少女、あるいは怪物06
「ぁ、ぁぁ、……っ」
彩夜の喉から掠れた声が漏れる。雑巾でも絞るみたいに白い指が細い首に食い込んでいく。爪が肌を突き破り傷口から血液が滲み出る。それでも止まらない。瞳孔の開ききった瞳はどこにも焦点を合わせず、視線は虚空を彷徨うだけ。大きく開いた口からは異様に鋭く尖った犬歯が覗いていた。
それはただただ自分を苦しめ喘ぐだけの狂気。
あまりのことに、悠也の理解が追い付くまで数秒を要した。
「な……なにやってるんだ! おい!」
ようやく事態を認識して悠也は駆け寄るが彩夜はそれを片手で跳ね退ける。反動でふらりとよろめき、かろうじて近くの木に背中を預けて座り込む。体は見るからに脱力し、呼吸は酸素を貪るように乱れていた。
「……よかった。無事だったんだ」
安堵の表情を浮かべて力なく言う彩夜に、悠也は胸を引き裂かれるような気持ちになる。
「そんなことを言っている場合か……! お前の方が、よっぽど」
「平気だよ。これくらい、全然平気。……それより、聞きたいこと、あるんじゃないの?」
問われた悠也は逡巡してから、
「……その姿。それも、魔術なのか?」
おそるおそる尋ねた。
銀色の髪に紅の瞳。恐怖すら感じさせる異様なまでの存在感。そのどれもがさっきまでの彩夜とは明らかに異なる。
「ちょっと違うかな。これは侵食が進行しただけ。契約魔族を制御できずに陥る、暴走状態みたいなもの」
「……さっきのゴーストのせいか」
「今回はそれもきっかけではあるけど、違う。だって私、元からこうだもの」
悠也は意味がわからず眉をひそめる。
「私が魔術師かどうかは微妙って言ったの、覚えてる?」
「ああ」
「その答えがこれ。私と魔族との契約は一般的な魔術師とは違うの。元々特殊な経緯で契約したからか、それとも魔族の力が大きすぎるせいか、私の魂は契約魔族に侵食された状態にある。この姿は侵食による魂の変質が肉体面に現れたもの。おかげで、私には魔術が使えない」
「使えない……? だがお前は」
常時離れした身体能力と、肉体の治癒能力。それらが魔術でなくてなんだというのか。
「私のこれは体質。魂を侵食する魔族の性質がこの肉体に備わっているだけ。言うなれば、肉体の疑似的な魔族化。それがこの姿と力の正体」
ぽつりぽつりと、力のない声で続ける。
「魔術師との契約に応じた魔族は、心と引き換えに魔力を差し出す。でも私の契約魔族は魂を侵食してるから、対価として魔力を差し出すまでもなく心を得ることができる。初めから契約が成り立ってないの」
故に魔術を行使するまでもなく、魔族の有する性質が体質として表出しているというわけだ。
「……大丈夫なのか、それ」
潤は言っていたはずだ。契約の主導権が握れず魂を侵食された魔術師は意識を失い、心を喰い尽くされて死亡すると。それが事実なら彩夜の体は相当危険な状態にあるのではないか。
そんな悠也の心配に彩夜は薄笑いで応じた。
「へえ。心配してくれるんだ」
「当たり前だろ。茶化すな」
「安心して。これでも侵食には抗えてる。私はずっとこうだったから慣れてるの。一度死んで意識も戻った。何の心配もいらないよ」
「一度……死んだ?」
「侵食による負荷で意識が失われれば、それ以上侵食に抗うことができなくなる。でも、死ねば侵食の進行はリセットできる。だから自分を保っている間にそうした。それだけ」
彩夜は痛々しい絞首の痕に指先でそっと触れた。
「……死ねば、って……それが本当なら」
「そう。何度死んでも再生する不死の肉体。それが魂の変質によって私が得た体質」
彩夜は悠也の思考を見通したように言った。
「驚いた?」
「……その、どう反応すればいいか」
「別に何でもいいよ。ああでも、憐れむのはやめてね。今回は契約魔族に助けられようなものだから」
「助けられた?」
「ゴーストは心と魔力でできた存在だって教えたでしょ。私の魂は心を食う魔族に侵食されてる。なら、あえて魂の侵食を受け入れればいい。そうすれば、私の心を吸収しようとするゴーストを魔族が逆に食べてくれる。ね、魔族のおかげでしょ?」
確かにそうかもしれない。今の説明通りなら、ゴーストと戦うのに彩夜ほど適した人物はそういないだろう。魂を侵食されていない他の魔術師ではこうはいかない。
だが、それに絶大な負担が伴うことは見て明らかだ。魂の侵食をあえて受け入れる。死ねばリセットできるとはいえ、その死もまた負担になる。事実として今の彩夜は酷く消耗している。
本来、彩夜はこんな方法に頼る必要すらなかった。
こんな苦しい思いをせずとも、彩夜にはゴーストに対抗できるナイフがあった。それがあれば、おそらくは侵食の影響であろう常人離れした身体能力で、こんな状態になる前に決着を付けられていたはずなのだ。
「……ごめん」
悠也はそう言わずにはいられなかった。
「どうして謝るの?」
「お前はこのナイフを貸してくれた。俺を守るために。だから……」
「違うよ。……これは、私が望んでやったこと」
彩夜は両手で膝を抱えて、静かに続けた。
「ねえ悠也。罪を犯した人が他の何よりも求めるものって、何だと思う?」
「なんだ、いきなり」
「ぶっぶー時間切れ。正解は――――罰、だよ」
穏やかな微笑を浮かべて、
「罰を受けると、許されたような気持ちになれる。苦しい思いをすると、罰を受けているみたいで安心する。だからこの境遇だって苦にはならない。謝罪も、感謝も、称賛も、憐憫も、私にとっては苦しいだけ。だから謝らないで」
彩夜は表情を隠すように俯いて、
「……お願いだから、どうか私を軽蔑して」
僅かに震えた声で、そう懇願した。
悠也は戸惑わずにはいられない。だがそれ以上に顔を隠した彩夜のことが放って置けなくて、とにかく何か言葉をかけたいと思って、気付いた時には言葉が口を出ていた。
「それはできない」
「……どうして」
そう問われても理由なんてわからない。咄嗟に出た言葉だ。その理由を言葉で説明しようとすれば嘘が混じる。そうとわかっていながら、悠也は自分なりに思いつくことを語ることにした。
「お前の罪なんて知らないからだ。俺が知っているのは俺が見たお前だけ。そこに軽蔑すべき要素は一つもない。もしもそれがお前を苦しめるというのなら……それこそがお前への罰なんじゃないかと思う」
後付けの理由は、自分で思っていた以上にしっくりきた。
勝手な言い分かもしれない。悠也には彩夜の苦しみはわからない。
それでも、理由もなく軽蔑することはできない。
悠也は彩夜の頑張りによって救われた。動機がなんであろうとその事実は変わらない。それを台無しにするくらい癇に障る発言は多いが、それだけで軽蔑などできるはずがない。
「……酷いね、悠也は」
彩夜はほんの小さな微笑とともにそうこぼし、立ち上がった。
そこで悠也はあることに気づく。
彩夜の髪と瞳が元の色に戻り始めたのだ。ブラウンの長髪と、それに似て色素の薄い双眸。数秒の後には、この数時間ですっかり見慣れた姿の彩夜がそこにいた。
「言ったでしょ、リセットされるって。もう大丈夫」
「……そうか」
悠也は手にしたままのナイフを彩夜に差し出す。
「これ、返すよ。おかげで助かった。ありがとう」
「……どういたしまして」
彩夜は複雑そうな顔をしてナイフを受け取った。
「さて。だいぶ休んじゃったし、流石に魔術師には逃げられちゃったかな」
「逃げられたって、まさか近くにいたのか?」
「予想だけどね。さっきの『蜘蛛』、明らかにこれまでとは挙動が違った。あんな巨大な姿になったのも初めてだったし、術者が近くで操っていたんじゃないかと思う」
「……そういえば、後から俺の方に来た『蜘蛛』は何故かこれまでと同じパターンで行動していたな。『蜘蛛』そのものの行動パターンが変わったわけじゃなく、その一部が誰かの意思で操作されていたんだとしたら……」
「魔術師が私との戦闘で手一杯になり、悠也に回した分は直接操ることができなくなった……っていうのは考えられるね」
要するに、予め決められた法則に基づいて自動で動くだけか、リアルタイムで意識的に操作されるかという違いだ。後者は魔術師が近くでその現場を見ていなければ成立しない。仮に遠距離からでも同様のことができるなら、今までそうしなかった理由がない。
そんな風に考察を進めているときだった。
「な、なんだこれは」
まったく見知らぬ第三者が、驚愕の声を挙げたのだ。
それも当然。何しろ先程の戦闘により、境内の木々が豪快にへし折られているのだから。
見つかると面倒なことになる。悠也と彩夜は慌ててこっそりと逃げ出した。
「あの人が黒幕の魔術師ってことはないよな……?」
「まさか。あれは普通の人だよ」
「……まあ、奇襲するにせよ撤退するにせよ、わざわざ声を挙げる理由はないか」
そんな会話をしていたとき。
「っ、悠也止まって」
彩夜はそう悠也を引き留めた。
「どうした?」
「……あれ。あそこにいる子」
彩夜は茂みに隠れてある場所を指さした。
そこはさきほど二人がいた駐車場の休憩スペースだった。
木のテーブルに突っ伏しているのは一人の少女。悠也はその姿に見覚えがあった。
「……織原?」
「え?」
暗くてよく見えないが、よく似ている。
「知り合いかもしれない。ちょっと起こしてくる」
「あ、ちょっと待」
「確認したらすぐ戻る」
彩夜に言い残し、悠也は少女の元へ向かう。
案の定、それは織原幸姫だった。ベンチに座ったまま机に突っ伏している。
「織原……? おい、織原」
嫌な予感がして肩を揺すると、幸姫はゆっくりと瞼を開けた。
「……悠也? ……そっか、寝ちゃってたんだ私」
悠也は安堵の息を漏らす。
「……よかった。死んでるんじゃないかと思って心配したぞ」
「ごめん、ちょっと疲れてたのかも」
幸姫は目を擦りながら体を起こす。
「でも悠也、どうしてここに?」
「……散歩だ」
悠也は幸姫から視線を逸らして言った。
「織原こそどうしてこんなところに」
「私は……探し物」
「何かなくしたのか?」
幸姫は小さくうなずき、スマホを操作して一枚の写真を見せてきた。どこかに遊びに行ったときの写真だろう。私服姿の幸姫が数人の友人と一緒に写っている。
「これ。ここに写ってるペンダントなんだけど……どこかで見かけなかった?」
と、幸姫は写真に写っている自分の胸元を指さした。形状から察するに、中に写真を入れられるロケットペンダントだろう。
「見覚えはないな」
「……そっか」
肩を落とす幸姫。
「大事なものなのか?」
「……うん、すごく。いつも鞄に入れてたんだけど、さっき気付いたらなくなってて」
「それでこんな時間まで……」
時刻は既に二十二時を回っている。それだけ幸姫にとってそのペンダントが大切ということだろう。
「月乃たちに付き合わせるわけにもいかなかったから。……とりあえず、もう少し別の場所を探してみる」
立ち上がろうとした幸姫は、すぐにぐらりとふらついてテーブルに手を着いた。
「織原!?」
「……ただの立ち眩み」
織原は片手で軽く額を抑える。
「……顔色悪いぞ。調子悪いんじゃないのか?」
「平気。今日はちょっとはしゃぎ過ぎたから、疲れてるのかも」
「だったらもう少し休め」
悠也は幸姫の肩に手を置き、そのまままたベンチに座らせる。
「あと、今日はおとなしく帰れ。送っていくから」
「いいわよそんな。ここからうちまで遠くないし、一人でも」
「遠くないなら送るのも負担にはならないだろ。それに、放っておいたら何時間だって探し続けそうだ。……心配なんだよ」
織原は呆気に取られたように数度瞬きしてから、小さく吐息した。
「……たまに強引よね。悠也って」
「……すまん」
「別に責めてるわけじゃないわ。どちらかというと美徳だと思う」
「ならいいんだが」
悠也が反応に困っていると。そういえば、と思い出したように幸姫が言った。
「さっき潤と一緒にいたのよね。結局二人で何してたの?」
「……ちょっとした雑談を」
「嘘。あいつはともかく、悠也がそんなことで約束すっぽかすわけないでしょ」
「実際すっぽかしただろ。というか、あいつだって約束は守る。事情があったんだよ」
「どんな事情?」
「……それは」
咄嗟の嘘が思い浮かばず、悠也は言葉を詰まらせる。
「……話せない、か。そうよね。あいつが私に何か隠してるのなんて昔からだし。何かある度に馬鹿みたいな噂話で誤魔化して……いつもそう。私には、何も教えてくれない」
その声音には諦観が滲んでいた。
潤と幸姫は幼馴染だ。潤が魔術のことを昔から隠し続けて来たなら、幸姫が違和感を覚えた瞬間は何度あってもおかしくない。
悠也はすべてを話してしまいたい衝動に駆られ、それをぐっと堪えた。
魔術のことは話せない。話すのだとしても、それは悠也でなく潤からであるべきだ。
と、そこで悠也は近づいてくる人影に気づいた。
彩夜だ。にこやかに手を振りながら、まっすぐ悠也たちの方へ歩いてくる。
「ん? どうしたの?」
悠也の視線に気づいてか、幸姫も彩夜の方を向いた。
直後のことだった。
彩夜は右手に持ったナイフの刃を、幸姫に向かって突き付けた。




