少女、あるいは怪物05
「勝負だ!」
これ以上他の誰かを巻き込むことはできない。平穏に生きているはずの誰かの命が、こんな理不尽になものに奪われる。そんな悲劇は許容できない。だからこそ悠也はここにいる。
迫りくる『蜘蛛』と真向から対峙する。数は三。思ったよりも少ない。おそらく大部分が彩夜の方に向かったためだろうが、無論悠也を殺すだけなら三体でも過剰なくらいだ。
しかし、突破口はある。
『蜘蛛』の行動がパターンから外れているため確実性はないが、そこは賭けだ。
茂みに挟まれたアスファルトの道幅は『蜘蛛』がギリギリ二体収まりそうな程度。三体の『蜘蛛』は縦列して悠也に迫る。
先頭の一体、その頭部を注視しつつ距離を測る。タイミングを合わせる。
――三……二……一……来い!
距離十五メートルまで近づいてきた先頭の『蜘蛛』が、頭部から鎖付きの鉄杭を射出した。悠也はその瞬間をはっきりと捕らえ、右方に回避。
『蜘蛛』は狙い通りに鉄杭を射出した。今から数秒、鉄杭を回収するまでは無防備。
故に――賭けには勝った。
姿勢を低くし、右手のナイフを閃かせ、先頭の『蜘蛛』の頭部目掛けて突撃する。他の二体を恐れる必要はない。悠也は今、鉄杭を放った先頭の『蜘蛛』によって生じた死角にいる。
突き立てたナイフは、意外なほどするりと『蜘蛛』の頭蓋を貫通した。まるで水面を貫いたかのように抵抗がなかった。さらにその切り口を中心に、『蜘蛛』の頭蓋は赤い粒子となって闇に溶けるように消えていく。おかげで悠也の右腕はその肩までが『蜘蛛』の中に埋まっていた。
驚きはない。このナイフが実体のないゴーストをも切り裂く魔術師のナイフであることを、彩夜が使う様子を何度も見た悠也は知っている。
『蜘蛛』に埋まった右手を振り上げる。樽のような腹部を内側から切り裂く。彩夜がこのナイフで仕留めたこれまでの『蜘蛛』同様破裂はせず、内部のゴーストが出てくることもなかった。
これで撃破。まずは一体。
間髪入れずに状況を確認。眼前には細い道を塞ぐように並んだ二体の『蜘蛛』。今まさに赤い粒子となって消えていく一体目を隔てたすぐそこで、鉄杭を装填した頭蓋を悠也に向けている。
迷う暇もなく悠也は地面を蹴った。両手を延ばし、前転の要領で二体の脚の上を飛び越えた。
鉄杭が射出されるのは前方だけ。後方に回れば方向転換するまでは安全。その間に十五メートルの距離を稼げばいい。
ナイフを持ったままだったため着地に失敗して肩を痛めたが、構わず立ち上がる。走る。
今度は樹木の陰に隠れて『蜘蛛』の接近を待つことにした。回り込んできたタイミングでナイフを突き出せば鉄杭が射出されるより先に撃破できる。
ここでも重要なのはタイミングだ。ちらりと顔を出して『蜘蛛』様子を窺う。
その瞬間、約十五メートル離れた場所にいた『蜘蛛』が鉄杭を射出した。
「しまっ……」
反射的に樹木から離れる。ほぼ同時、悠也が隠れていた樹木を鉄杭が貫通した。
作戦は失敗。だが悠也の顔には笑みが浮かんでいた。
「チャンス!」
樹木に突き刺さった鉄杭を『蜘蛛』は回収できずにいた。それどころか鎖で繋がったまま身動きも取れなくなっている。こうなれば機能停止も同然だ。
今ならもう一方を一対一で撃破できる。この機を逃す手はない。
悠也は二体の『蜘蛛』の前に飛び出し、膝のクッションで一瞬の溜めを作る。悠也を射程に収めた最後の一体が鉄杭を射出、しかしそれは悠也の脇腹を布一枚掠めただけだった。同時に悠也が側方へ逃れていたからだ。
鉄杭は悠也が十五メートル圏内に入った瞬間に直線軌道で打ち出される。だから悠也は射程圏内で一瞬だけ動きを止めてから跳躍した。動きを止めた場所に鉄杭が打ち出されるよう誘導して回避したのだ。
そのまま駆け抜け、今鉄杭を射出した『蜘蛛』をナイフで深く貫く。一体目と同様に内側から腹部を引き裂く。赤い粒子が夜闇に散る。
あと一体。
身動き取れない『蜘蛛』の腹部へ、逆手に持ち変えたナイフを思い切り振り下ろす。突き刺さる。手前に引き裂く。
「これで――」
終わり。
そう安堵した瞬間、最後に突き刺した『蜘蛛』の腹部が破裂した。破片を撒き散らし、中から不定形のゴーストが飛び出し、笑い声のような音を立てて悠也に迫る。
『蜘蛛』の破裂の衝撃で倒れていた悠也は、無我夢中でナイフを突き出した。
今度こそ決着。
ナイフは悠也に迫るゴーストを確かに捕らえ、不定形は赤い粒子となって消えた。
「……なるほど。『蜘蛛』の破裂は内部のゴーストが飛び出す衝撃ってわけか」
だから『蜘蛛』を奥深くまで貫いた時は破裂しなかった。ナイフが中のゴーストを捉えていたのだ。
「っ、そうだ。これあいつに返さないと」
このナイフは彩夜がゴーストを倒すのに使っていたものだ。彩夜の身体能力は人並み外れているが、実体のないゴーストはナイフが無ければ処理できないのではないか。少なくともこれまでの戦闘で彩夜がゴーストを倒すときは、常にナイフを使っていた。
そんなことを考えているときだった。
悠也のすぐ目と鼻の先に、上空から何かが落下してきた。
「え……?」
嫌な音がした。
見下ろすアスファルトの路上には、たった今落下してきた紅野彩夜が転がっている。腕は関節を無視した方向に曲がり、腹部から流れる血液はみるみるうちに水溜まりを作る。
「彩夜……?」
信じられない思いで呼びかける。
直後――道の脇に並ぶ樹木がへし折りながら、異形の怪物が飛び出してきた。
あまりの驚きに声が出ない。悠也はただ目を見開いて、視界に収まらないほどの巨体を見上げるのみ。
その姿はまるで巨大な『蜈蚣』だった。よく見ればその胴が『蜘蛛』の腹部を構成していた樽の連結から成っているのがわかる。胴だけではない。球体関節が剥き出しの無数の脚、胴の側面から撒き散らす幾本もの鎖と、その先に繋がった鉄杭。巨体を構成するのはすべて『蜘蛛』を構成していたのと同じ部品。部品の連結部からは靄のような淡い光が漏れており、暗闇の中で怪しく揺れていた。
『蜈蚣』は悠長な時間を与えてはくれなかった。
巨体が倒れてくる。慌てて回避し、距離を取る悠也。『蜘蛛』単体でも約一〇〇キログラムの重量があるとわかっているのだ。この巨体に潰されるわけにはいかない。
(しかし、放置するわけにも……っ)
悠也の手にあるナイフならこの『蜈蚣』にも通用するだろう。だがそのために近づけば、倒す前に悠也が巨体に潰される。闇雲に挑んでも死ぬだけ。いくら放って置けないからといって、この命は簡単に捨てていいものではない。ならどうすれば……
逡巡の間にも事態は進行する。『蜈蚣』がその場でねじのように回転し、球体関節の脚で彩夜の体を遥か上空へと打ち上げたのだ。
彩夜は脱力したままピクリともせず、やがて頭から落ち始める。
それに合わせて『蜈蚣』は巨体を起こした。最上部の樽がまるで口のように裂けたかと思うと、落ちてくる彩夜を待ち受け呑み込んだ。
「うそ……だろ……?」
無機質な巨体で佇む『蜈蚣』が答えを返すことはない。だが、とぐろを巻いた蛇のようにただ悠然とそこにあるその存在が、悠也に目の前の現実を否定させなかった。
おそらくあの『蜈蚣』にも、『蜘蛛』と同様にゴーストが入っている。なら、それに呑まれた彩夜はどうなる。
彩夜には即死級の怪我からでも再生できる魔術があるはずだ。だから悠也は、彩夜が落ちて来たとき驚きはしたが、心のどこかで大丈夫だとも思っていた。頭を貫かれても生還できるくらいなのだから、きっとまた目を覚ますはずだと。
だがそれはあくまで肉体面の話。
ゴーストに心を食われ、魂を傷つけられたとしたら、彩夜は復活できるのか。
「……なんとか、しないと」
悠也が自分を奮い立たせるように呟いた、直後。
『蜈蚣』が、まるで苦しんでいるかのように暴れ出した。乱れる鎖の音と同時に聞こえたのは、何かを叩くような低い音だ。それは次第に大きく、そして途切れることのない怒涛の打撃音へと変貌する。
次の瞬間、『蜈蚣』は内側から破裂した。
飛び散る破片と共に、中から一人の少女が放り出される。少女は両手両足を使って俊敏な獣のように着地し、ゆらりと気怠げに立ち上がった。
それが誰かなど確認するまでもない。
そのはずなのに、少女の姿は悠也の記憶と違っていた。
闇に煌めく銀色の長髪と、感情を灯さない紅の瞳。
「彩夜……なのか……?」
その端正な容貌は紛れもなく紅野彩夜のものだ。身に纏うのも彩夜が着ていたのと同じ黒いTシャツとショートパンツ。別の誰かであるはずがない。
それなのに、別人としか思えないほど気配が違う。
悠也がそうして彩夜に気を取られていると、
――ききききき。けけけけけ。きゃははははははははははははははははは。
不協和音のような笑い声。上を見れば、悠也の視界に収まらないほど巨大な不定形が浮いていた。たった今破裂した『蜈蚣』から出てきたゴーストだろう。
彩夜は無感動な紅の双眸を上に向けた。
直後、ゴーストが落ちた。さながら滝の如く、棒立ちの彩夜を押し潰すように。
しかしそれでも、彩夜はゴーストの中で静かに佇むだけだった。
やがて悠也はある事実に気づく。
「吸収している……?」
あれだけ巨大だったはずの不定形が、みるみるうちに体積を失っていく。
原因は彩夜だ。
まるで捕食。『蜘蛛』に心を吸われる少女の姿が脳裏に浮かぶ。ただあの時と異なるのは、今度はゴーストが捕食される側であるということ。
やがてゴーストは跡形もなく消失し、彩夜だけがその場に残った。
くらり。
首が据わっていないみたいな脱力した所作と共に、その視線が悠也を捉える。
紅の瞳は感情を灯さない。
怜悧。眼前にあるもの全てを敵――あるいは、獲物とみなしているかのよう。
悠也は無意識に一歩後退った。加速する心臓の鼓動がうるさいくらい警鐘を鳴らす。
――何故。
目の前にいるのは彩夜だ。仲間だ。そう思っているはずなのに、理屈ではなく本能が命の危機を訴えている。目の前にいるのはあの『蜘蛛』や『蜈蚣』より遥かに危険な存在だと。
そんな悠也を見ながら、彩夜は艶のある吐息を漏らした。
そして突然、自分自身の首を両手でがっしりと掴み絞めつけた。




