一話 始まり
さて、私がこの物語を綴るにあたりどこから描きはじめるかと悩んでいると、飼い猫のフランキスカはその身をすり寄せ虚空を彷徨っていた筆の動きを止めさせた。
考えのまとまらない私の両の手は自然とこの子を ーいや、プライドの高いこの猫は彼女と呼称するのがふさわしいだろうかー 抱え上げ空作業だった私に彼女を撫でまわすという仕事を得た。
彼女がこの屋敷に来たのはもう十年以上前となる。私がどのような主人で幾人の召使を雇い、いかに平和な生活を営んできたかを彼女は知っている。
しかし、そんな彼女も私がこの生活を手に入れる前の人生を知らない。彼女がまだこの世に生れ落ちるより前の私といえば今のウェルノ大国の広大な領地の一つになったフィルシントにて、新たな国王として君臨するウィリアム公を支える軍人として仕えていた。
もちろん最初からこの地位を得ていたわけではない。まだこの国が周辺国の脅威に緊張を孕んでいた時代に都の目が届いているかもわからないような小さな村に生まれ、貴族のような出世の術もなくただ戦争で名を揚げ、きらびやかな名誉と人生を手に入れることを夢見て走り抜けてきた血気盛んな青年時代のフランキスカ部隊が始まりであった。
フランキスカ。
とたんに私の頭の中には夢を追い続けた若き日の頃がありありと浮かび上がってきた。色濃く出るそれらはそっと耳もとで語りかけてきた。「難しく考えるな、ありのままを書きたまえ」と。
彼女はすべてを察知したように膝から飛び降りると主人の邪魔はすまいと、部屋の隅に向かっていった。
湧き出した気力に筆をすすめ始める。この物語は今は亡きフィルシントの歴史であり、悲劇でも伝説でもあり、私の懺悔の物語でもあった。
「ご主人様。お茶を用意いたしました。少しお休みになられては?」
ノックの後に女中の声が聞こえてきた。しかし今はこの集中力を切らしたくなかったので断りを入れる。
自然と走り出した筆は目の前に広がる情景を文字に起こしていた。
ー1385年 フィルシント ユーテラン地方シゼレ領ー
昨日までの雨は晴れ上がり気持ちの良い空からの陽が差し込む城中を男は律された歩幅で歩いていた。軍人である彼の立てる靴音は心地よさを覚えるようなもであったが、かすかに焦りを感じさせていた。
現在このフィルシントは北部にある島国のセムリアとバレント海の覇権をめぐり争いを繰り広げていたが、お互いの疲弊により東部に君臨するモス大国の仲裁で一時的な休戦状態にあった。しかしその状況もついに終わりを迎えようとしていた。
現国王パスカリオーネは再び軍備を増強し再侵攻の動きを見せていた。もちろんシゼレ領も例外ではなく、セムリア侵攻の支援として準備をしておけとの命が下った。
それだというのにあのバカ野郎は・・・・。
男はついには城門にまでたどり着き敬礼をする衛兵に尋ねた。
「こっちのほうから若王は出て行かなかったか?」
軍帽をとり、顔のあらわになった男の鋭い目は今まさに返事をする衛兵を見据えていた。嘘をも見透かすような瞳は少なからず相手を気圧けするものであり衛兵は若干こわばりを見せていた。
「いえ、シゼレ様はこちらに来ておりません。ザール隊長。」
ザールは少しの間衛兵の目を見ていたが踵を返しその背を向ける。衛兵は緊張を肩のみで解き、ふたたび定位置に戻ろうとした途端に向き直ったザールに胸ぐらをつかまれた。鬼の形相を向けられた彼はあからさまに青ざめているのが分かる。もう一人の衛兵もさすがに彼らに視線を向けた。
「若王にそういえといわれたな。あいつは今どこにいる?」
静かだが確実な殺気を帯びた言葉に彼は素直に答えるほかなかった。
ザールの足は再び向き直りその階下に広がる街並みへと歩き出していた。その後ろでへたりこんだ衛兵の姿を彼は見ることはなかった。