自殺遺伝子
「それで、貴様は死にたいのか」
深い夜霧に閉ざされた、黒い屋敷。そこには暗鬱とした夜が確かに存在していた。纏わりついてきそうなほど濃い闇を連れて。
辛うじて見えるのは、この屋敷の入り口にある看板――『黒猫丹亭』の四文字のみ。
押し殺した、さびれた黄色の光を内側に溜めて、その屋敷は暗い静寂に生きる。そうして、そこの主も同じように。
時計が淡々と時を告げる音を背に、暗い黄土の光のもと、天まで積み上げられた本の山中に、人の影が蠢いた。
「下らなすぎて笑えるな。その、死にたい理由」
本の山の中から闇が音も無く這い出し、乾いた笑みを浮かべた。
電球の真下に座っていた、虚ろな目をした男は、それを見て唾を飲み下した。
絶望を形容したかのような、黒の着物。黒髪の奥にある瞳もまた、現実に失望した色をして、死臭の漂ってきそうな不気味な青年を作り出していた。
「娘々(ニャンニャン)」
青年がそう言葉を発すると、本の山から今度は小さな影が現れた。真紅のチャイナドレスを身に纏ったその少女は、青年と同色の、しかし真逆の要素を持った短い黒髪をしていた。少女は、青年の隣に立つと、青く光る瞳を細めた。
青年は近くにあった椅子に腰掛けると、責められているかのように灯に照らされる男を一瞥し、また鼻で笑った。
「この男、死にたいらしい。どうしたらいいと思う、娘々」
玉座に座り給う王の如く、崇高な品格をその目に宿し、ふてぶてしさを幾分か込めて彼は問うた。少女は困ったように首を傾げ、近くにあった紙と万年筆を手に取った。
“死なせては駄目だと思う。黒猫、貴方、楽しんでるでしょ”
そう書かれた紙を見て、青年、黒猫はまたあの乾いた笑みを浮かべた。
「確かに。楽しんでないと言ったら嘘になる。こういう類の人間を見ると、虫酸が走るがな。……というかな、貴様、何処で此処の存在を知った?」
こめかみに手を当てながら黒猫は言った。
それに男が答える。が、恐れにおののいた身は極度に緊張し、何の音も発せない。
落ちた沈黙に、こたえるものは、ただ一つ。
此処の主の、嘲りの吐息だった。
「死にたいとほざいた人間が、今更何に怯えている? 放蕩の末に家族に見離され、無一文になって、そして選んだ死。どこぞの下らない小説だな、貴様の辿る道は」
男は、そっと目を伏せた。かつて、自らの愛すべき家族に振るっていた拳も、今は力を失っていた。
――そう言われるだけの、価値しかない。
男は、ぽつりとそう言った。それから、此処に来たとき黒猫に話した、死を望むわけをまた口にすると、最後に、自殺志願者の集まりで此処のことを知ったと言った。
この世のありとあらゆる薬品を扱う、闇の薬屋。かつての文明開化の時代のまま時を止め、現代に彷徨する青年の営む、死と生を導く場所――『黒猫丹亭』の存在を。
黒猫は、男を見据える。その瞳に浮かぶのは、同情でも憐憫でも無い。
「貴様が無知なことを前提にして聞くが、」
黒猫は、椅子に深く腰掛けた。その目の色は、黒髪に隠れて見えない。
「アポトーシス、というのを知っているか?」
男は眉を寄せ、娘々も首を傾げた。やはり、とでも言うように黒猫は口端を上げると、自らのその死人のような右手を振った。
「人の手は、初めはへらのようなものなんだ。其処から指が生えるのでは無く、将来それが出来る場所の間の細胞が死ぬことで、そのもとになるものが生まれる。つまり、」
黒猫は右手をひらひらと振ってみせた。そして、その運動を止めると左と右の指を絡ませ、顎を乗せた。
「死ぬためにあるんだよ、その細胞は。指をつくるために、死ぬんだ」
彼の低い声が、重く響く。
月の無い今宵、支配する闇を率いて。
「貴様は、何のために死ぬ?」
時は規則正しく音を立て、無情に過ぎ行く。その時に置き去りにされ、全てを失った男は、顔を上げた。ようやく気付いた、そんな表情が黒猫の問いに答えた。
それに反して、彼らの意思を解せない娘々は再び万年筆を走らせ、黒猫に紙を突き出した。
“黒猫、どうするの”
「どうもしない。死にたいなら、砒素でも青酸カリでも持って行けばいい」
娘々と、娘々の手にある紙とを交互に見やる男の視線に気づいて、黒猫は続けた。
「この娘は、口が利けないんだ。詳しい事情は知らないが、昔、上海の知人から預かった娘でね。……私には、どこかしら欠けたものを呼び寄せる力があるらしい。娘々とか、貴様、とか、な」
皮肉るように言った黒猫の言葉に、男は目を見開いた。その目は薄暗い灯におぞましいほど照らされた。
「人間は、自分の欠如した部分を埋めようとし、無理と分かると受け入れようとする。幸か不幸か貴様には無い。進化を望む、向上心、生きようとする、力が」
黒猫は今までに見せたことの無い、愛おしむような目をして言った。
生気の感じられなかった彼の右手が、絶望に満ちていたその瞳が、今はひどく人間くさかった。あれほど濃く漂っていた死臭のような不気味さも色を変えていた。
「完璧な存在が、嫌いなんだ。私も、所詮は欠けた存在だから」
黒髪の奥に眠る、寂寥の谷に打ち捨てられた人間の瞳が、一瞬、見えた。
しかし、その瞳はすぐに死人のそれに変わり、黒猫は娘々に何か言付けた。暫くして、手に小瓶を持った娘々が本の山から戻ってきた。
「自然に来る死を待つか、自ら向かうか、貴様が選べ。そうして、完璧な死を望む愚かな人間に成り下がればいい。人間は、死ぬために生き、生きるために死ぬ、矛盾した存在。それを身をもって知れ」
男はまた唾を飲み下し、震える手で小瓶を受け取った。
そうして、ああ、やはり見間違うたのだと思った。黄泉の国へといざなう、青年の死人の手を見て。
「早く、去るがいい」
玉座に座り給う、闇色の王。現世に失望し給う、その声、その瞳、その魂。
死を望む愚かな人間は、去り際に一言、王に申し上げた。
――貴方は、可哀想な、最低な人だ。
諦めに似た笑みを浮かべ、男は夜の闇に消えた。
時は無情に過ぎ行く。嫌気が差すほど、規則正しい音を立てて。
深い闇が包むは、絶望の住まう場所。
「……かわいそう、さいてい、ね。それはどうも。愚かな人間の、末裔君」
―終―
このような拙作を読んで頂き、ありがとうございました。
もともと、長編として考えていたものを短編として書いたので、なんだか奇妙な感じになってしまいましたが、何か感じて頂ければ幸いです。
少しでも心に残れば、と思います。それでは。