3. 変なやつ
「じゃあなー」
日が沈み、赤く染まり始めたある分かれ道。
仁は同じ塾に通う友達と別れ、一人で家路につく。
程なくして、仁の頬に冷たい感触がした。
見上げると、空には暗い雲が広がっている。
今度は眉間に冷たさを感じた。
雨だ、そう思いながら仁は鞄を漁る。
出かける前、母親から折りたたみ傘を手渡されていた。
慣れない手付きで留め具を外す。
開いてみると薄いピンクの花柄で、少し気恥ずかしさを感じつつも、濡れるよりはマシだった。
雨は次第に強くなり、跳ねた水滴で足首が濡れる。
自然と歩みが速くなるが、それに合わせるように雨もまた、激しさを増していく。
気がつくと、先日雨宿りをした団地に差し掛かろうとしていた。
忘れかけていた記憶が蘇り、例の少女、白井の顔が頭をよぎる。
彼女は結局、何者だったのだろうか。
思い返してみても、彼女が何故あの場所にいたのか、答えは出そうにない。
鎖のはられた入り口までたどり着いた。
そのまま通り過ぎようとしたが、ある考えが仁の足を引き止める。
もしかして、今日も。
気がつくと仁は、昨日と同じ部屋のドアの前に立っていた。
ドアノブに手をかけようとするも、何かが躊躇わせる。
再び不法侵入という罪を犯すことへの後ろめたさか、あるいは。
仁は自分の感情の形がうまく掴めないことに少し、戸惑っていた。
「ちょっと!」
その時、背後から鋭い声が響いた。
不意の音に肩をビクッと跳ね上がらせる。
しまった、近所の人か、あるいは管理人だろうか。
怒られるんだろうな、最悪、親まで呼ばれるかも…。
そんなことを想像しながら恐恐振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
「あれ、君…」
そこにいたのは紛れもなく、先日出会った少女だった。
驚いた表情を見せたのは仁だけでなく、彼女の方もだった。
まさか、仁が再びここに現れるとは予想していなかったのだろう。
「こないだの、えーっと……。小五くん、だよね」
白井は鎖を跨ぎ、こちらに近づきながら声をかけてきた。
仁は黙ってこくりと頷く。
「また、雨宿り?」
白井が傘を畳みながら訊く。
「えっと……」
仁は何と説明すればよいか分からず、ただ目を泳がせた。
「あれ。傘持ってるじゃん」
白井は仁の手に折りたたみ傘が握られていることに気がついたようだ。
仁が何かを答えるのを待つかのように、顔をじっと見つめてくる。
「その、お姉さん、いるかなって」
視線に耐えられず、とっさに出た言葉がそれだった。
他に言いようがなかったことは確かだが、それでも、
自分がそれを、本人を目の前にして口に出したという事実に少し驚いていた。
白井はと言うと、一瞬目を丸くしたように見えたものの、ふうん、とだけ返して目線をそらした。
そのままノブに手をかけ、ドアを開く。
玄関に入ると、ドアの内側を片手で押さえたまま仁の方を向いた。
中に入るよう、促しているようだ。
仁は焦って躓きそうになりながらも白井のあとに続いた。
中は数日前と変わらず、カビ特有の嫌な匂いが漂い、埃も舞っていた。
白井は机の横にかばんを置くと、前と同じように入口手前側の椅子に腰掛けた。
仁もそれに習い、奥側の椅子に座る。
雨は勢いを増したようで、窓に水滴がぶつかる音が大きくなる。
時刻はまだ17時を回ったところだが、分厚い雲のせいで外はすでに薄暗い。
当然、光源のあるはずもないこの部屋では、50センチほどしか離れていないはずの
白井の顔すら、朧げで表情は読み取れない。
「君さ」
白井はしばらく窓の方を見つめていたが、ふと、仁の方に視線を移したことが、
シルエットから辛うじて分かった。
「結局の所、何しに来たの?」
そう言われても、ただ気になったから、としか言いようがない。
「私に用があるんじゃないの?」
「そういう訳じゃないけど……」
顔は見えないが、恐らく怪訝な表情をされたであろうことは予想がついた。
「変なやつ」
ぼそっと、辛うじて聞こえるほどの小さな声で白井が呟く。
「お姉さんこそ」
少しムッと来て、仁はつい言い返した。
互いに顔がはっきり見えないこの状況が、幾ばくかの度胸を与えたのかもしれない。
「こんなところに一人でいて、変なの」
怒られるかと思い身構えたが、白井は黙ったままだった。
怒りか、悲しみか、はたまた喜びか、感情はまるで読めないが、
時折、顔や体の向きを変え、何か考え事をしているような、
悶ているような、落ち着きのない様子だ。
「むかつく」
それだけ言うと、頬杖をついてそっぽを向いてしまった。
「お姉さんは、何しに来たの」
何となく優位に立てた気がして、その勢いのまま疑問をぶつけてみる。
白井は黙ったままだ。
「雨宿りって嘘でしょ」
闇の向こうから、鼻から息を深く吸う音、そして、吐く音が聞こえる。
「ここって、普通じゃないんだよね」
外を走る車のライトが一瞬、部屋を明るくした。
白井はどこか物憂げな表情で、部屋の中を見つめていた。