2. 傘
「お、お邪魔します」
仁は言われるがまま玄関に足を踏み入れたことを、半ば後悔していた。
玄関は埃っぽく、仄かにカビの臭いがした。
薄暗くてはっきりしないが、玄関の先には短い廊下があり、左手と右手に一つずつ扉がある。
仁を招き入れた少女は、その廊下を土足のまま進んでいく。
仁が戸惑っていると、少女が振り返って言った。
「入らないの?」
「あの、靴、脱がないんですか」
恐る恐る、訊き返してみる。
少女はキョトンとした顔で、床と仁の顔を交互に見ると、さも当然といった感じで言った。
「汚いでしょ、裸足じゃ」
「ま、まぁ」
「ガラスの破片とかもあるし。危ないから脱がないほうが良いよ」
仁は少女の妙に淡々とした口調に困惑するしかなかった。
そもそも彼女はなぜ、ここにいるのか? この部屋に住んでいるのか?
訊きたいことが湯水のように湧いてくるが、一方で、何も訊かずにこの場を去りたいような気もした。
少女は廊下を進むと、右側の扉に手をかけ、手前に引いた。
ギイィ、と鼓膜を刺激する嫌な音が鳴る。
仁は一瞬迷ったが、彼女の後に続くことにした。
扉の向こうには、6畳程度の広さの部屋があった。
廊下と同様ホコリまみれだが、窓があるためか臭いはほとんどしなかった。
入って左手には、水垢だらけのシンクがあり、そばの床には欠けた皿が何枚か落ちていた。
中央には、そこだけホコリを被っていない四角い木製テーブルと2つの椅子が並んでいた。
右手には、本がぎっしり詰まった本棚と、先程仁が覗き込んだ窓があった。
少女は中央に向かって歩くと、手前側の椅子に腰掛けた。
そして、テーブルに頬杖をついたかと思うと、窓の方をぷいと向いて黙ってしまった。
ときおりため息を付いては、ただ雨が降り続けるのを眺めている。
仁はどうするべきか色々と考えたが、結局、ただ黙って固まっていることしかできない。
「座れば?」
少女が頬杖を付きながら言った。
仁はその言葉を待っていたかのように、すぐに少女の対面の椅子に座った。
仁は少女が次の言葉を発するのを待った。
しかし、少女はずっと窓の外を見て黙ったままで、そのうち5分ほどが経過した。
「あ、あの」
気まずい空気に耐えかねた仁が口を開く。
少女はちら、と仁の方を一瞥するとすぐにまた窓の方を見た。
話しかけて欲しくなさそうな雰囲気を感じつつも、仁は最も気になっていた疑問を解消しようとする。
「お姉さんは、ここに住んでるの?」
言ってみて、馬鹿げた質問だと仁自身も思った。
冷静に考えて、こんなところに住んでいるわけがない。
「そんなわけ無いでしょ」
当然、答えはノーだった。
「君、いくつ?」
しばしの間があった後、今度は少女のほうが沈黙を破った。
「11歳。小学校5年生」
お姉さんは、と続けようとしたが、女性に年齢を訊くのは失礼と母親に言われたことを思い出してやめた。
「ふうん。小5か」
少女は仁の顔をまじまじと見つめた。
仁には彼女が、小5ってこんなに馬鹿だっけと内心毒づいているような気がしてならなかった。
少女は仁から目をそらすと、窓の外を見つめることにも飽きたのか、鞄の中を漁り始めた。
仁は無意識のうちにその動きを凝視していたが、少女はまるで気づいていない様子だ。
少しして、彼女は鞄から一冊の文庫本を取り出すと、今度はそれを黙って読み始めた。
仁の目線は、取り出された本は追わずに、鞄を追い続けていた。
というのも、鞄の側面に彼女のものらしき名前が書き込まれていたからだ。
そこには「白井円」と書かれている。
苗字はしらい、と読むのだろうが、名前のほうは読み方が分からない。
えん、ではなさそうだということは、仁にもわかった。
「止んできたね」
白井が再び、沈黙を破る。
気がつくと彼女は本を閉じ、また窓の外に目を向けていた。
仁も合わせて外を見ると、確かに雨は、ほぼ目で捉えられない程度に弱まっていた。
「もう帰れるんじゃない?」
白井のその言葉を聞いて、仁ははたと気づいた。
「お姉さんも、雨宿りしてたの?」
灯台下暗しとはこのことか。
彼女がここにいる理由について、仁はまっさきに思いつくはずの可能性に今まで気が付かなかった。
仁はまた、呆れた目で見られることを覚悟したが、そうはならなかった。
白井は少し間を開けてから、
「まぁ、そんなとこ」
と文庫本に目を落としたまま返す。
仁はそっか、と呟くと濡れた鞄を手にとって立ち上がる。
そのまま扉の前まで歩いたところで、念の為、後ろを振り返った。
白井はこちらには目もくれず、ただ文字を追っている。
別れの挨拶をするべきか迷ったが、しても無視されそうな気がして、そのまま黙って扉を開けた。
玄関にたどり着くと、入ったときには気が付かなかったが、そこには傘が置いてあった。
埃はかぶっておらず、微かに濡れた後があるところを見ると、どうやら白井の傘らしい。
雨宿りとは嘘だったのだ。
何となくそんな気はしていたものの、仁には白井という少女が、ますます謎めいた人物に思えてならなかった。