話せないんならしょうがない。もう聞かない」
「いいのか?」
「よくないけど、いいわ。今日はこのまま悠也と帰る」
胸の内の空白は気になるけれど、それはまた今度でいい。あの場所に戻ったところで思い出せるとは限らないし、悠也が知っているのなら無理に思い出す必要もない。
「けど、いつかきっと話してね。悠也が話せるようになったらでいいから」
「え」
「え。って何よ。私が忘れてることなんだから聞く権利くらいあるでしょ。でも悠也も何か事情あるみたいだから、それが解決するまでは待ってあげるわけ。それじゃ駄目?」
「……いや。駄目じゃない」
悠也は何度も瞬きしながら戸惑い気味に答えた。この反応は完全に素だ。
「ならよし。帰りましょ」
幸姫は満足して歩き出す。今度は悠也が後ろからついてくる並びになった。
「……織原」
「何?」
「ありがとう」
小さな声で悠也は言った。
ぽっかりと開いた心の孔が少しだけ埋まった。そんな気がした。
◇
「それじゃ、また明日。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
幸姫が家に入っていくのを見届けてから、悠也は歩き始めた。
ひとまずは安心。
次は彩夜と合流する必要がある。どこで落ち合うかは決めていなかったが、とりあえず黒宮家に向かってみることにした。彩夜も悠也と合流するつもりなら同じ考えに至るはずだ。
で。
結論を言えばその途中、カフェ・Vivreに繋がる丁字路のところに彩夜はいた。
ただし、隣に意外な人物を連れて。
「随分と災難だったみてえだな、悠也」
「熊井……店長?」
間違いない。カフェ・Vivreの強面店長熊井彰隆だ。
だが意味がわからない。彼が彩夜といる理由なんて見当もつかない。
「名守さんのことを聞いてたんだ。思ってた以上にハードな計画で驚いたぜ」
「……待ってください。店長、言っている意味が」
「聞いてなかったか? 魔術を知っちまった一般人は、機関への忠誠を誓わされるんだ。魔術のことは他言無用、異常があれば報告しろってな」
「……まさか」
「機関の管理下に置かれた非魔術師の協力者。ある意味お前の先輩だ」
平然と、熊井彰隆はそう答えた。




