想いは呪いのように02
最初は確か、鼻孔をくすぐる甘い匂いにやられたのだ。
何も見えない暗闇の中で差し出された鉄の味を何故だか甘いと感じて、気づけば抑えきれないほど膨張した渇きが自分の中に生まれていた。ただひたすらに喉が渇いて、どうしようもないくらい苦しくて、自分がわからなくなりそうで、頭の中が割れそうに痛くて、何故だが無性に暴れたい気分で。
それで気が付いた時には、目の前に血塗れの人が倒れていた。
綺麗だと思った。でもそれ以上に、美味しそうだと思った。
酷く喉が渇いていた。
だから躊躇わなかった。
生き血を啜ると渇きは収まり、苦痛はすっと和らいだ。
そして何より、病みつきになりそうなほど気持ちが良かった。
だから何度も繰り返した。幾人もの血を吸い続けた。
罪悪感はなかった。
自分はバケモノになった。バケモノが人を襲うのは当然だ。
喉が渇くのだから仕方がない。
苦しいのだから仕方がない。
それで恐れられても仕方がない。だって自分はバケモノだから。
間違いに気づいたのはバケモノ退治に来た魔術師の言葉のおかげだった。
血を吸われた人が不死身になっていることを聞かされた。
魔術の実在を体現する彼らの存在が、魔術師にとって都合の悪いものだと聞かされた。
故に死なないはずの彼らは魔術師によって処分されているのだと聞かされた。
自分の快楽のために大勢の人の人生を狂わせたのだと、初めて気づいた。
死んでしまいたいと思った。犯した罪から逃れたかった。
それなのに魔術師は残酷なほど優しかった。
そうして現在の生き方を選択した。
尽きることのないこの命を、すべて他人のために使うと決めた。
もう誰の血も吸わない。
そのはずだった。
◇
悠也は瓦礫の中心で目を覚ました。
「……今、のは」
夢を見ていた気がする。悲しくて、辛くて、壊れそうになる夢を。
ゆっくりと体を起こして周囲を見回し、起きた出来事を思い出す。
そこへ袋を手に下げた彩夜がやってきた。
「服買ってきたの。空いてる店が全然なかったから間に合わせだけど我慢してね」
「……ありがとう」
見ると悠也の服はぼろぼろに引き裂かれていて残っている布の方が少ない有様だ。これで町中を歩くわけにはいかないだろう。
いや、そんなことより。
「また助けられたんだな、お前に」
「……別に。助けたわけじゃない」
彩夜は表情を暗くする。
「それでも、救われた」
あの夢はきっと彩夜の記憶だ。どういう理屈なのかはわからないが、結果として今ここに彩夜がいて、悠也の体には傷一つ残っていないということは、きっとそういうことなのだ。魔術なんてものが実在する世の中なのだからそれくらい不思議があったっておかしくない。
「……きっと、すぐにそんな風には思えなくなる」
「どうして」
「悠也はただ生き延びただけじゃない。私に血を吸われた人はね、私と同じように不死身になるの。隠さなければならない異世界の法則を体現した存在に。それがどういう意味かは、もうわかってるでしょ?」
「……ああ」
「もう元の生活には戻れない。機関があなたを狙う。死なないあなたを、魔術秘匿のためにあらゆる手段で殺そうとする。家族や友人ともすぐに会えなくなる。老いることのない体は特定の誰かと長く一緒にいることを許さないから。私のせいでそうなったの。だから、救われたなんて言わないで」
なんとなくだが、既視感のある光景だった。少し考えて、その既視感の正体は自分を軽蔑しろと言った昨日の彩夜だと思い至った。
確かに彩夜にとってはそうとしか思えないのかもしれない。あの夢が真実ならば、誰かの血を吸うことが彩夜にとって忌むべき行為であることは想像がつく。
だが、それはあくまでも彩夜の都合だ。
「……めんどくさいやつだな、お前」
「へ?」
言われたのがよほど予想外の言葉だったのか、彩夜はきょとんとしてしまった。
悠也は続ける。
「どうせ死ぬはずだったんだ。元の生活なんてなくて当然だ。俺にはやらなきゃいけないことがあるから、この命は必要なものだ。お前がそれをくれた。これはそれだけのことだ」
「……やらなきゃいけないことって?」
彩夜は険しい表情で聞いてきた。
答えるには、少しばかり気持ちの整理が必要だった。
「潤が、すべての黒幕だった」
一言ずつ、覚悟の気持ちと共に告げる。
「これ以上好き勝手はさせられない。俺はあいつを止めなきゃならない。だから死ぬわけにはいかなかった」
だからこれでいい。潤を止めることができるなら、どんな形でも構わない。
「それとお前に頼みがある。――もう一度、俺と協力してくれないか」
悠也はまっすぐ彩夜の目を見て言った。
「俺はあいつを止めないといけない。でも、俺の力だけじゃ足りない。……勝手な言い分なのはわかってる。あんなことを言っておいて、今更俺を信じてくれなんて言えない。だけどお前が潤を止めるつもりなら、利害は一致しているはずだ」
合理性を盾にした卑怯な言い分であることは自覚していた。
それでも潤を止めるには彩夜の力が必要だ。そのためなら卑怯と罵られようと構わない。
「頼む」
躊躇うような間があった。
それから彩夜は大きく息を吐き、言った。
「手、出して」
「?」
「協力するなら武器は必要でしょ。そのままの悠也じゃ頼りないから」
手渡してきたのは跡切刀だ。この瓦礫の中にあったのを彩夜が見つけたらしい。
「いいのか?」
「うん。……たぶんだけど、悠也が生きてたのってそれのおかげだと思う。覚えてない?」
「……そういえば」
潤が〈終局穿渦〉を使用する直前、悠也は落ちていた跡切刀を拾って構えた。それがあの膨大な光の奔流を引き裂き、かろうじて悠也を守ってくれたらしい。
もっとも、その後生き延びられたのは目の前にいる彩夜のおかげだろうが。
「って、そうじゃなくて。いいのかっていうのは協力してくれるのかって意味だ」
「ああ、そっち? ……言いづらいけど、私もそうしたいと思ってたから」
照れくさそうに言って、彩夜は微笑んだ。
その直後、異変が起きた。
突然、何の前触れもなく、夜空が赤く染まったのである。
ただ驚愕するだけの悠也と違い、彩夜はその異常の正体に気が付いていた。
「……っ、あれは」
◇
赤く染まった夜空。
その様を直に見た者たちは、異常が色の変化に留まらないことに気づいていた。
例えばその内の幾人かは、空を覆う雲が不気味に渦動を始めたことに気づいていた。
さらにその内の幾人かは、雲から悲鳴にも似た音が聞こえることにも気づいていた。
しかしその内の誰一人として、それが雲でないとは気づかなかった。
――魔術に関わる者たちという例外を除いては。
「始まった。これで、あの人と……」
廃ビルの内壁にもたれたまま窓の外を見上げ、熱の籠った声を漏らしたのもその一人。
名守幹恵。全天を赤く染める無数のゴーストを使役していた張本人である。
――あるいは別の場所で。
「まさかここまで堂々とされていたなんて」
紅野彩夜は悔しさに歯噛みした。
彩夜はずっとゴーストの隠し場所を探っていた。『蜘蛛』の器はともかく、ゴーストは心と魔力の集合体。ならその隠し場所は『魔術師の勘』で感じ取れるはずだったのに、どこを探しても見つからなかった。
わかってしまえば簡単だ。どんなに町中を探し回っても見つからなかったゴーストは、実はずっとその目に入る場所――空にいたのだ。
感知可能な距離が限られる『魔術師の勘』に頼り過ぎていた。もっと注意深く見ていれば、ずっと空を覆っていた薄い雲が雲ではなかったと気づけたかもしれないというのに。
――異常の中心となる廃ビルの屋上で。
「第一段階はクリア」
術式を起動し、空に貯蔵していたゴーストたちにはたらきかけた敷根潤が呟いた。
屋上に刻まれた無数の魔術陣が、空を埋め尽くすゴーストと同じ赤い光を灯す。陣とゴーストたちが接続した証拠だ。このゴーストたちを構成する莫大な量の心を糧として、悲願たる術式は発動する。
――そして、屋上を埋め尽くす魔術陣の中心で。
織原幸姫は、磔にされたような姿勢で宙に浮いていた。
意識は断続的で朦朧としている。ただただ眠い。今この瞬間の体験が夢であるか現実であるかの区別もつかず、それを考えるほどの思考力も残っていない。その微睡が自身の魂に刻み込まれた魔術式のせいだということも、彼女は知らない。
意識はゆっくりと失われ、やがて夢の中へと落ちていく。
少女の意識が完全に断絶したそのとき、それに反応して、少女の胸を光の杭が貫通した。
ただし少女の肉体に傷はない。
光の杭の名は〈炸裂槍・肆式・魂杭〉。肉体でなく魂に穴を開けるための魔術である。
それを発動した魔術師が、歪に笑う。
「第二段階、クリアだ」




